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意 見 書


一、環境問題が政治の基本的な課題の一つになったのは、ペつに新しいことではない。水俣病を始めとして経済の高度成長・国土開発の進展につれて六〇年代から公害問題が頻発するようになり、しだいに深刻な問題化して一九六七年には公害対策基本法の制定となり、世界的にはローマ・クラブの警告があっておもむろに全地球的な取り組みが始まって、内外相互に響き合うようになったからである。これに対する政治学や行政学の取り組みはその性質上運動面や制度面から接近し、研究よりもむしろ実際に関わり、したがって、環境問題が政治学の立場から学問的に論じられることが多かったとはいえないであろう。とはいえ、現実的な対応はもちろんそれなり進んでいる。
 環境問題が各地で市民運動や住民運動の展開や一部専門家の努力によって取り上げられ、一九七九年には日本環境学会が学者・弁護士・住民などによつて開催され、一九八〇年には東京都でアセスメント条例の制定があり、それ以来多くの自治体に同様の制度が導入され、他方、情報公開も否定しがたい時代の要請となり、東京都をはじめ多くの自治体が情報公開条例を制定し、環境問題に関する制度が形の上ではほぽ整ったかのように見える状況にさえある。たしかに自治体レベルではこのように一応の進展があったが、環境アセス・情報公開のいずれについても国レベルでは法の整備が遅れており、そればかりか自治体に条例はあっても、その運用がはたして制度の趣旨にそっているかとなれば、いささか心許なく、住民サイドに立って運用の実際を見つめると、我々はなお改めて疑念を持たざるをえないのではないか。経済の高度成長と国土開発が進むにつれて自然環境のみならず社会環境の破壊と汚染が深刻化し、他方、問題への警鐘と取り組みが進められたが、にもかかわらず、たとえば窒素酸化物などの大気汚染は逆に悪化の一途を辿っているといわざるをえない。
 もともと環境の破壊や汚染は本来全地球的な問題であり、これが今や地球全体で取り組むべき課題として浮上し、本年ブラジルで所謂地球サミットが開かれるまでになったのは周知の通りである。環境問題はまさに長期的にして且つ刻下の急務であり、これをめぐつてますます数多くの論議が真剣に交わされることは、我々の心から希うところであるが、いずれにせよ正しく論議されることが肝心である。こんなことをあえていわざるをえないのは、我々の足下に進行している環境汚染を現実に阻止する方向において論議が立てられるのでなければ意味がないと考えるからである。
 我々は昨年十一月に公表された小田急小田原線(喜多見−梅ヶ丘付近間)連続立体交差事業(以下本事業という)に関して都環境影響評価条例(以下条例という)に基づくという環境影響評価書案(以下案という)ならぴに住民公聴会の記録およぴ事業者の見解書等を検討したがこの案には看過しがたい重大な問題がある。
 すでに交通公害の専門家である長田泰公氏およぴ斉藤驍氏ほか五九名の公害事件に係わりをもつ弁護士グループがそれぞれの立場からこの案について鋭く問題点を指摘し、案の撤回と環境影響評価そのもののやり直しを求める意見書を提出している。それらの意見に我々も政治学者として基本的に賛成である。

二、我が国は、改めて言うまでもなく主権在民の民主国家であり、憲法が諸規定の遵守を政府に義務づけていることでも分かるように、その名にふさわしい存在たるべくたゆまぬ努力がなされなければならない。戦後占領下に始まった日本の民主化はまず地方政府と地域住民の好ましい関係づくりからということで行政広報の導入がいちはやく都道府県レベルで始められ、まさにこの線にそって民政政治への転換が始まったのである。環境行政は地方行政のこの仕組みの中に据えられてこそその本来の機能を発揮することができるのであり、そうしてこそ、主権者たる国民の意思に基づいて行なわれるペき中央政府のあり方とも相い応じ、相互に刺激し合って支え合うこともできると考えられる。
 環境アセスメントと情報公開とは環境行政において不可分の関係にある。環境行政は科学的知見を基礎にした総合判断が必要であり、事に当たって自治体は当然周到な準備をしなければならない。そのためには判断の基礎になるペき情報の収集に努めるとともに集めた情報を住民に公開することは、環境行政を正しく行なうための不可欠の前提である。
 東京都は本事業について国庫補助を受けるとともに、条例五に「都知事は都民に対し環境影響評価の手続きの実施に関し必要な資料を公開する」とあるとおり、一九八七年、八八年には本事業から当然予想される高架方式と地下方式と比較した複合アセスメントを含めて詳細な調査を行った。その公開を求めて沿線住民から再三の要求があり、また、東京地方裁判所からも提出の要請があったにもかかわらず、都はその公開をなぜか頑なに今なお拒んでいる。
 このようなことは、アセスメントの制度の趣旨からいっても、国民の知る権利を保障した憲法の原則に照らしても到底許されるペきことではないであろう。

三、アセスメント制度における情報公開の原則からみれば、案について関係地域住民に正確な情報を提供しなければならない。条例はこれを前提にして第十七条に、事業者に対して住民への説明会の開催を義務づけている。本事業者であるところの東京都、小田急電鉄株式会社およぴ世田谷区が主催して、昨年八月(素案について)、本年一月(案および都市計画案)に開催された「住民説明会」の実態は、しかしながら、この趣旨にまったく相反するものであった。というのは、東京都等は定数五〇〇人に満たない会場に事業者である小田急電鉄およびその受注予定会社である大成建設や間組の従業員数百名を毎日動員して住民の質問と意見の開陳を事実上妨害したからである。もちろん、このようなことは絶対にあってはならないことであり、アセスメントはもちろんその内容だけでなく手続上も制度の趣旨に則って為されなければならない。住民に対する情報提供の手続が無法に蹂躙されることは看過できない問題である。

四、アセスメントにおいて一番大切なのは、当該事業が実施された場合、周辺の環境と人々の心身にいかなる影響があるかを科学的に予測し、その正確な情報を国民に提供することである。
 影響についての正確な情報はいうまでもなく当該事業の総体について検討し、予測しなければならない。そのゆえに条例は第九条二項に、「相互に関連する二以上の対象事業を実施しようとするもの[事業者]は、これらの全体事業を合わせた環境影響評価書案を作成しなければならない」としているのである。
 ところで、本事業は小田急小田原線東北沢から和泉多摩川にいたる連続立体化事業化の一部であるから、右区間全域にわたるアセスメントをしなければならないのは、条例の要求するところであり、じじつそのようにしなければ、事業が環境と人々の心身に及ぽす影響を科学的に予測し、正確な情報を住民に提供できないからである。
 ところが、案はこれに反し、本事業の部分についてしか予測をしていない。所謂コマギレ評価の典型的なものである.その結果、列車の運行速度、運行量等、基本的事項について、まったく事実に反する予測をすることになり、本事業が及ぼす影響の実相をじつは覆い隠す結果となっている.これほどアセスメントの制度の趣旨に違反し、これを逸脱するものはないといわなければならない。

五、窒素酸化物等の大気汚染は悪化の一途を辿っているが、その基本的原因は自動車交通量の増大によることは、改めて言う必要もないだろう。連続立体交差事業とは道路と鉄道の連続立体交差で、それによつて踏切がなくなることを意味し、その結果、自動車交通量の増大が当然見込まれるはずである。ことに本事業においては、その区間がわすか六・四キロメートルてあるにもかかわらす、広い道路が五本も新設されることになっている。したがって、事業の結果、自動車交通量が飛躍的に増大し、これに起因する窒素酸化物による大気汚染が予想される。アセスメントは、環境に影響を及ぼすものについて予測しうるものはすべて予測しなければならない。予見できるものを故意に欠落させることは許されない。げんに条例はかかる見地から第一〇条に予測項目について定め、このようなことのないよう注意を喚起している。自動車交通量の増大による大気汚染の予測はアセスメントの典型ともいうぺきもので、そのシミュレーションも当初から確立している。
 ところが、驚くべきことに、実はこれをアセスメントの検討対象にさえしていない。おそらくこれは大気汚染という現在最も重要な項目を失念したのではなく、むしろ故意に外したのではないかという疑いを何人も否定できないであろう。

六、アセスメントの制度は、そもそも公害の深刻かつ重大な被害を体験した我が国が、アメリカ合衆国の先例に倣い、公害を未然に防止するために、環境に大きな影響を及ぼす恐れのある本事業のようなものについて、その影響を事前に科学的に予測し、その影響の如何によっては事業を中止し、代替案がある場合はこれを合わせて検討することによって環境と調和した社会の実現を図ろうとするものである。
 本事業は、代替案として地下方式等が当然考えられる。したがって、考えられるこの種の代替案についても当然検討しなければならない。もし一応検討されたのであるならば、案にその経過が記載されて然るペきだが、今回の案にはそれもない。理解に苦しむところである。

七、環境問題には、いくつか重要な側面があるが、都市問題と重なり合うところが少なくない。一極集中の問題が象徴的に示しているように、東京は国全体の都市化のいわば集約点であり、それは近代以降の中央集権化の帰結と重なり合う問題であり、東京の環境問題は重要な政治間題の一つになっており、その成り行きはじつは国全体を先導し、その一挙一動の影響はきわめて大きく、思いも及ばぬ結果が出て来ないとも限らないのである。本事業は連続立体交差事業で、ややもすると鉄道と道路の交差問題にすぎないと思われやすいけれども、それはまったくの誤りであって、ぽんやりしていれば、所謂都市再開発と連動し、途方もない乱開発を呼び起こし、区内はもちろんその周辺の環境に取り返しのつかない影響を及ぽし、首都圏に波及し、さらに全国に飛び火する恐れさえある。  したがって、本事業がはらむ問題は刻下の都市問題の要をなすと考えられる。その点で我々は、わが国の現在と将来、人間社会と環境の関係に思いを致し、今こそアセスメントはその本来の姿でなされなければならないと考える。

八、民主政治は国民を主体とした政治であり、民意を喚起して下からの自主的参加を得、上からの政策と決定が下からの要求と支持に相い応じそれらが一致することによって成り立つものである。アセスメントの制度はまさにそのような流れの中に環境行政を正しく位置づけるためのものである。しかるに、この制度の趣旨を考慮しつつ本事業のアセスメントの経過を検討すると、たしかに制度は民主的に構成されているけれども、制度の民主的な流れの節々に下から拘わった経過を眺めると、その節々の役職にある人々がこの制度をいったいどのように運営しようとしているのか、疑問を禁じえない。そこには、住民サイドからは見えにくい、きわめてソフィスティケートされた、民意を遮断し転倒させることもできる仕組みが慣行として出来上がっているらしく本事業のアセスメントがアセスメントの制度の趣旨をこのように逸脱して行なわれるのはおそらくそのためであり、このままに放任すれば、制度の趣旨はいつのまにか死んでしまうであろう。アセスメントの制度はなお存在するのであるから、住民はこの制度を趣旨に従ってそれが正しく行なわれることをあくまで要求しなけれぱならない。そうした要求を貫徹することは、沈思して目を遠く放てば、今日我々の眼前にある、法治にして法治にあらず民主にして民主にあらずというような、ほとんどブラック・ユーモアに類するこの国・民主政治のかくれた深部にせまる<名もなき民>の一石ともなるであろう。してみれば、これはたんなる東京世田谷の小田急沿線地区というパロキャルな問題に止まるものではないのである。

 以上くり返し述べてきたように、本事業のアセスメントは制度の趣旨に違反しており、根本からやり直さなければならないと、我々は考える。

    一九九二年十月三日

                               阿利 莫二
                               飯坂 良明
                               井出 嘉憲
                               内田 健三
                               内田  満
                               内山 秀夫
                               岡野加穂留
                               神島 二郎
                               斎藤  真
                               坂本 義和
                               篠原  一
                               高畠 通敏
                               福島 新吾
                               升味準之輔
                               武者小路公秀
                                (五十音順)


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