有害駆除や錯誤捕獲で捕獲された個体を放獣する際のコグマ
の扱い。 ひとつの思考実験?的

 有害駆除などで捕獲された個体、特に親子グマの処分方法の問題は、動物愛護、センチ
メンタリズム他もろもろ・・・感情論的問題に帰結して混乱するが、ある地域個体群の維
持と管理を考えるとその場に最適な処理法がとられているかどうか再考するべき点がある。

 放獣の是非と言う点、放獣という方法論の選択の条件として、放獣個体の長期的追跡調
査、追い上げ、接近抑止などの緊急的対処体制の整備他、必要なオプションが自治体など
管理者側に備わっている必要性がある。また、信頼の置ける個体群規模モニタリングの基
に行われる個体数調整、処置のルールが適切に整備され、必要な場合は殺処分が公平に選
択できる体制にある必要性は認めなければならない。

 しかし、現場サイドでその場で判断を迫られる場合、例えば被害をこうむった地元住民
感情からは、多分もっとも困難な選択かもしれない。現実には、有害駆除で捕獲され、放
獣しようとしていた個体にたいして、殺すの見届けるまではどこまでも着いて行くといっ
て、結局、放獣予定だった個体を殺処分しなければなければならなかったという例もない
わけではない。

 殺処分してしまわない事は個体群維持に寄与すると考えられるが、一方で被害防止にも
効果を期待できる可能性はないわけではない。それは、コグマがどうやって生活環境の中
で餌資源の種類や分布を学習してゆくのかという点にある。確証は得られていないがコグ
マは、母グマと同伴している1―2年のあいだに、親グマが立ち寄った環境、それ自体から
利用可能な環境の質や分布をおぼえてゆくと考えられている。

 もし親が渡り歩くその環境の中に人里や果樹、民家そのものが含まれていればそのまま
コグマ達に引き継がれてしまう可能性が高い。逆に、親が積極的に利用する環境と同様に、
積極的に忌避、警戒する環境というものがあればそれらは避けるべきものとして引き継が
れると期待できる。

 もし、人里を餌環境として認識している個体がいて被害をもたらしたとするならば、む
しろ積極的に捕獲、忌避学習および放獣をする事によって、親と子ともどもに”忌避的学
習効果”を期待することはできないだろうか。このような考えかたの基に、同一個体なら
ば繰り返し、可能ならば多数の個体に処置するということを継続的に実施できれば、それ
らの子孫への忌避的行動の伝達ということが期待できるかもしれない。

 ただし、これを目的とするならばむしろ積極的に捕まえて(親子も、これから母グマに
なりそうなメス?)忌避的学習処置を講じて行けば良いと考えがちだが。”被害”、ター
ゲットとして人里の作物などを採餌した経験の無いものに忌避学習しても忌避的効果が期
待できるかどうかはわからない。具体的に”事前学習化”という考え方を取り上げてきた
自治体があったが、”学習効果”というのは具体的に何に対して、という条件がリンクし
ていなければ効果は期待できない。やはり、現実に何らかの被害を引き起こして有害駆除
の対象になった個体の処理というのが重要になる。

 確かに”被害を未然に防ぐ”、”人身(人心)被害の危険性を放置しない”という精神
には反するが、放獣という施策が唯一無二の最善の方策ではない事は明白であり、そのほ
か、適正なゴミ処理、廃果処理、環境整備や電気柵の敷設など基本環境整備がなされてい
るという条件が先に整備されていての話である。それでも何らかの問題がある場合に捕殺
処理と放獣というオプションが選択できる。

 現状、プロセスとして出没し難い環境整備が遅れているもしくはまったくなされないま
ま、殺処分か放獣かという議論がなされている。放獣にたいして強硬的に反対のある地域
ほど環境整備が遅れている傾向にあるように見うけられる。

 忌避的学習効果を期待するのであれば殺してしまったのでは”学習”にならない。当た
り前のことである。ただし正直な感想、忌避的学習効果それ自体の有効性はまだ正確には
確かめられていないし、その検証実験のフレーム作ることさえされていない。実際にはそ
の結果を得るためにはツキノワグマ個体のライフタイム10―15年ほどのモニタリングが必
要となる。現状、”期待”はできるが”確証”ではないという、放獣処理の現状というの
はその程度のものであるという点は素直に認めて正しく検証されてゆくべき事とであるし
それが社会の要求でもある。

 様々な研究や調査は行われてはいるがそれら研究成果など情報提供のあり方、その応用
としての行政対応、具体的施策の策定、実行のありかたにはまだ課題が少なくない。

 多くの場合、そのような現場対応する人達、例えば地域の行政官、は必ずしも動物生態
学などの専門教育を受けた人達ばかりとは限らない。彼ら自身も常に葛藤やら迷いを持っ
ている。誰か泥かぶらなければならない。それも腹くくって対処しなければならない問題
ではある。だが、こうしなければならないという、ある自信を持ってもらうためにも、抽
象的な表現ではあるがマニュアルだけではない”よりどころ”となる”何か”は必要であ
ろう。それを研究者が提供できるかどうか。

 誰かが殺した個体の命に思いめぐらし非難するのは簡単だとしても、殺す判断を下した
り、実際に手をかけた人達の葛藤や精神の問題は放置されている。決して傷を負っていな
いとはいえない。さらに本人達は相当いやな思いをしているところに、”過激な保護論”
を展開する連中から抗議をうける。精神的被害はこのほうが遥かに大きい。

 自治体など現場担当者、その地域出身で地域に根ざして暮している。クマ担当している
ときは地域住民の意見に反している自身の立場に矛盾を感じているであろう。感情的な軋
轢もあるかもしれない。立場上そのようなことは跳ね返して業務を全うしてもらわなけれ
ばならないのだが、住民を納得させられるかどうかはおろか自分自身に自信を持てないま
まそれにあたっているようにも見うけられる。地域住民全員が納得できるかどうかは保証
できないが、なぜ保護しなければならないのか、という問に対して明確な理由付け、本当
に提供できているのかどうか。

 現状、保護論を展開する人々や研究者がどれほどそれに応えているのか不明。抽象論に
終始して必ずしも現実的ではない”検討会”に終始しているわけではないと信じたいので
はあるが。よく見えない部分も多いのではないか。それで地域住民はいつまで研究者とい
う人種を信用していない。

 という事で、その抽象的な”何か”は、この”業界”に棲む、有識者とか研究者とか大
御所とか自他ともに称される方々にも考えていただきたい点ではある。

 余計な話しの展開になったが、現状、親子で捕獲された場合、放獣方法の選択肢は大ま
かに以下のようではないかと思われるのだが。

1 親子ともども放獣。
 愛護論を前面に押し出すと疑いのない選択肢ではあるが、冷徹に個体群維持を中心に考
えた場合や被害抑止として考えた場合、愛護論とは感情的矛盾が生じると考えられるので、
放獣に際して忌避的学習効果が充分期待できることが必要とされるであろう。しかし一方
で忌避効果に絶対の信頼が置けるのかどうか、移動放獣した場合回帰性を見せないのかど
うか、それによって再被害の心配はないのかどうか、そもそもその放獣先の生息環境がそ
のまま放獣した個体を受け入れるだけの環境収容力があるのかどうかなど不明な点を棚上
げにしたままの問題でもあることを認める必要がある。

2 親を殺してコグマを放す。
 もっとも愚行といえなくもない。たとえば、10月下旬、親子グマがまとめて有害駆除で
捕獲されたとする。処分を前提としているにもかかわらず、結局、親を殺してコグマを放
獣という選択がなされる。そのような例をいくつも見た来た。が、これは個体群の維持を
考えた場合、3頭まとめて処分したのとさほど変わらない。とくに当年生まれのコグマの場
合、単独で越冬できる可能性はかなり低い。親が一緒でなければその時点での体重が15
kg切っていればまず越冬は無理な場合もある(当年生まれの場合のみ)。結局、目の前
で処分するか、緩慢な餓死もしくは凍死、タヌキ、キツネまたは他のクマ(とくに雄?)
に襲われるなどして命を失い、将来の繁殖可能性を潰していることには変わりはない。

 そのような,感情論的な”放獣”、意外と多いかもしれない。または、何も考えていな
くて、”とりあえず目の前から消えて”くれれば良いなど、このような中途半端な方法論
がまかり通っているようでは個体群の保護管理などというものはあってないようなもので
あろう。

3 親子ともどもあの世に送る。
 それができるのは、個体群規模の概要が既知、である場合のみ。control kill として、
”除去数の割り当て”が確定している場合。事務的な言い方で命の重さをミジンも感じら
れなイヤな表現ではあるが、限られた生息環境しか存在しない場合や被害対策の限界を超
えた出没や被害発生があった場合など、行政や保護管理を現場で担当する立場の判断基準
として”除去上限頭数”の概念に基づいた管理方法のひとつとして殺処分は必要になるこ
ともあろう。

4 コグマを殺して親を放獣する。
 知る限りでは実際に行われたケースはない。上記3つのケースに対する想定的反論(とい
っては大袈裟であるが)、保護管理論のアンチテーゼと考えても良いのではないか。

 近い将来の個体群安定性を考えた場合、性成熟するのにまだ2―3年要するコグマ、生活
力の弱さがあって成長するまでの間に死亡したりする確率の高い個体を放獣するよりも、
夏季や秋早い時期であれば越冬前に子を失ったことで、翌年春にすぐ繁殖可能な生理状態
にもどる可能性がある雌成獣にあらためて繁殖の機会を与えたほうが、即効的に個体群安
定か増大に寄与する可能性が残される。

 繁殖装置としての雌(これは相当に不穏当な表現)を生かす。たとえば、親子3頭(コグ
マ2頭)として、3頭放置したのでは個体群としてあふれるが、2頭除去してオーバーフロー
を押さえて同時に、繁殖できる可能性を残した1頭を放獣するということ。見た目の個体数
を問題にするのではなく潜在力を正しく評価するという考え方は必要ではないのか。保護管
理論というのは機械的な考察ではあるにしても、哲学的にはこの通りといえなくもない

 自分で書いてて気持ちが悪くなった。

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 話しの展開、論理的な穴や言葉のたりない部分を放置しているので突っ込みやすい文とな
っています。

2006/07/20
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