ドイツ人捕虜の遺産


2006年の新聞夕刊でドイツ人捕虜によって日本で最初にベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」が演奏されたことを知った。
そしてドイツ人捕虜といえば、福岡に捕虜収容所があったことを思い出し、おそらくは他の地にもと思いインターネットで検索してみたところ、広島の似島・松山・習志野・徳島の板東にもあることを知った。
特に徳島県・鳴門市の坂東にはドイツ館がもうけられており、多くのドイツ人捕虜の記録が残っていることを知った。2006年にこのドイツ館を訪問し、捕虜達がつくったというドイツ橋を見学することができた。
第一次世界大戦で日本軍は山東半島のドイツ勢力圏・青島を攻撃し2ヶ月後には占領した。日本軍はその時、ドイツ人捕虜約4600人を日本国内に送ったのである。その中の約1千人が徳島の坂東収容所に送られた。この収容所の所長が松江豊寿大佐で、「国家は将兵以外の俘虜に、その階級や技能に応じた労働につかせることができるが、その労働は激しいものであってはならない。」というハーグ協定の精神を徹底させた。
そして1918年にこの収容所で日本で最初にベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」を演奏されたのである。またこうした演奏の練習が徳島市内のNHKドラマ「なっちゃんの写真館」でしられた立木写真館などでおこなわれたことも興味深い。
私はこの写真館の名前を知り、多くの雑誌の表紙を飾った女優の写真で有名なカメラマン立木義浩氏を思い出し、インタ−ネットで調べたところ、立木義浩氏はこの写真館の3代目の社主であることがわかった。
現在、ドイツ人捕虜と、収容所の周辺の住民の交流を映画化した「バルトの楽園」の撮影が徳島県ですすんでいるが、この映画は、松江所長とドイツ人捕虜の中心的存在だったハインリッヒ少将の友情や地元住民と捕虜達の心の交流を描いている。
さらに1917年に開設された広島の似島の収容所には545人が送られた。ここでは広島師範学校の生徒とドイツ人捕虜とのサッカーの試合がおこなわれている。さらに捕虜の一人カールユーハイムは食の伝道師としてバームクーヘンを伝え、解放後も日本に残った。バームクーヘンのユーハイムは、神戸に本店がある。
ヘルマン・ウォルシュケはハムやソーセージづくりを伝え、1934年のベーブルース来日時には甲子園球場で日本で初めてホットドックも販売された。ウォルシュケの墓は東京狛江の泉龍寺にある。
バ−ムク−ヘンやホットドックは、現在の広島ド−ムとなっている広島県物産陳列館で人々に知られた。  ところで第一次世界大戦における青島攻撃の主力は実は福岡の久留米第18師団であった。久留米の収容所にも、約1300人の捕虜が送られており、久留米でも捕虜達による第九の演奏がおこなわれたのである。坂東収容所の第九の演奏から遅れること1ヶ月であった。
久留米といえばゴム工業の町として有名だが、ドイツ人捕虜の技術者が中心になって先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えたのである。また、日本足袋(現日本ゴム)やつちや足袋(現月星化成)といった会社の発展にも貢献した。
また久留米の捕虜となったドイツ兵は、久留米から博多湾に面した福岡市の柳橋収容所などにも送られ、自ら労働を希望したために今津の元寇防塁の修復にあたった。
この移送の際にドイツ兵たちはローレライを歌いながら現場にむかったという。そのため今津の元寇防塁は、市内各地の元寇防塁の中で最も良く保存されているのである。
「支配と服従」「暴力と憎悪」を想起させるような捕虜収容所で「歓喜の歌」が歌われ、なおも異国人同士が隣人となり文化や技術をかよわせたことを示すこうした出来事は、テロや大量殺戮といった不安が蔓延する殺伐たる世界の中で、人間存在への希望をともす燈明のように思える。