平成13年(行コ)第234号 小田急線連続立体交差事業認可

               取消請求控訴事件

 控訴人     関東地方整備局長

 被控訴人    ○○ 治子    外

 参加人     東京都知事

 

 

被控訴人準備書面(1)

控訴理由書総論等に対する反論

 

 

                          2002年5月14日

 

東京高等裁判所第4民事部 御中

 

 

                上記被控訴人ら訴訟代理人

                  弁護士  斉 藤  驍   外49名

                      (別紙代理人目録記載の通り

 

 

 

第1 序 論

 

           

1.控訴人関東地方整備局長の主張の特徴

 

 理屈にも色々ある。道理や真理に基づいて説かれるために人を納得させ感服させるものから、事実を偽り誤魔化すために、あるいは事の本質から目を逸らすためになされるものまであるのである。後者の代表的なものは所謂「三百代言の理」であって、鷺を烏といい、白を黒と言いくるめようとする類である。残念ながら、あってはならないことだが学者、官僚そして我々法律実務家のなかに根強く存在している。文字も読めない無学の人々が多かった天皇の時代はともかく、世間の目が厳しくなりつつある今でもそうなのである。

 「三百代言の理」は一見緻密に出来ていて、簡単に反論できないように見えるが、見る者がみればたちどころに分かる。それはこの理が導く、まさに鷺を烏というその結論である。

 このように不条理な結論は、今の普通の人の胸に到底落ちるものではない。

 どんなに細工が上手に出来ていても、この結論とのアンバランスに注意していれば、普通の人でも容易に見破ることができる。

 本件控訴人関東地方整備局長(以下「控訴人」という。なお、参加人東京都知事は「参加人」という)の控訴理由書こそ、まさにそうではあるまいか。

 長々と150余頁にわたり、事情を知らない人やしかるべき法的素養のない人が見れば、緻密にも難解にも見えるであろう。

 原告適格、都市計画事業および事業地の概念、判断の対象とすべき都市計画、司法審査のあり方等もっともらしく論じられているものの、その結論たるやただ一つなのである。すなわち、都市計画の適否は行政官僚が決めることであって、裁判所が口出しすべきことではないということに尽きる。

 国民ではなく天皇が主権者であった第二次大戦前の行政裁判所の時代であっても、多少教育のある人間には通用しなかった話である。

 まして国民が主権者であり、行政官僚は国民の公僕にすぎず、しかも権力が分立され裁判所は憲法に基づき行政を監視する権限と責任を有しているにもかかわらず、これでは裁判所は行政官僚を野放しにすべきであると言っているに等しいのであるから、このようなことを納得する国民がほとんどいないことは見易い道理である。

 

2.都市と都市計画の歴史的文化的規範性

 

(1)都市及び都市計画の本質とそこにおける環境の意義−石川栄耀の所論−

 

 またこの理は、控訴人らの都市及び都市計画に対する認識の甚だしい誤りによるものである。そうでなければ、都市計画法(以下「法」という)のかかる「解釈」が出来る筈がない。

 歴史や文化を心得るものにとっては自明のことが多いのであるが、控訴人らの「認識」の甚だしい誤りを明確にするために、原点に立ち返った議論も必要なのである。

 都市計画学という学問領域は近代の所産であるが、都市及び都市計画はギリシア、ローマをひとつの典型とする古代都市に遡る。この点だけを考えても、都市計画を対象とする都市計画学は学際的総合的なものである。これは都市計画そのものの学際性、総合性によるものであり、後に詳論する。

 議論を分かり易くするために、とりあえず我国の都市計画学の関係者が等しくその権威を認めている工学博士、石川栄耀の古典的著書「都市計画及国土計画」(産業図書株式会社、初版昭和16年10月1日、改訂第三版昭和26年3月3日)を繙くことから始めよう。

 同氏の学会における権威は、文学における芥川賞ともいうべき「石川賞」なるものが同学会に設けられており、生誕100年を記念する機関紙都市計画1993年No.182(甲第192号証)が発行されていることを指摘するだけで充分であろう。この号に、本件事業を推進した元東京都知事鈴木俊一ら東京都の関係者(元都市計画局長岡本尭夫ら)が寄稿していることを付言しておく。

 まず本件に関連する目次をみれば、別紙1の通りである。これ自体に都市計画の基本的原則がいくつか示されている。例示すれば以下の通りである。

 

A.第1部その1は都市史及都市の定義とされ、その2は都市計画史及都市計画の定義とされており、都市と都市計画は歴史的に検討され、そこにおける通則(原則)から出発すべきことが明らかにされている。

B.第2部その1は都市計画の法制とされ、1・都市計画法制史、2・日本都市計画関係法規、3・同上主要法律の構造及法令とされ、1)に都市計画法、2)市街地建築法とされていて、都市計画法は法のみならず市街地建築法等関係法規によって構成される総合的なものであることを明確にしている。

 これは、法と環境基本法等関係法規と切り離して論ずることは大きな誤りであり、実質的な法とは、これらを総合したものであることを明示している。

C.さらに、本件の基本的実質的な争点である都市計画決定をする際の考慮事項に係わるものであるが、第4部都市整備において甲、環境整備として、その1緑地計画、その2環境保全として、2・都市騒音防止、3・空気染防、4・公水面汚染防止等とされ、乙、都市造型、丙、公共施設、丁、地帯整備と続くその冒頭に置かれている。これだけでも環境整備が都市計画決定をする際の不可欠の考慮事項であることが明らかであるばかりでなく、この著作が出された頃に比べれば環境の比重は格段たるものがあるのであるから、第一の考慮事項といって当然なのである。

 

 控訴人が環境と両立しないものを選択出来るというのは、都市計画の原則からしても、社会通念からしても、到底許されるものではなく論外である。

 学問上の定説、通説は仮に成文法規になっていなくとも、規範性のある条理であり、また、国民が衆知している場合は社会通念あるいは常識であって、規範性を有するのはいうまでもないことを、ここでとりあえず指摘しておく。

 同著は、先述した通り第1部を都市及び都市計画論としている。その由縁を以下の通り述べている。

 都市計画を論ずるには、「まず都市の本質如何にふれてかからなければならない。都市の本質を離れて都市計画がある筈がないからである。…都市は文化の結接点である結果、文化が時代とともに変異展開するに従い発展する。…都市を史的に叙述し、然る後その通相を捉える」という方法で都市の本質にアプローチすべきであるとし、世界の都市の歴史をギリシア以前のバビロン等にまで遡りながらギリシア、ローマ、中世、近世を概観したうえで現代の都市について人口統計等を用いて、かなり詳しく論を進めている。

 現代都市の始まりを以下の通り産業革命としているが、巨大都市の一極集中、

車社会、環境汚染等、一連の今日の都市問題の原点が産業革命にあることについ

ては、歴史学、経済学、社会学、法学、文学等の人文科学のみならず自然科学に

おいてもほとんど異論のないところであろう。

 「現代は産業革命に開ける。都市は国家の組織下に自由に発展するようになった。発展の動力となったものは、まず『資本』であり、…その活動手段は工業であった。…その結果工業化した都市の人口は急増し(同時に農村人口は欠亡し)しかもその増加は工業国の大都市に偏した。

 従って、現代特有の大都市禍が随所に発生し、人口の質は心身共に低下し、…特に重要な事は隣保の精神で、都市は人類の全ての不幸の源流なりとさえ称せられるに至った。しかもこれに拍車をかけるものは交通機関に応ずる都市機能の増大で…国家経済乃至国際経済を吸収する焦点となっている。」(5乃至6頁)

 大都市禍について具体的記述はないものの、後に引用するところから明らかであるが、工場労働者の職業病、大気汚染等による公害病、生活と文化におけるあらゆるレベルの環境の悪化のこと等を言っているのである。工場を除けば、20世紀後半から21世紀初頭の我が国の巨大都市の病理とほぼ一致しているといってよい。

 さらに著者は中国、日本の都市の歴史の概要を提示したうえ、都市の本質とは「生産及び文化が発展するとき必然的に採る形式であるところの(分化作用)に応じる統制作用としての…組織中枢」「人類の親和交歓の中枢」(14頁)を果たすべきものという結論を導いている。

 一方、これに対応する都市計画を同じく古代まで遡り検討したうえ、「現代都市計画はいうまでもなく産業革命以降の都市の自由なる発展に対する助長とその矯正(著者のいう統制)に始まる。これを表示すると次の様になる。

 

    生産計画

 

 誘導発展の計画

 

 

 

 

 支障の除去

 

 

 文化計画

 

 都市悪の矯正

 

 人文性の都市悪

 

 人口の都市集中に

 

 

 

 

 よって生ずるもの

 

 

                      戦争

 

 

 

 自然性の都市悪

 

 地盤沈下、洪水など

 

 

 環境の整備

 

 保健施設

 

 

 慰撫施設

 

 緑地的

 

 

 建築的

                             (23頁)」

 

 都市計画の重点が都市悪の矯正と環境の整備で構成される文化計画に置かれていることは明らかであり、産業革命を始まりとする現代都市計画の主な目的がここにあったことに充分留意するならば、当時とは別の領域とレベルで著しく悪化している今の都市悪の矯正と環境整備が都市計画においてまず考えられるべき事項であること、少なくとも必要不可欠の重要事項であることは直ちに分かる筈である。いずれにしても充分検討すべきものであることは論をまたず、原判決も一つはこの「史的条理」に基づいて判断しているのであって、いわば裁判所が当然なすべきことをしただけなのである。

 これに対して環境があたかも都市計画の諸々の考慮事項の一つに過ぎず、必要条件ですらないかのように述べる控訴人らは、まず自らの無知と非常識を戒めなければならない。

 さて、著者は都市悪の典型として具体的に何を挙げているか。

 前述した騒音、大気汚染、公有水面汚染はもとよりであるが、都市の景観、美観を含む広い意味の環境と住民の意識と生活を破壊するものとして、緑の欠如を挙げ、緑地計画を重視していることは当然ではあるものの、今の都市環境のメインテーマの一つであるだけに、充分注目すべきである。

 緑地の都市計画的効用は「自然物により醸成せられたる造園芸術の鑑賞、都市の自然修飾・・その結果、真正都市美が顕出し、良き都市環境が造成される。

 緑を主題として美装されたる広場は善隣感情の醸成点となる。

 空地は防災に役立ち、且つ当然空気の浄化槽ともなる。

 緑地、緑道いずれも散歩その他の方法により心身の保険に資する。

 都市を分割して隣保単位を造る。

 都市人口の無制限膨張を調整する。」

 このような効用があることから、別紙2の通りの緑地計画が必要であるとする。そのうちBの緑地の面積及分布率は、緑地比率の高さと道路を緑地の一つとして位置付け、歩道の幅を広くする等していることは、車社会の今とは違う時代のものとはいえ、特に留意すべきであろう。ヨーロッパにおいて今車社会を反省して高速道路を地下としたり、車道より歩道を広くすることが進められていることからすれば尚更である。

 都市騒音については、第2次大戦前に既に交通機関の騒音調査がなされており、小田急のような電車の場合、その警笛により平均80デシベルの騒音を発して市民に睡眠妨害等の被害を与えていたことが指摘されている(153頁)。

 さらに注目されるのは、大気汚染である。

 「都市における空気の汚染の原因には、空中における煤塵、工場よりの発散物また路面の交通機関、特に自動車よりの排気物がある。」(154頁)としてロンドン、ハンブルク、ベルリン、大阪市の空中に浮遊する煤塵の密度の統計(1920年代)、降塵量についてもロンドン、大阪市等9つの大都市の調査(1926年、27年)等を挙げ、大気汚染が著しいことを示し、「特殊工場からクロールガス、亜硫酸ガス、窒素酸化物…が発散され付近に迷惑をかけていることはよく経験するところである」(155頁)として、多くの市民の健康と財産に害毒を与えていることを明確にしている。

 第4部乙の都市造形も重要である。その1が都市美構成であるのは誰でも気がつくことであるが、その2が隣保構成とされ、これが都市造形の二大要素のひとつとされていることである。その理由は、その1・都市美構成1の都市美の本質を読むと良く分かる。

 「都市美の本質は…この程度の狭小なものではない。

 それは当然都市居住者に対し、都市なるがゆえに失われる『環境としての山紫水明性』を回復し、彼等の『文化人としての育生』に資せんとする全作業なのである。比は今日人口の大部分を大都市に集中せしめ、しかも与えるに極悪なる環境を以てしている時喫緊の要事に属する」

 都市美とはうわべを飾る単に物質的なものではなく精神的なものを綜合する文化なのである。隣保構成は分かりやすく言えば人と人とのコミュニティーの場を創り出すことであるから、前者と深いところで繋がる訳である。

 このような考え方こそ都市計画の大原則なのであり、知性と文化を有する人々の20世紀の常識なのである。

 また、丙の公共施設において、当然の事であるが、今は「ゴミ問題」として論じられている塵芥処理場およびこれと深い関連のある下水処分場について指摘されているが、詳論は省略する。

 都市計画の本質とこれに基づく法の解釈のあるべき姿は以上で充分指摘したともいえるが、都市悪との関係でさらに若干述べておくことにする。

 

(2)同−森鴎外の所論−

 森鴎外は夏目漱石と並んで我が国の近代を代表する作家であることはよく知られている。しかし、優れた医者であったばかりでなく、彼が専門としていた公衆衛生学という医学の枠を超えた我が国都市計画学の開祖の一人であったことは専門家の等しく認めるところであるが、充分知られていない。

 今まで述べてきた石川氏は専門が土木工学であるため、都市悪について全面的に論及しているものの、公衆衛生学的分析が些か弱い。

 この点を中心に、鴎外に補ってもらう必要があるわけである。

 鴎外は1888年ドイツ留学から帰朝し、1895年頃まで公衆衛生学のみならず市区改正等都市計画全般に係わる評論を活発に行い、1889年から1894年まで内務省に設けられた東京市区改正委員会の取調委員となり、東京家屋条例立案に関与したりしたが、この点に関する代表作は明治30年初版、明治32年第二版、明治37年第三版、明治41年第四版、大正5年第五版と版を重ねた衛生新篇といわなければならない。

 以下、資料の最も新しい第五版によって論を進める。

 目次は別紙3の通りである。

 そのうち、都市の部分だけみても都鄙の健康から始まるものの、後述するところであるが、新街造設の計画、家屋の排列法、町の方向、往来の安全、市内の空気等について述べており、公衆衛生学にとどまらない都市計画全般、とりわけ都市悪を論じていることが良く分かるであろう。

 以下都市の部分(562頁〜580頁、衛生新篇上、岩波書店昭和49年7月29日発行、鴎外全集第31巻)の要点を紹介しよう。

 「都住者はこれを村居者に比して不健康なることは古より人の伝唱するところなりき。都人は概ね顔面蒼白、筋骨薄弱、軽佻浮薄、力役に堪え難く、村民はこれに反し顔色鮮紅、筋骨強質、静安素朴、宛然健開の模範を示す者の如し。

 前世紀(19世紀)の半ばに至るまで独り外観上に止まらず統計上にも其の差あるを見き。人口1000人に付年々死亡するもの左の如くなりき」とプロシア、イタリー、イギリスの都市と農村の死亡率に統計上明らかに差違があることを示しつつ、19世紀後半の「衛生警察」等によりようやく若干改善したものの、イギリス、プロシアの統計をひきながら「都会の死亡率は30乃至60歳の男子の死数は都人において鄙人に比するに依然として大なるを見る。これ一分は酔癖に帰すべしといえども主として結核の累をなせるなり」。当時はいうまでもなく結核には特効薬はなく死に至る病であり、このような重い病の危険に都市が晒されていることを指摘しているのである。

 これが都市悪の極致の一つであることはいうまでもなかろう。

 このような都市悪が生ずる主たる原因は、今で言うゴミ(産業廃棄物を含む)処理の不行届等による不衛生な環境と工場等の大気汚染、そして長時間過重労働等にあるとしている。当時都市の環境汚染、しかも極めて危険な汚染の発生源は石川栄耀も指摘しているが、工場、鉱山に代表される工業であり、これについて約40頁を費やして論じている。関連するものも含めると全体の約一割を超える。

 注目すべきは当然のことでもあるが、工業の(健康に対する)直接影響として光力不足、敗気、劇気毒気飛埃の害、労働過度の害、労働時限(長時間労働)を明確にしたうえで、炭鉱及び鉱山、化学工からマッチ工、粉工、織毛工、菓子工、木さらには鉄道、郵便等の諸役人に至るまで綿密な検討をしている。そのうえで工業は単にそこで働く労働者のみならず公衆の健康に重大かつ危険な影響を与えることを指摘している。以下、工業及工場の論述の要所を紹介する。

 

「工 業

 

 法律の工人の健康を護ることに被及せしは基督暦1802年のイギリスの制度に遡る。当時6歳乃至7歳の小児を織工場に役せしより取締の必要を生ぜしなり。次いでプロシアは1839年に之に関する制度を立てたり。是れ亦ブレーメン製糸工場に於いて10歳の少女が自殺せんとしたるに因る。次いでフランスの1844年の法、オーストリアの1859年の法出で、イタリア、ロシアも1882年を以て之に関する法律を作りぬ。

 …法律にして学者の参考となすに足るものはイギリスに1901年の製造場及工場法、ドイツに1869年の工業法、1891年の工人保護法等なり。

 

 工 場

 工業を作す所を工場と言うイギリスの習慣に従って之を区別するときは大略左の如し。

甲、大工場多く器械力を役す。

 一、織物の大工場、諸繊維の製造をなす。

 二、織物にあらざる大工場、紙及布を染め晒し印する処、印刷所、製本所、barchendを製する処、麻を製する処、keramic に関する諸物(硝子等)を製する処、寸燐、patent-cap、弾薬、煙草を製する処、鋳物場

乙、小工場、前諸工場を除く外の者を総称す。

 散工は家に在りて業を操る器械力を役せず。大小に従いて大工場又は小工場に算入す。

 ドイツは特に所有主若しくは比隣の人の為に著しき不利、危険若しくは煩擾をなすことあるべき工場を定む。是れ許可を得て後纔に立つべき所の者なり。即ち弾薬、烟火戲の材料、諸引火質を製する処、ガスを製し又蔵する処、石炭油を蒸留し、褐色炭タール、石炭タール、骸炭を製する処、(産出処に設けたる者を除く)硝子を製する処、石灰、煉瓦、石膏を焚く処、粗金属を取る処、鋳物場、化学的製造所、「ワニス」を烹る処、澱粉(馬鈴薯澱粉を除く)を製する処、澱粉舎利別を製する処、蝋布、膓絃を製する処、膠、魚油を煮る処、骨を焚き又晒す処、屠所、鞣革場、革を剥ぐ場、肥料を製する処、土瀝青を煮る処、(産地を除く)藁紙、木繊維を製する処等是を大概とす。

 フランスは工場に危険なる者、不潔なる者、不安なる者ありとし危険工場を人家に近き処に立てしめず。不潔工場は除害法を設くる限は人家に近き所と雖も、之を立てしめ不安工場は人家に近き所に立つることを妨げず。」(上記衛生新篇下、344〜345頁)

 このような都市悪を矯正するために鴎外は適切な都市計画が必要であるとして、広い分野において具体的に論じている。そのなかで新街造設の計画についての所論は以下の通りである。

 「都会は活物なり。日に月に発育す。故に当局者は予め新街造設の案を定め其国を制す。ドイツは自治団体をして…造屋の並列線を画一にすることを得しめること既に久し。イギリスのごときは…1910年始めてTown planning Bill(都市計画法、筆者注)を制定し公…をして個人の造屋に容喙することを得したり。是より先…街幅の制限(12.19乃至15.24メートル)を守ることを要せ

しのみ。

 新街造設の立案に参与する者は理財、美観、衛生の諸点を伴せ考えざるべから

ず。

 造設の大体よりすればまず居住区と工業区とを限画し公園及遊戯場を存置せざるべからず…この分区は早く之を断行せざるときは臍を噛む悔あり。

 …次に居住区内に建築帯を分ち、市の中心に近きところに売買及交通街を設けこれに反するところに居住街を設け各種人民をして大小種々の良家屋を得しむるを要す。

 小屋は大貸家に優ること小屋中一族(一戸)一屋制は理想的家屋なること…すでに定論となれり…園市(田園都市、筆者注)は新たに地区を限りて其所有権を維持し投機を防止し小屋を創立せしめ稠居の弊を避け多く園囿を存するをいう。

 地価の康ならんことを欲するを以て多くは大都会に比隣して其間に若干の距離を在ぜしむ。初めイギリス人Howard(ハワード)之を推奨するや世もって仮空の論となしたりき。今やイギリスにおいて…諸市ありドイツも…これをならうに至り…諸市を設立することを得たり。」(上記衛生新篇上、568頁〜571頁)

 明確に都市のあるべき姿、都市計画の必要性を示しつつ、これに近づくことが現実に出来ると論じ、さらに整地、家屋の排列、家屋のつくり方、容積率、建ぺい率、高さ制限、町の方向、町幅(道路幅)、照明、市内の大気汚染の防止、公園さらには道路の舗装のあり方まで今の都市計画の定説の基礎というべきものを具体的に論じているのである。

 これ以上述べる必要はなかろう。「都市悪の矯正」とこれを克服することをも含む「環境の整備」、すなわち広義の環境こそ都市計画の基本である。法が「健康で文化的な都市生活及び機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに合理的土地利用が企られるべきこと」(第2条)を基本理念としているのは、まさにこのためである。

 前述の石川栄耀、森鴎外の論述で極めて明確なことであるが、古代から存続し発展してきた都市計画は、時代による違いはあれ、歴史的に検証された社会的、文化的規範が形成され、これが法等の成文法、条理、社会通念等という不文法という法源において法規範となっているのである。

 

 

3.都市計画の法規範

 

 都市計画に係る法規範が実定法規にとどまらないことはいうまでもない。「客観的な規範化」はあたかも実定法規によるものだけであるかのように言うのは論外である。実定法規は2乃至3頁で述べた通り、法のみならず関係法規の全てを含むのであって、控訴人らの様に法だけを恣意的に取り出して解釈することは大きな誤りである。

 繰り返しになるが、実質的都市計画法あるいは都市計画法の本体といってもよいが、それは以上の成文法、不文法の総体なのである。従って、都市計画の「特定」などの解釈も、これを前提にしなければ話にならない訳である。

 そのうえで、具体的存在である都市計画はいかなる種類、そしていかなる事業ないしは施設のものであるか考えなければならない。

 本件司法審査の対象となる都市計画の「特定」もまさにこの視点からなされなければならない。

 これは余りにも当然のことであるから、控訴人の関係者が編纂した著書にも以下の通り記述されている。

 

 「これらの都市計画が適合すべきものとされている上位計画等については、次のような根拠法がある(別図20ページ−別表4−参照)。

 すなわち、都市計画法の上位計画に関する法令として、国土総合開発法、首都圏整備法、近畿圏整備法、中部圏開発整備法、山村振興法、新産業都市建設促進法、公害対策基本法等の法律があり、事業内容、管理内容等についてそれぞれの法律で詳細に定めている。

 都市計画法は、このような上位法を受けて、各種都市計画について統一的に規定する法律である。

 そして、都市計画法に基づく各種都市計画の内容については、都市計画法のほか、都市計画法を受けた他の法律が具体的内容を規定しており、また、都市計画法が基本的な土地利用計画について定めている法律であるところから、他の土地利用関係法制とも密接な関連を有する。このように、都市計画法は、多数の関係法令のなかでの基本法的な性格のものとして位置付けられる(別図20ページ−別表4−参照)」(法務省訟務局行政訟務第一課編集「判例概説 都市計画法」2頁、平成7年)

 「《都市計画法の位置づけ》

Q.都市計画に関連する法体系における都市計画法の位置づけはどのようなものか。

A.都市計画法は、都市を単位とした都市計画の内容、手続、効果等を規定したものだが、我が国の土地利用計画、施設計画等は、全国レベル、ブロックレベル、都道府県レベル、都市レベル等において重層的に定められており、都市計画として適合すべき上位計画等について、それぞれ根拠法がある(図−別表5−参照)。

 都市計画法は、このような上位法を受けて、各種都市計画について統一的に規定している法律である。

 次に、各種都市計画の内容については、都市計画法のほか、都市計画法を受けて別法で具体的内容を規定しており、例えば地域地区については指定要件、指定効果等、市街地開発事業については事業内容等、都市施設については事業内容、管理内容等をそれぞれの法律で詳細に定めている。」(建設省都市局都市計画課監修「都市計画法の運用Q&A」1頁、平成10年)

 

 ただ、上記法務省訟務局の別表4の上位法には公害対策基本法(現在では環境基準法)が記載されているが、建設省都市局の別表5には環境基準法は削除されている。驚くべきことと言わなければならない。

 

 

4.本件都市計画事業と建運協定

 

 そのためには、本件都市計画事業(本件都市施設)の本体を正解することである。

 本件の事業は、単なる鉄道事業ではない。鉄道と道路を「連続的に立体化」して踏切をなくしたうえ、新しく道路を建設・拡幅し、これを梃子に不動産開発を行うという巨大都市再開発事業の中軸である。名前を連続立体交差化事業(以下「連立事業」という)といい、昭和44年9月、建設省と運輸省との「連続立体交差化に関する協定(以下「建運協定」という)により、道路法、鉄道事業法等に基づく新しい制度、新しい都市施設として定立されたものである。

 もとより鉄道を高架化して踏切をなくす事業はその前からあって、「鉄道高架事業」と言われていた。しかし、これとは明確に違うものである。

 建運協定第2条には、この事業の性格が以下の通り定義されている。「幹線道路の中心線から中心線までの距離が350メートル以上である鉄道区間において、鉄道と道路を3箇所以上において立体化させ、かつ2箇所以上の踏切道を除却することを目的とする」連続立体化とされている。2と3では紛らわしいが、僅か350メートルの鉄道区間であっても、1本以上の道路を新設しなければならないわけである。

 すなわち、道路のための鉄道の立体化であるということから、これは都市計画事業とされ、事業費の93%(1992年の一部改訂により86%となった)が公費負担とされ、その割合は国52.5%、残額について都道府県・政令指定都市と地元市町村が約2対1であり、その基本的財源はガソリン税等の道路特定財源である。このこともあり、事業主体は都道府県または政令指定都市とされている。

 言うまでもなく、都市における用途地域の指定等の都市計画基準、建築基準は道路の位置、形状で概ね定まるから、道路の新設等はこの基準を大きく変えることになり、高層ビル化等の巨大な都市再開発に繋がることになる。

 建運協定第11条による連立事業調査要綱(以下「調査要綱」という)は、鉄道・道路・再開発が三位一体となって進められるその内容を詳細に規定し、都市に与える影響が極めて大きいとして比較設計、アセスメント等が不可欠であるとしている。

 鉄道・道路・再開発は、都市計画のなかで深い関連のあることは前記の論述を引くまでもなく明らかなことであるが、法はこれを明文で定めず、前者2つは都市施設として法第11条1項等に、後者は法第7条の2等に別々に定められている。それぞれが別なものであることも事実であるから、このように定めることにも理由がある。しかし、それは今述べた三者の関連性を否定するものでは全くない。

 建運協定、調査要綱の意義は、法の上では明文化されていないこの関連を連立事業という形において、明文の規範として定めたことにある。

 少なくとも、一面において別の施設である鉄道と道路を組み合わせて、ひとつの都市計画事業、ひとつの都市施設としたことは疑う余地がない。

 鉄道と道路の都市計画は、環境法規等を別とすれば、鉄道事業法、道路法等の関係法規に従って定められるように、連立事業(連立施設といってもよい)の都市計画は、上記鉄道と道路の関係法規のみならず、何よりも新しい制度(都市施設)を明文化することによって実定化した建運協定及び調査要綱(以下「建運協定等」という)に従って定められなければならないのである。

 建運協定が関係法規であることは、原判決はもとより、小田急関連の別件の東京地方裁判所民事第2部平成2年(行ウ)第232号等の判決においても、「道路と鉄道の立体交差に関する法令」の中に当然のことであるが建運協定が道路法第31条1、3及び5項、鉄道事業法の後に適示されている。

 事実と法を直視するならば、単なる鉄道事業と連立事業の違いはすぐ分かる筈である。さらに、連立事業には単純連立と線増連立の二つがあるが、その法的性格は同じである。本件は線増連立事業である。線増事業の場合、注意しなければならないのは、線増については線増事業という別の事業が存在するが、これは後に詳述する通り、在来線の連続立体化事業と一部重複するのが通常で、本件の場合もそうなのであるが、都市計画決定は線増事業を含めて一つのものとなることである(建運協定第3条)。従って、本件のような線増連立事業を認可する場合その事業地が前記の一つの都市計画と一致しているかどうか、言い換えれば、線増事業と重複する部分を含んでいるかを吟味することは、事業認可をするうえで不可欠の要件となる。ところが、本件認可においてはこれがなされておらず、上記部分が大きく欠落している。

 原判決はこれを正しく認識して、看過出来ない重大な違法があるとしているのである。

 控訴人らは、ことさらこれに目をつぶり、裁判所に対してもこれを求めているが、失態という外はない。

 

 

5.都市計画と行政裁量

 

 また、都市計画をするにあたっての行政の裁量は、政策的であれ専門技術的であれ、それをどのように分類しようとも、今述べた都市計画法の本体という枠の中で許されるのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 一般的に「法が行政処分を行政庁の裁量に任せる趣旨、目的、範囲は、各種の処分によって一様ではなく、これに応じて裁量権の範囲を越え又はその濫用…違法とされる場合もそれぞれ異なる」(マクリーン判決)のであり、控訴人もこれを認めている(控訴理由書85頁乃至86頁)。

 もとより、行政処分以外の行政行為(本件都市計画決定が行政処分であるかどうかは議論の分かれるところであるが、ここではおくことにする)についても同様であり、控訴人も上記の部分でこれを認めている。

 この理に従えば、裁量の範囲は当該行政行為、行政処分がいかなるものであるかによって決まってくることになる。そして行政行為は行政計画、行政処分等に一応分類されるものの、実に色々な種類がある。しかも、その分類は所与の歴史的時点で異なる。例えば、マクリーン判決の対象となった出入国管理に関する法務大臣の行政処分の裁量の範囲は、国際法、条約、法令の改正などにより、当時と現在では明らかに違っている。行政計画、行政処分だけとっても、このような歴史的経時的変化があり、以上を総合して当該処分の裁量の範囲を考えなければならない訳である。従って、行政計画の範囲は行政処分より広いとか、政策的裁量は専門技術的裁量より広いとか控訴人は述べているが、ほとんど無意味なことである。

 そもそも都市計画決定における裁量は、控訴人のいう政策的裁量ではない。専門技術的裁量も当然含まれることはいうまでもない。控訴人自身これを認めている部分(82頁)があるから、益々意味がない訳である。

 政策的裁量と専門技術的裁量とは、司法審査のあり方のところで詳述するが、本質的に違うところがある(原田尚彦「裁判と政策問題、科学問題」弘文堂、講座民事訴訟法・167頁以下)。言うまでもなく専門技術的裁量は科学についての裁量である。原田の言う通り、科学的真理は客観的に一つであり、政策的裁量のようにいくつか選択肢がある訳ではない。従ってその当否の判断は、裁判官が直接審査して真実を究明しなければならない。行政の「専門技術的裁量」を尊重することでは済まない訳である。これすなわち、控訴人が「違法」であると原判決を論難する「判断代置」ということになる。

 原判決のどこが「判断代置」であるか控訴人の論難は明確ではないものの、専門技術的裁量の場合は判断代置をすることが出来るというだけでなく、真相究明に必要な限りしなければならないのである。これが原田のいうところである。原田は彼の定義する政策(控訴人の定義するものとは明らかに違うのであるが)に関する限りその当否について判断過程統制方式を、科学的真理に基づかなくてはならない専門技術的裁量については判断代置方式を含む統制が必要だと言っているのである。控訴人は原田を援用する以上、その所論に従うのが当然であろう。

 控訴人は判断過程統制を認めるかどうか明確にしないまま原田の所論を反対の方向に歪曲する援用をして、ひたすら原判決に判断代置があって違法だと論難しているのである。このように論を立てることは、裁判の論争の初歩を弁えていないといわざるを得ない。

 さらに、都市計画にあたって考慮すべき事項の中心、少なくとも不可欠の構成要素が環境であることは既に述べた通りである。原判決はかかる視点から、騒音に象徴される環境を充分考慮しなかったことは考慮事項の欠落であり、地下、高架の構造形式等の判断過程に裁量の範囲を逸脱した過誤があるとして、本件都市計画決定(平成5年)が著しく違法であると判断するとともに、同様の視点から都市計画事業認可そのものにも2点の重大な違法があるとして、本件事業認可を取り消したのであるから、これこそ都市計画法の本体に則した判決であると言わなければならないのである。

 なお、事業認可そのものの違法性は後述するが、事業認可における建設大臣の裁量も政策的専門技術的裁量であるから、都市計画決定と同様な問題があるだけではなく、事業認可処分は強制的権利制限を伴う明確な行政処分であるから、その裁量に対する審査は格段に厳しくなければならないのは当然である。

 

 役人の腐敗と醜態は、今や我が国の世界に対する顔である外務省まで明々白々となっている。このような時に控訴人らが前述のようなことを言うのは、最も恥知らずな三百代言という外はない。

 些か宥恕して考えれば、原審において本件連続立体交差事業が本来の目的に反して不動産開発を軸とする政・官・財の利権事業であり、東京という日本の首府の環境を根底から破壊するものであることを完膚なき程に看破証明されたため、このようなことしか出来なかったのかも知れない。いや、確かにそうであろう。彼等は原審の大半を、本件都市計画決定及び都市計画事業について建運協定によるものであることを前提にその「適法性」を論じていたにもかかわらず、敗色が濃厚となるに及んで東京都知事を参加させ、にわかに議論を180度転換し、連立事業という新しい制度(都市施設)が生まれる前の、従ってこれが求めている手続や内容を何ら伴っていない約40年も前の都市計画決定による議論に切り換えた。しかも、建運協定や連立事業という言葉すら使わなくなって失笑を買い、全面的に敗訴したからである。普通ならこれを反省して議論するものであるが、本件事業の本体に即して論を進めると勝ち目がないとみて、恥の上塗りでしかないのだが、この議論をさらに酷く蒸し返しているのである。地下と高架は土地利用の点で同じであるという主張を「一概に決することは出来ない」(控訴人関東地方整備局長控訴理由書140頁)という言い回しでおずおずと同じことを繰り返している。「地下と高架は同じ」だというのはまさに鷺を烏と言いくるめる三百代言そのものであり、「役人を野放し」にしてもよいと開き直るのは、これに勝るとも劣らないであろう。

 

 

 

 

 

第2 側道の地権者に連立事業認可の取消を求める原告適格を肯定したことについて

 

 

1.原判決の論理

 

 本件連立事業認可の取消を求める原告適格について、原判決は、「付属街路は、高架施設の存在を前提として都市環境の保全に資する目的で設計されるものであり、・・付属街路に係る都市計画は、主たる都市計画事業である鉄道の高架化事業に付随する従たるものというべき」(原判決114頁)であるとし、「本件各認可に係る事業の対象土地全体を一個の事業地と考え、同事業地の不動産に権利を有する者が、本件各事業認可全体につき、その取消しを求める原告適格を有する」(原判決115頁)と判示した。

 原判決が、「事業地の周辺地域に居住し又は通勤、通学するにとどまる者」について原告適格を認めなかったことは、前述のとおり決して正当と評することはできないが、本件連立事業の付属街路事業認可の事業地の不動産に権利を有する者に本件連立事業認可の取消を求める原告適格を認めたことは、それ自体妥当であり、控訴人の反論は失当である。

 

 

2.控訴人(一審被告、以下同じ)の控訴理由の要点

 

 控訴人は、控訴理由書(15頁〜20頁)で、以下のように述べて原判決を批判し、付属街路事業地の不動産に権利を有する者には本件連立事業認可の取消を求める原告適格は無いと主張する。

(1)本件各事業認可は、1個の鉄道事業認可と6個の各付属街路事業認可とから なり、いずれも別個独立の処分であって、それぞれの事業認可についてそれぞ れの事業地(法62条1項)が定められている。

 最高裁平成11年11月25日判決(判時1698号66頁)は、事業地内

 の不動産につき権利を有する者は、認可等の取消しを求める原告適格を有する と判示する根拠として、都市計画事業の認可が告示されると、その事業地内の不動産につき権利を有する者に、建築制限、譲渡制限、土地収用受諾義務等の法的効果が生ずることを挙げている。

 そのような効果を受ける者とは、当該認可に係る事業地内の不動産につき権利を有する者であって、付属街路事業地の不動産に権利を有する者は、本件連立事業認可によって上記の法的効果を受けることはない。

(2)原判決は、本件各付属街路事業と本件鉄道事業とが実質的には一つの事業を形成するというが、これらは都市計画事業として別個独立のものであり、独自の存在意義を有し、それぞれ別個独立の認可の対象となっている。本件各付属街路事業が本件鉄道事業に伴う関連事業であり、本件鉄道事業と併せて東京都 が施行するものではあるとはいえ、このことによって別個独立の事業認可であるという性質が変わるものではなく、「両者が相俟って初めて一つの事業を形成するという実質」を有するものではなく、これらを一体として評価すべきものではない。

 原判決は、「事業地」が都市計画法では事業認可ごとに定められるものである

という点を看過し、都市計画法の定める「事業地」の概念を不当に拡大するもの

であって、都市計画法における「事業地」の概念を誤るものというほかない。

 

 

3.控訴人の控訴理由に対する反論

 

 しかし、控訴人の主張は、本件付属街路事業が本件線増連立事業という1つの事業の構成要素の一部分であって、独立した事業としての「独自の意義」がないという実質を全く見ようとしない形式論にすぎない。

 

(1)原判決が本件鉄道事業と本件各街路事業を実質的に「一体のもの」とみなし た理由は、以下のとおりであり(原判決114頁)、それ自体正当である。

 @ 調査要綱(甲7及び乙1)において、連立事業調査の際の事業計画の作成 にあたっては、鉄道と側道は一体的に設計されるべきものとして取り扱われていることが認められる(同要綱5−3の標題、5−5−1E、図15)。

 A 実際上も、鉄道に沿って住宅地が連続している区間において鉄道を高架化する場合には、高架施設が生む日影により日照阻害が生じ得ることから、それを防ぐためにも特に高架施設の北側において高架施設に沿って空間をあけるために付属街路を設置することが必要不可欠である。

 B 昭和51年4月28日付け運輸省鉄道監督局長・建設省都市局長・建設省道路局長通知「連続立体交差化事業の取扱いについて」において、鉄道の高架化に関連して、都市環境の保全に資する目的で、高架構造物に沿って、住宅の用に供している土地が連たんしている区間に設置される道路を「関連側道」と して連立事業の一部と位置づけたうえで(甲第193号証「連続立体交差事業の手引き」38頁)、その幅員及び設置に要する費用の都市計画事業者と鉄道事業者の間における負担割合等を定めている。

 C 付属街路は、高架施設の存在を前提として都市環境の保全に資する目的で連立事業の施行者である都道府県等によりつくられるものであるから、連立事業の高架施設の一部と考えなければならず、Bの通達もその趣旨でなされている。

 

(2)本件鉄道事業と付属街路事業との一体性の法的根拠

 

  そもそも本件鉄道の線増連立事業は、昭和44年9月1日に建設省と運輸省 との間で締結された「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」(以下「建運協定」という)及びその「細目協定」ならびに建運協定第11条により制定された「調査要綱」に従って施行される都市計画事業である。建運協定第3条1項は、「建設大臣又は都道府県知事は都市計画法の定めるところにより、連続立体交差化に関する都市計画を定める」と規定しており、「連続立体交差事業」が一つの都市計画事業とされていることは議論の余地がない。

 かかる一個の連立事業を実施する際に行われる「連立事業調査」においては、単に鉄道の設計を行うのではなく、広域及び周辺市街地の現状における課題を把握し、連続立体交差事業の必要性を明確にした上で、都市計画の総合的検討を踏まえて関連事業計画、高架下利用計画と一体的に鉄道、側道等の設計を行い、さらに計画の総合的な評価を行うために総合アセスメント調査を行うこと(調査要綱1項第3段落)とされていることは原判決が判示しているとおりである。すなわち、建運協定とその細目協定及び調査要綱は、当時の建設省と運輸省の行為を拘束する規定であり、いわゆる法規範性を有することは明らかである。そしてこれらの規定によって、本件線増連立事業は一つの事業と位置づけられているのであり、鉄道の連続立体交差化と付属街路建設及び鉄道と交差する道路の建設は、法的には単一の事業たる本件線増連立事業の構成要素のそれぞれ一部分をなすと考えるべきもである。原判決が、本件鉄道事業と付属街路事業とを実質的に一体の事業とみなすとした法的根拠はこの点にある。

 控訴人の主張は、このように鉄道と道路との連続立体交差化を目的として、鉄道事業と道路事業とを組み合わせて1つの都市計画事業として行うことと公 的に定められた連続立体交差事業というものの存在自体を全く無視するものであって、それ自体として失当との誹りを免れ得ない。

 

(3)本件鉄道事業と付属街路事業との実質的一体性

 

 また、実質においても、本件鉄道事業と付属街路事業とは一体として実施されているものであることは明らかである。

 本件線増連立事業のように、鉄道に沿って住宅地が連続している区間において鉄道を高架化する場合には、高架施設の日影により生ずる日照阻害を防ぐために付属街路を設置することが必要不可欠であり、実際に本件各付属街路事業認可は、上記調査要綱に準拠して本件鉄道の連続立体交差化と一体のものとして計画されたのであって、本件連立事業認可に必然的に伴う措置として行われたものであることは争う余地はない。

 控訴人も、「本件各付属街路都市計画は9号線都市計画の存在を前提としているものである」(控訴理由書19頁22〜23行目)と述べているのであって、その意味は、9号線都市計画の存在なくして本件各付属街路都市計画はなく、本件各付属街路都市計画のない9号線都市計画は存在し得ないという関係にあることを自認したものにほかならない。

  それにもかかわらず、控訴人は、鉄道の連立事業と付属街路事業は、それぞれの事業地の地権者が別個に当該事業のみの違法性を主張して抗告訴訟を提起することができるだけだと強弁するのは一体何故であろうか。そもそも、本件のように鉄道連立事業と付属街路事業とが主・従の関係にある場合、鉄道連立事業の違法性は付属街路事業認可自体の取消事由となり、付属街路事業が違法として取り消されれば、付属街路の無い高架式鉄道連立事業というものは存立し得ないのである。したがって、これら各事業を分離してそれぞれの事業地の地権者がそれぞれ別個に取消訴訟を提起できるだけだとするのは、全くの空論にすぎず、抗告訴訟の提起を封ずるためにのみする主張といわざるをえない。

 

(4)抗告訴訟の原告適格(行訴法9条)に関する最高裁判例との適合性

 

 さらに、本件線増連立事業のように、鉄道に沿って住宅地が連続している区 間において鉄道を高架化する場合には、高架施設の日影により生ずる日照阻害

 を防ぐために付属街路を設置することが必要不可欠であり、前述のとおり制度 上もそのように定められているのであって、本件各付属街路事業認可は、本件 連立事業認可に必然的に伴う措置として行われたものである。それゆえ、本件 付属街路事業の事業地内の不動産に権利を有する者は、本件連立事業認可により「自己の権利若しくは法律上保護された利益を必然的に侵害されるおそれのある者」に該当することは争う余地がない。

 本件付属街路事業の事業地内の不動産に権利を有する者に本件連立事業認可の取消を求める原告適格を肯定することは、行政事件訴訟法第9条が規定する「当該処分の取消を求める法律上の利益を有する者」とは「当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者をいう」とする従来の最高裁判例の判旨にも十分に適合しているということができる。

 これに対して、控訴人は、原判決の判断が最高裁平成11年判決に抵触し、誤りであるというが、最高裁平成11年判決は、道路の沿線住民について抗告訴訟の原告適格を否定したことにおいて不当であることは、既に詳細に論じたとおりであるが、そのことを別にしても、同最高裁判決は、「自己の権利若しくは法律上保護された利益を必然的に侵害されるおそれのある者」が原告適格を認められるとする行政訴訟法9条の解釈原則を否定するものではなく、本件のような一つの連立事業の一部であるか、すくなくとも実質的に一体である付属街路事業の事業地に権利を有する者を排除するとは全く言っておらず、控訴人は最高裁平成11年判決の判旨を不当に拡張して本件に適用しようとするものであって、失当である。

 

 

4.結論

 

 よって、原判決が、本件付属街路事業の事業地内の不動産に権利を有する者に本件連立事業認可の取消を求める原告適格を肯定したことは正当である。

 

 

 

 

 

第3 本件線増連立事業地の表示の都市計画との不一致について

 

 

1.原判決の論理

 

 本件連立事業認可の事業地が都市計画決定における事業地と一致していないことにつき、原判決は、「認可申請に係る事業地の範囲は都市計画におけるそれと一致することを要するというのが法の趣旨」、「本件鉄道事業を行うのは甲部分、本件線増事業を行うのは乙部分というように截然と区分することはできず、甲乙両部分を通じて双方の事業が渾然一体として行われるというべきものである」として、「本件鉄道事業認可申請におけるの事業地の範囲は、実際に本件鉄道事業の一部である工事を行う地域を同事業の事業地としていない点でそもそも過誤がある上、その基となる都市計画である平成5年決定における事業地の範囲と明らかに一致していないといわざるを得ず、本件鉄道事業認可はこれを看過してされた点でも違法なものといわざるを得ない。」(原判決116頁〜119頁)と判示した。

 

 

2.控訴人の控訴理由の要点

 

 この点につき控訴人は、控訴理由書(23頁〜34頁)で、以下のように述べて原判決を批判し、本件鉄道事業認可と都市計画決定の事業地が一致していないことは違法ではないと主張する。

(1)本件鉄道事業の事業地が都市計画施設の区域外にわたっているという事実は 全くなく、本件鉄道事業の事業地はすべて都市施設の区域内にある。線路を増設する事業に係る部分は含まれていないが、線増事業は、鉄道事業者の本来的な事業であることから、小田急電鉄が実施主体として行うこととし、参加人が事業主体として施行する本件鉄道事業の対象には含めていないからである。

(2)法61条1号にいう「都市計画と適合」とは、都市計画事業の内容が、都市計画と矛盾なく、これと両立することを意味し、かつこれに尽きる。事業の内容が都市計画と完全に一致することを要しない。

 都市計画決定は、その性質上、地理的に可分なものであって、都市計画のうち一部のみを都市計画事業として実施することが可能である。都市計画法は、都市計画決定の一部のみについて都市計画事業を実施することを当然許容している。(都市計画法解説293、294頁)

(3)また、都市計画法は、都市計画事業を都市計画施設の整備を実現するための一つの手法として認めたものであって、それ以外の公物管理法によって都市計画施設の整備事業を実施することも許容している。(都市計画法50講59、182頁等)

 都市計画法は、都市施設の整備に関する事業等を、専ら都市計画事業として施行しなければならない旨の規定を全く設けていない。

 都市計画法上、「都市計画事業として施行する」と規定しているのは、11条1項10号「流通業務団地」、12条1項1号「土地区画整理事業」、同2号「新住宅市街地開発事業」、同3号「工業団地造成事業」、同4号「市街地再開発事業」、同5号「新都市基盤整備事業」である。

(4)法60条3項1号が、事業地を表示する図面を認可申請書の添付書類としているのは、事業地が都市施設の区域外にわたってないかを確認するためであると解するのが相当であり、事業地と都市計画区域が完全に一致していることを要求しているとの根拠とはならない。

(5)都市施設に関する都市計画決定において定められるのは、都市施設の位置及び区域である。原判決は、都市計画と都市計画事業との関係を正しく理解せず、これらを混同している。

(6)本件鉄道事業認可により収用権又は使用権が発生する土地の範囲は明確に特定されており、土地に関し権利を有する者が自己の権利に係る土地が事業地に含まれるかどうかを容易に判断することができる。

(7)事業認可により収用又は使用の対象となる土地とは、当該都市施設の本来の能にとって必要な土地、すなわち、将来にわたって継続的に当該都市施設の利用に供されることとなる土地をいう。鉄道高架事業のための仮線敷用地など、事業施行に当たって一時的に使用するにすぎない土地については、都市計画事業の事業地に含めることはできない(都市計画法50講189頁等)。

 収用権の発生等の法的効果が及ぶ土地を意味する事業地と、実際の工事が行われる土地とは別個の概念であるから、両事業の工事が一体として行われることをもって、両事業の事業地がせつ然と区別することができないというのは、何ら理由となりえない。

(8)建運協定は、連続立体交差事業を実施するに当たって、都市計画事業施行者(都道府県)と鉄道事業者との間で費用負担等の調整が必要となったことから、これらの問題を解決するために建設省と運輸省との間で締結されたものであり、都市計画法とは別個のものである。都市計画法の「事業地」は、専ら同法の規定に基づいて定められるべきであって、建運協定の細目協定が都市計画法の「事業地」の概念を決めるものではない。

 

 

3.控訴理由に対する反論

 

 控訴人の主張は、本件鉄道の線増事業と連立事業とを、その実態を無視して分離し、それぞれが独立した事業であるとする空論に基づくものであり、その前提において非常識との誹りを免れないばかりか、およそ都市計画の意義を理解しない謬論といわざるをえない。

 

(1)都市計画法の趣旨と都市計画事業

 

 都市計画法の趣旨は、第1条の「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もって国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与することを目的とする」との文言、第2条の「都市計画は、農林漁業との健全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活及び機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的な利用が図られるべきことを基本理念として定めるものとする」との文言、及び第3条の「良好な都市環境の形成に努めなければならない」との文言などから伺われるように、憲法第25条や第29条を念頭に置いた福祉国家の理念から、環境との調和を図りつつ都市の秩序ある発展を図ることである。

 したがって、都市計画はこのような趣旨に合致するものとして策定されなければらず、都市計画事業もそのような都市計画に適合していなければならないことは当然である。本件線増連立事業の都市計画は、全体として上記都市計画法の趣旨に合致するものとして策定されたものだと言う以上は、当該都市計画の範囲内であるからと言って恣意的にそのうち一部分だけを取り出して都市計画事業認可申請することも、そのような申請に対して認可を行うことも、全体としての都市計画に適合しないものとなる。

 しかも、都市計画施設に関する都市計画決定が告示されたときは、施行区域内の土地につき一定の利用制限や譲渡制限(法第53条ないし57条の6)がなされるが、これは公共の福祉のための財産権の制限であるから、必要性のない都市計画決定が許されないことは当然である。すなわち、都市計画事業を施行することを想定していない土地に対する不必要な都市計画決定は違法であり、逆に言えば都市計画決定をした土地について施行される事業は当然都市計画事業として行われるべきものであって、控訴人の言うように、「都市計画のうち一部のみを都市計画事業として実施することが可能である」などと言う論理は、必要性がなくとも広く網をかけるように都市計画決定しておくことも許されるというに等しくおよそ上記都市計画法の趣旨に反するものと言わざるを得ない。

 

(2)本件線増連続立体交差事業と線増事業との一体性

 

 @ また控訴人は、「都市計画決定は、その性質上、地理的に可分なもの」であることを理由として、都市計画のうち一部のみを都市計画事業として実施することが可能であると主張する。

 しかし、都市計画決定のすべてが「その性質上、地理的に可分なもの」であるということはできない。確かに都市計画決定の中には、「地理的に可分なもの」があるかもしれないが、本件線増連立事業は、以下のとおりその実態からして、到底「可分なもの」ではあり得ないのである。

 

 A 原判決は、本件鉄道の線増化と連続立体交差化を、工事の実態に則して観察してこれを「渾然一体として行われる」事業とし、都市計画決定にかかる事業地と本件各事業認可の事業地との不一致を違法と断じた。その理由は以下のとおりであって(原判決116頁〜119頁)、極めて常識的で正当である。

  () 本件連立事業及び本件線増事業の工事は、まず線増部分(乙部分)に高架橋を築造し、これに在来線の仮線を設置してその運行に供し、在来線の連続立体交差化部分(甲部分)の在来線を撤去して高架橋を築造し線路を敷設することにより全体の工事が完成するというものであって、完成後は中央の二線が急行線に、外側の二線が緩行線の運行に供されることが当初から予定さている。

    乙部分は、甲部分の高架橋が完成するまでの相当長期間にわたって、在来線の仮線として用いられる上、甲乙両部分に完成した高架橋は、どの部分が在来線でどの部分が線増部分との区別が困難なものである。

    両事業が合併施行されるものであり、乙部分に築造中の高架橋工事のために本件連立事業の経費も支出されていることは、被告も自認している。

    したがって、被告が主張するように本件連立事業を行うのは甲部分、本件線増事業を行うのは乙部分というように截然と区分することはできず、甲乙両部分を通じて双方の事業が渾然一体として行われるというべきものである。

  () 建運協定の細目協定第4条2項では、「連続立体交差化工事のため必要となる仮線の敷設及び撤去は、原則として連続立体交差化に関する都市計画事業の範囲に含めるものとする。」と規定している。

  () 本件連立事業と本件線増事業との境界には容易には決し難い部分があると考えられるのであって、本件連立事業認可申請に添付された事業地を表示する図面が同事業の事業地を正しく示しているか否かについては相当綿密な検討を要することとなるが、本件連立事業の認可に当たっては、そのような綿密な検討がされた形跡はないし、現時点においても、同図面が正しい事業地を表しているか否かは明らかでない。

 

 B 本件線増連立事業とは、本件鉄道の線増事業を高架式で施行することと本件鉄道自体を連続立体交差化することを一括して行い、その結果都市部に巨大な都市施設を作り出す事業である。すなわち、線増部分は在来線を走らせながらこれを連続立体交差化するための仮設橋の役割をも果たすものとして建設されるが、在来線の連続立体交差化の完成後は、撤去されずそのまま残され、しかも新線専用の高架橋としてではなく在来線も含めた本件鉄道全体の運行に供されることとなるのであって(同線のうち両端の二線が緩行、中央の二線が急行とする計画とされている)、工事の過程を見ても、完成後の利用形態を見ても、どの部分が線増事業か、どの部分が在来線の連立事業かを地理的、空間的、物理的に区分することは不可能であるし、また線増部分の土地は決して「一時的に使用するにすぎない」ものでもない。しかも、これだけ巨大な都市施設を建設することが、地域に与える影響は甚大なものがあり、本件事業が全体として都市計画事業として施行されるものとして計画されていたことは明らかである。したがって、本件鉄道の線増事業と在来線の連立事業及び付属街路事業が一体のものとして都市計画決定されてきたのは当然である。

   このことは原判決も一部引用している建運協定第3条(都市計画)、第4条(都市計画事業の施行)、また、これを受けた細目協定第4条(都市計画事業の範囲)を良く読めば、充分分かることである。

   すなわち控訴人がいう線増部分における事業は、在来線部分の仮線としての高架施設と、線増事業の高架施設が一つのものとして建設されるのである。従って、都市計画決定において、建運協定第3条により、二つの事業は一つの計画として定められ、同第4条、細目協定第4条により、線増事業と連立事業という二つの側面をもつ事業としているのである。

   分かりやすく言えば、控訴人のいう線増部分において、都市計画事業である在来線の連立事業が行われる訳である。従って、この大きな部分を本件線増連立事業の事業地から外すことは出来ないにもかかわらず、控訴人は外してしまったのであるから、「都市計画」と不一致というより、認可の対象である事業地が大きく違っていたことは明白であり、原判決の判断に何の誤りもない。

   したがって、本件線増連立事業は、それぞれの部分に分離して都市計画事業として施行することはその事業の実態からして許されるものではなく、そのうち一部分を取り出して都市計画事業認可の申請をし、これを認可したことは、事業の内容が「都市計画に適合」していることを要求する都市計画法61条に明らかに違反しているといわざるをえない。

 

 C さらに、控訴人は、『都市計画法解説』(建設省都市局都市計画課編)の293、294頁や『都市計画法50講(改訂版)』(遠藤博也著、1980年)の59頁、182頁等を指摘し、「都市計画法は、都市計画決定の一部のみについて都市計画事業を実施することを当然許容している。」と主張する。しかし、本件線増連立事業が「可分なもの」だとの前提自体が誤りである以上、この論理に依拠するとしても、本件線増連立事業の一部分のみを都市計画事業として認可を得て施行することが許されるとする論拠にはならない。

   ちなみに、『都市計画法解説』の293〜294頁は、「都市計画施設の整備に関する都市計画事業については、その事業地は都市計画施設の区域の外にわたることはできない。」と記述しているだけであり、明らかに誤った引用である。また『都市計画法50講(改訂版)』の182頁には「都市計画に定められた都市計画施設も、すでに用地取得済みである場合など、都市計画事業として行われる必要はない」との見解が示されている(同頁上段・4〜6行目)が、この見解は「都市計画事業として行なう主たる理由は、用地取得の便宜にある」(同頁上段末行〜下段2行目)との前提に立っている。しかし、都市計画法の趣旨は前記・で詳細に述べたとおり、環境との調和を図りつつ都市の秩序ある発展を図ること(法第1条ないし第3条)にあることは法文上明白であって、都市計画事業として事業を行う主たる理由が「用地取得の便宜」にあるという前提自体が、都市計画法の趣旨からして疑問である。この見解は土地収用法のほかに、序論で述べた都市計画の重大な意義により都市計画法が特に設けられた趣旨を全く無視しているといわざるをえない。

 

(3)都市計画事業の根拠法令

 

  さらに控訴人は、「都市計画法上、都市施設の整備に関する事業等を専ら都市計画事業として施行しなければならない旨の規定は存在せず、当該事業を都市計画事業として施行しなければならない場合については、各個別法によって明文規定が設けられている」(理由書26頁)と主張し、個別法規で『都市計画事業として施行する』と規定している「代表的なもの」として、法11条1項10号の『流通業務団地』(流通業務市街地の整備に関する法律)、法12条1項1号『土地区画整理事業』(土地区画整理法)、同2号『新住宅市街地開発事業』(新住宅市街地開発法)、同3号『工業団地造成事業』(首都圏の近郊整備地帯及び都市開発区域の整備に関する法律)、同4号『市街地再開発事業』(都市再開発法)、同5号『新都市基盤整備事業』(新都市基盤整備法)を指摘する(理由書25〜26頁)。

  しかし、前述のとおり、鉄道の連立事業が都市計画事業として行われるべきことは建運協定及びその細則等のいわゆる「個別法規」に明記されているのであって、控訴人の主張は本件連立事業を都市計画事業として行う必要がないとする理由にはまったくならない。

  建運協定等は、法律、政令、省令という形式をとってはいないが、法律、政令、省令のみが行政法規でないことは、判例・通説がつとに指摘しているところである。「通達」のなかにも、「実質上法令の補充的な意味を持ち、それ自体法規的性質を持つものがある。この場合にはこれに違反する行為は違法となるを免れない。」(田中二郎著『新版行政法上巻(全訂第二版)』166頁)

  この点については、本件の当事者でもある高品斉らが被告東京都知事等に対して提起した住民訴訟(東京地方裁判所平成2年(行ウ)第232号等)の判決(平成9年2月25日)も、「道路と鉄道との立体交差に関する法令の規定」として建運協定の存在を指摘(同判決11頁)した上、序論で一部核心部分を引用したが、次のように判示し、建運協定等の法規範性を認めている。「連続立体交差化事業そのものは鉄道建設事業であるが、都市計画事業としてのその施行者は、右事業の地域的、資金的な規模の大きさ、都市計画上の重要性及びその責任の重大性に鑑み、都道府県又は政令指定都市とすることが所管官庁における指導基準とされており(建運協定)、本件のように鉄道増線工事も並行して施行されることも考えれば、立体交差の構造、方式は、関係事業者である東京都と鉄道事業者の協議を経て、都市計画に反映されるべきこと」である。(同判決書77頁)

  連立事業は、道路、鉄道、再開発という3つの領域の関連において行われる事業であるが、道路法、鉄道事業法等の法令を補充するものとして建運協定等が制定されたのであって、これが法規範性を有すること、これらの協定等によって都市計画事業としての連続立体交差化事業が制度として確立したことは、建設省、運輸省等の中では当然のこととされていたのである。

  これは、乙第37号証の建設省らが編集した「連続立体交差事業の手引き」に、「連続立体交差事業は(いわゆる建運協定)により実施されてきた」(1頁)と記されているからも明白である。

 

 

4.結論

 以上からも明らかなように、本件都市計画事業認可は、その前提とされる都市計画とその事業地の範囲に不一致があり、当該都市計画に適合していないことは明白であって、控訴人の主張は失当である。

 

 

 

 

 

第4 事業施行期間の適切性について

 

 

1.原判決の論理

 

 本件鉄道事業認可の施行期間の適切性について、原判決は、「本件線増事業は、昭和45年に事業の認可を受けてから既に20年以上経過し、その完成予定日が本件鉄道事業認可申請から1年足らず先の平成7年3月末とされていたにもかかわらず、在来線の仮線として使用し得る高架橋は全くなく、それに必要な用地すら全部は取得せず取得率は86%にとどまっていた」、「その後の経緯からしても、本件鉄道事業認可による施行期間も経過した後の平成12年4月に至ってようやく1.9qの区間について仮線として使用し得る高架橋が完成したにすぎない」、「このように本件鉄道事業と密接な関係を有し、かつこれに先行している本件線増事業の施行が大幅に遅れていたのであるから、建設大臣としては、その進捗について十分な見通しを行い、その結果に基づいて本件鉄道事業の施行期間を定めるべきであったと考えられるところ、建設大臣がこのような検討を行った形跡はない」、「いつ着手し得るかも不明な事業について終期を平成12年3月31日と定めたことも合理的な根拠に基づくものとは言い難い上、このような状況下で認可をすること自体にも疑問があるといわざるを得ない」として、申請にかかる事業施行期間が適切であるとしてこれを認可したことは、到底合理的な判断とは言い難く、本件連立事業認可は、この点において違法に判断を誤ったものというべきである(原判決119頁〜122頁)と判示した。

 

 

2.控訴人の控訴理由の要点

 

 この点につき控訴人は、控訴理由書(34頁〜43頁)で、以下のように述べて、建設大臣が申請にかかる事業施行期間を適切であると判断したことに何ら不合理な点はなく本件連立事業認可は適法であり、そもそも原判決は事業施行期間の適切性に関する建設大臣の判断に裁量を認めていない点及び建設大臣の判断の合理性の前提となる事実の認定及び評価を誤っている点で不当であると主張する。

(1)事業認可の要件として事業施行期間が適切であることと規定されている趣旨は、認可された事業の施行期間は、事業者に付与された事業施行権(土地収用権等)の存続期間であることから、事業施行期間中は、法69条以下に規定する土地等の収用等、65条に規定する建築等の制限、法67条に規定する先買い権など一定の法律効果が生じることになるため、事業地内の不動産に権利を有する者の法的地位を長期間不安定にすることのないよう、事業施行期間が事業の実現に当たって不必要に長いものでないかを、事業地の面積や設計の概要、資金計画を踏まえて確認することにある。

 したがって、事業施行期間は、事業の完了を見込める期間でなければならない反面、不必要に長いものであってはならず、施行期間として相当なものであることを要する。

(2)もっとも、事業の完了の見通しは将来の予測に係る事項であるため、事業施行をめぐる諸事情の変化により、当初の事業認可時の事業施行期間で事業が完了しない場合も当然あり得る。したがって、事業施行期間で事業完了見込みを確認するといってもさほど厳密なものではなく、将来、必要に応じ、法63条の変更により弾力的な取扱いをすべきことが当然予定されている。

(3)法61条1号の事業施行期間の適切性の要件に適合するか否かは、・同号が「適切」という抽象的な文言で規定しているにすぎないこと、・事業施行期間の適切性は、当該事業の規模、事業地の面積、設計の概要、事業地の取得ないし利用の難易など様々な事項を考慮し、これらを総合して事業の完了見込みの確認という将来予測をするものであり、政策的、技術的な裁量を必要とする事項であること、・都市計画法は、厳密な事業完了見込みの確認までは要求しておらず、事業施行期間の適切性を相当幅のある概念としてとらえていると解されることなどからみて、具体的にどの程度の期間が事業施行期間として適切であるかは、建設大臣の広範な裁量権の行使にゆだねられているというべきである。

 したがって、申請にかかる事業施行期間が適切であるとした建設大臣の判断は、建設大臣がその広範な裁量権の範囲を逸脱し、あるいはこれを濫用したと認められる場合に限って違法となるものである。

(4)原判決は、事業施行期間の適切性の要件適合性について自ら全面的に審査、判断し、これをもって建設大臣の判断に代置しており、原判決はこの点に関する建設大臣の裁量を認めていないのではないかと推測され、それは司法審査の在り方として誤っている。

(5)建設大臣のした事業施行期間の適切性判断に不合理な点はなく、適法である。

 

 

3.控訴理由に対する反論

 

(1)法第61条の趣旨と建設大臣の判断の覊束性

 

 しかし、控訴人の主張は、都市計画事業の施行期間の適切性に関する建設大臣の判断を最も高度な自由裁量に委ねる論理であるが、このような広範な自由裁量論は、裁判規範としては全く意味がなく、今日の行政法学ではもはや時代遅れである。

 法第61条が事業認可の要件として事業施行期間が適切であることと規定した趣旨は、控訴人も詳述(前記2(1))しているように、「事業地内の不動産に権利を有する者の法的地位を長期間不安定にすることのないよう、事業施行期間が事業の実現に当たって不必要に長いものでないかを、事業地の面積や設計の概要、資金計画を踏まえて確認することにある」のであって、それゆえ「事業施行期間は、事業の完了を見込める期間でなければならない反面、不必要に長いものであってはならず、施行期間として相当なものであることを要する」ことも当然である。しかも、「事業の完了の見通しは招来の予測に係る事項であるため、事業施行をめぐる諸事情の変化により、当初の事業認可時の事業施行期間で事業が完了しない場合も当然あり得る」のも理解できる。

 しかし、控訴人はそのことから、「事業施行期間で事業完了見込みを確認するといってもさほど厳密なものではなく、将来、必要に応じ、法63条の変更により弾力的な取扱いをすべきことが当然予定されている」と著しく論理を飛躍させているが、上記法61条の趣旨に照らせば、結論は逆にならざるをえない。

 控訴人も言うように、認可された事業の施行期間は、事業者に付与された事業施行権の存続期間であり、それは事業地内の土地の権利者にとっては土地の利用制限や収用を受ける地位に置かれるなど自己の財産権に対する制限を受ける期間にほかならない。憲法29条に基づく財産権の制限は、合理的なものでなければならないこと(合理性の基準)はいうまでもないところであり、建設大臣の事業施行期間の適切性に関する判断も合理的なものであることを要するのであって、序論で述べた通り、裁量には強制的権利制限を伴う行政処分であることなどから厳しい制約があり、自由裁量に委ねることは許されない。

 そこで、本件連立事業認可に当たって、事業の施行期間の適切性についての建設大臣の判断が合理的なものであったか否かは、当然に都市計画よりも厳格な基準に基づき司法審査の対象となり得る。

 原判決は、前記1のとおり、それまでの線増事業の進捗状況をふまえ、本件連立事業認可申請書及び同書の添付書類等に基づいて、同事業の施行期間の始期を平成6年6月3日とし、終期を平成12年3月31日と定めたことが、合理的根拠に基づくものと言えるか否かを具体的に検証した上で、建設大臣の判断が確たる根拠に基づくものとは認められず、違法であると判示したものであって(原判決120頁〜122頁)、その判断は極めて常識的で正当である。控訴人は、原判決を、「事業施行期間の適切性の要件適合性について自ら全面的に審査、判断し、これをもって建設大臣の判断に代置しており、原判決はこの点に関する建設大臣の裁量を認めていないのではないか」と批判するが、原判決は建設大臣の事業施行期間の適切性判断の過程が合理的なものであったか否かについて判断を行った結果として、建設大臣がした判断を批判しているのであって、単に価値判断を異にする政策を代置したものではなく、控訴人の批判は失当である。

 

(2)建設大臣の判断の非合理性

 

 一方、建設大臣の判断が適法なものであったとして控訴人が指摘する事由(控訴理由書37頁〜43頁)が、いずれも、本件事業の施行期間を平成6年6月3日から平成12年3月31日までとしたことが適切であったことを何ら裏付けるものでないことは明らかである。

 

 @ 第1に控訴人は、建設大臣は、都市計画事業認可を担う行政庁としての知識・経験に基づき、本件事業施行期間は、都市高速鉄道に係る過去の多数の事業認可の施行期間と均衡を失するものではないと判断したものであり、具体的な問題点が指摘されない限りは、この判断に不合理な点はないという。

 しかし、連立事業の現場は、それぞれ前提事情を異にし、単に過去の事業認可の事例と対比したというだけでは、いかなる事情がどのように事業の施行期間に影響するものかにつき何ら具体的な検討がなされたとは言えず、何ら本件事業の完了までに必要な事業期間を予測させる根拠とはなしえない。

 

 A 第2に控訴人は、本件線増事業については、鉄道事業者である小田急電鉄が、運輸大臣及び関東運輸局長の認可を受けて実施し、順次本件線増事業に必要な用地を任意取得し、本件連立事業認可時点においてはその取得率は86%に達しており、本件連立事業と同時に工事を行うことにより、平成11年度末までに完成する見通しとなっていた。当初からすべての用地を取得していなくても、取得済みの箇所から順次工事を行うことは何ら妨げないし、残りの用地は全体の14%にすぎず、工事と並行して取得することが可能であると判断されたのであって、建設大臣が本件線増事業の進捗状況についても十分な見通しを行った上で、本件連立事業認可の施行期間を定めたことは明らかであるという。

 しかし、原判決も指摘するとおり、本件線増事業は、昭和45年に事業の認可を受けてから本件連立事業認可の時点までに20年以上が経過しており、当時用地の取得率が86%であったとしても、予定されていた平成7年3月末までに線増事業が完了するとの客観的な見通しは無いと解するので常識的な判断であろう。

 

 B 第3に控訴人は、工区分けによる並行工事をしなければ工期が格段に延びることは、常識として容易に想像し得るところであるから、原判決が判示するように、工区分け施行により具体的にどの程度の期間の差異が生じるかが、「つまびらかとなって」いなければならないとは考えられず、原判決の判断は、工区分け施行により施行期間の短縮が見込まれることを看過するものであって、誤りであるという。

 しかし、本件連立事業は、原判決の指摘するとおり、線増立体交差化による高架橋を在来線の連続立体交差化工事のための仮線とすることが前提となっており、その線増部分の用地取得も当時未だ86%で、しかも何箇所も分断箇所があったのであるから、単に「工区分け施行」というだけでは、どの程度の期間で工事が完了するのかを具体的に予測させる根拠とはならないことは明白である。

 

 C なお、控訴人は、事業認可後、当初の予想に反して用地買収が難航し、本件事業施行期間の期間内に事業が完了しなかったため、後に事業施行期間が平成17年3月31日までと変更されたが、原判決が、事業認可後の経緯を判断の不合理性を基礎づける一事情としていることは誤りであるという。

 しかし、原判決は、前述のとおり、本件連立事業認可がなされた平成6年6月の時点における線増事業の進捗状況を実証的に検討し、既に当該線増事業の施行が大幅に遅れていたことを認定したうえで、その時点で本件連立事業の終期を平成12年3月31日と定めたことが不合理であると結論づけており、実際に同年4月に至ってようやく1.9キロメートルの区間について仮線として使用し得る高架橋が完成したにすぎないとの事実は、上記線増事業の進捗が遅れていたことの実証的な裏付けとして指摘しているのであって、本件事業認可後の事情を認可の当否の判定資料にしているのではない。

 控訴人の非難は的を射ていない。

 

 

4.結論

 

 以上からも明らかなように、本件都市計画事業認可は、その適法要件とされている事業施行期間の適切性についての建設大臣(当時)の判断に合理性が認められないことは原判決の指摘するとおりであり、建設大臣の判断はその裁量権を明らかに逸脱し違法であって、控訴人の主張はいずれも失当である。

 

 

 

 

 

第5 判断の対象となる都市計画について

 

 

1.原判決の論理(125〜129頁)

(1)法律上の根拠

 原判決は、違法判断の対象となる都市計画決定は、「平成5年決定」であると判断した。原判決がその理由としてあげている法令上の根拠は

1)都市計画法21条1項が、都市計画は「契機あるごとに全般的な見直しを行ってしかるべきものであることを前提として」、「都市計画の内容がその対象の都市の現状と乖離しないようにすべきことを定めている」と解されること。

2)同法13条1項柱書きが、都市計画を「一体的かつ総合的に定めなければならないもの」と規定していることは、「基礎調査等に基づき何らかの変更をすべき場合には、それが軽易な変更でない限り、これを契機として都市計画全体の見直しをすること」を求めていると解されること。

の2点である。

 また、この解釈を裏づけるものとして、法21条2項が、都市計画の変更の場合に軽易な変更の場合を除いて、新規決定の場合の手続を準用するものとしていることを指摘している。

 

(2)事実上の根拠

 また、原判決は、「平成5年決定」にかかる都市計画を違法判断の対象と解すべき根拠となる事実として、

 1)建運協定11条に基づいて制定された本件要綱が、連続立体交差事業調査は「都市計画の総合的検討を踏まえて関連事業計画、高架下利用計画と一体的に鉄道、側道等の設計を行ない、さらに計画の総合的な評価を行うため総合アセスメント調査を行なうものである」と定めているところに従って、「本件事業区間全体について、連続立体交差化の構造の案の検討を含めて本件調査が行われ」たこと。

 2)平成5年決定においては、本件調査の結果、「実際に本件事業区間全体について見直しが行われた」こと。

 3)法14条1項が、都市計画は、総括図、計画図及び計画書によって表示すべきものとしているところ、平成5年決定にかかわる総括図も計画図も「計画全体を表示」しており、計画書における変更後の事業内容の表示も、「変更部分について変更前の内容を括弧書きで示した上で都市高速鉄道9号線のすべての線路部分を記載して」いること。

 4)判断の対象となる都市計画は「昭和39年決定」であるとする一審被告の主張は、昭和60年変更以前の9号線都市計画が、小田急線の線増事業のみを内容としており、本件事業(小田急線在来線部分の連続立体交差化事業)が最初に都市計画の内容となったのは昭和60年変更決定以降であることに照らしても採用できないこと、を指摘している。

 そして、裁判所が実体審理に入ることを阻止しようとして結審まぎわにこの種の抗弁を提起するという一審被告の応訴態度そのものが、「建設大臣が本件各認可に当たって、その基礎となるべき都市計画の経緯すら正しく理解していなかったことを示すものであって、本件各認可が十分な検討に基づいていないのではないかとの疑念すら生じさせる」との評価を示している。

 

2.一審被告の控訴理由の要点(44〜77頁)

(1)原判決の法解釈に対する攻撃

 1)法21条1項の趣旨は、行政庁が「既定の都市計画決定を変更する必要を認めたとき」に必要部分だけを変更することを規定したものである。

 行政処分は外部に表示されることによってはじめて有効に成立する、という一般論(最高裁昭57.7.15判決)に照らしても、一部変更処分として表示された場合、変更決定を受けなかった部分は当初の処分が生きていることになる。最高裁平成11年判決はこの解釈を支持する。

 2)法6条による調査の範囲と、その結果都市計画を変更する範囲とが一致しなければならない必要性はない。また、法13条1項柱書きの規定に基づく都市計画の見直しの範囲と、その結果都市計画を変更する範囲との関係も同様である。

 全体を見直しても、その一部を変更しその余を変更しないとの判断をした場合、「変更を要しない」旨の判断は、外部に告示されない単なる不作為に過ぎず、新たな行政行為としては成立していない。

 3)法21条2項が都市計画の変更について新規決定手続の規定を「準用」すると定めていることは、むしろ原判決と反対の解釈の根拠となる(当然適用される条文ならば「準用」規定は不要である)。

 −一審被告の原判決攻撃の法理論は、おおよそ以上のとおりである。

 

(2)原判決の事実認定に対する攻撃

 1)都市高速鉄道という都市施設について、都市計画に規定すべき内容は、「名称、位置、区域及び構造」であり、「構造」は、「嵩上式、地下式、堀割式または地表式の別及び地表式の構造の区間において…交差するときは、立体交差または平面交差の別を定める」ことに尽きる(法施行規則7条6号)。

 2)連続立体交差化とは建運協定上の概念であって、法が都市計画の内容として要求している「種類、名称、位置、区域及び構造」のいずれにも含まれない。

 3)昭和39年都市計画決定それ自体には記載がないものの、関連図書には、「喜多見から代々木八幡までの区間は高架又は地平区間」として表示されているから、本件事業区間の「構造」は「嵩上式又は地表式」と特定していた。平成5年変更は、地表式の一部(成城4丁目から6丁目)を堀割式に変更するという点以外には構造上の変更を含むものではない。

 4)また平成5年決定は、変更部分以外は告示していないし、総括図、計画図が既定計画部分を色分けして表示しているのは、その趣旨を示すものである。

 −一審被告が原判決の事実認定を攻撃する論理は、おおよそ以上のとおりである。

 もっとも事実認定論とはいえ、一審被告の主張の特徴は、建設・運輸両省が共同で制定した建運協定を、都市計画決定に影響を及ぼすべき法規範としては全く無視し、他方、建設省が単独で制定した施行規則のほうは、これを金科玉条とし、その文言のみにすがりついている立論であるから、事実認定論というよりはむしろ、独自の法解釈論と呼んだほうが適当であろう。

 

 

1.一審被告の控訴理由に対する反論

 

(1)都市計画は、「土地利用、都市施設の整備及び市街地開発事業に関する事項で当該都市の健全な発展と秩序ある整備を図るための必要なものを、一体的かつ総合的に定めなければならない」(法13条柱書)ものである。

 その変更は、法6条1項に基きおおむね5年ごとに行われる基礎調査の結果等により計画変更の必要が客観的に生じたときに行われるべきものである(法21条1項)が、変更後の計画自体も、一体性・総合性を具備しているべきものであるから、特段の事情のない限り、事業認可の基準となるべき都市計画は、最近の変更にかかわる都市計画と解すべきである。

 

(2)一審被告は、変更に先立って従前の都市計画が全体として見直された結果、従前の計画内容を維持することとする意思決定が行政機関内部に存在したとしても、これが「何らかの形で外部に表示されない限り」変更決定と一体をなす何らかの処分にあたるとは言えない、として最高裁昭和57年7月15日判決(民集36巻6号1146頁)を援用するが、失当である。

 上記判決の事案は、道路交通法127条1項に基づく反則金納付の通告が抗告訴訟の対象となる処分にあたるか否かが争われたものであるが、判決が納付通告の処分性を認めなかったのは、通告の効果が「通告を受けた者がその自由意思により通告に係る反則金を納付し、これによる事案の終結のみちを選んだときは、…抗告訴訟によってその効果の覆滅を図ることを許さ」ない反面、反則金を納付せず、後に刑事手続の中で道路交通法違反の成否を争う余地を残していること、言いかえれば当該通告は、国民の権利義務に直接具体的な影響を与えないゆえに処分性を欠く、という理由による。

 反則金の通告自体は、文書によって立派に「外部に表示」されているのであるから、この最高裁昭和57年判決を、一審被告の「外部表示必要説」の論拠に援用するのは、明らかに見当ちがいと言うほかはない。

 

(3)上記の一般論のほかに、本件事業すなわち本件連立事業の認可の前提となる都市計画決定の特定、という具体的問題に即して見ると、一審被告の主張する「昭和39年決定」説の失当性は、ますます明らかである。

 すなわち、連立事業を、都市計画決定として定めるべきことが明らかにされたのは昭和44年のいわゆる建運協定によるものであって、昭和39年都市計画決定時には、このような都市計画施設概念は存在しなかったのである。

 

(4)連立体事業の性質については、東京地裁(民事第2部)平成9年2月25日判決は、それが都市計画の内容として特に重要なものであることを指摘して、「連続立体交差化事業そのものは鉄道建設事業であるが、都市計画事業としてのその施行者は、右事業の地域的、資金的な規模の大きさ、都市計画上の重要性及びその責任の重大性に鑑み、都道府県又は政令指定都市とすることが所管官庁における指導基準とされており(建運協定)、…立体交差の構造、方式は、関係事業者である東京都と鉄道事業者の協議を経て、都市計画に反映されるべきことである」と判示している(77頁)。

 

(5)一審被告は、「連続立体交差化事業」等は、法が都市計画の内容を特定するものとして要求している事項とは別個のものであると主張するが、これはほかならぬ被告自身が関与して定められた建運協定第3条が、「都市計画法の定めるところにより、連続立体交差化に関する都市計画を定める」ことを求めていることを全く無視した主張である。

 この「連続立体交差化に関する都市計画」の趣旨については、更に「連続立体交差事業の手引き」(乙37号証では、その一部のみが提出されている)の中でつぎのように説明されている。

 「側道に関する都市計画は、通常、都市計画法15条および同施行令第9条により、市町村の決定にかかるものであるが、側道と鉄道の高架化は、一体として計画され実施されるべきものであることを考慮して、鉄道に係る都市計画と同時に計画決定するものとする」(81頁)。

 「鉄道に関する都市計画決定については、都市計画決定権者と鉄道事業者が構造、線型等に関して、原則的に合意に達したと思われる段階で、かつ国庫補助事業の補助採択の見通しが明らかになった時点で、都市計画側は事前協議を開始する」(83頁)。

 以上のとおり、連続立体交差化事業にかかわる都市計画は鉄道のみに係る都市計画とは別物で、側道など関連道路に係る都市計画と一体的に、しかも国庫補助事業として採択される見通しが立った時点以降に、策定されるべきものである。

 

(6)なお、一審被告は「都市計画事業が都市計画の内容となることはありえない」とも主張する(52頁)が、「都市計画施設の整備に関する事業」を都市計画事業と言うのであり(法4条15項)、都市計画施設とは都市計画において定められた法11条1項各号所定の都市施設にほかならない。

 従って、「都市計画法の定めるところにより、連続立体交差化に関する都市計画を定める」(建運協定3条)、ということは法11条1項1号の「道路、都市高速鉄道、駐車場、自動車ターミナルその他の交通施設」の一環として、「連続立体交差化施設という交通施設」にかかわる都市計画を決定する、という趣旨である。これは昭和39年都市計画決定(の関連図書)の記載のような、「構造は嵩上式又は地表式」という漠然とした内容で特定されるものでは到底ありえない。

 

(7)連続立体交差化事業が、「都市に与える影響が極めて大きい大規模な事業であ」ること、従って「事前に多角的、総合的な観点から調査、計画を行う必要があ」り、その調査は、「単に鉄道の設計を行うのではなく、広域および周辺市街地の現状における課題を把握し、連続立体交差事業の必要性を明確にした上で、都市計画の総合的検討を踏まえて…」行われるべきものであることは、調査要綱(甲55号証の1,2)に明記されているところである。

 この要領に即した調査は本件事業区域については、東京都によって昭和62年及び63年度にはじめて実施された。

 本件調査は、@広域的条件調査、A現地調査、B周辺市街地状況調査、C街路整備状況調査、D鉄道状況調査という多角的調査をふまえた上で、「都市計画上の問題点整理と連続立体交差事業の必要性の検討」を行なうというプロセスを含むものである。

 参加人東京都は、本件調査の結果、都市計画を見直し連続立体交差事業を都市計画中に取り入れる必要性を認める調査報告書を取りまとめたのであった。

 本件調査直後の都市計画決定は平成2年変更決定であるが、この決定に含まれている変更内容は、世田谷区喜多見9丁目地内に小田急線車庫を設置することに伴う区域の追加にとどまり、本件事業とは全く関係がない。

 結局、本件調査等の結果を反映した連立事業(連立施設)にかかる最初の都市計画が平成5年変更決定にほかならない。また変更決定の内容が、変更部分と従前の計画を維持する部分をあわせて(色分けの方法を用いつつ)表示したものであることは、総括図(丙36の3)の記載自体、および計画書(丙36の1)の説明自体から客観的に明らかである。

 

(8)都市計画事業の認可は、申請にかかる事業と、その前提になる都市計画との整合性を審査するものであると言うべきものであるから、都市計画それ自体の中に連立事業にかかわる計画を含まないもの(昭和39年都市計画決定)が、事業認可手続きにおける審査対象になりうるわけはない。

 連続立体交差化事業にかかわる都市計画が前述(5)のとおり都市施設としての独自性を有していることに照らせば、この独自の事業目的を意識しない段階で策定された都市計画決定やその変更決定の経緯を穿鑿することは、本件を審理する上では無意味なことである。

 本件連立事業にかかわる都市計画は、平成5年変更決定において、はじめて採用されたのであるから、これに先立つ都市計画決定は、本件事業認可の法的適否を審理するにあたって考慮すべき事柄にはなりえない。

 以上の理由により本件事業認可の前提となる都市計画決定が平成5年変更決定であるとした原判決の判断は正当であり、これに対する一審被告の論難は失当である。

 

 

 

 

 

第6 司法審査の誤りについて

 

 控訴人は原判決の司法審査が、都市計画法13条1項5号(以下、後述の点を除いて同号を特定して論ずる意味はないので、都市計画法という)の要件適合性の司法審査のあり方として、「都市計画決定の適否を審査する裁判所は、行政庁が計画決定を行う際に考慮した事実及びそれを前提とした判断の過程を確定したうえ、社会通念に照らしそれらに著しい過誤欠落がある場合にのみ、行政庁がその裁量権の範囲を逸脱したものということが許される」と、判例に従う慎重な手法をとっていることに対し、呆れる外はないが「判例違反の手法である」と大上段に論難しているが、論外である。

 この論難の誤りは、後に詳論するけれども、よく読めばその枠組みは極めて稚拙なものである。

 

・第一命題

  行政裁量には政治的政策的裁量と専門技術的裁量がある。

・第二命題

  前者は国家や地方公共団体の将来の指針や方向性について、人々の間に様々な価値選択があるが、実定法規による客観的な規範化がされておらず、一定の範囲で政策の選択が…行政の任意に委ねられている場合である。

 裁量枠の範囲内での選択は、専ら当事者が自由に出来ることであって、ある一定の選択が法規範によって強制されているわけではない。そこではいずれの選択も法的には同価値ないし代替可能なものであり、行政庁は自己の判断で一つの判断を選択しうる。従って、裁判所は行政庁のした選択の具体的当否について直接審査することはできない(原田尚彦、前掲「裁判と政策問題・科学問題」)。

 代表判例、マクリーン判決(最高裁昭和53年10月4日大法廷)。

 後者は原子炉設置許可処分のようなものであり、安全か否かの評価、判断について現在の科学技術水準に照らし、科学的にみて合理的な判断をすべきものである。従って、安全性の審査の判断について、行政庁の専門技術的判断が尊重されるべきであるが、前者と同様の広範な裁量が認められるものではない。

 代表判例、もんじゅ判決(最高裁平成4年10月29日第1小法廷)。

・第三命題

 都市計画決定は前者の政治的政策的裁量である。従って、裁判所は行政庁のした選択の実体的当否を審査することは出来ない。にもかかわらず、原判決はこれをしている。

 

 極めて単純な三段論法である。

 第一命題は、こうした裁量の分類は相対的便宜的なものでしかないことは判例・学説の常識(原田尚彦「行政法要論」137頁以下、U「法治行政と行政裁量」学陽書房、全訂第4版増補版、芝池義一「行政法総論講義」第5章「行政裁量」70頁以下、第3版増補第1刷、有斐閣、マクリーン判決理由(一)同じ)であるから、これを前提とすれば、こう分類することも出来る。

 第二命題には大きな問題があり、誤りである。

 そもそも、この命題は原田尚彦(以下「原田」という)の上掲同書から借用したものである。従って、まず検討すべきことはこの借用が正しいかどうか、すなわち原田がそういっているのかということであり、言っているとすれば、いかなる論述のいかなる文脈においてであるかということである。

 いかにも姑息で見当違いの「借用」であり、この類が多いので、多少煩雑になるが原田の本書の論述を追っていこう。

  同書の目次は、

 1 問題の所在

 2 政策問題と司法審査

 3 科学問題と政策問題

 4 公害裁判の意義と限界

 5 過去裁判と未来裁判

 6 行政権による危険管理と手続的司法審査の必要性

 7 むすび

 とされているからこれ自体で同書の趣旨・目的はほぼ見当がつくが、1の「問題の所在」を読めばはっきりしてくる。

 「日本国憲法のもとでは、裁判所は憲法自体に例外の定めがない限り…一切の法律上の争訟を裁判する権限と職責を有している。

 近年の民事訴訟(行政訴訟を含む広義の民事訴訟−筆者注)の実績を見ると、高度化した産業技術社会の出現に伴い、人々の社会における利害関係が錯綜し、多面化してきたのを反映して、民事上の紛争事案も複雑多様化し、既存の法規範や法理論の予想しない、さまざまな新規の対立が生まれ…裁判所の判決が求められるようになった。

 紛争の内容の面でも、特別な専門分野にわたる技術的性格を持つ事案が増加してきた。…現在裁判官には広い視野に立ち、非法律的専門知識を駆使して事実認定をすすめ、巧みな法解釈によって法規範の陳腐化を補正し、現代社会にふさわしい紛争解決をもたらすことが期待され…裁判官はもはや三段論法の機械的な適用者たる地位にとどまることは出来ない。

 …司法権はあくまでも客観的な事実認定と法の認識をその本質とするから…そこに司法権ないし裁判作用の限界があるわけである。」

 ここまでくれば分かるであろう。

 原田は近年の科学技術の発展の中における科学問題など、非法律的専門判断を要する紛争における司法審査のあり方を問おうとしているのである。

 その方法の一つとして、この種の事案は政策とも関連するので、これとの違いに着目しているのであり、政策裁量一般を論じているのではない。

 控訴人らのように、行政裁量の「分類」における政策裁量の一般的定義に「借用」すべきものではないのである。これは2の政策問題と司法審査をよく読めばさらに明確となる。

 「政策とは何か、を厳格に定義することは難しい。ここではさしあたり、国家の活動の将来の指針ないしは方向性につき、人々の間にさまざまな価値選択があるが、実定法規による客観的な規範化がなされておらず、国家機関等の適宜な志向選択に委ねられている事項と解しておくことにしよう。

 …法律によって行政庁に認められる裁量権の実体的範囲をどの程度に承認するかは、法の目的や法文の構成、行為の性質などによって異なってくる。同一の不確定概念であっても、国民の権益を拡張する授権的行政処分の要件である場合には容易に幅の広い裁量が認められる。反対に国民の権利・自由を侵害する行為の要件である場合には…裁量の範囲は出来るだけ限定して解釈される…最近では…裁量統制のあり方に…変化が見られる。裁判所は『違法となるかどうか審理するにあたっては…その判断の基礎とされた重大な事実に誤認があるなど右判断が全く事実の基礎を欠くかどうか、又は事実に対する評価が明白に合理性を欠くなどにより右判断が社会通念に照らして著しく妥当性を欠くことが明らかである…と認められる場合に限り、右判断が裁量権の範囲を超え、又はその濫用があった』(マクリーン判決)と認めるにとどまった。…だがこれに反し、最近の判例の中には行政庁の裁量権行使の過程に眼をむけて裁量統制を積極化し、…裁量判断の形成が法の目的に沿って適正に行われているかどうかを審査する事例も出現してきた。

 行政庁が裁量判断を形成するに際し、@考慮すべき事項を見落としていないか、A考慮すべきでない要素を過大評価していないか、B代替案についても考慮に入れて検討したか、なども審理し、…形成過程に不公正、不合理なところがないかどうか監視しようとするのである。

 裁判所によって、こうしたきめ細かい審査が実施され、行政庁が裁量権を行使する際に、社会通念上是認された新しい政策理念(環境はその代表的なものである−筆者注)を配慮したかどうかという点についてまで裁判所が監視することになれば、限られた範囲ではあるが、司法権が行政の政策形成に間接的に影響を及ぼす−例えば開発計画を樹立するに際し、経済性や効率性のみを考慮し、環境保全利益を全く欠く場合にはこれを違法とするがごときである。こうした間接的な司法統制によって…行政裁量の方向性が矯正されていくことは、おそらく司法と行政の望ましい協同形態である…裁判所は…現代の国民的法意識に即した裁判を確保すること…環境権のような新しい理念を取り込んで判例法を前進させていくことは裁判所の使命とされなければならない。」

 間接的であれ、政策形成を司法審査の対象として是正することは裁判所の使命であるとまで原田は言っているのである。

 このように政策をまず人々の間に様々な価値選択があって、実定法規による客観的な規範化がされていない国の方向性などと限定して定義したうえで、かかる政策であっても司法の統制が必要であることを明確にしたうえで、本件の核心である3の科学問題と政策問題において両者の関係を明らかにしながら、科学問題に対する司法審査のあり方に論を進める。

 「はたして、科学問題に代表される…判断を一概に政策問題と同質の問題と見立て、…扱ってよいかには…疑問がある。」として、原子炉の設置許可の取消訴訟などをあげ、「右のような科学的問題にかかわる紛争事例において、専門的知見を持たない裁判官がこれを公正に審理し、客観的真実を見出すことは、確かに容易な事ではないと思われる。在来の行政法学説が、技術的な科学的判断を…司法審査においては専門機関である行政庁の判断を尊重すべき旨説いてきたのは、おそらくこうした認定の困難さに配慮したためであったと推察される。しかし、厳密に考えると政策問題と科学問題はその本質を異にする問題である。

 …政策問題は客観的な法規範が未確立であって、一定の範囲で政策の選択が…行政庁の任意に委ねられている事項である。裁量枠の範囲内での選択は、専ら当事者が自由になしうるところであって、ある一定の選択が法規範によって強制されているわけではない。

 そこではいずれの選択も法的には同価値ないし代替可能なものとして尊重される。…これに対し科学問題は…客観的にはいずれひとつの解答が用意されている筈である。科学的に複数の答が同時に併存しうるものではない。法自体が複数の選択可能性を許容している政策問題と、客観的に唯一の真正な結論が予定される科学問題とは本来異質な問題である…したがって裁判所は…科学問題については判断が容易でないとしても、裁判官は紛争解決に必要な限り、極力真実究明に努め、実体判断を提示すべき立場にある。科学問題の審査においては、このことが基本的出発点とされなければならない。」

 ここまで来れば、原田の論旨は明解である。

 真理はひとつであるから科学技術に関する問題の答は基本的にひとつであり、そうだとするならば、それが困難なことであるとしても、裁判官は自ら直接審査をして真実究明をしなければならないということである。

 言い換えれば、行政庁の専門技術的裁量(判断)を尊重するということでは済まないと言っているのである。

 第二命題の後者の専門技術的裁量において、控訴人らは「行政の専門技術的判断が尊重されるべきものであるが、前者と同様の広範な裁量が認められるものではない」と主張する。あいまいで分かりにくいが、要するに裁量の範囲が政策裁量より狭い、つまり量の差があるといっているだけなのである。本質的に違う、従って真実究明のために裁判官は直接審査しなければならないという上記原田の論とは全く違う。

 さすがにこの部分については原田の名を挙げていない。これこそ、原田が指摘している「克服すべき在来説」なのである。

 第二命題は前者に原田の真意に反する部分を「借用」し、後者はそこまで利用できないので「在来説」をとっている。

 このように、その論旨に反する都合のいい部分を引用すなわち借用して、あたかもその人がそのように言っているかのように言うのは、議論のルールのイロハを弁えないもので、それだけで底が割れるものと言わざるを得ない。

 この類が多いと前述したが、もうひとつの代表例を示しておこう。

 「原判決と同様判断過程統制方式を採った裁判例としては、土地収用法第20条に基づく事業認定を違法とした東京高等裁判所昭和48年7月13日判決…(日光太郎杉事件)が著名であるが、同判決については「裁判所の価値観を全面に出している面がある」(阿部泰隆『行政裁量と行政救済』125ページ)との評価がされているところである」(控訴理由書90頁)

 原判決の判断過程の統制は、もとより太郎杉事件と共通するところがあるが、このような統制は前述の原田の論述が示す通り判例のみならず多くの学説が支持しており、それは裁量の広狭に関わらない。従って、都市計画決定の裁量の「広さ」をいくら論じたところで原判決の判断過程の統制が誤りであることを論証することにならない。

 以上のことは余りにも当然のことなので、これ以上述べない。

 問題なのは、阿部泰隆が「裁判所自身の価値観を全面に出している」として、あたかも彼が太郎杉事件判決に反対し、その文脈で述べているかのように言っているところである。

 ところが同書を読めば全くそうではないことがすぐ分かるのである。

 「第4章 日光太郎杉東京高裁判決の再評価−判断過程の統制手法−…この判決は学界でも一般に高く評価されている。…行政が考慮すべき事項を適切に考慮し、考慮すべきでない事項を考慮にいれたかどうかを中間的に統制するにとどまるべきである。

 そこで日光太郎杉事件本件判決に賛成する学説が少なくないのも当然である。筆者も考え方としては賛成である」(同書116頁より125頁)

 阿部は同判決に賛成し、これを高く評価して本書において論じているのである。控訴人らが前期の文脈で何故阿部の論述の一部を援用しているのか、一番理解に苦しんだのは当人ではなかろうか。

 以上述べた通り、前提となる第二命題が間違っているから、第三命題の成立する余地はないのであるが、ここの誤りは実に重大なので、あえて指摘する。

 第三命題の「都市計画は客観的規範のない政治的政策的裁量である」というのは、よく考えればすぐ分かる大変な間違いである。

 その第一は次の通りである。

 都市計画は歴史的なものであり、所与の時点において法、文化そして人々のコモンセンス(社会通念)等によって定められてきた。またそうでなければならないことは旧憲法下の行政裁判所の時代であっても識者の常識であった。序論で述べた森鴎外の都市計画の著作や、石川等のしかるべき都市計画の文献を紐解けば、直ちに分かることである。

 また実定法規による客観的な規範化がされていない都市計画などあった試しはない。都市計画は都市の成立とそれに相応しい法が生まれなければありえないものである。

 文明が極度に進み、その病理現象ともいうべき環境破壊が顕著となり、しかもその規模が地球規模に広がっているため、これを回避・克服しなければならないという国民の大多数のコンセンサスが確立したのは、今から30年以上前である。

 1967年制定された公害対策基本法および大気汚染防止法等、関係実定法が順次制定されたのはこのために他ならない。

 こと環境だけに限定しても、以上の実定法による、まさに客観的な規範が30年以上前から存在しており、本件原判決が判断の対象とした平成5年2月の本件都市計画決定の頃には、アセスメント条例等環境関連実定法の規範化はさらに進んでいた。のみならず、都市計画法による都市計画(以下都市計画という)の理念(都市計画法第2条)は「健康で文化的な都市生活、機能的な都市活動を確保すべきこと、並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的な利用が図られるべきこと」となっているのであるから、以上に関連する実定法は、序論の別表4、5も示唆する通り膨大なものがあったのであり、さらに法の住民参加の原則、情報公開条例等の存在を考えるならば、都市計画をするにあたっての実定法による客観的規範は充分過ぎるほどあったのである。

 従って、これらに従わなければならない行政庁(本件においては東京都)の裁量は「自由」なものではなく、限定されたものに過ぎなかったのであって、これをして控訴人の言う政治的裁量・政策的裁量の分野とは到底いえないのである。

 従って、都市計画決定を規範から自由な政治的政策的裁量の分野だというのは、単なる非常識を越えた、原判決を誹謗しようとする、まさにためにする三百代言の論難といわなければならない。

 さらに第二の誤りがある。

 都市計画決定の裁量は、単なる政策的裁量ではない。特に本件のように都市を大々的に再開発する鉄道と道路の連続立体交差事業においては、環境科学(これはいうまでもなく学際的である)を別としても、土木工学、建築学、物理学、心理学、美学、文学等の自然科学、人文科学の学際的な科学的判断が必要であることはいうまでもないから、これは専門技術的裁量である。控訴人自身序論で述べた通り、別のところで認めているが、専門技術的と言わず技術的と言い換えている。専門的でない技術というものは存在しないし、現代において技術といえば科学を前提とするものであるから、これは全く同じものであり言い換える必要はない。にもかかわらず言い換えているのは、政策的裁量と専門技術的裁量が本質的に異なるものであり、司法統制の手法も違ってくることを前記の通り原田が明確に述べているものを反対の方向に歪曲して援用している「都合」からなのである。姑息という言葉はまさにこのようなやり方を表現するためにあるのであろう。

 従って都市計画決定の裁量は、その政策性、専門技術性いずれの側面においても成文、不文の客観的規範の範囲内になければならず、とりわけ唯一の客観的真理を追求しなければならない専門技術的側面においては、司法による直接の具体的審査が必要であることは原田の言う通りであり、学説はもとより判例の多くも支持するところとなっている。

 本件連立事業は、先述した通り専門技術的側面の強い都市計画であるから、原判決がこれに対するに直接当否の審査をしているとしても、それは裁判官の当然の義務を果たしているに過ぎないのであって、毫も非難される理由はない。