第一審原告(住民側)最終準備書面その1


第一 はじめに

 本件控訴審は、事実をみるものと、これにことさら目をつぶり、ためにする虚構を捏造しようとするものとの闘いであった。

 テーマは、兆の単位の、我が国最大の公共事業である連続立体交差事業(施設、以下「連立事業」という)をめぐるものであり、21世紀の日本はもとより世界の進路を左右する歴史的なものである。しかしこの大きなテーマをめぐる争いがこのようなものである限り、その勝敗は自ずから明らかであろう。

 どんなに隠しても、昔から言われている通り、事実は自ずから現れる。ためにする虚構を捏造しようとするものは、厳然と存在する事実そのものによってついえ去る。本件控訴審は、まさにこの通りの展開となった。

 今や官側の主張が事実そのものにより完全に壊滅したことは明白であり、贅言を要しない。ただ約2年の審理を終えるにあたり、大切なところをいくつか振り返ることは無意味なことではないと考え、若干述べることとする。

 官側の主張の特徴は、本件事業認可の対象となった都市計画事業としての連立事業、その前提となった平成5年の都市計画決定(変更決定、以下「決定」という)の適否を論ずるのではなく、これを回避するために、専ら原告適格、司法審査の限界等、入口の形式論、さらには「都市計画の特定」と称して、本件審査対象は決定ではなく「変更」前の1964(昭和39)年の「都市計画決定」(以下「39年決定」という)であるとしたことである。今から約40年も前の都市計画決定の適否を論ずるべきだというのである。生成、発展、変化する動態というべき都市を対象とする都市計画および現行の都市計画法(以下「新法」という)、旧都市計画法(大正8年制定、以下「旧法」という)の理念、趣旨から考えただけでも、かかる主張は論外である。これは置くとして、大切なのは以下の二点である。

 第一に、決定の適否を論ずることを明確に回避していることである。これすなわち決定およびこれを前提とする本件都市計画事業認可の違法を認めたに等しい。

 第二に、平成11年判決の権威を笠にきて、更にこれを拡張解釈して、あたかも39年決定が審査の対象となり得るものであるかのように、まさにためにする「虚構」を作出したことである。そもそも三百代言に等しい形式論にすがること自体、論争において敗北であることは言をまたない。

 だがのみならず、そのためにあえて「虚構」を作出することは、厳然たる事実そのものによって粉砕される致命傷である。これは正しい論争を知るものの初歩的常識であろう。

 そしてまさにこの「虚構」はその通りとなったのである。あとでまた触れることになるが、39年決定は旧法の下における決定であって、新法の要求する収用すべき区域や都市施設の構造等を全く特定していない決定であること、小田急の複々線に関するものではなく、地下高速鉄道(地下鉄)9号線のルート決定に過ぎないことが当時の都市交通審議会の答申、都市計画審議会の議事録や図面等、直接の公文書等によって明確に判明した。

 区域、構造等が特定されておらず、複々線でもなく、小田急の計画でもないものが建運協定(昭和44年9月)による連立事業の決定ではないことは別論としても、新法における審査の対象となり得ないことは、法を普通に理解する者はもとより、一般市民にも直ちに分かることである。

 39年決定があたかも小田急の高架複々線の都市計画決定であるかのように述べるのは虚言も極まったといわなければならない。まさに官側はこの点においてすでに明白な歴史的事実により致命傷を負ったのである。厚顔無恥はもとより、無知に通ずるものであるから、憐憫を禁じ得ない。しかし、これは一介の市井の人間がついた嘘ではない。権力を現に行使しているものの行為である。哀れんですむような問題ではない。追い詰められる程嘘を重ねるのもまた官の犯罪の常套手段であり、現に道路公団の藤井某がかかる挙に出ているのであるから、その責任は徹底的に追及されなければならないであろう。

 一事が万事というが、この虚構こそそうだといわなければならない。本件連立事業は計画の段階から、ためにする虚構でぬり固められてきたのである。以上は本件控訴審において充分すぎる程証明されていると確信する。ただ裁判所の審理、判決に資するため、主な論点に係る弁論を整理するとともに、若干の補論を行う。

 なお、本件の論点の全てについて、第1審原告準備書面(1)、(2)、(4)その1、同その2において包括的に論じており、かつ、都市計画の特定を含む実体上の論点について、甲第270号証・小田急市民専門家会議の意見書が詳説していることを指摘しておく。

また、本件の論点の基本的な部分は、第1審における原告準備書面(17)(公益、私益を統一して把握することが民主主義の根幹であり、全逓中郵事件最高裁大法廷判決等で確立した判例となっていることを前提に、原告適格、都市計画法の趣旨、目的等を論じたもので、奥平意見書、原田意見書と基本を共にするものである。)および最終準備書面で論じられており、原判決はまさにこれに応えたものであることを付言する。

 

 これより第1審原告、第1審被告をそれぞれ単に「原告」「被告」という。また、準備書面を「書面」、準備書面兼証拠説明書を「書面説明書」、証拠説明書を「説明書」という。

 

第二 平成11年判決の評価

1.違憲性

 奥平(甲第260号証)、原田(甲第211号証の2)、大塚(甲際263号証)各意見書、2002年12月10日付書面説明書「第一、虚偽を明白にした新資料塩野メモ等と控訴人らの責任」および2003年9月4日付原告書面説明書「第三 憲法上の論点」等の通り。

2.判例違反

 原田、阿部(甲第216号証の1)、小早川(甲第248号証)各意見書、および上記書面説明書等の通り。

3.都市計画法の法令違反(解釈の誤り)

 原田意見書、および上記書面説明書等の通り。

 

なお、以上について補論する(補論1)。

(1) はじめに

 本件は、我が国最大の公共事業というべき連続立体事業(施設)の都市計画事業認可の適否をめぐるものである。従って、その争点は多岐にわたっているのみならず、複雑かつ重層的に交錯している。原判決は、これらを遺漏なく整理し、それぞれの争点について、最良の証拠を掲げて結論を導き出したというものであり、これまで公にされた論評によれば、憲法が掲げている「法の支配」を司法が具現した歴史的なものとして高く評価されている。

 私も、そのような評価に賛同するものであるが、画竜点睛を欠くというべき部分もある。

 その部分とは、原判決が最高裁平成11年11月25日第一小法廷判決・判例時報1698号66頁(以下「平成11年判決」という。)に依拠した原告適格の点である。

 この点については、既に原田意見書、阿部意見書、小早川意見書、奥平意見書で的確な意見が述べられていて、その誤りが明らかになっている。しかし、この平成11年判決は看過出来ない重大なものをなおはらんでいるので以下意見を述べる。

(2) 大阪国際空港訴訟大法廷判決及び厚木基地第一次訴訟上告審判決について

 平成11年判決の問題性に入る前に、国と住民との間で環境をめぐって争われた事件についてみることとする。

@ その一つは、大阪国際空港訴訟大法廷判決(最高裁昭和56年12月16日大法廷判決・民集35巻10号1369頁)であるが、その中で、伊藤正己裁判官は、概要以下のような補足意見を述べた。

 国営空港の供用行為は、これを個々的に分解すれば、一般第三者に対する関係においても公権力の行使に当たる行為としての性格を有するものあるいはそのような性格を有しないものなど様々であるが、全体としては、これらを航空行政権の行使によって支えられそれを基礎とする複合的な行政作用とみるべきである。

 航空法が、国営空港の設置又はその変更にあたっては、運輸大臣が航空行政権の行使として飛行場の位置及び範囲等を定めてその設置決定をすべきものとし、公営ないし私営の公共用飛行場に関しても、その設置又は休止若しくは廃止あるいは管理規程の制定又は変更につき運輸大臣の許可又は認可を必要としている趣旨に照らすとき、本件空港について…供用停止の措置をとることは、本件空港の総合的な供用行為の基盤である運輸大臣の航空行政に直接かかわるものであるといわなければならない。

 そうすると、被上告人らの請求は、私法上の形式をとっているとはいえ、同時に又はその実質においては、運輸大臣の航空行政権の行使によって支えられ、それを基盤として存立している本件空港の供用行為の差止めを求めるに帰着し、結局、運輸大臣の航空行政権の行使に関する不服を内容とするものであると解するのが相当である。

 そして、本件空港の管理権の行使が運輸大臣の航空行政権を基盤とする総合的な空港供用行為と密接不可分の関係にあることにかんがみ、被上告人らと上告人との間の本件空港の供用差止めに関する紛争は、本件空港に関する右のような総合的な供用行為の適法性を争う訴訟において、公共の利益の維持と私人の権利利益との調和を図るという観点からこれを審理判断するのでなければ、根本的な解決をみることはできないというべきである。

 したがって、このような争訟は、本件空港の設置等につき運輸大臣がした前記のような個々の行政処分の取消訴訟によるか、あるいは、争訟手続上は本件空港の供用行為そのものを全体として公権力の行使に当たる行為として把握し、それに対する不服を内容とする抗告訴訟によるべきものと解するのが相当である。

 以上が、伊藤意見の内容である。以下、考察を加える。

 まず伊藤意見について、学説は「公共の利益の維持と私人の権利利益との調和を図る」という観点から、行政訴訟の新しい役割を示唆した見解として評価する意見がある一方で、具体的な行政訴訟の許容性に言及せずに、民事訴訟を否定する根拠に使われており、(無責任な)リップサービスにすぎないとの批判がある。しかし、大阪空港大法廷判決に対する調査官解説は、これを単なるリップサービスではなく、行政訴訟の方法による救済手段の可能性を示唆したもの(岩渕正紀・平成元最判民解29頁)と高く評価しており、伊藤意見は、法廷意見の示唆する行政訴訟のひとつのあり方を示すものと解することができる。

A 実際、その後の最高裁は、法廷意見および伊藤意見の見解にそって、徐々に判例理論の修正を行ってきたということができる。すなわち、新潟空港訴訟上告審判決(最高裁平成元年2月17日第二小法廷判決・民集43巻2号56頁)および厚木基地第一次訴訟上告審判決(最高裁平成5年2月25日第一小法廷判決・判例時報1456号32頁)がそれである。新潟空港訴訟上告審判決については、阿部意見書に詳しいので、ここでは、後者の厚木基地第一次訴訟上告審判決を取り上げる。同判決は、自衛隊機の発着の差止を求める原告らの訴えに対し、以下のように判示した。

「防衛庁長官は、自衛隊に課せられた我が国の防衛等の任務の遂行のため自衛隊機の運航を統括し、その航行の安全及び航行に起因する障害の防止を図るため必要な規制を行う権限を有するものとされているのであって、自衛隊機の運航は、このような防衛庁長官の権限の下において行われるものである。そして、自衛隊機の運航にはその性質上必然的に騒音等の発生を伴うものであり、防衛庁長官は、右騒音等による周辺住民への影響にも配慮して自衛隊機の運航を規制し、統括すべきものである。しかし、自衛隊機の運航に伴う騒音等の影響は飛行場周辺に広く及ぶことが不可避であるから、自衛隊機の運航に関する防衛庁長官の権限の行使は、その運航に必然的に伴う騒音等について周辺住民の受忍を義務づけるものといわなければならない。そうすると、右権限の行使は、右騒音等により影響を受ける周辺住民との関係において、公権力の行使に当たる行為というべきである。」

 この小法廷判決の最大の特色は、批判の多い「航空行政権」論や不可分一体論をとらず、自衛隊機の運航に関する防衛庁長官の権限行使を、周辺住民との関係で端的に「公権力の行使」と認定したことである。

 すなわち、「自衛隊機の運航に関する防衛庁長官の権限の行使は、その運航に必然的に伴う騒音等について周辺住民の受忍を義務づけるもの」という論理によって、「行政訴訟としてどのような要件の下にどのような請求をすることができるかはともかくとして」という留保付きではあるが、空港周辺の住民に原告適格を肯定することを示す一方で、民事上の差止請求を不適法としたものである。

 かかる論旨については、自衛隊機の運航に関する防衛庁長官の権限の行使を公権力の行使として捉えるとしても、その法的効果として周辺住民に騒音等についての受忍義務を生じさせるということは、大阪国際空港訴訟大法廷判決において、中村治郎裁判官の少数意見が指摘する通り、権力関係を安易に措定し、行政法の旧く悪しき体質が残存していると言わざるを得ない。

 しかし、厚木基地第一次訴訟上告審判決を善解すれば、この判決は、こうした批判を十分に承知のうえで、防衛庁長官の権限行使に伴う騒音等の受忍義務の人的範囲を拡大し、抗告訴訟を提起する際の障害を取り除いたともいいうるのであって、その意味では、新潟空港訴訟上告審判決と同様に、原告適格を積極的に拡大するための理論を提示したと評価することが出来るのである。

 現にこの判決の補足意見(橋元裁判官、味村裁判官同調)は、法廷意見を論拠として、「自衛隊機の運航により一定限度以上の被害を受けることがないという周辺住民の利益は、法律上の利益というべきであるから、右の利益を有する周辺住民は、自衛隊機の運航に関する権限の行使の適法性を争って行政訴訟を提起する原告適格ないし訴えの利益を有するものと解すべきである」ときわめて明快に、自衛隊機の運航に関する権限行使の適法性を争う行政訴訟の原告適格ないし訴えの利益を肯定しているのである。この補足意見の大切なところは、住民との権力関係の存在を認めたところではなく、「一定限度以上の被害を受けることがないという住民の利益は法律上の利益がある」としているところである。

 厚木基地第一次訴訟上告審判決については、原則に立ち返り民事差止訴訟を認めるべきであると反発する学説がある中で、元最高裁判事の園部逸夫氏は、この判決を、従来の議論とはまったく別の観点から、「行政行為の司法統制という制度のもとで行政法の構造を根本的に変革していくという流れのなかで理解しないと、従来の行政法理論では説明がむずかしい」(「行政争訟講話〔第13回〕」法学教室104号77頁)と位置付ける。この主張のねらいは、おそらく取消訴訟を公定力排除訴訟と解する従来の考えを排し、公益と私益の高次元での調整が必要な紛争の処理は、取消訴訟を中心とする行政訴訟体系に一元化していこうというものであろうとの指摘(原田尚彦「行政判例の役割」96頁参照)と軌を一にするものであろう。公益に反する違法、すなわち公法上違法な行為により、私法上の利益(債権等)を侵害される者に抗告訴訟の原告適格を認め、私益を媒介として公益を実現してい

くということである。奥平意見書は、その意義を“private Attorney Generals”というキーワードで、見事に説いておられる。

 現時点で、最高裁が自ら示した新しい行政訴訟の方向を先導的に切り開く決意をどの程度固めているかは定かではないが、こうした最高裁の試みは、具体的な判決の積み重ねを前提に、積極的に評価される必要があるのである。

(3) 平成11年判決の原告適格について

@ 判例違反

 平成11年判決は、東京都の都市計画法59条2項に基づく環状6号線道路の拡幅事業の認可申請及び首都道路公団の同条3項に基づく自動車専用道路地下新設事業の承認申請に対し、建設大臣が平成3年3月にそれぞれした認可、承認の取消しを住民が求めたものであり、最高裁は、事業地内の不動産につき権利を有しない者の原告適格を否定した。

 そこで、平成11年判決と、大阪国際空港訴訟、厚木基地訴訟の事案とを比較すると、3件の事案は、いずれも、公的な施設の周辺住民が当該施設から生じる騒音等による健康被害の防止を求める訴訟であり、国道43号線訴訟上告審判決(最高裁平成7年7月7日第二小法廷判決・最高裁判所民事判例集49巻7号2599頁)の判示によれば、認容されるかどうかはともかく、民事差止訴訟の提起が可能な事例であった。しかし、民事差止訴訟の提起が可能といっても、判例の解釈の現状は、ほとんど被害にのみ、しかも原子力発電所の事故など、まさに回復不能な極度の被害に着目しているに過ぎない。このことは、この判決自体、国道43号線等2本の道路に1日18万台以上(1秒に2台以上、西宮)ひっきりなしに車が走行するという誰が見ても極めて異常かつ深刻な沿道住民の被害を単なる「生活妨害」としてしかみていないところに明確に表現されている。

 本件の別件における裁判所所見の以下の解釈、および直近の本年9月29日言い渡された東京高等裁判所平成13年(ネ)第2435号等実験差止請求事件控訴審判決(これはある意味で原子力発電所と同等の危険を有する伝染病の病原体の培養、感染等の実験にかかる事案である。)はその典型である。「本件事業が原告らの指摘する理由から行政法規上違法であることが立証されたとしても、事業認可取消訴訟その他の行政訴訟とは異なり、原告らの人格権又は環境権の侵害を何ら肯認し得るものではなく、また、本件事業が原告らの指摘する理由から行政法規上違法であることが立証されなかったとしても、高架方式の一定の危険性が立証されたときは、原告らの人格権又は環境権の侵害を肯認し得るものであるから、本件事業が原告らの指摘する理由から行政法規上違法であるか否かは、原告らの本件請求の帰趨に何ら関係がないといわざるを得ない」(東京地方裁判所平成7年(ワ)第2541号小田急線連続立体交差事業工事差止請求事件、甲第263号証の1・大塚直意見書2頁)、「問題とすべきものは…病原体等が漏出等し、あるいはその可能性があり、そのために周辺地域に居住している控訴人らの生命、身体‥‥現に侵害され、または侵害される具体的危険が存在するかどうかである」(傍点部筆者)。

 公益に反する公法上違法な行政作用によって、私法上の利益を侵害される国民はそれが「生活妨害」にとどまるものであっても「受忍」しなければならない合理的な理由は何もない。重大な違法であればなおさらである。しかし、今のところ民事の差止めによる限り、この被害の回復も公法上の違法も排除することは事実上不可能である。一方、被害の有無にかかわらず公益に反する違法な行政作用をただすべき客観訴訟たる住民訴訟の対象は、地方自治体の長等の財務会計上の行為に法律上限定され、さらにその違法性についての当該職員の認識可能性など多くのしぼりが判例上存在するうえに、国の行政作用にはおよそ及ばない。

 そうすると、空港、基地、道路など、広く環境公害問題を発生させる原因行為がもたらす利益(公共の利益)と、それによって生じる被害の程度(私人の権利利益)を高次元で調整するためには、抗告訴訟による他はないということになる。そうであるからこそ、上記2でみたように、最高裁は、大阪国際空港訴訟大法廷判決及び厚木基地第一次訴訟上告審判決において、その論理構成は異なるとしても、環境公害問題を発生させる原因行為がもたらす利益とそれによって生じる被害の調整を高次元で行い得るものとして、行政訴訟の方法を示唆したのであると善解すべきであろう。

 しかるに、平成11年判決は、こうした判例の流れに目をつむり、関連する法律をすべて個別規定に分解し、それが個々人の個別的利益を保護しているかどうかを微視的に詮索するという一昔前の悪しきモデルを復活させ、判例・学説の発展を大阪空港訴訟以前に引き戻したものといわざるを得ない。

 そうすると、この判決の論旨によれば、平成11年判決の調査官解説が指摘するように、「沿道ないし周辺の土地は、道路建設に伴う騒音や供用開始後に排気ガス等による環境変改等の影響が及ぶ可能性のある土地」であることは明らかであるから、道路拡幅事業等の認可処分は、これら住民の「法律上の利益」を害するおそれのあることも明らかであり、当然原告適格が認められるということになる。また、阿部意見書が詳論する通り、同判決が都市計画法に係る判決で、空港や道路とは違うのだという被告のような非常識な議論には、まさに都市計画法の判例である川崎がけ崩れ判決(最高裁平成9年1月28日第三小法廷判決・判例時報1592号34頁)を挙げるだけで充分であろう。

 以上から、平成11年判決は、同小法廷が先に下した厚木基地第一次訴訟上告審判決に明らかに矛盾し、さらに大阪空港訴訟大法廷判決の法廷意見を敷衍した伊藤裁判官の補足意見のみならず、その後の新潟空港訴訟上告審判決、川崎がけ崩れ訴訟上告審判決の法廷意見にも明らかに違反するというべきである。

 したがって、平成11年判決は、従来の最高裁判決の変更であって、裁判所10条3号により、本来、大法廷で審理されるべきものであったといわなければならず、この点において同判決は同条同号に反する著しく違法なものといわざるを得ない。

A 憲法違反

 さらに、憲法第32条に規定する裁判を受ける権利との関連でみると、裁判を受ける権利の空洞化すなわち憲法解釈の悪しき変更とみることができる。 すなわち、大阪国際空港訴訟大法廷判決は運輸大臣の空港管理権と航空行政権の不可分性を根拠に、厚木基地第一次訴訟上告審判決は防衛庁長官の自衛隊機の運行に関する権限の公権力性を根拠に、ともに民事上の差止めは不適法としつつ、どのような要件の下にどのような請求をすることができるかはともかくとしてとの留保を付しながらではあっても、行政訴訟に言及しており、その限りで、飛行機の離発着により深刻な被害を被っている住民は、その被害の回復を図るため行政訴訟の方法により裁判所にその救済を求め得る途があるといえよう。

 つまり、大阪国際空港訴訟大法廷判決及び厚木基地第一次訴訟上告審判決、これらを@で述べた通り合憲的に解釈しようとすれば、近隣住民には、少なくとも行政訴訟による憲法第32条の裁判を受ける権利の行使の途を閉ざしてはいない。ところが、平成11年判決は、大阪国際空港訴訟大法廷判決及び厚木基地第一次訴訟上告審判決と同様に、公的な施設の周辺住民が当該施設から生ずる騒音等による健康被害の防止を求める事案であるのに、原告適格を否定し、行政訴訟の方法による救済の途を遮断した。このことが、その本質において、単に憲法第32条のみならず、憲法の基本に反するものであることは奥平意見書の通りである。

(4) 平成11年判決のその余の問題点について

 以上で本稿の主要な目的は達したものと思うが、平成11年判決には都市計画事業の違法性判断の基準時に関する論点も含まれていて、控訴人がその判示を有利に援用しているので、この点についても触れることとする。

 平成11年判決は「旧法の下において決定された環状6号線整備計画は、その後に定められた公害防止計画に適合するか否かにかかわらず、現行法下においても、そのまま適法、有効な都市計画とみなされる。」としている。確かに、都市計画法施行法2条が、旧都市計画を適法、有効に決定されたものとして扱っている以上、旧法のもとで決定された都市計画は、形式的には適法・有効であり、都市計画が直ちに違法ないし無効になることはない。しかしながら、旧法のもとで策定された都市計画(旧都市計画)が適法・有効であるということから、都市計画が旧都市計画のままでよいということにはならない。そもそも、都市計画のような行政計画は、具体的な状況に応じ、最適の政策を実現するために策定されるのであり、社会的、経済的、法的状況の変化、地域の発展状況、人々の価値観の変化などを踏まえて、絶えず見直されるべきものであるからである。その点は、都市計画法(第6条、13条、21条等)に明文の定めがあるところである。

 また、公害防止計画は、特定の地域について、現環境基本法に基づき作成を義務づけられた実定法上のものであり、都市計画法よりも上位の法に法的根拠を有する。したがって、公害防止計画が策定された場合は、本来、旧都市計画を変更してそれに適合すべきものであるが、旧都市計画が変更されない場合には、その時点においてその都市計画は違法、無効となるといわなければならない。ところが、同判決はこの肝心なところを次のようにはぐらかして、言い抜けようとしている。「適法に行われた都市計画の決定は、例えその後の社会情勢等の変化によって都市計画の変更をすることが相当となったからといって、遡って違法となるものではなく、また都市計画の変更の決定が、原告らの主張するような公害防止計画との適合性の見地からは行われなかったからといって、その変更の決定が違法となるものでもない」。都市計画決定が公害防止計画に適合しない、すなわち実定法に明確に反する事態となったときに、その都市計画決定の効力はどうなるかが問われているのに、それに対する回答を全くしていない。

 環状第6号線のごとき都市部における道路建設においては、沿道公害の防止と周辺住民の健康維持が本来最も重視されるべき要素であるから、公害防止計画に適合しない都市計画決定はその時点から違法、無効であることはいうまでもない。誰も遡って違法となるとはいっていないのである。さらにこのような都市計画を変更する場合「変更の決定が‥‥公害防止計画との適合性の見地から行われなかったからといって違法となるものではない。」という文脈は、前者との論理的脈絡が全くない。ただ、その時点の実定法に反する変更でも許されると何の論拠も示さず強弁しているだけである。三百代言の理と言われても仕方がないであろう。従って、これを前提にする都市計画事業認可はもとより無効となる。これを前述の通り問題をすり替えた上で事業認可を適法としたことは、単なる都市計画法の解釈の誤りにとどまるものではない。最高裁判所の判決にあってはならないことである。

 

第三 本案前の論点

1.原告適格

(1) 総論

 奥平、原田、阿部、芝池(甲第216号証の2)、小早川各意見書の通り。

(2) 各論

 奥平、原田、阿部各意見書の通り。

また、以上について上記書面等を加えるが、なお補論する。

(3) 補論2・側道に係る平成11年判決の拡張解釈と事業地論

@ 被告は、本件高架鉄道の事業認可と側道(付属街路事業)の認可とは別個になされているから、これらは別々の2つの事業であるといいたいようである(被告準備書面(2)8頁以下)。

 しかし、付属街路事業と称する側道は、何の事業の付属街路事業なのか。

 被告は、少なくとも道路と鉄道の複合都市施設を施行する本件事業の厳然たる存在を否定しようとするところから議論を始めているから、こう問うこと自体論外なのであるが、これはさておき、付属事業である以上、本体事業が存在する筈であり、それが本件高架鉄道建設事業であることは、よもや否定することは出来まい。その主従の関係はこの事業の性格によって決せられるのであり、それは取りも直さず本体たる事業によって決せられるのである。

 本件鉄道事業が高架式鉄道事業であるから、付属施設として側道が存在するのである。地下式鉄道であれば、その必要はないものであることは過言するまでもない。かかる主従一体のものを、あたかも別の独立した事業のようにいうのは笑止としかいいようがない。理由は後述する通りであるが、高架鉄道に必要不可欠なものとして「側道」が存在する。すなわち、「側道」は文字通り高架鉄道事業の一部なのであり、これから独立したものではない。

 事業の法的性格は、認可の数によって決まるものではない。そもそも認可が何故別々、細切れにされているのか、被告は明確にすべきである。この由縁を何ら述べずに認可の数が違うというのは、まさに幻の形式論といわざるを得ないであろう。

A ただひとつ、被告は「側道」が高架鉄道と区別される理由があるかのように論じている部分がある。

「都市計画法上、高架鉄道事業を行う場合に必ず付属街路事業を行うべきことを義務付けた規定はないから、両事業が同時に行われることがあり得るというのは‥‥事実上の問題にすぎない。」(同書9頁以下。傍点筆者)

 だがこれほど法と都市施設についての無知をさらけ出しているものはない。法には鉄道の定義、機能、構造等、何ひとつ具体的に規定されてはいない。これは、都市施設の内容は鉄道関係法令によって特定されるものであり、これは建設省の教科書にすら書いてある常識の初歩である。

 高架鉄道においては、建築基準法、環境実定法令により、日照、騒音等、鉄道公害を防止することが明確に求められており、このための環境空間こそ「側道」であって、付属街路なるものは全く便宜的な名称にすぎないことをこれまた旧建設省の教科書(乙第1号証および甲第220号証の2・連続立体交差事業の手引き、甲第220号証の1・道路実務講座2「街路の計画と設計」)が明文で指摘している。

 規定がないというのも無知の限りであるし、だから法律上の関係がないとまでいうのは、無恥そのものという他はない。

B 従って「側道」の地権者に高架鉄道の認可を争う適格はないとする被告の主張は、第二で詳細に述べた違憲、違法の平成11年判決すら言及していないもので、ためにする悪質な拡張解釈である。

 

2.都市計画の特定

 原田意見書「第二(本件における)審理対象・・平成5年都市計画決定の意義と性格」において総括的に述べられているが、各論点については以下の通り。

(1) 総論

 2002年7月23日付書面(2)の通り。

(2) 各論

 次の各書面の通りである。

@ 2003年8月26日付書面説明書

A 2003年8月28日付「平成15年8月27日付第1審被告『人証申請に対する意見書』に対する反論」と題する書面

 なお「はじめに」で述べた通り、39年決定が司法審査の対象たり得ない地下鉄のルート決定に過ぎないことは、甲第270号証・小田急市民専門家会議意見書の「第2 事業認可の前提となる都市計画の特定」およびこの補論である甲第271号証・須田大春陳述書(その3)の通りである。

3.裁量統制

奥平、原田、芝池各意見書、塩野ヒアリングメモ(甲211号証の1のイ)の通りであるが、以下補論する。

・補論3・内部規範と建運協定

 建運協定、調査要綱が内部規範であることまでは、被告の自認するところである。本件事業が、都市計画事業である連立事業のうちの線増連立事業であることも同様である。連立事業は建運協定、調査要綱による調査に基づき都市計画案が作成され、これが建設大臣の認可(決定当時)等、都市計画法所定の手続、環境影響評価条例等の手続を経て、都市計画決定がなされ、都市計画事業として認可されることもまた同様である。

 してみれば、建運協定、調査要綱は建築制限等、法の効力を生ずる都市計画決定の時点、あるいは遅くとも都市計画事業認可の時点において、国民の具体的な権利、義務に直接影響を及ぼす、言い換えれば、規範的効力を明確に有する典型的な行政処分となる。そうであれば、建運協定や調査要綱が内部規範であるかどうかを論ずることは、ほとんど無意味なことである。内部規範であっても、教科書検定処分や教員の勤務評定の基準となる学習指導要領のように対外的に規範的効力を生ずるものはいくらでもある。

 だが、これはさておき、「内部規範であっても、これに違反すれば、合理的理由の無いかぎり裁判規範となる」ことは、芝池意見書等が指摘している通り判例、通説といってよい。被告、参加人らは、合理的理由どころか、ためにする目的で、計画の頭初から建運協定、調査要綱に明確に反して本件事業を遂行してきたことは、原判決も明確かつ詳細に認定しているし、我々も充分論じてきた。ところが、被告はその準備書面(2)においては、建運協定、調査要綱は内部規範であるから何の規範性もない、といいながらも、これらの存在そのものは認めていた。しかしその後の弁論においては、建運協定、調査要綱の言葉すら出てこない。最終準備書面においてもおそらくそうではあるまいか。本件事業は建運協定すなわち連立事業と何の関わりも持たない、と言いたいのであろう。しかしこのこと自体、被告の主張が崩れ去ったことを意味しているのである。

 

第四 本案の論点

1.連立事業の意義と本質

(1) 連立事業(施設)の法的位置と構造(建運協定、調査要綱等)

次の各書面の通り。

@ 2002年7月23日書面・「第三、判断過程、判断内容の著しい過誤 ・・行政裁量の著しい逸脱と濫用」

A 2002年10月1日付書面説明書「第一 連立事業(都市施設)の存在とこれに係る都市計画の決定」

(2) 本件事業の本質

@ 本件連立事業の実態とねらい

 本件連立事業は単なる鉄道事業ではない。いま問題になっているのは、成城学園前駅付近から環状7号線手前の梅ヶ丘駅付近まで、この区間は6.4kmしかない。そこに存在する踏切17箇所、別の言葉でいえば17本の道路と、新しく幅54mに及ぶ外かく環状線を含む8本の道路、計25本の道路を造るという事業である。また、現在の踏切の道路の幅は狭いところがあり、そういうものを、この連立事業を機会に10mや15mに拡幅しようとするものである。

 もう一つ忘れてはならないのは、建物の建築基準は、基本的に道路によって決定されることである。6.4kmに25本の道路といえば、およそ250mに1本の割合でかなり広い道路が造られる。そうすると、建物の建ぺい率や容積率、あるいは低層・中層・高層というレベルの線引きや用途地域も大きく変わっていくわけで、この沿線周辺の再開発ということになる。つまり連立事業というものは、鉄道、道路、再開発が三位一体となって行われる非常に大きな事業なのである。鉄道区間としては6.4kmしかないが、投資する金は、この区間だけで、鉄道が2400億円、道路が3000億円、再開発が5000億円と、1兆円を超える事業になる。

 いま公共事業が非常に問題となっているが、1兆円という単位の公共事業は極めて少ない。例えば、非常に問題となった臨海副都心は4兆円である。ところが、小田急は6.4km部分だけで1兆円であり、隣接の下北沢地区等を加えると、都内の小田急線の連立化だけで2兆円近いお金を投下することになる。

 しかも、こういう事業は小田急線だけでなく、都内だけでも西武線、東急線、JR線、あらゆるところで行われている。都内の連立事業規模だけでも10兆円は軽く超える。現在、さまざまな公共事業があるが、特に大都市での公共事業では、おそらく、この連立事業が最大の事業であろう。

A 車社会と連立事業

 このような大規模な都市の再開発を目指した鉄道と道路の連立事業は、1969(昭和44)年9月に、建設省と運輸省が「連続立体交差化に関する協定」というものを締結して生まれた。

 この制度の特徴は、鉄道の立体化について、基本的に道路特定財源を投下するということである。道路特定財源というのは、いうまでもなく道路建設を目的とするものである。これを投下して連続立体交差事業を遂行する。69年といえば、日本が車社会になって最初の高揚期を迎えた時期である。車社会は、60年頃から始まった日本経済の高度成長と並行して進行したが、最初のピークが69年頃であった。具体的にいえば、神奈川、千葉、埼玉等の東京に隣接する地域に、いわゆるベッドタウンが次々に生まれて急速に人口が膨れ上がり、通勤ラッシュの問題が出てきたり、車も増えて交通問題が生じたり、東京は非常に大きな混乱に陥った時期である。その頃、車社会に拍車をかけるこの巨大プロジェクトが生まれた。

 さて、連立事業が行われると、一つやり方を間違えれば、大変な都市環境の破壊になる。説明するまでもなく、道路がたくさん出来れば大気汚染等の弊害が出てくるし、高架鉄道の場合には、騒音の問題、景観の問題等が出てくる。本件連立事業はこの典型といわなければならない。

B 事業認可取消の判決

 一昨年(2001年)10月3日、原判決は本件連立事業に対する建設大臣の認可は違法である、しかも重大な違法であると言って認可を取り消した。

 この事業に対する市民の運動と裁判が本格的に始まったのは1990年(平成2年)である。従って、10年以上、運動と裁判が続けられたわけである。公共事業には衆知の通り、いろいろな問題が生じて多くの反対運動があり、裁判が行われた。しかし、都市計画事業であるこの種の公共事業について事業認可の取消が行われたのはこの判決が初めてである。それまでは、公共事業にいろいろな問題があっても、結局、行政のしたことを裁判所が認めてしまう流れがあったのであるが、原判決は初めて公共事業そのものに対して本格的にメスを入れた。

C ためにする行政の不正

 それではどうして原告らは勝ったのか。

 この事業で一番問題になったのは、この区間を高架にするのか地下化するのか、という問題であった。1994(平成6)年3月、別件訴訟によって、基礎調査の非常に重要な部分である鉄道計画が初めて情報公開された。参加人らは、高架は1900億円で出来るが、地下にすると3000〜3600億円かかる。だから事業費の点からいって地下は到底無理という説明を、住民説明会や議会で行ってきた。

 まず幅については、高架式が18.9m、地下式は22.6mになるとした。今は複線だから線路の幅は12mだが、複々線にすれば高架の場合18.9m必要とされ、6mほど増やせばいい。一方、地下にした場合は10m以上広くしなければいけない、とした。つまり、その分用地費だけでも高くなるという訳である。しかし、本当は、高架方式にすると、最低6mの環境空間(側道)が南北に必要となり、その幅は30m以上となる。他方、地下式の2層4線にすると、現在の12mの線路幅で済む。線路の真下に、シールド工法(既に地下鉄技術の主流であった)で2層のトンネルを掘れば、用地費はほとんど掛からないので、これだけで1500億円安くなる。にもかかわらず、参加人はこれを全く比較検討しなかったことが情報公開で明確となり、高架式が安いというのは真っ赤な嘘であることが明白となった。

 高架式に固執しているのは、単なる官僚の面子ではない。用地買収を伴う道路と高架鉄道を突破口として、高層大開発と不動産の巨大流動性を作りだそうとしていたのである。例えば、約2万坪の車庫跡地がある経堂をミニ新宿にすることを目論んだ。まさにバブル経済の発想であるが、これはその崩壊によりそのままでは到底不可能となった。建運協定等を踏みにじり、NTT資金を悪用してこれを遂行しようとした第三セクター(東京鉄道立体整備株式会社)の解散はその象徴である。しかし、これはうち続く不況の中で「都市再生」という新たな衣を着けて頭をもたげている。これこそ、被告が不条理な争いを続けている真因というべきであろう。

 ためにする行政の著しい不正の典型である。住民説明会、アセスメント等、多くの虚偽と不正が繰り返された挙げ句の話である。

D 緑のコリドー(回廊)計画

 地下にすれば、上に緑道とか、緑のコリドー(回廊)というものを造り、都市計画の上で地表を活かせる。

 都市を再生する、人間の都市というものを実現していくうえで、緑はとても大切である。いろいろな生物がそこで暮らせるような、そういう緑の空間を作っていかなければならない。

 今の東京は、神宮外苑や新宿御苑、日比谷公園など緑地はいろいろあるが、そういう緑地や公園が孤立して、点として存在している。そのため、動物は移動できないので非常に限られた生態系となる。従って、どうしても点ではなく線にしなければいけない。小田急線の場合でいえば、新宿に新宿御苑があり、多摩川の方に行くと砧の緑地(砧公園)がある。新宿御苑と砧の緑地を結ぶような緑地帯が今の東京に要求されているが、小田急線を地下化すればそれが出来るのである。これは工事が相当進行しても、また仮に工事が完成しても、シールド工法の技術等を駆使すれば充分出来るのである。東京都前副知事青山らの甲第227号証「図解 東京の地下技術」等を見れば明らかであるが、被告らもこれを認めるに至っている。

 連立事業は全国で62ヶ所(2002(平成14)年)もあるのに、小田急沿線の市民たちの運動対象でしかなかった。しかし、十数年という長い運動の歴史、しかも、基本的な情報を公開させたばかりでなく、これを充分分析して臨んだ。原判決は、原告の言い分に理がある、官側のやり方はいかにも酷いと考えたのは、公正であるべき裁判所の当然の使命を果たしたものであり、何ら特異なものではない。

E 小括

 被告らはこの判決に従い、この事業を根本的に見直すべきであったし、世論もこれを求めていた。ところが被告らはあえて控訴し、舞台を東京高等裁判所に持ち込んだ。騒音等で現に被害を受けている沿線の住民に争う資格はないというような、およそ常識では考えられない屁理屈を並べて時間を稼ぎ、その間工事を強行し、既成事実をつくるのに躍起となった。

 第1審では住民との誓約もあり、やれなかった日曜・祭日を問わぬ24時間の突貫工事を始めたのである。沿線住民は眠るもままならず、病気になる人もあった。文字通りの暴挙である。もとより住民は甘受しなかった。夜間工事等差止め仮処分を提起した。これが裁判所により理解され、今年7月、官側はこれを断念せざるを得なくなった。夜間・休日という一部ではあれ、公共工事が差し止められたのも初めてである。住民はまた一つ、歴史的勝利を得た。

 判決に対する支援は、控訴審の回を重ねる毎に広がっている。憲法、行政法はもとより、ゼネコン学会と言われた土木学会に至るまで流れは広まっている。我が国を代表する多くの学者、研究者が原判決を支持する意見書を次々と出している。その一端を指摘する。

 「…日本のこのような車社会、土建国家を推進したのは、いうまでもなく「公共事業」である。これを取り仕切ってきたのが政・官・財であることはいうまでもない。しかし、行政の責任はそこに権力があるだけにとりわけ重い。

 …私は、…判決が本件の連続立体交差事業についての建設大臣の都市計画事業認可を取り消したことを聞いた時、驚きと感動の念を禁じ得なかった。この事業が道路、鉄道、再開発を一体とした、我が国最大の都市型公共事業であることが分かるにつけ、21世紀の都市をつくり変えなければと考え、学際的な研究を続けてきただけに、その思いは強いものになった。そして、原判決を精読して、それはさらに強く深いものとなった。…「緑のコリドー」づくりという新しいタイプの公共事業によって、より人間的な雇用が生まれ、日本経済の深刻な停滞を超える有効な政策にもなるだろう。そのため、控訴審の裁判は事情が許す限り傍聴している。裁判が進めば進むほど、…原判決は文字通り歴史的な判決だと改めて思い知らされる。…私が日本に抱いている危機意識をまさに共有している。この事実を控訴審も是非虚心に受けとめて欲しいと心から希望する」(甲第262号証の1・宇沢弘文東京大学名誉教授・経済学博士、平成9年文化勲章受章者の意見書)。

 「…リアリズム法学の旗手のひとりとして令名の高いジェローム・フランク判事の,“private Attorney Generals”というキーワードであった…a private Attorney Generalという呼称は,市民が公益保持という,…社会のために,法を法として機能させるために,おこなうことを正当化する表現と言えよう。…本件訴訟はじつは,好むと好まざるにかかわらず,裁判所において行政の民主化を求める色彩を濃く帯びていることがわかる。democracyというコンセプトはまことに多義的である。しかし,抽象的スローガンではない。いま流行のことばを使えば,ユビクィタス,具体的な争点の形をとって,「達成すべきなにものか」として現れるものである。本件訴訟は,期せずして司法を通じた行政の民主化を問うものになっている。そうだから,事業地周辺に居住する市民のレベルを超えて,広く一般公衆の関心の的になっているのである」(『公益私益二元論の誤り』、甲第260号証の1・奥平康弘東京大学名誉教授・元東京大学社会科学研究所所長の意見書)。

(3) 補4・答申6号とこれを覆した経緯の示すもの・・車社会土建国家の成立

@「1970年に答申通り世田谷通り地下鉄が出来ていれば‥‥」

 昭和37年6月8日、運輸省都市交通審議会は、運輸大臣に対し「地下高速鉄道(地下鉄)の輸送力の整備に関する基本的計画の改訂について」と題する答申を第6号として行った(甲第259号証)。このなかで、8号線として喜多見方面を起点とし、現在の世田谷通り、淡島通りから原宿を経由して松戸方面に至る地下鉄(現在の営団千代田線)を昭和45年に「完成」する予定で建設することを答申した。もしこの答申が生かされていれば、昭和45年、すなわち1970年、今から30年以上も前に、この地下鉄が実現していたことになる。現に、原宿(代々木八幡)から松戸方面(綾瀬)に至る部分は、その頃完成している。ところが、郊外の私鉄等の間、すなわち鉄道ネットから外れた地域に鉄道を新設しようとする、交通政策の当然の原則にかなったこの答申6号は、小田急側私鉄と建設省等の執拗な工作により覆され、39年決定に至ったことは、被告もほとんど自認するところであり、甲第270号証等関係証拠により極めて明白となっている。

 いうまでもなく、この地下鉄が実現していれば、都市環境を車社会から保全する上でも、近隣住民の便宜に貢献したことはもとより、当時既に定評のあった小田急の通勤ラッシュを阻止する上でも、極めて有効だったのである。

A「混雑緩和」の欺瞞性と本件事業の本質

 しかし、関係証拠(甲第258号証「東京地下鉄道千代田線建設史」等)から明白なことではあるが、被告・参加人・小田急は、この地下鉄のルートを現在の小田急に「張り付け」ながら、昭和60年、所謂狛江地区の連立決定に至るまで、通勤ラッシュを防ぐ複々線化(これは甲第21号証の1・力石意見書等が指摘する通り東京一極集中を改めないと彌縫策に過ぎないところもある。)を都市計画決定すらせずに、通勤ラッシュを30年近く放置してきたのである。「開かずの踏切」もまた同様である。それにもかかわらず、本件事業について「混雑緩和」「踏切解消」が目的だというのは、許し難いことである。この2つは地下方式の連立事業でも充分出来ることは、原告ら住民がつとに指摘してきたところであり、今ことだてて被告らがいうのは、本件連立事業の真の目的である不動産開発、巨大流動性を隠蔽する隠れ蓑にすぎないのである。

 上記答申6号は、39年決定の性格とそれに至る経緯を上記の通り示しているだけではなく、この事業のためにする著しい不法性をも浮き彫りにしたのである。

 

2.本件都市計画決定(平成5年)の判断過程の違法、他事考慮と欠落

(1) 考慮事項・・環境、騒音

以下の各書面の通り。

@ 2002年5月14日付書面(1)

A 同年7月23日付書面・「第二、本件都市計画決定(平成5年決定)において考慮すべき事項とその欠落」

B 同日付書面(3)

C 2002年10月1日付書面説明書「第二 狛江地区連立事業調査報告書の示すもの」「第三 他事考慮」

(2) 適正手続・・説明会、本件調査(比較設計)等の不正、アセスメントの作為、        情報秘匿、虚偽情報等

以下の各書面の通り。

@ 2002年10月1日付書面説明書「第二 2.比較設計について」

A 同年7月23日付書面・「第三、1.存在するものを存在しないとする強弁

  ・・連続立体交差化という都市計画事業(都市施設)の否認」等

B 判断内容・・ためにする高架の優位

  2002年12月10日付書面説明書「第三、本件調査後における比較設計の 不存在と不正・・丙第43号証の本質」等。

 

3.本件事業認可自体の違法性

@ 事業地との関係における都市計画の適合

A 事業施行期間

 これらはいずれも書面・その1「第三 本件鉄道事業認可の違法性」および甲第270号証・小田急市民専門家会議の意見書「第3章 事業認可そのものの違法性(事業地と工期)の通り。

第五 原判決に対する市民、専門家の評価

次の各書面等の通り。

@ 2003年6月9日付書面説明書

A 社団法人土木学会・土木計画学研究委員会第27回春大会、土井健司の基調報 告(甲第234号証)等