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阿部泰隆 意見書 2004年9月16日

小田急高架化事業認可取消訴訟東京高裁判決の原告適格部分に関する意見書

最高裁判所 御中

 いわゆる小田急訴訟については高裁段階で私見を提出したところであるが、このたびの高裁判決(東京高裁2001年(行コ)第234号、2003年12月18日)について、そのうち原告適格の論点に関し、私見を補充的に申し述べる。先の意見書をあわせて参照されることを希望する。
 なお、本案の裁量の点では、原審で意見書を提出し、ジュリスト環境判例百選で論じたが、詳細は、目下時間がないので、別の機会に改めて論ずることとしたい。今般提出された園部意見には賛成するものである。

神戸大学法学研究科教授
東京大学法学博士
阿 部 泰 隆
2004年9月16日


一    最判1999・11・25の妥当性?



 1     原(高裁)判決


 1審判決は、原告適格の有無は、原発設置許可に関するいわゆるもんじゅ訴訟(最判1992・9・22民集46巻6号571頁)と都市計画法の開発許可取消訴訟(最判1997・1・28民集51巻1号250頁)の先例に従い、当該処分を定めた行政法規が原告の利益を個々人の個別的利益として保護していると解釈されるかどうかによるとする。制定法準拠主義、個別利益要件といわれる解釈方法である。

 そして、事業地内の地権者には原告適格を認めるが、事業地の周辺地域に居住する者の原告適格を否定する。その論拠は、都市計画道路の周辺住民の原告適格を否定した最高裁判決(1999・11・25判時1698号66頁)を引用しつつ、都市計画法は、都市の健全な発展と秩序ある整備を図るなどの公益保護の観点に立つもので、都市計画事業認可の制度も、この観点から設けられ、また、認可等の基準を定める同法61条の規定からも、「個々人の個別的利益」を保護対象としていると直ちに読みとることはできない、ということである。さらに、目的(同法1条)、公害防止計画(同法13条1項柱書き後段)や公聴会(同法16条1項)、住民の意見書提出の機会(17条2項)も同様に、公益的観点から設けられたものと解された。

 高裁判決もこれを支持する。

 さらに、高裁判決は、環境配慮を義務づける不文の法規範があるとしても公益的な観点からのものであって、個々人の個別的利益を保護していないとする。

 2    考察


(1)   もともと原告適格を肯定すべきであったこと

 学説では、都市計画道路の沿道者は、公害の被害を受けるおそれがあるので、憲法上の環境配慮義務、環境影響評価の結果、人格権などを根拠に、この原告適格を肯定する意見が少なくないが、判例は原告の利益を「個別具体的」に保護する規定がある場合に限り原告適格を肯定し、前掲1999年の最高裁判決は都市計画法には沿道者の利益を個別具体的に保護する規定は見つからないとして、沿道者の原告適格を否定している。本件の1審、原判決はいずれもこれを前提とした。さらに、本件高裁では都市計画事業認可の根拠となる都市計画法だけではなく、環境配慮の不文の規範があるとしても、抽象的な公益しか保護していないとされた。

 しかし、今日では、環境影響評価を行って、「環境の保全について適正な配慮がなされるものであるかどうかを審査」して認可すべき時代であり(環境影響評価法33条1項のいわゆる横断条項)、本件のように同法施行前でも、幾多の交通公害事案にかんがみ、公害を発生させないように配慮することは憲法から導かれる都市計画決定権者の義務であると考えるべきであるし、そのような事態を発生させないように事前に救済することこそ、司法権の役割ではないか。事後の長年の損害賠償訴訟で、安い名目的な賠償を認めるだけで済ませるのは、司法権の任務を放棄するものである。そうでないと思う判事は一度公害地帯に住んでから判断すべきであろう。

 そして、解釈論でも、交通公害は、まちづくりという抽象的、一般的な問題ではなく、沿道者の生命、身体、健康、生活利益という人格権を侵害するのであるから、環境影響評価制度は、その限りで、沿道者の権利を個別具体的に保護するものではないか。

 ちなみに、韓国では、日本の有明海の干拓のような事案で、環境影響評価制度は近隣住民の原告適格の根拠とされているのである。これは別添する。これは外国の法解釈であるから、直ちに日本法には妥当しないという反論が予想されるが、同じ「法律上の利益」という文言に関する解釈である。なぜ、このような柔軟な解釈を日本の裁判所はいやがるのか、その理由を示すべきである。私は、この前韓国公法学会から招聘されて、「法治国家」について講演したが、日本の現実はなすべきことを怠る「放置国家」であることを嘆くしかなかった(注1)。恥ずかしくてしょうがない。日独シンポジウムで、日本の環境訴訟について報告したときも同様であった(注2)。日本の裁判所は、このような救済の不備を恥ずべきである。

 その意味では、この1999年の最判はもともと不適切だったと思われる。

 また、新潟空港最高裁判決(1989・2・17民集43巻2号56頁、判時1306号5頁、判タ694号73頁)が指摘した関連法令として、公害防止計画の制度、さらに、騒音対策の緩衝緑地を収用する制度が原告適格の根拠になると思われることは先の意見書で指摘した。これをも否定するなら、判決文で反論があってしかるべきである。

 総合的に言っても、都市計画事業認可に対しては、地権者だけではなく、その周辺で生活上、環境上、健康上重大な影響を受ける者は、憲法、都市計画法、環境基本法、都の環境影響評価条例によって保護された具体的利益を有すると解して、原告適格を肯定すべきであった。

 このような主張は原審でも行ったところであるが、原審判決はこれに何ら反論することなく、排斥している。はなはだ遺憾である。筆者が原審で提出した意見書を採用しないのであれば、裁判所はそれに正面から反論されることを望む次第である。単に、これこれは本裁判所の判例とするところであるとして、当方が批判している当裁判所の判例が妥当だという理由を説明しないよくある判例のスタイルは、神のご託宣に等しく、判決に理由をつけていないのに等しい。これは裁判を受ける権利をも侵害しており、最高裁判所は恒常的に違憲判決を下していると言うべきである(注3)。大学の教師は、判事よりも遙かに地位が低いが、学生からの質問にこのような返事でごまかすことは許されていない。行政も説明責任が問われている時代である。権威も上で給料も高い地位にある者はなおさらそれに相当する行動をすることが求められる。そうした批判を受けないためには、きちんとした理由をつけるべきである。

ついでに、最高裁判事は超多忙だからそんな余裕はないという反論が聞こえそうだが、最高裁判事は、大臣と同格の高給を得ている上に高額の退職金を貰え、勲章も最高位を貰えるのである。しかも、調査官がしっかり調査する建前である。原告側は、平民である上、このような訴訟では、おそらくは数千万円相当の費用をかけ、多数の人が本職で多忙の中、ボランティアで協力しているのである。その意味では最高裁判事よりも原告側の方が遙かに多忙である。この原告側の塗炭の苦しみと苦労を共有するような判決が是非とも望まれる。



 (2)   2004年行訴法改正の意味するもの


 しかも、2004年春の国会で成立した行政事件訴訟法改正法においては、範囲は必ずしも明確ではない(無責任にもオープンになるとされる)が、原告適格は拡大される趣旨である(ジュリ1263号(2004年)12頁以下の「鼎談」、判タ1147号17−44頁の行政訴訟改正に関する研究会参照。いずれも阿部参加)。この改正法では、原告適格に関する行訴法9条そのものは改正されず、2項に「法律上の利益」の判断のための考慮事項が付け加わるだけであるが、ここで、「法令の規定の文言のみによることなく」という言葉が挿入されたことで、法令の文言を重視する解釈方法からはさよならすることになる。

 そして、この考慮事項によれば、原告適格は処分の根拠となる法令の趣旨・目的だけではなく、処分により害される利益の内容及び性質並びにこれが害される態様及び程度を勘案することになる。

 行訴法改正法9条2項 裁判所は、A 処分又は裁決の相手方以外の者について前項に規定する法律上の利益の有無を判断するに当たつては、当該処分又は裁決のB根拠となる法令の規定の文言のみによることなく、C当該法令の趣旨及び目的並びにD当該処分において考慮されるべき利益の内容及び性質を考慮するものとする。この場合において、C当該法令の趣旨及び目的を考慮するに当たつては、当該法令とE目的を共通にする関係法令があるときはその趣旨及び目的をも参酌するものとし、D当該利益の内容及び性質を考慮するに当たつては、F当該処分又は裁決がその根拠となる法令に違反してされた場合に害されることとなる利益の内容及び性質並びにこれが害される態様及び程度をも勘案するものとする。

 まず、都市計画法には、鉄道沿線・道路沿道住民の環境上の利益(交通公害にさらされない利益)を個別具体的に保護する明示的かつ具体的な規定はないが、「法律上の利益」の有無の判定のためには、ここで、「当該処分又は裁決の根拠となる法令の規定の文言のみによることなく」とあるように、そうした立法の偶然ともいえる些末な条文解釈に拘ってはならないのである。

 都市計画法は、「都市の健全な発展と整備を図る」法律であるから、環境保護と目的を共通にすると解される。そこで、騒音規制法、環境影響評価法など環境法と目的を共通にすると解される。

 そして、都計法の認可が違法である場合には、それによって害される沿道住民・沿線住民の利益は、重大な生活妨害、地価低落である。単に快適な都市環境の利益を享受する利益が失われるというものではなく、逆に、これまで沢山存在した交通公害(名古屋新幹線、尼崎・名古屋南部公害訴訟、国道43号線公害訴訟)に見られるように、騒音、振動、日照被害という、重大な人格権侵害である。

 これらの利益の内容、性質、態様、程度を考慮すると、本件では、沿道者は、自分の土地を対象になされる都市計画事業だけではなく、高架部分の土地を対象とする都市計画事業の認可の取消しを求める「法律上の利益」があるというべきである。

 これは、この法律改正で追加されたものであるが、従来からある「法律上の利益」の解釈規定であって、何ら創設的なものではないし、そもそもこの規定は従来の最高裁判例の先取的なものをまとめたものであるから、同法施行前でも、その考え方に沿って判断すべきである。そうすると、1999年の最判は廃止されたと考えるべきであろう。

 そして、その附則第2条によれば、「この法律による改正後の規定は、この附則に特別の定めがある場合を除き、この法律の施行前に生じた事項にも適用する」ということなので、本件がこの法律の施行前に判決に至らなければ、その考慮事項が適用される。

 では、改正法が施行される前なら、1999年の最判に従って判断してよいかというと、既に最高裁に係属している本件について、改正法が施行される前であることを奇貨としてとして却下してしまうというのはいかにも不適当である。しかも、この改正法9条2項は現行の「法律上の利益」の文言のもとでの考慮事項なので、現行法の解釈指針である。新たな改正というべきものではない。この法律が施行される前の現時点においても、実は現行法は「法律上の利益」をこのような考慮事項の観点から解釈すべきであったことになる。

 そうすると、沿道住民は高架部分の事業認可の取消訴訟について原告適格を有することになる。



     道路事業と鉄道事業の一体性



 1審判決は、鉄道事業と付属街路とは「形式的には異なる都市計画ではあるけれども、その実体的適法性を判断するに当たっては、両者が相俟って初めて1つの事業を形成するという実質を捉え、一体のものとして評価するのが相当である」「本件各認可に係る事業の対象土地全体を一個の事業地と考えて」、「同事業地の不動産に権利を有するものが、付属街路都市計画事業の認可だけではなく、鉄道事業の都市計画事業の認可も含めて、本件各認可全体につき、その取消を求める原告適格を有する」とした。

 ところが、高裁判決は、原告Xらは、都市計画事業施行者と鉄・軌道事業者との費用負担に関し、1969年9月1日、当時の建設省と運輸省との間で締結された「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」(「建運協定」)が本件鉄道事業と街路事業の法的一体性を根拠づけると主張したが、裁判所は、これは行政組織間の内部規範にすぎず法的拘束力を有しないから、この一体性を根拠づけるものではないとした。しかし、これには賛成できない。小早川光郎意見に賛成するほか、私見として、下記のように付け加える。

 付属街路事業と高架鉄道事業は形式的に別個であるが、実質的には一体的である。1審判決は実質論である。高裁判決は形式論であり、法治国家を逆論して、実態に合わない解釈をしている。

 この協定はたしかに運輸省と建設省の間の協定であるから、第一次的には両省を拘束するだけに見える。そして、中央官庁は、いわゆる分担管理原則により、それぞれ縦割り行政を行う。したがって、この協定は内部の問題かに見える。

 しかし、両省は、国家行政組織法により、一つの行政として、一体として行動すべきものである。そして、両省は、この協定により、相互に拘束されているのであるから、外部的には、両省は、この協定により、一体として、一つの国家組織として、立ち現れるものである。したがって、実質的どころか、法的にも、都市計画事業の認可は、高架部分、沿道部分を分けることなく、一体的なものとして、住民に立ち現れるものである。

 そうすると、原告=沿道者の方も、沿道部分だけではなく、これと一体として土地を収用され、事業が行われる高架部分について与えられた、都市計画事業の認可の取消しを求めることができるのである。



     側道事業と高架事業の関係


 1    阿部泰隆高裁への意見書

 1審判決は、事業認可を争えるのは、環境上影響を受ける第三者ではなく、地権者に限られるとすることを前提としつつ、各付属街路事業ごとの独立性を考慮し、それが独立した事業としての意味を持たないことから、実質を捉えて一体のものと評価し、付属街路予定地の地権者に、高架鉄道事業の認可を争わせる趣旨である。

 そうすると、次のような反論がなされる。事業認可は、付属街路と高架事業とは別々に行われる。この事業認可はそれぞれその予定地の地権者から土地を収用する権限を発生させる。この判決の論理では、付属街路事業の対象地の土地所有者は、自己の土地を収用されるから争えるのであって、他人の土地が収用されることを争うことはできないはずである。そして、付属街路の土地所有者としては、その部分の事業認可が取り消されれば、それで財産権は保護される。高架部分の事業認可の取消しを求める必要がない。また、高架部分については既に任意買収で終わっており、訴訟を提起している地権者はいないから、よけいなお世話である。

 しかし、まずは、事業認可の効果を土地収用特権の付与だけに限定するのは不適切である。事業認可のさいに、環境への影響も考慮することと解釈すべきである。そうすれば、高架部分の事業により環境上重大な影響を受ける者は、事業認可によって保護された利益を害されたとして争うことができるというべきである。  また、本件では、街路事業は高架事業を前提として立案されている。1審判決はこのことを次のように説明している。

 「付属街路は、高架施設の存在を前提として都市環境の保全に資する目的で設計されるものであり、高架施設を前提としない道路としての付属街路自体で、都市計画施設たる「道路」としての独立した存在意義を有するものとして設計されるものではないから、付属街路を設置する事業だけでは独立した都市計画事業としての意味を持たないものであるということができ、したがって、付属街路に係る都市計画は、主たる都市計画事業である鉄道の高架化事業に付随する従たるものというべきであり(この点については、・・・被告も認めるところである。)、本件鉄道事業に係る9号線都市計画と本件各付属街路事業に係る本件各付属街路都市計画とは、形式的には異なる都市計画ではあるけれども、その実体的適法性を判断するに当たっては、両者が相俟って初めて一つの事業を形成するという実質を捉え、一体のものとして評価するのが相当である。」

 この判決のいう一体性とは、街路事業は高架事業を前提とし、それに依存しているということである。したがって、高架事業が違法であれば、街路事業は、もともと必要性・公益性を欠き、法的に正当化できない。したがって、街路事業の認可取消訴訟において、その前提となる高架事業の認可の違法性を主張できることになる(原田意見書16頁参照)。さもないと、高架事業が違法であるにもかかわらず、争う者がいないため、高架事業は有効に存続し、それを前提として判断すると、街路事業も必要であるということになって、違法な事業により収用できることになりかねない。高架事業が有効に存続しても街路事業の方は違法であるとの考え方もあろうが、街路事業が行われないと、かえって事業の一体性が損なわれ、また、街路事業予定地に残った住民に対する騒音、日照被害は重大なものになる。このように、断片的に切り離したのでは、事業主体としても、かえってやりにくいことになろう。そうすると、原判決は結局は正当であったということになる。



 2    高裁判決


 高裁判決は、Xらの新しい主張(阿部泰隆意見である)をふまえて、「確かに、仮に、本件鉄道事業認可が違法な場合、本件各付属街路事業も必要性、公益性を欠き、その事業認可も法的に正当化することができず違法となるという関係が認められるとすると、本件各付属街路事業認可の取消訴訟において、その前提となる本件鉄道事業認可の違法性を主張できるとすることもあながち不合理なことではない。そして、本件鉄道事業認可は行政処分として公定力を有することを前提にした場合、その公定力を排除しなければ、本件鉄道事業認可の違法性を主張できないとすると、本件各付属街路事業認可の取消訴訟において本件鉄道事業認可の違法性主張を可能とするために、本件鉄道事業認可についての原告適格を認めて、その違法性を主張できる道を開くことが相当であると考えられなくはない。

 しかし、本件鉄道事業認可が違法であっても、それが基礎とした9号線都市計画が有効に存在している限り、参加人東京都知事は、本件鉄道事業認可における瑕疵を改めて、再度鉄道事業認可を得ることは許されるのであり、そのような将来の可能性をも考慮すると、本件鉄道事業認可が違法であるからといって、直ちに、本件各付属街路事業認可も事業の必要性、公益性を欠いて違法になるものとはいえず、本件各付属街路事業の認可取消訴訟において、その前提となる本件鉄道事業認可の違法性を主張することはできない。」と述べた。



 3    阿部泰隆の反論


 高裁判決の論理では、高架事業がいったん違法になっても、もとの都市計画決定に基づいて再度高架部分について事業認可がなされるから、それを争う意味がないということになる。しかし、これでは違法行為を永久に争えなくなる不合理があるばかりでなく、当該処分の違法性を排除して、「やり直させる」という抗告訴訟の本質に反することになる。側道の事業認可が取り消されれば、やり直しにより結果として同一の認可がなされる可能性があることは同じであるからである。都市計画決定を違法として、事業認可が取り消されるときは、その理由も関係行政庁を拘束するから(行訴法33条)、都市計画決定は事後の事業認可の根拠となる意味で有効に存在するものではない。したがって、それを前提とする側道の事業認可は公共性を欠き、違法となり、側道部分の土地所有者は、高架部分の事業認可を争う利益があるのである。

 裁判所は、こんな理屈を考えるなら、当事者にこの点について再度議論させるべきである。こんな、予想外の理由で排斥されるのでは、「怒り心頭」である。  まさか、最高裁がこれを維持するものではないことを信じたい。



附言    行政訴訟の活性化と機能不全

 本件1審判決は、巨大公共事業に環境上の理由で待ったをかけた最初の判決である。機能不全に悩んでいる行政訴訟の活性化の兆しを示すものでもあった。

 この高裁判決の立場では、結局は、道路公害、新幹線公害の例に見るように、被害が深刻になってから、長年の訴訟で、「生きているうちに救済を」というスローガンを掲げて、わずかばかりの賠償金で、和解せざるをえないことになりかねない。ちなみに、尼崎道路公害訴訟では、原告は1審で勝訴したのに、高裁で、すべて放棄の上行政側の善意に頼る和解をした結果、結局は事態は改善されず、公害調停に頼ることとなった。しかし、それでは事態はなかなか改善されない。原因は大阪高裁が勝った原告にすべて捨てさせるような和解をさせた点にある(注4)。

 本件の高裁判決は、行政訴訟は、実際的にも、理論的にも、当事者対等の原則に立つものではなく、結局は、「行政訴訟はやるだけ無駄」であることを証明したようなものである(注5)。だからこそ、行政訴訟改革の必要がある。行政訴訟改革の真っ最中に、改革の必要性を示すような判決が下されることは、誠に残念、遺憾としかいいようがない。

 この上最高裁で、同様の解釈が示されるようなことがあれば、最高裁は、行政訴訟改革の必然性を全く理解していないというほかはない。最高裁の判事を総入れ替えして、最高裁自身を改革する国民総世論を作り出すしかない。





(1) 阿部泰隆「法治国家充実のための法改革、行政訴訟改革ー日本における阿部泰隆の提案ー韓国公法学会報告」神戸法学雑誌53巻3号1頁以下(2004年)。

(2) yasutaka abe 「Ueber die Justizreform und Reform des Verwaltungsrechtsschutzes insbesondere der Umweltschutzklage」「司法改革と行政訴訟改革ー特に環境裁判を中心として」日独シンポジウム報告書(2000年フライブルクで開催)、kobe law review  NO.35 (2002年)。

(3) 阿部泰隆「三行半上告棄却例文判決から見た司法改革」佐藤幸治=清永敬次編『園部逸夫先生古稀記念 憲法裁判と行政訴訟』(有斐閣、1999年)505頁以下。

(4)阿部「尼崎公害訴訟における和解の評価」『小高剛先生古希記念』(法律文化社、2004年刊行予定)。

(5)環境行政訴訟の不備については、阿部泰隆「環境行政訴訟の機能不全と改革の方向」法教269号35頁(2003年)。

以 上


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