太刀洗飛行場


かつて三井郡大刀洗町と朝倉郡三輪町にまたがる広大な飛行場があった。
旧日本軍が東洋一と誇った太刀洗飛行場である。
陸軍は、中国大陸にも近くて広大な平地であった山隈原(大刀洗町・甘木市・三輪町)を選定し、 3年をかけて飛行場を建設した.太刀洗飛行場は、やがて国際空港としての機能も備え、 朝鮮半島や中国本土への定期便就航を行うほどになった。

太刀洗飛行場の面積は甲子園球場の約36倍にもあたる。
飛行場は初めは、偵察と補給基地の任務を果たしていたが、いろいろな飛行隊が大刀洗にやって来ては去って行った。一番長く駐屯したのは、飛行第四大隊で、大正8年(大正14年より飛行第四連隊に昇格)から昭和15年まで、約20年間滞在している。

陸軍はつぎのような理由で太刀洗に飛行場を設置したのであった。

(1)中国大陸への中継基地が九州に必要であった。
(2)敵艦隊の長距離砲の射程内に入らないところ。
(3)人気が少なく広大な土地があるところ。
(4)飛行する上で周囲に障害物がないところ。
(5)風向きが安定しているところ。



写真:三輪町パンフレットより
昭和12年頃より飛行場に付随する施設が多くなり、航空兵を養成する学校の色彩が強くなった。
全国50〜60の部隊から大刀洗に派遣された兵が常時五千人ぐらい飛行機整備の任務についていた。
昭和13年には、近隣に高射砲隊や第百部隊、航空廠、飛行場北には軍用練習機などを生産する 太刀洗航空機製作所が建設された。
満州事変・上海事変・支那事変などの際、多くの陸軍航空隊が太刀洗飛行場から中国大陸へ進出した。
昭和15年に太刀洗陸軍飛行学校が開隊し、太刀洗陸軍飛行学校は本校と呼ばれ、西日本に点在する飛行学校教育隊の中核的な役割を果した。
外地や関西以西にも十八の分校があり、特攻隊基地で有名な知覧(鹿児島)や「月光の夏」で紹介された目達原(佐賀)も太刀洗飛行学校の分校であった。

第一次世界大戦ごろから飛行機を高く評価した日本は、飛行場整備の候補地として、また中国大陸への 中継・補給基地としての太刀洗飛行場の拡充をいそいだ。
昭和15年には物資輸送のための省線甘木線(現在の甘木鉄道)が開通し、「太刀洗陸軍飛行学校」や「第五航空教育隊」が新設されるなどして、太刀洗飛行場は実戦部隊の飛行場から次第に、教育的施設の色を濃くしていった。
太平洋戦争開戦前夜には、旅館・写真館などが立ち並ぶ一大軍都の様相を呈するにいたった。
昭和18年、前線に移動した高射砲隊の跡に2000人の少年飛行兵が入隊した。
これが甘木生徒隊である。
生徒は6ヶ月の地上教育を受け、本校や分校で4ヶ月実機で基本操縦を学び、実戦部隊に配備された。
飛行場の周辺には太刀洗航空機製作所、第五航空教育隊、太刀洗航空廠、技能者養成所、太刀洗北飛行場などが次々と開設された。
 第二次世界大戦が始まると、西日本における航空兵器機材の補給基地となり、飛行機の生産も開始した。
また、少年飛行兵の基礎教育や訓練の場としても使用され、陸軍飛行機学校の開校に伴い、全国の陸軍機操縦士の3分の2を養成した。
その後、航空廠(工場)、通信班、気象班が設けられ、やがて航空関係一色となった大刀洗周辺は、空の一大基地にふくれ上がり、その規模は東洋一とも言われた。
しかし大戦の戦勢が漸くかたむいた昭和20年3月、二回に亘り、爆撃を受け壊滅状態となった。 終戦とともに、明治陸軍は70年の歴史を閉じ、飛行場は開拓され、今や往年の威容はほとんど見るべくもない。
(参考資料:「証言 大刀洗飛行場」福岡県三輪町刊)