須田大春陳述書 (2)

2003年9月4日に裁判所に提出された陳述書(2)を掲載します。これは7月8日に提出の陳述書の続編です。
この陳述書(2)の構成は以下の通りです。

1.昭和39年都市計画決定は小田急高架複々線を決定していない
1.1 昭和39年都市計画決定は何を決定したのか不明である
1.2 昭和39年都市計画決定の内容を「付議書」から推定する
1.3 昭和39年11月21日の都市計画審議会は何を審議したか
1.4 最終答申15号に異議あり:新路線と複々線は全く違う結果をもたらす
1.5 9号線の小田急に沿った部分はいつ小田急がやることに決まったか
1.6 どこを地平にするかいつきまったのか
1.7 結論

2.連続立体化の事業は事業認可申請地でおこなわれていない


3.地下/高架の比較検討の経過は「下北隠し」で藪の中



平成13年(行コ)第234号 小田急線連続立体交差事業認可取消請求事件

 第1審原告  ○ ○ 治 子 外

 第1審被告  関東地方整備局

 参 加 人  東 京 都 知 事

 

陳   述   書 (2)

 

東京高等裁判所第4民事部 御中

2003年9月4日

横浜市青葉区あざみ野○−○○−○

小田急市民専門家会議事務局長・法政大学兼任講師

 

1.昭和39年都市計画決定は小田急高架複々線を決定していない

2.連続立体化の事業は事業認可申請地でおこなわれていない

3.地下/高架の比較検討の経過は「下北隠し」で藪の中

 

1.昭和39年都市計画決定は小田急高架複々線を決定していない

 

 ここでは、昭和39年の旧法による都市計画決定は、「小田急小田原線の梅丘〜成城学園間高架複々線化(ただし成城学園付近地表)」を決めたものではありえないことを証明する。

 

 官側は、事業認可のもとになる都市計画決定は、梅丘〜祖師ヶ谷大蔵間については昭和39年決定、成城学園のみ平成5年決定と主張する。今回の立証は、「見直して変更しなかった部分を含めて平成5年決定」とする従来の主張を補強するためであり、取り下げるためではない。昭和39年ではないことが明らかになったとしても自動的に平成5年になるわけではないが、それを平成5年以外の点まで移動するのは官側の仕事であり協力するつもりはない。他の点に移動した時点で再度反論して平成5年まで引き寄せる準備はある。

 

1.1 昭和39年都市計画決定は何を決定したのか不明である

 

 昭和39年11月21日に旧都市計画法に基づく都市計画決定が存在したことは昭和39年12月16日の建設省告示(丙17号証の官報)によって認められる。 しかし、その告示内容を示す文書である「計画書」と「計画図」にあたる証拠は両方とも存在しない。官側は丙18号証の1を「計画書」と表示して証拠提出しているが、中味は丙16号証の1「付議書」にすぎない。これはタイトル・発行者・発行日から明らかである。さらに丙18号証の2を「計画図」と表示して証拠提出しているが、これも計画図とはいえない。タイトルを「東京都市計画高速鉄道網図」とするが、発行者も発行日も明らかでなく独立した図面の要件を備えていない。昭和35年1月編図の東京都首都整備局による縮尺1/30000の大きな23区地図の上に、「だれかが、いつか」9本の地下鉄路線を書き込み、さらに書き込み線の凡例を加えた図である。凡例に「今回追加」としているところは、何が「今回」かもわからないので独立した図面ではなく、審議会の内部資料に過ぎないと判断する。藤山判決では「昭和39年決定自体には‥‥その議案に添付された図面上の記載があったにすぎない。」(72頁)としてこの図面が登場する。この図面を「議案に添付された図面」即ち丙16号証の一部と見なしていることは正しい。都市計画の決定を公告するための図とは認めがたい。

 

1.2 昭和39年都市計画決定の内容を「付議書」から推定する

 

 藤山裁判長は、議事録の記載する「満場一致の決定」を信じて、付議された事柄を決定されたものと同格に扱った。われわれもやむを得ずこれに従って昭和39年都市計画決定の内容を「付議書」から決定の内容を推定するものとする。藤山判決によれば、

 a 都市計画名称 東京都市計画高速鉄道第9号線

 b 起点 世田谷区喜多見町(喜多見駅付近)

 c 終点 葛飾区上千葉町(綾瀬駅付近)

 d 主な経過地 経堂駅、下北沢駅、原宿駅、神宮前、赤坂田町四丁目、

国会議事堂前駅、霞ヶ関、丸ノ内三丁目、神田小川町一丁目、

池の端七軒町、日暮里九丁目、町屋六丁目及び北千住駅各付近

 e 延長 三二・五キロメートル

とある(72頁)。これは、丙16号証の1「付議書」とも一致している。帝都高速度交通営団の「千代田線建設史」1983(甲258号証)は25頁に官報では省略されている告示書の内容を記載しており、これも一致している。

 ここに示されているのは、「地下鉄9号線の経路は喜多見駅付近・経堂駅付近・下北沢駅付近を通る」という決定である。鉄道が急には曲がれないことから「地下鉄9号線の経路は喜多見駅付近から下北沢駅駅付近までは小田急小田原線に沿っている」といってよい。下北沢から原宿の経路については、(付議書の「別紙図面表示の通り」(6丁)という記述に従いたいが、丙16号証の1「付議書」には残念ながら図面がついていないので、)丙18号証の2「計画図」として提出された証拠から読み取ると、代々木八幡駅の急カーブ寸前まで「小田急小田原線に沿っている」ことが認められる。すなわち「地下鉄9号線の経路は喜多見駅付近から代々木八幡駅付近までは小田急小田原線に沿っている」と決定されたことが認められる。「千代田線建設史」の表現にしたがえば、「9号線はこの区間小田急に張り付けた」ということである。

 

 つぎに、構造についての記述を探す。「付議書」には、構造の記述は存在しない。藤山判決では「昭和39年決定自体には、本件事業区間における9号線の構造についての具体的な定めはなく、審議会における口頭での説明及びその議案に添付された図面上の記載があったにすぎない。」(72頁)としている。口頭での説明を具体的な定めにするわけにはいかないので、図面上の記載を検討する。凡例に「今回の追加路線および変更区間(地下区間)」を太い実線で、「高架または地平区間」を太い一点鎖線で示し、9号線についていえば、喜多見駅付近から代々木八幡駅付近と北千住駅付近から綾瀬駅付近の2箇所が太い一点鎖線になっており、代々木八幡駅付近から北千住駅付近が実線である。ここから「地下鉄9号線の経路は喜多見駅付近から代々木八幡駅付近までは小田急小田原線に沿った地平または高架線」となったことが分かる。逆にいえば、ここまでしか分からない。「小田急小田原線の梅丘−成城学園高架複々線化(ただし成城学園付近地表)」までには、大変な距離がある。埋めなければならない溝は

 1.小田急小田原線のどの部分が、いつ9号線に決まったのか

 2.後に実現される代々木上原の相互直通はいつどこで決まったのか

 3.小田急小田原線はどこからどこまでいつ複々線に決まったのか

 4.「地平または高架」の区間をいつどこで具体的に決めたのか。

の4点である。これらの4点について平成5年決定までにどのようにして決まっていったのか(逆にいえば昭和39年には決まっていなかったこと)を立証する。

 

1.3 昭和39年11月21日の都市計画審議会は何を審議したか

 

 その前に、丙16号証の2「審議会議事録」にもいくつかの興味深い情報があるので検討する。注意しなければならないのは、議事録に記載されている幹事の発言や幹事の口から語られる高速鉄道調査特別委員長の発言をそのまま都市計画として決定されたこととはみなせないことである。委員が採決で議案に賛成したとき,全ての説明・発言に賛成したわけではなく、審議された議案(書類と図面)に賛成したのである。

 

 審議会は、小田急の為に開かれたのでも、千代田線のために開かれたのでもなく、「東京都市計画高速鉄道」と呼ばれる「東京の地下鉄ネットワーク」(表1)をどうするかを決めるために開かれたものである。そのために、玉村栄二幹事は最初に1号線と6号線に関する変更を提案する。

 

 幹事は1号線の品川〜押上間を西馬込〜押上に変更し、品川〜泉岳寺間は支線変更するという。幹事は「変更を提案する」とは決して言わない。付議する官側と審議する民側の委員の位取りが官高民低であることを語る。西馬込〜押上は現在の都営浅草線であり、支線1.5kmは「京浜急行の地下鉄」である(表2)。幹事の説明は品川からの京急乗り入れにも押上からの京成乗り入れ計画にも触れない。乗り入れ区間は地下鉄ネットワークの外であるし,今回の変更に無関係である(表3)

 

 次に、幹事は6号Y字線の西馬込〜志村、上板橋を支線を廃止し、桐ヶ谷〜埼玉県大和町(現在の和光市)に変更し、桐ヶ谷で東京急行池上線と埼玉県大和町で東武東上線と連絡するという。この議事録だけでは分からないが、図面を併せてみると、板橋区大和町〜上板橋7丁目、西馬込〜五反田の2区間を廃止し、桐ヶ谷〜三田、志村−和光市の2区間を新設するものである。桐ヶ谷〜三田のうち、戸越〜三田区間は1号線と6号線が併走することになるがこれが複々線を意味するか不明である。また私鉄との連絡が相互乗り入れを意味するか不明であるが、桐ヶ谷については30度近い角度で交差する池上線と1号線を曲線で結びホームを平行させようと言う意図が図面から読み取れる。和光市でも東武東上線とホームを平行させている。現在、1号線は都営三田線となり、西高島平〜目黒間で営業しているが、目黒〜白金高輪は営団の路線である。三田から1号線と併走しての池上線乗り入れが、白金高輪での営団南北線乗り入れに変更されたことになる。反対側も都県境の西高島平までで止まっており、東武東上線との連絡は実現していない。実現しないのは、他社とのネットワークを毛嫌いする東急・東武側のエゴであろう。また、志村から先約6kmは「高架構造」と提案された。これは、渋谷や茗荷谷のような短区間は別にして、地下鉄路線に高架が公然と提案された最初のケースである。志村〜西高島平は「高架の都営地下鉄」である。

 

 このたった二つの例で、「高架の地下鉄」、「私鉄の地下鉄」が出てきたことになる。地下にあるから地下鉄でもなければ、営団と交通局がやっているから地下鉄でもない(表1−4)。市区改正条例高速度鉄道・都市計画高速度交通機関・都市計画高速鉄道と名前は変わったがJRや郊外私鉄と違って都市計画で計画された鉄道が地下鉄である。そこで9号線の代々木八幡〜喜多見間が地下鉄にあたるかが問題である。本命の9号線にはいる前に、玉村栄二幹事は経過を説明した。

 昭和37年7月6日の都市計画審議会で「高速鉄道の調査特別委員会のxx委員長」から従来提案されていた地下鉄ネットの5路線のうち4路線を変更、新しく5路線を追加する10路線の報告があったとするものである。これは、昭和37年6月8日の都市交通審議会答申6号(甲259号証の1)の10路線と数はぴったり合致する。ところが、昭和37年7月3日の建設大臣の東京都市計画地方審議会に対する付議書(甲259号証の2のイ)によれば、付議されたのは8路線である。建設大臣はタコ派、調査特別委員長はイカ派と異なる意見をもっていたか、付議書が改竄されバックデートされたかどちらかである。

 玉村幹事の説明は続く。新しく追加すべき5路線の内3路線は昭和37年8月の都市計画審議会において決定したという。議事録からは7月と書いて8月と訂正したあとが読み取られる。東京都市計画地方審議会がどんな頻度で開かれていたのか不明であるが、玉村説明が正しければ7月、8月の2回同じ議題を取り上げたことになる。結果が昭和37年8月29日建設大臣告示2187号により告示された都市計画決定である。

 

 ここで、決定から外された2路線は、小田急線と競合する喜多見から原宿の路線(幻の世田谷通り地下鉄)と京王線と競合する芦花公園から新宿の路線(幻の方南通り地下鉄)である。もうひとつ、このときは辛うじて8号線として残ったがその後数奇な運命をたどって消えてしまう西武新宿線と競合する中村橋から目白の路線(幻の目白通り地下鉄)である。このときの、私鉄側の事情を「小田急50年史」(甲267号証)は、「世田谷通りに営団地下鉄ができると南側の乗客が半分持っていかれる。かといってこれを小田急が自力で建設するには荷が重い」と述べており、小田急・京王は正面からつぶす作戦・西武は自力でやる免許を確保しておいて、実際にはさぼる作戦をとったようである。

 

 これらの3線が消された結果について、藤山判決の4ヶ月前に発行された独立行政法人運輸政策機構の発行した「東京圏の鉄道の歩みと未来」は、都市交通審議会6号答申の説明のなかで、(40年後になって)「今改めてみると、この変更がなく答申で示された路線が整備されていれば、東京23区の西部地域の鉄道ネットワークはかなり充実したものになっていたと考えられます」と残念がっている。藤山判決後に、元運輸政務次官高橋寿夫氏が「交通新聞」にのせたコラム「政策の賞味期限」でも、世田谷通り地下鉄を実現させるべきであったと悔やんでいる(甲189号証の4)。赤字の国鉄を抱えた運輸省と、どんどん伸びるガソリン税を握った建設省の勢いの差がそのまま政策の実現に繋がってしまった結果として「土建国家日本」と「自動車過剰都市東京」が生まれてしまった。近視眼的政策から近隣路線の増加を嫌った私鉄経営者は、結果として自動車の比重を増やすのに貢献しただけである。民鉄協会は今年になって、運輸政策提言の第一に「サスティナブル・デベロップメント」をかかげ、鉄道復権を主張しているが、「自動車優先の道路建設のための・自動車の僕としての鉄道連続立体化」政策を自ら改めて、環境優先の都市内地下鉄道プランに自ら切り替えなければ、提言は相手にもされない。

 

 玉村幹事の説明はその後、「高速鉄道の調査特別委員会において、既設の平面鉄道を必要に応じて複々線高架化をはかるために鉄道高架化公団のような特殊の法人を設ける必要があるということを含めて議論して、線形構造について結論を得たので、詳細な設計、費用の分担、事業の執行については保留したまま9号線きめた」と説明する。要するに地下鉄の議論と高架の議論を一緒にしようとし、地下鉄の中に高架をもぐりこませる算段をしたがまだ決まらなかったということである。9号線は「鉄道高架化公団」で実行したいと言う願望の表明であるが、この公団が、昭和393月にすでに設立されていた鉄建公団ではなく、悪名高いバブル期の3セク「東京鉄道立体整備株式会社」(平成2年6月設立、平成12年解散)を指すのは疑いない。

 

 玉村幹事は、9号線の路線を喜多見から綾瀬と説明する。これは6号答申とほぼ同じである。6号答申に出てくる地名は喜多見・原宿・永田町・日比谷・池ノ端・日暮里・松戸である。松戸が綾瀬に短縮されているのは、常磐線に併走する北千住―松戸の区間のうち綾瀬〜松戸は常磐線の複々線と結論が出たことを示している。同じように常磐線に高架で併走する北千住〜松戸間が、北千住〜綾瀬間は営団地下鉄・綾瀬〜松戸間はJR常磐線と分割されたことになる。一方の喜多見〜原宿間については、はっきり決まらなかったといってよい。JRとは綾瀬で乗入れることがはっきり説明されるが、小田急とは代々木八幡から喜多見の間のどこで乗入れるのかわからない。玉村幹事の説明で、喜多見から先に見えるのは「調布、読売ランド,西多摩の団地」である。狛江市が「調布都市地方計画審議会」の管轄であるため狛江を調布としたのかもしれないが、多摩ニュータウンが西多摩とは思えない。どこからみても代々木八幡から喜多見の間にあるはずの乗入れ点は決められない。

 

 この時代のやりかたでは、京王線の新宿、常磐線の綾瀬のように乗り入れ点が決まった時点で、都市交通審議会答申のコースを芦花公園から新宿、松戸から綾瀬のように短縮して都市計画決定するのが普通であったから、短縮しなかったということを論拠に、「喜多見乗入れ」を想定することも可能ではある。その場合,綾瀬から喜多見までについては営団の経営を想定する。最終的に結果としてそうならなかったことは誰でも知っているが、最初からどうだったのかはわからない。要するに、審議の過程では

 1.小田急小田原線のどの部分が、いつ9号線に決まったのか

 2.後に実現される代々木上原の相互直通はいつどこで決まったのか

 3.小田急小田原線はどこからどこまでいつ複々線に決まったのか

 4.「地平または高架」の区間をいつどこで具体的に決めたのか。

の4つの謎は解けない。

 

1.4 最終答申15号に異議あり:新路線と複々線は全く違う結果をもたらす

 

「東京都市計画高速鉄道」にある「高速鉄道」は都市計画法の新法から定められた都市施設の概念である「都市高速鉄道」ではなく、明治時代からの地下鉄の意味で使われてきた概念である。明治から大正にかけて,山手線の内側は路上にバスと市電、地下に高速鉄道、外側は郊外私鉄というスタイルを構想した。ただし山手線は東側がまだ閉じていなかったので都心の東の境は「14区境」(錦糸町亀戸間)である。

 

 大正14年の内務省告示第56号は、震災前からあった「市区改正計画」の「高速度鉄道」路線を見直して「都市計画高速度交通機関」とした。このあと、昭和2年に浅草〜上野(のちに新橋まで延伸)に日本最初の地下鉄「東京地下鉄道」が開業し,続いて昭和14年には新橋〜渋谷に「東京高速鉄道」が開業した。戦時体制として、昭和13年4月法律71号「陸上交通事業調整法」で私鉄の強制統合が行われ,京浜急行・東急・小田急・京王の4社が東急になるが、地下鉄については、昭和16年3月法律51号「帝都高速度交通営団法」によって、私鉄地下鉄2社が官業に接収された。この法律によって,山手線の内側に入り込んでいた玉川線は天現寺橋から道玄坂へ、京王線は追分から角筈に追い出され、鉄道省の省線山手線を境に内側は市電と営団、外側はブロック化された郊外私鉄という体制ができあがる。現在の概念では省線も郊外私鉄も市電に比べれば高速であるが,「高速度交通」という名称を営団が独占したのは、郊外私鉄も省線も「都市計画“高速度交通”機関」ではなかったからである。

 

 敗戦後、戦時立法の「陸上交通事業調整法」は失効し、郊外私鉄は独立したが、地下鉄は民営に戻ることはなかった。多くの郊外私鉄が山手線の壁を破った都心ルートを申請したが、認められなかった。鉄道省・内務省から運輸省・建設省に変わった後,地下鉄のプランは運輸省の諮問機関である都市交通審議会に、都市計画としての実行は建設省と各地の都市計画地方審議会に任せられることになった。昭和37年には、この2つの審議会がたった2ヶ月の間に異なる結論を出した。運輸省側の審議会が、地下鉄の領域を環状8号まで広げ、従来の郊外鉄道の間を縫う新地下鉄路線を多数計画したのに対し、東京都市計画地方審議会は,郊外私鉄の圧力によってこのうち2本を保留にした。保留されたのは8号世田谷通り、9号方南通りの地下鉄である。10号目白通りの地下鉄はこのときの計画には残ったが、繰り上げられた8号本線から、8号支線に格下げされて長期間にわたって「たな晒し」にされ、13号線の支線に移って、昭和60年7月の運輸政策審議会答申7号で消滅する。

 

 環状8号まで範囲を広げ、網目を細かくした6号答申は、環状線があまりにも弱い点で明治時代のプランナーより見劣りするものの、現状よりははるかに良かったと私は評価する。私鉄経営が公共性を持っていることを考えれば、複々線・複々々線と集中するより、歩いていける範囲に複線が多数あるネットワークの方を選ぶべきであったろう。事態は地下鉄と郊外私鉄の競争ではなく、都市の自動車化をどう食い止めるかにあったはずである。昭和47年の都市交通審議会15号答申(乙101号証)は、「複々線は新線と同じ」という結論に到達し、自動車との競争の敗北を宣言する。

 

 新都市計画法によって「地下高速鉄道」が「都市高速鉄道」という名前の都市施設になり、JR線や郊外私鉄と同じグループになっても、この敗北宣言である15号答申が出るまでは、「複々線」が都市計画決定に現れることはなかった。昭和45年8月の代々木上原地区の都市計画決定は、代々木八幡から東北沢の間の建運協定による線増連立であるから、一般には当然複々線と考えられている。しかし、昭和45年は、昭和47年より前であるから、都市計画決定に「複々線」の文字はない。線路数ははっきり「複線」となっている。在来の小田急小田原線が「複線」であるところに加えて、「複線」の新線「9号線」を計画した形になっている。これを複々線と呼ぶのは、都市交通審議会の答申では昭和47年、都市計画決定では、敗北の傷が癒えた15年後である。昭和60年3月の狛江地区線増連立に関する都市計画決定の備考欄に「線路数2 ただし代々木上原−喜多見間4」とあるのが最初である(藤山判決75頁)。

 

1.5 9号線の小田急に沿った部分はいつ小田急がやることに決まったか

 

都交審は,15号答申で昭和47年に「代々木上原〜新百合ヶ丘」間を「小田急複々線」としている。しかしこれは答申にすぎない。その後、和泉多摩川〜新百合ヶ丘については「緊急性なし」との評価に格下げされてしまった。多摩川の橋は上りのみ2線、下り1線の3線式で工事が進んでいることからも、15号答申は現実性のある決定ではなかった。とすると、小田急が9号線に手を上げたのは、いつだろうか。公的な記録で見る限り、昭和45年5月の運輸大臣による「代々木上原〜喜多見間の複々線認可」(乙23の2)が最初であろう。昭和44年12月に提出された認可を求める書類(乙23の1)には、「本区間の複々線については、東京高速都市鉄道網第9号線として、都市計画決定しております」という記述がある。ここにいう都市計画決定は、「在来の小田急線(複線)に新線として9号線(複線)を加える」昭和45年決定では、単に抽象的に小田急線に9号線を「張り付けた」だけの昭和39年決定なのであるから、「複々線決定されている」というのは運輸大臣を欺いたことになる。うまく欺いたことによって運輸大臣の認可を得て、小田急が9号線の小田急に沿った部分をやることが決まった。

 

1.6 どこを地平にするかいつきまったのか

 

 昭和45年8月の代々木上原地区の都市計画決定は、書類(丙22号証)の新旧対照表で見る限り、実際の決定内容は代々木八幡駅西方の元代々木町と代々木上原駅西方の大山町の2箇所を計画区域に加えることだけである。それ以外の全ての記述は新旧変わらなかったように見える。しかし、実際には新法最初の決定であり、対照すべき旧状態は何も明らかになっていない。この書類を素直に読めば、「みんな前から決まっていた」ことになるが、前の状態を調べた目から見れば、路線以外の全てがここで決まったと見てよい。この決定から都市計画決定には「高架」の文字が消え、銀座線の渋谷のようなケースでも、表参道では地下、渋谷では嵩上げ、その途中に掘割と地表をはさむという奇怪な記述法が採用される。その結果、9号線綾瀬―喜多見間は「全線地下」ただし例外が8区間もあるように見える。短区間のつなぎ以外の意味のある例外区間は、「成城学園 地表870m、祖師ヶ谷大蔵〜梅丘 嵩上5530m、世田谷代田〜東北沢 地表1740m、代々木上原 嵩上1050m、北千住〜綾瀬 嵩上2930m」とされている。これが、昭和39年に図面に引かれた2つの一点鎖線「高架または地平」の中味であることを証明するものは何もない。どこにも「高架」はなくどこにも「地平」がないのは皮肉である。ましてや、玉村幹事のいう、「小田急沿線は中央線とちがって地形がけわしいので、地形によって高架にしたり,地平にしたり」とはとても言えない。鉄道計画の地形条件というのは、一般に、鉄道が登れないような坂の存在で「トンネルだ・鉄橋だ」ということになるのを指す。東京西郊では有名なのが「国分寺崖線」である。中央線の国分寺が語源で、小田急では成城学園と喜多見の間にある。それ以外の坂はせいぜい10m/500m以下であり電車でも登れる。したがって、「地形によって高架に」するのは、崖下の喜多見側、残りは崖上の成城学園から上原まで全て地表というのが素直な回答である。しかし、これでは踏み切りがなくならない。39年決定のとき、玉村幹事は、(高架公団ができて、将来)「複々線にするときには、極力平面踏切をなくしたいという構想」と述べており、「39年決定そのもので平面踏切をなくしたい」という意思は微塵も見られない。それが下北沢・成城学園という急行停車駅で、最も乗降客も踏み切りを渡る人も多いところを地平に残すというばかげた結果を導いた。さらに下北沢が地平になった理由を推察すると、「地形的」条件の中に井の頭線の存在(本来は計画的条件)を数えたに違いない。「地下に入るのは怖いので、高架にするが、崖のそばの成城と井の頭線の邪魔する下北沢は高架にできないので地表にする、踏み切りが残るのはごめんなさい」と言うきわめておそまつな計画である。「後に」連続立体化(輸送力増強・踏切廃止)を検討するとき,当然全線見直しになった理由がここにある。

 

1.7 結論

謎は次のように解かれた。

 1.小田急小田原線のどの部分が、いつ9号線に決まったのか

            都市計画決定として明らかになったのは、昭和45年8月である。

 2.後に実現される代々木上原の相互直通はいつどこで決まったのか

          やはり、都市計画決定で明らかになったのは、昭和45年8月である。

 3.小田急小田原線はどこからどこまでいつ複々線に決まったのか

            複々線に最初に決まったのは代々木上原―喜多見間である。

都市計画決定で複々線が明らかになるのは昭和60年3月である。

 4.「地平または高架」の区間をいつどこで具体的に決めたのか。

            都市計画決定で明らかになったのは、昭和45年8月である。

以上で「昭和39年に小田急小田原線の梅丘〜祖師ヶ谷大蔵を高架複々線、成城学園を地表複々線と決めた」とする命題は完全に崩れた。この結論は一審判決と全く一致することを付け加える。

 

2.連続立体化の事業は事業認可申請地でおこなわれていない

 

 先に,7月陳述で明らかにしたように、高架工事は別線にしても仮線にしても線路脇に用地を確保しなければ始まらない。今回の高架複々線事業で、小田急は、下北沢地区と車庫のあった経堂で北側に、それ以外の地域では南側に線増地を用意した。この部分を乙部分、在来線のあるところを甲部分と呼ぶことにする。

 

 「小田急50年史」(甲第267号証)によれば、昭和43年から46年にかけて工事された環状8号の立体交差に際して、最初は「仮線高架」を提案し東京都との協定にかかったが、工期が間に合わないので「別線高架」にした、その結果として「将来の」複々線にも好都合となったという。これを証拠立てるものはない。これが本当だとすると、この時期にもまだ、小田急にとって複々線は「将来の夢」にすぎなかったということになる。そうだとすれば、前項の「39年決定が高架複々線のためのものとは言えない」理由を補強する。この事業が昭和39年に都市計画決定された高速鉄道9号線に対して行われたとすることは無理がある。9号線は抽象的に小田急線に「張り付けられて」いただけで工事の対象にはなりえない。

 

 一方、このころすでに「緑と太陽を守る小田急地下化推進の会(筧会長)」は、沿線各地の地下派を糾合して旗揚げしていたのであるから、小田急側の対応としては「将来の複々線」は、昭和39年ごろとは違って、かなり不自然である。出来上がった形から見る限り、環状8号新設にともなって、都道荒玉水道線、補助215号線のほかに5本の区道の踏切を除いた高架工事であるから、立派な連続立体交差である。建運協定の締結前であり、どのような手続きで事業を行ったのか不明ではあるが、建運協定に先立つ「連続立体化」の工事と考えられる。

 

 この工事は、南側に乙部の土地を取得して別線で行われたため出来上がった線路は南に残った。そこで祖師ヶ谷大蔵の駅近くと千歳船橋の駅近くに2つのS字コースが残っている。東西のS字部それぞれ約300mの南側は平成5年決定の連立事業用地に入っているが、高架直線部約700mは連立事業用地から外されている。これが「線増連立計画」の6.4kmに対して、「連立事業」の5.7kmになる理由である。

 

 このS字部の工事手順から、南側を連立事業用地とすることの不合理性を衝く。

S字部は、30年間北が低く南が高いスロープになっていた。工事手順は、連立事業調査報告書(丙1号証)263ページによると、環八北側(連立事業地空白部)に高架橋を工事し(東西両側に仮線スロープ付きで)、この区間を含めてすべての線路を北側に切り替えた後、(南側のスロープをこわし、)南側の東西に高架橋を建設し既設高架橋と接続する。ここまでで踏み切り除去が完成し、その後、(北側の仮スロープをこわして)北側の東西に高架橋を建設し、先に建設した高架橋と連結すると言うことになっている。既設高架部・スロープ部・地上部で少しづつ違った工程になる。既設高架についていえば、最初に線増の工事が北側で行われるだけである。スロープ部では、最初に北側(線増部)仮線スロープ工事・南側在来スロープ除去・南側高架橋・北側仮線スロープ除去・北側高架橋である。実際にこの順序であるかはっきりしないが、梅丘の複線との接続部にあるような全幅にわたる事業地が仮線も含めて必要である。中村敦夫議員の質問に対する森総理大臣の回答書(甲166号証およびそこから作成した甲255号証)は、全体として前回陳述に明らかにした「乙部(一般には南側)での高架工事先行」を示しているが、スロープ部については、両側での複雑な工事になっている。藤山判決の言う「渾然一体」である。どちらもあきらかに甲部のみの事業とは言えない。したがって、藤山判決が指摘したとおり、申請した事業地の表示には誤りがある。

 

3.地下/高架の比較検討の経過は「下北隠し」で藪の中

 

 この事業のための調査は昭和62年/63年の2年にわたって、連続立体化調査要綱(以下本件要綱)の定めに従って参加人によって行われた。1/3国庫補助であるから被告も十分知りうる立場にある。その結果が一審弁論終結間際になって参加した東京都が提出した証拠「小田急線連続立体事業調査報告書」である(丙1号証、抜粋が甲256号証の2)。この報告書は、地下化を要求する人々の情報公開請求裁判の和解勧告によって、平成6年3月に一部公開された。しかしながら、下北沢に関する部分・道路計画に関する部分などについては「都市計画が決定されていない」ことなどを理由に黒塗りされていた(甲6号証の1、抜粋が甲256号証の1)。

 

 この、「事業調査」の後に平成5年の決定までにおこなわれた操作の経過は全く闇に包まれている上、代替案比較の手順が「地形的」「計画的」「事業的」とする全く恣意的なものであるのに対し、「事業調査」の手順は明文化された本件要綱による環境を含めた5条件比較であるだけに、藤山判決の指摘するいくつかの前提条件の誤りを除去して、同じ手順で、同じ基準で比較すれば、全線地下化の結果が導かれるのではないかと考えて詳細に検討した。しかし、いかなる結果も得られなかった。その理由は、黒塗りしていない「事業調査」のなかにも大変な情報操作が加えられており、力石意見書が要求した「専門家の検討に耐える資料」(甲21号証の1の3頁)には程遠いことがわかったのである。

 

 最初に、「少なくとも鉄道計画の比較が公開でできるように」とした和解条件に反する過剰な黒塗りに対してこの場を借りて抗議する。検閲が正当に行われているかどうか、検閲された方では判断の手段がない。それをいいことに、鉄道計画の比較には絶対に必要な見積もり基礎数字や当然公開されてもいい寸法などをめったやたらに隠して、代替案を提案したわれわれの要求を正面から受けて立たなかったのは、「中味が腐っていたからだ」と考える。

 

 事業調査報告書は6章からなる。ここでは、そのうちの「4.鉄道・側道等の設計」だけについて取りあげる。「5.関連事業」、「6.総合アセスメント」も重要な内容を含むが、関連事業については「連立事業の手引き」などで重要度を指摘され、本体事業との同時進行が言われながら、今回は見事に隠しおおされていること、総合アセスメントについてはより充実した環境影響調査がこのあとでおこなわれていることがその理由である。

 

 4章はさらに4つに分かれている。4.1測量調査・4.2土質調査・4.3連立計画・4.4単立計画である。比重は殆ど4.3にかかっている。4.3は設計条件・基本設計・概略設計の3段階である。最初に条件を示し、条件に合致した代替案をいくつか選定し、それらについて基本設計を行って環境を含む5条件で評価し、評価にパスしたものについて概略設計をおこなうというのが本件調査要項の求めるところである。

 

 4線並列・環8高架温存などの藤山判決の指摘した「理由のわからない」条件を示したあとで、

環7の東側のA地区についてA1地表、A2高架、A3地下の3案

 環7・環8間のB地区についてB1梅丘から高架、B2豪徳寺から高架

                                    B3経堂から高架、B2千歳船橋から高架の4案

 環8以西のC地区について C1地表、C2掘割

を選定し、それらについて基本設計を行い、評価したところ

A3(下北沢など地下)、B1(経堂など高架)、C2(成城掘割)

という結果になった。これは、我々の意見(全線地下)とは違うが、東京都も小田急も当然予測したというよりは、目的が実現した結果であろう。現実の推移である後年の下北沢地下化の決定もこれを示している。

 

 しかし、下北沢地区と成城地区を地下に,中間の経堂地区を高架にという結論が、市民から素直に受け入れられず、プロジェクト全体が立ち往生してしまうことは目に見えていた。比較設計の結果(A3、B1、C2)と市民の意思との乖離の原因は、市民のわがままにあるのではなく、調査の前提にある「理由のわからない」条件にあるのであるから、そちらの条件を変えて,比較設計をやり直すのが正しいやり方であった。

 

 ところが、実際には「経堂などの地区を高架にしなければならない」という超法規的な意思がすべてに優先した。A地区下北沢について「もっと理由のわからない難癖」をつけて今回の事業区間から外してしまい、「A地区は地表のままで」という、前提を立てることによって,B地区高架の結論を正当化しようとしたのである。そのために、できあがった報告書はずたずたにされ部分的に書き直され全く筋の通らないものになってしまった。

 

 調査報告書の186頁から295頁までのほぼ100頁の間に、標題の番号がつじつまの合わないものところが14箇所にも達し、もとの構成を想像するのも困難なほどになってしまっている。頁数だけは通しで打ってあり乱丁/落丁でないだけに始末が悪い。

 

「下北沢地区には,どの案にしても解決できない難問が2つあり、これのために保留にする」というのが表向きの理由である。ひとつは、補助26号/補助54号がどうなるかわからないから総合的に検討する必要がある、もうひとつは代々木上原以東の将来輸送計画の取り扱いというものである。2年かけて実施した調査費用の1/3を無駄にする理由としては全く想像もつかないほどばかげたものである。この2つの問題について調査の途中にとんでもないアクシデントがあったのならともかく、調査を始める前から分かっていた問題であり、極めてできの悪いいいわけである。

 全体に筋の通った検討をして,最後に下北沢地区は保留とするならまだいいが、駅の計画図は267ページから272ページの6枚だけでありA地区の3枚は隠されている。4.3.3概略設計の冒頭にはA地区地下案は健在であるが、工事手順などは代々木上原の切り替え手順だけは詳しいが、「あとはおぼろ」で最後の駅計画では完全に消えてしまう。

 244ページには工事費単価が示されているが、駅の建築費については単価ではなくて概算の金額がそのまま示されている。ところが、経堂については,地平・高架・地下共通に12億円という数字が示されている。こうした数字は実計算例がいくつかあれば、それらの対比によって、何が含まれており,何が含まれていないのかおのずと明らかになるのであるが、このように政治的な意図によってずたずたにされた文書にある数字が、単純な掛け算と足し算でできているわけがない。

 

 出てきた数字に「鼻の油をちょいとつけて」の塊であるらしく、簡単には、整合性が見いだせない。力石意見書の地下工事費の算出は、東京都交通局の君島光夫氏が「鉄道界」に載せた数字を基礎単価に使っており、それを使ったことを明らかにしている。そのため、土木学会の小田急検証プロジェクトで事業費の再計算を試みた大深度地下の専門家梨本幸男氏は、同じ基礎単価を使って、地下について1903.5億という試算を示している(甲240号証)。これは力石提言の1952億と殆ど等しい数字であり、東京都の3000億とはかけ離れている。梨本氏は東京都の3000億について「根拠不明」としている。私は丙1号証の単価を使えば3000億が出てくるかと努力したが、現在のところ、梨本氏に同意して「根拠不明」とするしかない。

 

 積上げでなく、キロ数比較で議論する方法もある。最近の小田急のホームページによれば、本件より、恐らく10年以上前に計画されたであろう半蔵門線や都営新宿線の実績費用を引用して工事費を複線ではキロ200億以上と仮定し,複々線では倍だから400億以上として、かつての東京都の建設費2600億説を擁護している。この時期の日本におけるシールドトンネルの普及は10年の誤差を許容しない。計算時期を10年さかのぼらせ、6つの駅のある緩行と1つしか止まらない急行とを区別しないで2倍に置く計算は、逆に2600億の疑わしさを証明するものである。

 

 もっとひどい話もある。この事業を審議決定した都市計画審議会で議論をリードした某幹事は、「地下鉄は道路の下でも、複線でキロ300億かかる。複々線ならその倍。鉄道の下ならもっと割増」として、根拠を示して提案している力石提言の数字を「全く架空のもの」と印象付けて強引に多数決に持ち込んだ(丙33号証)。恐らく、今読んだら顔から火が出るのではないだろうか。この幹事の数字の根拠は「半蔵門線とか南北線とか12号線とかいろいろございますが」といっている。いずれにしても、既に開業している区間の実績数字・実績技術でしか新しいプロジェクトを評価できないようでは、技術者としても・経営者としても・勿論役人としても失格である。住民や我々専門家から指摘されながら嘘を承知で誘導したのなら犯罪的行為である。

以 上