終業式の帰り道



旧立石国民学校・校門
立石国民学校があったあたり。
現在は立石公民館がたっている。


「太刀洗飛行場の西3キロにある立石国民学校(現在・甘木市立立石小学校)は終業式を おこなっていた。
サイパン島から太刀洗飛行場徹底破壊の命をうけた第爆撃隊は、そのころ国東半島上空 から福岡県日田方面にむかっていた。
式の途中、空襲警報がけたたましく鳴り響いた。空襲警報が鳴ることはそれほど珍しい ことではなくなったが、校長は式をとりやめ生徒達を下校させた。
一ツ木地区に住む児童達は、教師に引率され自宅にむかった。
校門をでるころいままで聞いたことがないような重苦しい爆音が聞こえてきた。
すぐ近くには軍事施設・「甘木生徒隊」があり、学校自体、軍隊や工場が疎開していたので 安全な場所とはいえなかった。
足元が激しくゆれ、連続爆発音が聞こえた。生徒達は側溝に身をふせたが、土手にいた下士官達は すぐに学校に戻れと怒鳴った。
その直後、再び爆音がして、教師は目の前に広がる「屯田の森に行け」と叫んだ。
足がすくんで歩けない生徒達もいたが、森の中に逃げ込んだ。
ところが、人数がたりないことにきづいた教師はもとの場所に引き返した。
と、その時大きな爆発音が森の中で聞こえた。
気が遠くなりそうな思いを抱きながら教師は屯田の森の中に児童達を探した。
血を流して死んでいるもの、爆風で跳ね飛ばされたもの、眠るように横たわっているもの、泣いているものもいた。
村人や教師達も救出活動にあたった。小さな遺体は校庭の木の下に並べられた。
3人の児童が体をこすり合わせるように死んでいた。この子達がはなれないように一つの棺にいれた。」
(参考資料;「太刀洗飛行場物語」桑原達三郎著より引用)

この屯田の森の悲劇での死者は31人に上る。
かつての立石国民学校の場所には児童たちが下校した門のみが残されていた。