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「法律時報」誌 2007年2月号に掲載


大法廷判決に背理する小田急高架訴訟第一小法廷判決

斉藤 驍


一、はじめに


 最高裁判所第一小法廷は昨年11月2日、小田急線(梅ヶ丘−成城学園前間)連続立体交差都市計画事業(以下「本件連立事業」という)認可取消訴訟の「本案」について、本件事業地の周辺住民である上告人らの上告を「棄却」する旨判決(以下、単に「判決」という)をし、周辺住民の原告適格を否定した原審・東京高裁の判決が「確定」する事態となった。この判決は、平成17年12月7日の本件連立事業認可取消請求事件大法廷判決(以下「大法廷判決」という。)と一体をなすべきものである。

 事件としては同じものであるからである。ところが、第一小法廷は、裁判所法第10条等により論点回付という異例の措置をとり、原告適格の判断を大法廷にゆだねた。  原審判決を支え、あらゆる公共事業の周辺住民を訴訟から排除してきた最高裁第一小法廷平成11年11月25日判決、すなわち所謂平成11年判決(東京都環状六号線の拡幅等都市計画事業認可取消請求事件)の判例変更が必要であると判断したからであることは、その経過や動機はともかく、間違いない事実である。

 大法廷は、平成17年10月26日に口頭弁論を行い、同年12月7日、上記平成11年判決を変更し、生活環境に被害を受けるおそれのある周辺住民は都市計画事業認可を争う原告適格があるものとし、これによって適格が認められる住民の数は約20万人に及ぶことになった。これは、従前の判例の枠をはるかに越える範囲であり、これだけでもマスコミの耳目を衝動させたことは記憶に新しい。また、この判決は原告適格のみならず、行政法総体の変革という巨大な意義を有する。特に、都市計画法、公害対策基本法等行政実体法の解釈を大転換し、都市計画法を環境法と明確に位置づけたことがその象徴である。

 従って、まず留意すべきことは、この事件には、今述べたとおり大法廷判決と今回の小法廷判決という二つの判決があるが、両者は一つの判決として一体的に考えなければならないということである。もとより、前者が「原告適格」、後者が「本案」と振り分けられているが、大切なことは、そのつながりである。判決が二つ存在するというこのような事件は、かつての社会的な大事件の中で私は寡聞にして知らない。おそらく、前例がないと考えてよいであろう。したがって、今回の小法廷判決は、これだけを切り離して論ずることは出来ないのである。

 判決が言い渡されたこの日、我々は下記の通りのステートメントを発表した。これは、この事件の本体と大法廷判決、さらにはこの判決の位置と本質を指摘したものである。




「ステートメント 小田急線連続立体交差事業認可処分取消事件の判決に対して

1.連続立体交差事業の存在

  この事件の本体である連続立体交差事業(以下「連立事業」)は、単なる鉄道事業ではない。また、既存の踏切を除却するだけのものでもない。道路を新設・拡幅して道路と鉄道を連続的に立体交差化した上、高架下利用・駅前広場等、都市を再開発することを目的とした事業である。言い換えれば、再開発のためにその基軸となる道路を新設・拡幅する等して、鉄道と連続的に立体交差する施設(連立施設)という、道路を主とし鉄道を従とする複合都市施設をつくる事業である。

  昭和44年9月、建設省と運輸省間における「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」(通称「建運協定」)の成立により、立体交差化における従前の道路と鉄道の対等な関係が崩れ、道路を主、鉄道を従とし、道路側の再開発まで視野に入れた連立事業という新しい制度、新しい複合都市施設が生まれたのである。土建国家、車社会が求めた巨大都市型公共事業の誕生であった。財源は道路特定財源であり、その規模は広域かつ巨額である。従って、やり方を間違えば、都市環境を回復しがたい程に破壊する。

  本件はその典型であり、かかる事業を見直す事こそ環境の21世紀の改題であることを我々は何よりも事実について論じてきた。


2.本判決と大法廷判決の連動性

  昨年12月7日の大法廷判決は、基本的にこれに応えるものであった。すなわち、同判決は、都市計画法、公害対策基本法、東京都環境影響評価条例等の環境法の解釈につき、従来の公私二元論を克服し、住民の個別具体的な利益を公益と有機的・内在的に繋がるものとして保護することをその趣旨目的とするという、解釈のコペルニクス的転換に至った。   問題は、行政実体法の解釈のこのような転換が本件の実体判断の手法にいかに反映されるべきかということである。我々は、大法廷の弁論において、実体法の解釈の問題はもとより、原告適格論の転換は裁量統制の転換の始まりでなければならないことを「改正行政事件訴訟法9条2項は、同法10条に連動」するという訴訟法上の問題としても提起してきた。

  しかし、前記のような趣旨で都市計画法が住民の個別具体的利益を保護するという解釈がなされた現在では、このレベルの訴訟法上の議論をする必要はなくなった。なんとなれば、都市計画法に反する事由はいずれも行政事件訴訟法第10条の「法律上の利益」に係わるものとなったからである。

  そうなると、都市計画法に反する事由は、従来の単なる「判断過程の統制における考慮事項」にとどまらず、それ自体が本件事業認可処分およびこれに先行する都市計画決定を違法なものとすることにならざるを得ない。


3.本判決の「反乱」

  ところが、本日言い渡された判決は、これに全く逆行する。大法廷判決によって崩壊したはずの原審東京高裁判決を徒に弥縫しようとする姑息なものと言わざるを得ない。

  このような姿勢からは、新しい法の支配、環境の21世紀は到底実現できない。国民は裏切られ、我々も言い知れぬ怒りを禁じ得ない。

  しかし、大法廷と小法廷のこの乖離が許されなくなるのは時間の問題である。
  見えざる歴史の足音を我々は固く信ずる。

以上」


 判決に対する評価は、ある意味でここに尽きるといってもよい。さらに明確にするために、判示に沿って論を進めよう。



二、裁量統制を放棄し、官に肩貸す判決


 大法廷判決は、都市計画法などの行政実体法の解釈を転換することによって、原告適格を飛躍的に拡大したばかりでなく、時代と国民の期待に応える行政に対する司法の抑制、すなわち官の裁量に対する本格的統制の始まりを告げるものであった。今回の小法廷判決に心ある国民が等しく期待したのは当然である。しかし、判決はまさに全くこれを裏切るものであり、官に対する統制をほとんど放棄し、官を野放しにするに等しいものである。

 判決は、「裁量統制の一般的基準」をまず以下のとおり適示し、統制からの遁走を開始する。

 「このような基準に従って都市施設の規模、配置等に関する事項を定めるに当たっては、当該都市施設に関する諸般の事情を総合的に考慮した上で、政策的、技術的な見地から判断することが不可欠といわざるを得ない。そうすると、このような判断は、これを決定する行政庁の広範な裁量にゆだねられているというべきであって、裁判所が都市施設に関する都市計画の決定又は変更の内容の適否を審査するに当たっては、当該決定又は変更が裁量権の行使としてされたことを前提として、その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により重要な事実の基礎を欠くこととなる場合、又は、事実に対する評価が明らかに合理性を欠くこと、判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限り、裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法となるとすべきものと解するのが相当である。」(《ゴシックで強調》は筆者、以下同じ)


 まず「都市施設の規模、配置等に関する事項を定めるにあたって、政策的、技術的見地から判断することが不可欠」であるとするくだりである。確かに不可欠ではあるが、その判断は住民参加、国民主権の原則からいえば、官が独占するものではない。本来の専門家・学者の意見はもとより住民の判断こそ不可欠であり、大法廷判決も指摘するとおり、そのために情報公開、説明責任、公聴会開催、意見書の提出、環境影響評価等の制度が設けられているのである。にもかかわらず、判決は続けて「そうすると、このような判断は、これを決定する行政庁の広範な裁量にゆだねられている」とするのである。この両者の間には、明確な論理の切断がある。この判旨は、官の裁量を理由無く広げようとする底意が充分透けて見えるだけで、論証とはならない。

 判決は、さらにここから「裁判所が都市施設に関する都市計画の決定・・・の適否を審査するに当たっては、・・・その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により重要な事実の基礎を欠くこととなる場合・・・判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限り・・・違法となるとすべきもの」と結論を導いている。この基準は、官の自由裁量を許すものとして、そのアナクロニズムを痛烈に批判されてきた官僚法学そのものというべきマクリーン判決とどこに違いがあろう。「判断過程」が言葉の上では入っているものの、ここに過誤があっても、結論が「社会通念に照らし著しく妥当性を欠くもの」と認められなければ、取り消すべき違法とはならないというのであるから、日光太郎杉事件判決や本件第一審の藤山判決がとり、行政法学の通説といってよい判断過程統制論とは全く違う、その対極にあるものである。

 規範性のないこの「一般基準」は、多くの識者が指摘してきたとおり、官の裁量を許容し、弁護する方向に限りなく近づいていく。これに、裁判所の専権とされる「事実認定」が結びつく時、それは恐ろしい現実となる。原審の東京高裁判決もそうであったが、この判決こそその典型である。

 上告人の主張する違法取消事由に対して、この基準をそのまま適用すれば、「仮に違法であるとしても、裁量権の逸脱、濫用とまではいずれも認められない」という一行で済む筈であるが、これでは官の行為を具体的に正当化できない。そこで、官側に都合の良い事実を作出して、いくつか「認定」していずれも合理性があって適法であるとし、一方、否定することが到底できないものについては一切答えず、取り消すべき違法性は認められないの一行で片づけられている。以下、典型的なものを具体的に挙げてみよう。

 「なお、被上告参加人(東京都。筆者注)は、平成5年決定に至る検討の段階で、本件区間の構造について三つの方式を比較検討をした際、計画的条件、地形的条件及び事業的条件の3条件を考慮要素としており、環境への影響を比較しないまま、本件高架式が優れていると評価している。しかしながら、この検討は、工期・工費、環境面等の総合的考慮の上に立って高架式を適切とした本件調査の結果を踏まえて行われたものである。加えて、その後、本件高架式を採用した場合の環境への影響について、本件条例(東京都環境影響評価条例)に基づく環境影響評価が行われ、被上告参加人は、この環境影響評価の結果を踏まえた上で、本件高架式を内容とする平成5年決定を行っているから、平成5年決定が、その判断過程において考慮すべき事情を考慮しなかったものということはできない。」


 東京都が本件連立事業調査を昭和62〜63年に行い、地下と高架の比較設計をする際、既に旧式となっていたオープンカット方式(地表を開削してトンネルを掘る方式で、高架式より用地費がかかる。)による一層四線横並び方式と高架式を故意に比較対象とし、当時地下鉄建設技術の主流であり、直接地下にトンネルを掘るため用地費が格段に少なくなるシールド方式(特に二線二層式)を比較対象から外して、地下式は高架式の倍近い費用がかかり、経堂地区(環状七号線〜八号線の間)では不可能であるかのような結論をあえて導き、他方、地下式にせざるを得ない下北沢地区については事業を先送りした上、下北沢地区は連立の方式が「未定」であると虚偽の説明をして、この調査報告書を秘匿していたのである。このほかにも、この報告書にはためにする前提条件等、重大な作為がなされており、第一審判決はこれをよく看破している。このような調査の後、東京都は住民の批判に対応するために、高架式と地下式との比較検討を計画的条件・地形的条件・事業的条件を基準として行ったかのように住民に説明し、本件提訴後においてもそのように述べてきた。

 しかしこの三条件に彼らの馬脚が現れた。環境を比較の基準としなかったことを自白したに等しかったからである。判決もこの事実を認めない訳にはいかず、「環境への影響を比較しないまま、本件高架式が優れていると評価している」といわざるを得なかったのである。そして、驚くべきことにこの重大な比較の欠落を「しかしながら、この検討は、工期・工費、環境面等の総合的考慮の上に立って高架式を適切とした本件調査の結果を踏まえて行われたものである」と、あたかも本件調査が適性かつ公正になされたものであるかのように述べ、東京都の環境配慮の欠落を弁護して、今度は、判決がいかに事実に対する認識を欠落させているかを露わにするに至っている。

 また、そのすぐ後で「本件高架式を採用した場合の環境への影響について、本件条例に基づく環境影響評価が行われ・・・この環境影響評価の結果を踏まえた上で・・・平成5年決定を行っているから・・・その判断過程において考慮すべき事情を考慮しなかったものということはできない」とまで述べている。ここには、善意に見ても二重の大きな誤りがある。この文脈で論じられるべきものは、地下式と高架式の環境に対する影響の違いであり、これを基準として構造形式の比較をしなければ、本件の構造形式の決定は、環境を配慮したということにならないということである。選択した後の高架式の環境影響は別の問題であって、高架式について環境影響評価を行ったということによって代償されるものでもなく、環境配慮をしたことにもならない。しかも、この環境影響評価が大気汚染等を予測項目から外したことは格別、騒音等の典型的鉄道公害についても、下北沢地区を切り離して事業の全体像を隠蔽し、速度や列車数を甚だしくごまかしたもので、重大な違法性を孕むものであることは充分すぎる程の証拠があるのに、判決はまるで知らない顔をして「環境影響評価」をして手順を踏んだというそのことだけで本件処分を正当化し、官を弁護する結果となっている。

 この判決の具体的判断の全てに、この姿勢が露骨に示されている。しかも、単なる過去の官の弁護にとどまらず、これからの官と公共事業の弁護をも試みようとしていると読める部分があるので、特に指摘しておこう。

 「被上告参加人は・・・既に取得した用地の取得費や鉄道事業者の受益分を考慮せずに事業費を算定しているところ、このような算定方法は、当該都市計画の実現のために今後必要となる支出額を予測するものとして、合理性を有するというべきである」


 ここには、本件のみならず今後の公共事業のあり方に影響を与える二つの大きな問題がある。ひとつは、本件調査が地下式と高架式の事業費を比較する場合、用地費の占める比重が大きい(シールド工法による地下式は工事費が高架式より高いものの用地費は格段に安く、総合的な比較をすれば通常地下式が安くなる。)ので、高架式の工費を安く見せかけるために、昭和六十三年以前に先行投資していた用地費五百億円を隠したまま、事業費の比較を行った。調査後、住民側の追及により、都議会や情報公開訴訟の場でこれが明らかになった。それまで東京都は、高架式の事業費は工事費九百五十億円、用地費九百五十億円、合計千九百億円と説明してきたが、実際は隠していた五百億円の用地費を加算しなければならないから、事業費は二千四百億円となり、その時既に住民が専門家と共に試算していた二線二層シールド方式の事業費約二千億円をはるかに上回ることになった。事業費の比較をする場合、土地はもとより先行投資分を算定しなければ正確な比較は出来ないことはいうまでもない。本件において、地下式と高架式の比較が従前と比べて定量的に地下式の優位性を証明できたのは、この先行投資の究明が可能となり、さらに不動産鑑定士等専門家の協力により、地下式の場合は地表、高架式の場合は高架下の土地利用が定量化できたことによる。

 本件のみならず、道路、ダム、橋等の公共事業において、オルタナティブの比較検討は、事業費、環境等の面で必須の課題となっている。この比較検討の際に、先行投資されているものは算定されず、今後支出を要する費用だけを比較するとすれば、先行投資額の大きいものが、すくなくとも事業費の面では必ず優位となり、その計画が選択される結果となりやすい。情報を先取りし、あるいは政策形成に係わりのある業者が土地を買い占め、ルート決定を左右する等、今なお正されていない公共事業の腐敗が格段に進むことになる。これは、法律家ならずとも見易い道理である。先行投資を算定しないというような発想は、官にはあっても裁判所に絶対あってはならないことである。しかも、その論拠を何ら示していない無責任極まる説示で、最高裁判所のものとはとても思えないが、かかるものが現に示されている以上、笑い事では到底すまされない。

 もうひとつ、「鉄道事業者の受益分」を比較の際に算定しないということである。これは、本件を知らない方は分かりにくいと思うが、要するに、地下式の場合は地表、高架式の場合は高架下の土地利用につき、その経済的価値を定量化したもののことである。地下式の場合は、地表は更地もしくは地上権負担付の準更地として利用できるが、高架下は高めに見ても更地価格の二十パーセント程度である。すなわち、土地利用において地下式と高架式では八十パーセントにのぼる価値の差があり、これが事業費を比較する重要なファクターとなる。もとより、東京都はこれをしなかった。このファクターを算定することは事業費の上でも大事だが、環境を考えればさらに大事になる。地下式なら、レールの無くなった地表を緑のコリドーにも出来るが、高架下では自転車置き場、店舗等にしか活用できず、しかも一部が利用できるだけである。従って、事業費の比較をする場合、この土地利用の違いを算定することが必須の条件である。この違いを計算に入れると、本件では地下式の事業費は高架式の約半分になるのである。これを算定しなくてよいという論拠もまた一切示されていない。事業費の面でも、上告人や第一審判決が地下式優位もしくはその可能性に言及していたことを何とか否定したかったのであろう。この比較方法は、本件第一審だけではなく、東京地方裁判所民事第二部係属の関連事件第一審において、約十年前から確認されていることである。

 以上、二つの論点等を読むと、この判決が大法廷において「反対意見」の論陣を張った裁判所と同じものとはにわかに信じられない程である。この判決は、何よりも大法廷判決における自らの「反対意見」にすら反する不条理極まるもので、法廷意見とも到底相容れない。まさに、大法廷判決違反の判決である。冒頭に述べたとおり、本件は小法廷と大法廷の判決が一体をなす一つのものでなければならない。にもかかわらず、今述べたとおり判決の思想と論理はこのように分裂している。前例のない事態である。しかも、この判決が上告を「棄却」したことにより「確定」した判決は、原審東京高裁判決の却下判決であって、本案判決ではない。すなわち、この判決の「本案判断」は、既判力がなく、いかなる意味でも法律上の効力はない。ここにいかなる合理性、論理的整合性があるか。国民はこれらの判決をどのように受け止めたらよいのか。

 第一小法廷が大法廷のように口頭弁論を開いて、最高裁の段階における充実した証拠、意見書、上告人らの上告受理申立て理由書、その補充書等を吟味していたら、これほどの混乱と醜態は生じなかったであろう。この判決は、裁判所に最も求められる紛争の解決の糸口すら示そうとせず、反対に官を全面的に免責することにより、徒に紛争を助長、拡大させているのである。大法廷判決はとのスタンスの違いはあまりにも大きい。冒頭に述べたとおり、この事件の判決は、大法廷と小法廷一体のものとしてなされるべきものである。そうだとすれば、この事件には未だ判決が存在しないことになる。二つの判決の間には、明白な理由の齟齬があることになるからである。

 私は、本件の訴訟代理人として、なお何事かを果たさなければならないのであろうか。

以上



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