水鏡の地


福岡市天神の地名の由来がアクロス前の「水鏡天満宮」であることはよく知られている。天神は、死後神格化された菅原道真の名である。
ところでこの「水鏡天満宮」は、菅原道真が京都から流された際に、顔を水面にうつして自分の流托の身を確かめたたため「水鏡」という名がついたといわれている。
すると菅原道真は「水鏡天満宮」のすぐ横を流れる那珂川の入り口で顔を鏡に映したことになるが、当時海岸はもっと内陸にあり「水鏡」の地は別のところにあったはずである。
 よく調べてみると「水鏡天満宮」は、薬院近くを流れる四十川のそばにあり、ここが菅原道真の京から上陸地点であった。当初ここに水鏡天満宮があったが、黒田藩は福岡城築城の際に福岡城の鬼門に当たる現在の地(アクロス前)に移転し、城の「守護神」にしようとしたのである。
 またこのあたりはもっと別の意味が秘められていた。もともと福岡藩の処刑場で黒田氏は豊前・中津の宇都宮氏を滅ぼしたが、中津・元合寺の有名な僧・空誉もここで処刑されたのである。ここはまさに鬼門の地であった。
 上野の寛永寺が、江戸城の鬼門の位置にあたる場所に建てられたことは特に有名であるが、福岡藩にとってはこの鬼門の地を抑えることこそ重要で水鏡天満宮をここに移転したのである。日本では神社や寺の位置が軍事的な面ばかりではなく風水によってなされておりそのことは我々の想像以上である。
  風水の思想はもともと中国の道教思想に基づくものであるが、日本では家相といった個人単位の小さなのものが主流だが、本来の風水は都市計画的な視野をもったものであった。
風水の考え方によれば、「四神相応」つまり四神の整った地に都を構えれば繁栄が約束されるというわけだ。
四神とは東西南北を司る霊獣のことであり、その霊獣はまた各々が自然形態の 象徴となる。つまり東は青龍が治め河川が龍の象徴となり、西は白虎で街道を表し、南の朱雀は池や海。残った北は玄武の範囲で、山がそれぞれの象徴となる。
鬼門とは方位を干支にあてはめてみて、丑と寅の方角にあたる東北を、風水を鬼門と呼んで魔の進入路としているのである。
確かに江戸の守護神である寛永寺も京都の守護神である延暦寺も鬼門の位置にある。
ところでもともと水鏡天満宮があったといわれる四十川は現在流れていないが、西鉄大牟田線に併走する薬院新川に「姿見橋」(すがたみばし)という名の橋がかかっている。
このあたりに四十川が流れていて水鏡天満宮がもともとあったところである。「姿見橋」は道真が自らの姿を水面に映した場所であるところから名前がついたものである。
予備校の生徒達がこの橋を渡って通学するのをよくみかけが、大宰府天満宮にまで赴かずとも、ここ天神様ゆかりの場所で合格祈願をしてみてはとつい思ったりもする。
 なお菅原道真ゆかり地といえば、道真上陸後軟禁されたのが西鉄二日市駅近くの榎社である。道真はここで亡くなり、出棺されて牛が動かなくなった場所に道真の亡骸はうめられ、ここに安国寺が建てられ、同じ場所に大宰府天満宮が建てられたのである。
なお秋の例祭で道真のお棺が運ばれた榎社と大宰府天満宮の間の道・どんかん道を平安朝の衣装を身に纏ったった人々の行列がすすんでいく。このどんかん道の行列には道真と縁深い牛もともに歩むのである。
 それで水鏡天満宮の境内には道真と縁が深い牛の像が置かれているのである。
ちなみに福岡の銘菓である千鳥饅頭は菅原道真の和歌「水鏡せると伝えうる天神のにあしのあとに千鳥群れ飛ぶ」から名前をとったという。