私が出会った芸人


「佐賀にわか」で有名な筑紫美主子一座は、玄海灘に面した福吉ビーチホテル近くの「玄海温泉センター」をホームグランドにしていることを聞いていた。ホームページにぜひとも筑紫さんを紹介をしたいと思ったが、資料が乏しく直接御本人と会って話を聞く他ないと思った。
福岡市・姪の浜から唐津に向かう筑肥線のJR福吉駅近くで人に筑紫さんの家を尋ねると、筑紫さんの息子が住職をしている愛仙寺がお住まいであることがわかった。さっそく愛仙寺を訪れたところあいにく筑紫さんは不在であったが、お弟子さんが、筑紫さんの自伝「どろんこ人生」を貸してくれた。 そしてこの本を読んではじめて筑紫さんの生い立ちと人生を知ることができ驚きまた感動した。

筑紫美主子一座の公演

  筑紫さんは大正12年旭川生まれで父はロシア革命を逃れた白系ロシアの軍人、母は佐賀生まれの日本人であった。筑紫さんは三歳の時、母の親戚で佐賀に住む古賀佐一氏の家に養女に出され、養父母の愛情に育まれながらも混血児として差別に苦しみ続けた。
18歳で幼い頃より習い覚えた踊りをもとに「佐賀にわか」の世界に入り、20歳年上の古賀義一氏との結婚を機に一座を結成し、夫亡き後は文字どおり女座長として東奔西走の活躍をしてこられた。
 最初の訪問から約1ヵ月後、今度はアポイントをとって筑紫美主子さん宅に伺ったところ、息子さんと共に会っていただいた。そして寺の裏の地下にある大仏のところに連れていってくださり、こわれかけた鳥居をみせてくださった。
この鳥居は天神にあった柳原白蓮・伊藤伝右衛門の邸宅(銅御殿とよばれていた)の鳥居だったが、銅御殿が火事で全焼し、次にここに住みついた人が、この鳥居で子供か怪我するといけないから筑紫さんにひきとってもらえないかという話かあった。筑紫さんがその鳥居を見にいったところ、そこにほられた製作者の名前から、筑紫さんの亡くなったご主人の実家(佐賀市蓮池の石屋)でつくられたものであることか判明した。その奇縁に驚いた筑紫さんは、自宅にこの鳥居を大切に保存することにしたそうである。
初対面の筑紫さんは、つつみこむようなあったかさの中にも、どこか凛としたものを感じさせられる方で、このような話をかみくだくように話してくださった。
その2ヵ月後、メルパルクホールでの「筑紫美主子60周年記念公演」を見に行った。「案山子」と題した公演で出奔した息子と親との情愛を描いた舞台で、おかしくてどこか哀しい、ひきこまれるような舞台であった。そしてメルパルクホールを超満員にした筑紫さんの人気の秘密を初めて知る思いであった。
かつて自宅を訪問した時には筑紫さんはか細く歩くのがやっとといった感じであったが、舞台では別人のように迫力があり動きも機敏であった。
芸人魂のすさまじさに感嘆した。

青山泰子さんの筑前琵琶公演会


もうひとり私が出会った芸人に筑前琵琶の青山泰子さんがいる。
特設授業の準備のため「女達の時代」(葦書房)を読んでいたところ「筑前琵琶のホープ青山泰子」というページが目にはいり、その女性のプロフィールを読むと私が当時勤務していた学校近くの御出身であることがわかった。そしてこの方をなんとか調べてホームページに紹介しようと思い立った。
インターネットでさっそく「青山泰子」を検索したところ、その約半年前に青山さんが久留米の水天宮で演奏会を開かれたことを知った。水天宮にさっそく電話して、宮司さんから演奏会の時のパンフレットを送ってもらえないかとお願いした。そしてそのパンフレットの内容から青山さんの連絡先と「筑前琵琶保存会」の存在を知ることができた。
おそるおそる青山さんに電話したところ、「明日、大濠公園・能楽堂で演奏会があるから見にいらっしゃい。受付で名前を言えば入れてあけるから。」という返事をいだいた。年1回だけの大きな演奏会というのになんとタイミングがよいのだろうと我ながら感心してしまった。
初めて見る筑前琵琶演奏会は興味がつきないもので、演奏会当日、最前列に陣取ってデジタルカメラのシャッターをおし続けた。筑前琵琶と劇団「紅生姜」や博多小学校の生徒の踊りとの共演は、本当に見所が多いものであった。
また筑前琵琶のことを調べていくうち、女優・高峰美枝子の父が博多の対馬小路出身の高峰筑風であることを知った。対馬小路といえば、オッぺケペー節で一世を風靡した川上音二郎もここで生まれたのだ。
ところで筑前琵琶の歴史は古く奈良時代に遡る。創始者の玄清法印は太宰府近くに成就院を建て、この寺は現在福岡市南区高宮に移転している。 今日、寺の境内には「筑前琵琶の碑」がたっている。