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「法律時報」2004年12月号【法律時評】に掲載


特別企画・・・小田急高架訴訟上告の論点

応答的法への転換

奥 平 康 弘


一 はじめに

 後述するものは、本年三月一七日小田急(梅ヶ丘―成城学園)連続立体交差都市計画事業認可取消訴訟の住民側の上告理由書と共に、最高裁判所へ提出した私の意見書の序説である。その後本年六月、行政事件訴訟法が改正され、私が言うところの「応答的法への転換」の第一歩が拓かれたように思われる。

 そこでこの改正について、まず若干論ずる必要があるだろう。

 行政事件訴訟法の一部を改正する法律(平成一六年法律第八四号)が二〇〇四年六月九日に公布され、原告適格に関する解釈指針を示す第九条二項を追加規定した。そして、同法は同法公布の日から起算して一年を超えない範囲内において政令で定める日から施行することとされるとともに(同法附則第一条)、同法の施行前に生じた事項にも同法を適用するとのいわゆる遡及効を定めた(同法附則第二条)。

 行政事件訴訟法改正の背景にはわが国の行政事件訴訟の著しい機能不全に対する国民の不信はもとよりであるが、司法内部にも相当な危機感があったことを看過すべきではない。改正法を理解・解釈するためには、改正法の条文の表層を見るのではなく、立法事実を踏まえてその内奥を捉えなければならない。そこでとりあえず衆参両議院の法務委員会の議事録に基づいて、改正の内奥を探ることとする。

 二〇〇四年四月二七日開催の第一五九回国会・衆議院法務委員会において、政府参考人(司法制度改革推進本部事務局長)山崎潮氏は、最高裁判所の意向をもふまえて「当該処分又は裁決の根拠となる法令の文言のみによることなく」という点が重いキーワードであることを認め、そのうえで次のような答弁をしている。

 「道路の関係で、都市計画法、道路の拡幅工事でございますけれども、これは従来の考え方でいけば、原告適格が認められるのは、拡幅対象土地の所有者等の権利者に原告適格が認められるということでございまして、その周辺に住んでいる単なる居住者あるいは通勤通学をしている者については原告適格がないというのが従来的な考え方になるわけでございますけれども、ただ、この点につきましても、先ほど申し上げました環境影響評価法、こういうものも当然、都市計画については対象になるわけでございますので、こういうところで保護すべきもの、趣旨が盛られていれば、それに当たる、該当をする居住者であっても保護の対象につながっていくということで、こういうよすな関係で広がっていくということでございます。」

 この答弁は、名指しこそ避けているものの、本件において沿線住民の原告適格を否定する根拠となった最高裁の判例(最高裁第一小法廷一九九八年一一月二五日判決・判例時報一六九八号六六頁)の論理・判断がもはや通用しないことを明らかにしている。また、原判決がもはや被綻していることを明示しているといってよい。



二 裁量統制のあり方の転換

 改正法で追加された第九条二項が、「取消理由の制限」を規定する同法第一〇条一項の解釈に及ぼす影響、および、これに伴って生じる裁量統制への影響はどうなるのであろうか。

 同法一〇条一項は今回の改正によっても文言上の変化はない。しかし、同項にも九条一項と同じ「法律上の利益」という文言がある。この両者の関係がどうなるのかは、裁量統制との関係で実に重大である。この点に関して、山崎潮氏は、第一五九回国会・衆議院法務委員会において次のように述べている。

 「これは先ほどの当事者適格の『法律上の利益』と同じ文言になるわけでございますので、その法律上の利益が広く解されていくということになれば、こちらの主張の方も広くなっていくということとの相関関係はあろうかというふうに思いますので、そういう意味では、自己に関係のない主張というのが狭くなってくる可能性もあるということでございます。」

 この答弁は、まさに九条二項は第一〇条と連動し、裁量統制は厳格なものとなならざるを得ないことを示唆しているのではなかろうか。

 私が「第一歩」と言ったのは、以上の意味合いにおいてである。



三 応答的法への転換

 本件控訴審判決は、いわゆる「法律上保護された利益」説に徹底して依拠し、原告適格をほとんど極限的なまでに狭く解釈する手法をあえて採って、広く耳目を集めた首都の都市計画事業を争う裁判所の、その玄関口において、関係市民の請求を斥けたという点で、特記に値する。行政裁量に効果的な司法統制を加えることによって、一方で市民の権利自由の保障を実質化するとともに、他方、「公益」の実現、確保を図る行政の法適合性を保障すべしとする現代社会の要請に、この控訴審判決は著しく即応していないと思われる。「法の支配」というコンセプトが、ややもすると単なる道具主義的なスローガンに終始してしまう気配のある現今、こうした解釈論を超克して、新しく原告適格法を鋳直して、司法審査過程に市民参与のチャンスを保障する民主主義的な「法の支配」を再構築する必要があるであろう。

 ことがらは、行政事件訴訟法第九条でいう「処分……の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」という文言の、文理的もしくは制度内在的な字義(exegis)に過ぎない、と考える向きが強い。そういった思考の枠組みのなかで、先例をただ墨守する、あるいはせいぜい先例が許容する範囲内で、当該適用事件との辻棲合わせのための微調整をはかるにとどめているというのが、この法をめぐる現実の状況である。原告適格に関する「法律上保護された利益」論は、こうした思考の枠組みのなかで形成され、いまではドグマ(教義・完説)として確立しているかのごとくである。

 けれども、この支配理論は、一定の観点から構築された、過去の思考の産物としての制度に適合的であるかもしれないが、現今では社会的な要請に応える(response)ことが出来ておらず、かかるものとしてそれは、正義に適うことに失敗している、と考える。(注1)

 <そんな批評言説は、法外的な抽象論に過ぎない。耳を傾ける余地は無い>という反応があるに違いない。そこで、言い方を換えて、この支配理論は、日本国憲法(とくに、実体法上保護されるべき権利自由を司法過程をつうじて貫徹するために不可欠な、「裁判を受ける権利」の保障規定)との関係では、ひどい程度に非適合的である、と構成し直そう。

 このことの意味するところを、序論的な言説で必要な限度で略述する。当面の標的は、行政事件訴訟法第九条に置かれる。この規定は、これに先行して設定されているいくつかの制度的デザインが前提としてある。現象的にはまず差し当たり第二条の行政事件訴訟の四類型がそれであり、第三条の「抗告訴訟」「取消訴訟」「不作為違法確認訴訟」の定義がそれである。第九条との関連で着目されるべきは「抗告訴訟」の特殊形態としての「取消訴訟」である。これらは、日本国憲法成立後の暫定措置として制定・施行されてきた行政事件訴訟特例法の経験を踏まえて、実定法化され制度化の途を歩むことになった制度ではあるが、制度制定時、日本国憲法が想定する「法の支配」に十分に適合的なものとして慎重に検討し深く熟慮して出来上がったものであることの証拠はまったくない。処分の取消ではなくて処分の事前または事後の差止めを求める訴訟や処分の予防措置としての宣言判決を求める訴訟などはできるのかできないのか。もしできないという制度設計だとしたら、こうした設計を成立させた前提要件は何であったのだろうか。またそれは憲法上どのように正当化し得るのだろうか。そういった諸点に真撃な検証が加えられたポジティヴな気配は無いのである。

 いずれにしても、いま現在、市民は、本件のような行政処分を素材にして行政機関を相手にした訴訟を起こす場合には、この実定法上設定されている「抗告訴訟」の一形態としての「取消訴訟」を選択するように、事実上いわば追い込まれている。(注2) そして、やむをえず提起した「取消訴訟」にあっては、「公定カ」という、憲法規範の精査を経たとはなかなか言い難いドグマによって構成された、独特な武器に守られた「処分」概念から来るさまざまな効果が、被告・行政庁に有利になるようにはたらく仕組みになっている。

 こうしたドグマによれば、<「処分」とは、行政庁が「法の認めた優越的地位」に基づき公共の福祉増進のため法の内容を実現する目的のためにおこなう行為である)と捉えられ、さらに(一応の信頼性を有するところから、法律は、これに公定カを付与し……正当な権限を有する機関により取り消されるまでは有効なものとして相手方を拘束するものとしている>(注3) ということになるのである。

 しかしながら、ここで行政庁に「優越的な地位」を認めた「法」、あるいは「処分」に「公定力」という強力な効果を付与した「法律」は、何にもとづく、いかなる形の法なのであろうか。どちらの場合にも最終的には、憲法規範的に説明され、正当化されねばならないが、その種の検討が真面目になされた気配があるだろうか。ここにあって論者はあるいは、行政事件訴訟法をはじめとした行政に関する実定法規を持ち出して防戦に努めるであろう。けれども、ここに引き合い出そうとする実定法規には、それが実定化される背後に、それに先行して定立化され、通用することが認められてきた、ドグマが在るのであって、法規は、それに背中を押されてはじめて出て来たものであるということ、すなわち、ドグマは自己言及的に正当化することによってしか、自己を維持することができないことを、論者は気づいているのであろうか。

 以上、「取消訴訟」概念について述べてきたことは、「取消訴訟における原告適格″」の問題性と無関係だと思う向きがあるかもしれない。だが、そうではない。原告適格法もまた「取消訴訟」制度の派生物として構成されているのだから、右ドグマの構成部分を占めているのである。

 原告適格という点で言えば、行政事件訴訟法は、「取消訴訟」の制度的特性を強調する目的から「民衆訴訟」という制度とディスティンクトに区別された制度を設計し(第二条)、前者における原告適格(第九条)と後者における原告適格(第四二条)とは顕著に異なるものとして現出させられている。そして、かく設定された「民衆訴訟」のコンセプトは、「取消訴訟における原告適格″」の拡張 (the development of the law)を防止するための防波堤であるがごとく、機能しているのである。

 こうした消極的な役割りに任ぜられている「民衆訴訟」もまた、右に記したドグマと一体のものであるが、その法理論的な正当化、なかんずく憲法論上の基礎づけはきわめて怪しい。第五条によれば、「民衆訴訟」は、「選挙人たる資格その他自己の法律上の利益にかかわらない資格で提起するもの」と定義されている。そして、第四二条は「民衆訴訟……は、法律に定める場合において、法律に定める者に限り、提起することができる」という定めを置くことによって、訴訟要件のいっさいを立法政策の領域へと追い遣っている。すなわち、解釈などの手段によって法が発展する余地をほとんど完全封鎖して止まっているのである。

 だが、この制度は憲法規範上の精査に堪えうるものであろうか。たとえば、いま仮に、公職選挙法のなかに選挙民による選挙訴訟の定めが存在しないとか、現行法に現に在る関係法規を国会が廃止したという自体を想定してみよう。憲法第一五条第一項が「国民固有の権利」であると宣言しているところの選挙権は、その損傷(injury)があっても、司法手続上の救済を求めることができない、名目的なものでしかないのだろうか。選挙権に関する利益は、もっぱら公共的な性格のものであって、「自己の法律上の利益にかかわらない」のだ、と言って済ませてしまえるものなのだろうか。

 これと同じようなことが、法のレベルをやや異にするものの、地方自治法が定める住民訴訟およびいわゆる情報公開法でいう行政文書開示請求訴訟についても言える。これらは「自己の法律上の利益にかかわらない」訴訟であるのであろうか。

 いままで述べて来たことはすべて、要するに日本国憲法が踏まえるところの民主主義というキー・コンセプトに関わる。

 さてところで、民主主義は、公益に仕えるものなのだろうか、それとも私益に仕えるものなのだろうかという、大上段に振りかぶった問いがあるとすれば、その両方に仕えるものであるという答が出てくるのは必然であるだろう。民主主義は公・私の両利益が機能的にオーバトラップすることを前提として、その微妙な組み合わせによって、当該状況に妥当な解決を与えることを模索し、それを将来への道筋の里程標たらしめるよう努めるということにほかならない。

 もしそうだとすると、「取消訴訟」について、<原告(私人、市民)が法律により個別的に個人に付与した私益保護規定にもとづき、ひたすら彼または彼女がこの私的利害を防禦する訴えである。これに対して、被告(行政庁)は公共の利益を第一義的に考慮しつつ、ただ付随的に、関連する法律が個別的に個人の利益を保護すべきむねの定めある場合に限って、私的利益の侵害がなかったことを主張すれば足りる。そういう訴訟である)といったふうなドグマティッシュな定義を与えて満足するのは、民主主義的に妥当ではない。たとえば――数多くある行政事件訴訟例のなかから、たったひとつを挙げるにとどめるのだが――いわゆる「家永教科書裁判(注4)」において、原告・家永三郎教授が求めたものは単に私的な個人利益であったとは、教授一個の主観においてにもまた裁判がもたらした客観的効果に照らしても、とうてい言えないものがある。家永教授は民主主義的な利益の充足をもとめたという点にこそ、あの裁判の意味があるからである。その意味で、家永氏は、のち合衆国法を考察するさい浮彫りにするコンセプトを使えば、氏の訴訟において氏は「私的法務総裁」として振る舞っていたのである。(注5)

 以上が、私がこれから問題にする本件控訴審判決の「原告適格」についての見解を批判的に分析するための小さな前掟である。本件控訴審判決はいわゆる「法律上保護された利益」説という支配理論を、まことに教科書ふうに展開して少しも疑うところがない。しかし、この言説は、法的に唯一可能な理論として自らを打ち出しているものの、あれやこれやの超実定法的な諸制度・諸概念に深く依存してのみ成立する、その意味で歴史的な性格の強い教理であり、かかるものとして、日本国憲法との両立可能性を検証することを要する教理であるという自己認識に欠けるところがあってはいけないだろうと思う。


(注1)
 広く知られているように、P・セルズニックがP・ノネと共著で公刊した『法と 社会の変動理論』(六本佳平訳、岩波書店、一九八一年)は、法はすべからく「応答的」(responsive)であらねばならない、と主張している。従来の法は、「自律的」(automatic,「自己回転的」と訳す方が適切であると思うが)であることが特質であって、専門家集団による制度内的解決を以て良もとなし、既存制度を前提とし、そこの内においてだけ通用する特殊技術的な概念および概念構成を駆使して、論理一貫性を重んじ、そのことによって「法秩序」を維持することを旨として来た、とセルズニックは考える。それと違って、「応答的法」というのは、移行期に宿命的な変動しつつある社会に相応し得る(responsive)ものであることに力点を置く法である、と説かれ、こうした「法」が絶えざる移行過程にある現代社会において、「在るべき法」たることをセルズニックらは主張するのである。私は、この主張に基本的に共鳴する。とりわけて、本意見書が取り上げる原告適格法は、かかる法へと脱皮し進化すべきことが望まれる。
 ひるがえって、支配理論「法律上保護すべき利益」説にもとづいて現在機能している原告適格法は、伝統的に構築された制度の枠組みのなかで自律的に回転する、セルズニックらのいわゆる「自律的法」の典型であり、かかるものとして、「応答的法」への移行があるべきだというのが、本意見書の基調である。

(注2)
 もっとも、ここにおいて、市民は、行政機関または行政主体を相手にして、自己 の権利あるいは利益の保護をもとめて、純然たる民事訴訟を起こす余地があるではな いかという議論があるのを無視し得ない。けれども、法上および事実上行政活動の側に与えられるカを括弧に付して、行政と市民を対等なものと見なす民事中心的な思考は、結局において弱者たる市民に不利な方向にはたらかざるをえない。また、行政の側の違法を究明するよりも、市民の「権利」・「利益」の存否やそれへの侵害の主張・立証の責任を不当に過重に原告に強いることになる。なおまた、この訴訟にあっては、公権力の行使の差止めなどの措置をもとめることが不可能であるなどの不利益を市民に課する。総じてこの言説は、現代に適合的でない。

(注3)
 ここにカギ括弧づきで紹介した言説は、支配理論を解説する有力な裁判官らの論文のいくつかから摘出し構成したものであるが、標準的な言説の紹介文として大過なきものと言えると信じる。

(注4)
 最一小判一九八二・四・八民集三六・四・五九四(いわゆる「家永教科書裁判第二次訴訟」)をいまは差し当たり念頭に置く。

(注5)
 この裁判の事案にあっては、問題の教科書の検定申請をおこなったのは、教科書出版会社であった。教科書の著作者である家永教授は検定申請に名を連ねていなかったのである。このことに相応するが、文部大臣がなした当該検定処分は、申請人たる教科書会社に対してのみおこなわれた。家永教授は処分とは全く無関係な、文字どおりの第三者であるに過ぎなかった。しかるにもかかわらず、その教授が検定処分の取消訴訟の原告となったのである。支配理論を直裁に採れば、氏には原告適格があろうはずがない、という結論になりそうである。ところが、第一審裁判所も第二審も、それぞれ似た論法を用いて、教授は第三者であるのではなく、教科書会社と同様に、処分の当事者本人であるのだと構成することによって、その原告適格を肯定した。東京地裁は「検定の効果」なるものを持ち出し、それは「著作者、発行者のいずれにも及ぶ」として、両者同一論にもどづいてそうした(東京地判一九七〇・七・一七行裁例集七号別冊)。続く東京高裁は、「検定合格処分の効果はその図書そのものに生じ、申請者とならなかった他の一方にも及ぶ」とする対物処分論を提示して、どっちにも同じように原告適格ありという結論に達している(東京高判一九七五・一〇・二行裁例集二六・一二・一四四六)。最高裁は「被上告人(原告−引用者)は右処分の取消しを訴求する適格を有するとした原審の判断は、その説示に照らし、正当として是認することができる。」と判示することによって、この難問はめでたく解決したのであった。
 私はこの事案について不必要な冗漫に耽けたかもしれない。しかしながら、当時まぎれもなく「難問」であったこの事件は、その解決方式を含めて今日からみれば、いささかもどかしさを感じさせるところがありはしないだろうか。私がこうした「難問」解決をかったるく感ずるのは、たとえばひとつ、アメリカ合衆国であったらこれをどう処理するだろうかということとの対比がある。現在の合衆国においては、察するに、争点は直ちに家永教授の「表現の自由」が侵害されたかどうかの本案に及ぶことになる。当該行政処分の本質・効果などの行政法総論的な問題やこれとの絡みでの、家永教授が処分の名宛人の相手方か第三者かといった原告適格性の有無に関する問題が「難問」として立ちはだかることはないだろうと思う。
 日本においては、最高裁判決があってから二〇年以上経った現今なお、教科書裁判的訴訟が生じたならば、まず原告は、処分の相手方に該当するかどうか、もしそうではないとしたら「第三者」にあたるのだが、この第三者には原告適格性が認められてしかるべきかどうか……などなどが乗り越えなければならない「難問」として待ち受けている。こうした問題所在のありようは、われわれが引き受けねばならない必然性があるのだろうか。私がもどかしく思う、もうひとつの側面である(仮に、本件家永氏については、どうしても処分名宛人という構成ができないとしたら、次なる手は、「第三者」としての家永氏のディスティンクトに個人的な利益を保護している趣旨を表した法令規定をさがし求める作業に人らねばならない。私の見るところ、教科書検定関連法令のなかに、かかる趣のある規定をアイデンティファイするのは、一寸難しいものがある)。

(おくだいら・やすひろ 憲法研究者)




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