資料集目次へ▲  ホームページへ▲


「法律時報」2005年11月号【法律時評】に掲載


小田急事件の最高裁大法廷口頭弁論開廷の意義

                   斉藤 驍


はじめに

 小田急線連続立体交差事業認可処分取消訴訟(以下「本件訴訟」という。)について、最高裁第一小法廷は平成一七年三月二日に原告適格にかかる論点を大法廷に回付したが、今般、大法廷は一〇月二六日午後二時より口頭弁論を開く旨決定した。最高裁大法廷が口頭弁論を開くのは、一般に原審を破棄し、重大事件や重要な法令について最高裁として初めての判断を下す場合、あるいは、従前の判例を変更する場合と言われる。かかる一般論が必ずしも全ての事件について当てはまるものではない。しかし本件訴訟は後述の通りまさにそのものというべき事案であって、本件口頭弁論の開廷はわが国の行政訴訟および環境訴訟の歴史的転換を宣言するものとなるであろう。

 かつて私は、本誌(二〇〇四年一二月号『小田急事件上告の意義』)において、本件の重要な宣戦を七項目に選理して、下記の通り論じた。

 1 連続立体交差事業が、道路・鉄道・再開発を三位一体とした日本最大の公共事業であることを明らかにしたこと。

 2 被害救済のみならず、公私を越えて公共事業のあり方そのものを問うたものであること。言い換えれば、被害を媒介として公共事業に対する国民のアクセスを裁判の場で確立すること。

 3 公共事業と国民主権、法の支配を軸とする今日的憲法原理との関わりを初めて本格的に問うものであること。

 4 公共事業の内的構造を解析し、そこにおける財政政策、金融政策、都市政策等の根幹に迫り、政・官・財癒着の実務の中枢である官権政治の本質を究明し、官の「法」のシステム、いわゆる「内部規範」の役割を、憲法原理的にも機能的にも析出し、これを法の支配のもとにおく、言い換えれば国民の手に取り戻すことを求めていること。

 5 環境の意味を、今求められつつある文明論の角度から捉え直し、その憲法上の意義を明確にするとともに、騒音被害等、いわゆる生活環境の被害を軽視せず、その大きさと歴史的意味を把握することを求めていること ――被害論の再構策。

 6 都市環境の回復と確立。車社会からの脱却を具体的代替案(高架方式に対する地下方式等)を提示して、実現しようとしていること。

 7 行政事件訴訟法改正(昨年六月)後の初めての大型行政訴訟になることから、この改正の積極的側面を最大限活用し、この点における専門家との協力も、かつてないものであること。

一 原告適格論の究極にあるもの

 そして今回最高裁大法廷の口頭弁論において論じられる原告適格論は、この七項目の全てに及ぶすそ野の広いものである。原告適格論は究極的には裁判のあり方、権力の分立、国民主権という民主制社会の基本的原点を問うものである。たんなる国民の「権利の救 済」や「使い勝手」の問題ではない。

 本件のような巨大公共事業により被害をうける国民が、自らの被害を防止し、あるいは回復するために、その公共事業をただすことを求めて裁判を起こすことができ、さらにしかるべき裁判を受けることができ、かつ裁判官の聡明な認識と理解をうけ、裁判に勝利することができるならば、それは本人の意思いかんにかかわらず、同様の他の被害者の利益を守るだけではなく、公共事業をただすという、まさに公共の利益、すなわち公益を実現することになる。

 アメリカ合衆国連邦最高裁判所の裁判官として極めて著名なジエローム・フランクやバーガーは、このような人物を"Private Attorney General"『私的法務総裁』)とし、これが社会進歩の原動力のひとつであると指摘している。

 一例をあげよう。「キリスト教徒統一教会コミュニケーション事務局事件は、やがて最高裁長官へと昇任することになるバーガー裁判官が判示したものであって、この法領域の歴史に長くその名を残すことになるはずの判決である。事案は、アメリカ連邦通信委員会があるテレビ会社に対しておこなった免許延長処分の適法性が争われたものである。この事件で訴えを提起したのは、同業の競争会社ではなかった。当該サービス区域に居住する視聴者たる市民たちであったのである。つまり、一般公衆が訴えたのである。かれらの訴えの趣旨はこうである。本件で免許更新が認められた問題の放送局は、これまでにいちじるしく人種偏見にみちた番組制作および番組編成をしてきたのであるが、免許更新のための審理過程において、通信委員会はそういった過去の放送のありようを十分に考慮せずに、延長許可をしてしまったのは違法である、とこういう主張である。バーガー裁判官は当該市民らに原告適格を認めた。バーガーは、『通信委員会は、私的法務総裁の役割を果たす正当な視聴者代表の助けと参加なしにでも、免許更新手続においてちゃんと視聴者利益を反映できると考えたが、』これは、あまりにも楽観的であって、実際上前提を欠いた頼りがたいものになってしまっている、と。『行政法における原告適格をめぐる諸概念が徐々に拡張と進化を遂げてきた実績からみれば、手掛かりとして受けとめられてきたのは、論理とかゆるぎなき原則とかではなくて、むしろ経験だということがわかる。経験の示すところ、視聴者(消費者)こそが公共的利益の最良の擁護者なのである。』と判示した。」(本件訴訟における上告理由書添付奥平康弘東大名誉教授意見書二四頁乃至二五頁Office of Communication of United Church of Christ v.FOC,359 F.2d 994(D.C.Cir,1966)より抜粋)。

 民主制社会の存立は選挙に代表される多数決の原則だけでは支えきれない。これは歴史の良く教えるところである。ヒトラーのナチスが多数の大衆に支持され議会から登場したことは、その象徴として想起すべきであろう。

 少数意見にこそ理性が存在し、正義が表現されることが多々ある。この意見が政治や社会に具現するための回路がなければ、民主主義はうち崩される。この回路こそ、本来三権の一つである裁判であり、裁判所でなければならない。ワイマール共和国のナチスに対する歴史的敗北の大きな一因はここにある。わが国の憲法が、司法審査においてワイマール憲法よりはるかに優れていることは過言を要しない。しかし、わが国の最高裁判所は、すくなくともこの三〇年以上、この長所を活かすことができなかった。それは、司法の抑制を最も必要とする行政との関係において顕著に示され、これが土建国家、官権政治の温床となっていたのである。このイデオロギーの代表的なものの一つが、公益と私益の分断、すなわち公私二元論であった。原告適格論において裁判所や行政が採っていた「法律上の利益説」は、その代表的なものである。まず、行政訴訟を主観訴訟と客観訴訟に二分し、私益の侵害は主観訴訟(抗告訴訟)によってのみ争うことができるとし、公益は客観訴訟においてのみ争えるという大前提を置き、さらに主観訴訟である抗告訴訟において、生命・健康・生活環境等の被害を受けている者があっても、「法律上の利益」のない者はこれを争えないとして被害者の大部分を訴訟から排除し、他方において、公益を争えるはずの客観訴訟では、これを法律で定められたもののみに限定し、全てを立法裁量に委ねたうえ、憲法九二条の地方自治の本旨の原則から辛うじて制定された住民訴訟においては、その審理対象を財務会計上の微視的なものに限定した。結局、国民は本来そこに内在しているはずの公私をずたずたに引き裂かれ、そのいずれの権利もほとんど行使できないという状況が、まさに三〇年以上継続してきたのである。国民一人一人が私的であるとともに公的であって、私益と公益は分かち難く結びついていることは、厳然たる事実であったにもかかわらずである。

二 官のクーデターというべき「平成一一年判決」

 この裁判所の自殺行為ともいうべき矛盾をこのまま放置できないことは裁判所の一部も認識するに至り、平成元年以降、「法律上の利益」をある程度拡張しようとする判例が現れた。新潟空港訴訟(最高裁第二小法廷平成元年二月一七日判決)、もんじゅ原発訴訟(最高裁第三小法廷平成四年九月二二日判決)、都市計画法の開発許可に係る川崎がけ崩れ訴訟(最高裁第三小法廷平成九年一月二八日判決)等がその代表的なものである。ところがへ官側はこのような薄日ですら危機を感じたのであろう。本件のような都市計画事業は公共事業の代表的なものであり、そこにこそ「官権」があるからである。平成一一年二月二五日、最高裁第一小法廷(裁判長遠藤光男)は、東京都の環状六号線道路の拡張事業の認可等の取消訴訟において、事業地内の不動産につき権利を有する考の原告適格を認めつつ、他方で事業地の周辺地域に居住し又は通勤、通学しているが事業地内の不動産につき権利を有しない者の原告適格を否定した。これがいわゆる「平成一一年判決」である。事業地周辺地域居住者には道路建設に伴う騒音や供用開始後に排気ガス等による環境変化等の影響が及ぶことは必至であるが、その原告適格を否定したのである。事業地内に「不動産上の権利」を有する者だけが争えるという結論は、憲法一四条の平等原則を引き合いに出すまでもなく誠に不条理で、何人も納得させられない三百代言の言辞である。この平成十一年判決は、まさに官のクーデターというべきものであった。このようなものがある限り、道路・鉄道・飛行場・ダム・干拓等、日本全体を蝕んでいる乱開発は止まず、「環境の二一世紀」どころではなくなり、取り返しのつかないことになる。

三 問われる最高裁の判断

 以降、この判決は、裁判官の良心に重い枷を嵌めるようになった。最も良心的というべき本件の第一審判決(裁判長藤山雅行)ですら、これに従わざるを得なかったのである。しかし、深刻な矛盾がここに内在する限り、クーデターは長くは続かない。行政事件訴訟法の改正は、平成一一年判決に象徴される官治訴訟の矛盾が爆発する前にこれを解消することを目的としてなされたものであり、またそうでなければならない。従って、本件について原判決の過ちをただし、沿線住民に原告適格を認めようとするならば、原判決が依拠したこの平成一一年判決を変更する外はないのである。最高裁判所第一小法廷が大法廷に論点を回付し、これについて口頭弁論を行うということは、まさにこのためである。

 だが、これからの問題はその先にある。最高裁判所が原告適格論を技術的な使い勝手のレベルで行うのか、あるいは前述した民主主義の原点を洗い直すというレベルで行うのかということである。比喩的にわかり易く言うならば、外堀の門を開けるのか、内堀の門を開けるのかということになる。公共事業のみならず、問題が山積している行政の極端なひずみをただし、法の支配を回復しようとするならば、答は自ずから明らかであろう。  今回の法改正は、たんなる手続の問題ではなく、行政法総体から司法審査に至る転換の始まりでなければならない。

 「一般に法規範について、憲法、法律に始まる一連のいわゆる法令を典型として挙げるのは、行政法学の長い歴史の中で確立してきた理論であるが、それは抽象的な法規範論体系として、とりわけ行政庁に対する規範的拘束の体系化の中で説かれてきたことである。行政法の具体的な動態や、司法審査における裁判所による救済の見地から見た法規範論は、そのような杓子定規なものであってはならないと考える。裁判所が従来の法規範論を盾に、具体的な行政法の動態から目を逸らそうとしているとは決して思わないが、従来の法規範論が救済の前提として障害になる場合は、裁判所としての救済制度における法規範体系の構築が当然許されなければならない。裁判官が法と宣言したものが究極の法であるという、英米法の鉄則は、逆説的ではあるが、制定法国において、否、むしろ制定法国においてこそ適用されるべきなのである。

 百尺竿頭一歩を進めるとはこのことであって、如何に行政事件訴訟の手続法上の進歩発展があっても、実体法理論の判例による発展がなければ、行政に対する司法審査の理論の限界を越えることはできない。日本の行政訴訟の発展過程を具さに見る限り、学問的見地からであっても、司法権の限界を説き、それに連なる従来の法規範論を漫然と踏襲するのは時期尚早と言わなければならない。これからの長い司法審査の道程の中で、行き過ぎがあった場合の修正理論として、司法の自己抑制を考えるべき時代の到来があれば格別、現在の段階では、むしろ司法の活動に支障を来すような法理を見直すことこそ喫緊の課題なのである。」(本件訴訟における園部逸夫元最高裁判事意見書より抜粋)

 「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。("To be,or not to be, that is the question"(シェイクスピア『ハムレット』 小田島雄志・訳より)

(さいとう・ぎょう 弁護士)


  ページの先頭へ▲  資料集目次へ▲  ホームページへ▲