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奥平康弘 意見書 2004年3月11日

意  見  書

最高裁判所御中

2004年3月11日
奥 平  康 弘


第一章 序説


 本件控訴審判決は、いわゆる「法律上保護された利益」説に徹底して依拠し、原告適格をほとんど極限的なまでに狭く解釈する手法をあえて採って、広く耳目を集めた首都の都市計画事業を争う裁判所の、その玄関口において、関係市民の請求を斥けたという点で、特記に値する。行政裁量に効果的な司法統制を加えることによって、一方で市民の権利自由の保障を実質化するとともに、他方、「公益」の実現、確保を図る行政の法適合性を保障すべしとする現代社会の要請に、この控訴審判決は著しく即応していないと思われる。「法の支配」というコンセプトが、ややもすると単なる道具主義的なスローガンに終始してしまう気配のある現今、こうした解釈論を超克して、新しく原告適格法を鋳直して、司法審査過程に市民参与のチャンスを保障する民主主義的な「法の支配」を再構築する必要があるであろう。

 ことがらは、行政事件訴訟法第9条でいう「処分‥‥の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」という文言の、文理的もしくは制度内在的な字義(exegis)に過ぎない、と考える向きが強い。そういった思考の枠組みのなかで、先例をただ墨守する、あるいはせいぜい先例が許容する範囲内で、当該適用事件との辻褄合わせのための微調整をはかるにとどめているというのが、この法をめぐる現実の状況である。原告適格に関する「法律上保護された利益」論は、こうした思考の枠組みのなかで形成され、いまではドグマ(教義・完説)として確立しているかのごとくである。

 けれども、この支配理論は、一定の観点から構築された、過去の思考の産物としての制度に適合的であるかもしれないが、現今では社会的な要請に応える(response)ことが出来ておらず、かかるものとしてそれは、正義に適うことに失敗している、と考える(1)。

 <そんな批評言説は、法外的な抽象論に過ぎない。耳を傾ける余地は無い>という反応があるに違いない。そこで、言い方を換えて、この支配理論は、日本国憲法(とくに、実体法上保護されるべき権利自由を司法過程をつうじて貫徹するために不可欠な、「裁判を受ける権利」の保障規定)との関係では、ひどい程度に非適合的である、と構成し直そう。

 このことの意味するところを、序論的な言説で必要な限度で略述する。当面の標的は、行政事件訴訟法第9条に置かれる。この規定は、これに先行して設定されているいくつかの制度的デザインが前提としてある。現象的にはまず差し当たり第2条の行政事件訴訟の四類型がそれであり、第3条の「抗告訴訟」「取消訴訟」「不作為違法確認訴訟」の定義がそれである。第9条との関連で着目されるべきは「抗告訴訟」の特殊形態としての「取消訴訟」である。これらは、日本国憲法成立後の暫定措置として制定・施行されてきた行政事件訴訟特例法の経験を踏まえて、実定法化され制度化の途を歩むことになった制度ではあるが、制度制定時、日本国憲法が想定する「法の支配」に十分に適合的なものとして慎重に検討し深く熟慮して出来上がったものであることの証拠はまったくない。処分の取消ではなくて処分の事前または事後の差止めを求める訴訟や処分の予防措置としての宣言判決を求める訴訟などはできるのかできないのか。もしできないという制度設計だとしたら、こうした設計を成立させた前提要件は何であったのだろうか。またそれは憲法上どのように正当化し得るのだろうか。そういった諸点に真摯な検証が加えられたポジティヴな気配は無いのである。

 いずれにしても、いま現在、市民は、本件のような行政処分を素材にして行政機関を相手にした訴訟を起こす場合には、この実定法上設定されている「抗告訴訟」の一形態としての「取消訴訟」を選択するように、事実上いわば追い込まれている(2)。そして、止むをえず提起した「取消訴訟」にあっては、「公定力」という、憲法規範の精査を経たとはなかなか言い難いドグマによって構成された、独特な武器に守られた「処分」概念から来るさまざまな効果が、被告・行政庁に有利になるようにはたらく仕組みになっている。

 こうしたドグマによれば、<「処分」とは、行政庁が「法の認めた優越的地位」に基づき公共の福祉増進のため法の内容を実現する目的のためにおこなう行為である>と捉えられ、さらに<一応の信頼性を有するところから、法律は、これに公定力を付与し‥‥正当な権限を有する機関により取り消されるまでは有効なものとして相手方を拘束するものとしている>(3)ということになるのである。

 しかしながら、ここで行政庁に「優越的な地位」を認めた「法」、あるいは「処分」に「公定力」という強力な効果を付与した「法律」は、何にもとづく、いかなる形の法なのであろうか。どちらの場合にも最終的には、憲法規範的に説明され、正当化されねばならないが、その種の検討が真面目になされた気配があるだろうか。ここにあって論者はあるいは、行政事件訴訟法をはじめとした行政に関する実定法規を持ち出して防戦に努めるであろう。けれども、ここに引き合い出そうとする実定法規には、それが実定化される背後に、それに先行して定立化され、通用することが認められてきた、ドグマが在るのであって、法規は、それに背中を押されてはじめて出て来たものであるということ、すなわち、ドグマは自己言及的に正当化することによってしか、自己を維持することができないことを、論者は気づいているのであろうか。

 以上、「取消訴訟」概念について述べてきたことは、「取消訴訟における“原告適格”」の問題性と無関係だと思う向きがあるかもしれない。だが、そうではない。原告適格法もまた「取消訴訟」制度の派生物として構成されているのだから、右ドグマの構成部分を占めているのである。

 原告適格という点でいえば、行政事件訴訟法は、「取消訴訟」の制度的特性を強調する目的から「民衆訴訟」という制度とディスティンクトに区別された制度を設計し(第2条)、前者における原告適格(第9条)と後者における原告適格(第42条)とは顕著に異なるものとして現出させられている。そして、かく設定された「民衆訴訟」のコンセプトは、「取消訴訟における“原告適格”」の拡張(the development of the law)を防止するための防波堤であるがごとく、機能しているのである。

 こうした消極的な役割りに任ぜられている「民衆訴訟」もまた、右に記したドグマと一体のものであるが、その法理論的な正当化、なかんずく憲法論上の基礎づけはきわめて怪しい。第5条によれば、「民衆訴訟」は、「選挙人たる資格その他自己の法律上の利益にかかわらない資格で提起するもの」と定義されている。そして、第42条は「民衆訴訟‥‥は、法律に定める場合において、法律に定める者に限り、提起することができる」という定めを置くことによって、訴訟要件のいっさいを立法政策の領域へと追い遣っている。すなわち、解釈などの手段によって法が発展する余地をほとんど完全封鎖してしまっているのである。

 だが、この制度は憲法規範上の精査に堪えうるものであろうか。たとえば、いま仮に、公職選挙法のなかに選挙民による選挙訴訟の定めが存在しないとか、現行法に現に在る関係法規を国会が廃止したという自体を想定してみよう。憲法第15条第1項が「国民固有の権利」であると宣言しているところの選挙権は、その損傷(injury)があっても、司法手続上の救済を求めることができない、名目的なものでしかないのだろうか。選挙権に関する利益は、もっぱら公共的な性格のものであって、「自己の法律上の利益にかかわらない」のだ、と言って済ませてしまえるものなのだろうか。

 これと同じようなことが、法のレベルをやや異にするものの、地方自治法が定める住民訴訟およびいわゆる情報公開法でいう行政文書開示請求訴訟についても言える。これらは「自己の法律上の利益にかかわらない」訴訟であるのであろうか。

 いままで述べて来たことはすべて、要するに日本国憲法が踏まえるところの民主主義というキー・コンセプトに関わる。

 さてところで、民主主義は、公益に仕えるものなのだろうか、それとも私益に仕えるものなのだろうかという、大上段に振りかぶった問いがあるとすれば、その両方に仕えるものであるという答が出てくるのは必然であるだろう。民主主義は公・私の両利益が機能的にオーバーラップすることを前提として、その微妙な組み合わせによって、当該状況に妥当な解決を与えることを模索し、それを将来への道筋の里程標たらしめるよう努めるということにほかならない。

 もしそうだとすると、「取消訴訟」について、<原告(私人、市民)が法律により個別的に個人に付与した私益保護規定にもとづき、ひたすら彼または彼女がこの私的利害を防禦する訴えである。これに対して、被告(行政庁)は公共の利益を第一義的に考慮しつつ、ただ付随的に、関連する法律が個別的に個人の利益を保護すべきむねの定めある場合に限って、私的利益の侵害がなかったことを主張すれば足りる。そういう訴訟である>といったふうなドグマティッシュな定義を与えて満足するのは、民主主義的に妥当ではない。たとえば 数多くある行政事件訴訟例のなかから、たったひとつを挙げるにとどめるのだがいわゆる「家永教科書裁判」(4)において、原告・家永三郎教授が求めたものは単に私的な個人利益であったとは、教授一個の主観においてにもまた裁判がもたらした客観的効果に照らしても、とうてい言えないものがある。家永教授は民主主義的な利益の充足をもとめたという点にこそ、あの裁判の意味があるからである。その意味で、家永氏は、のち合衆国法を考察するさい浮彫りにするコンセプトを使えば、氏の訴訟において氏は「私的法務総裁」として振る舞っていたのである(5)。

 以上が、私がこれから問題にする本件控訴審判決の「原告適格」についての見解を批判的に分析するための小さな前提である。本件控訴審判決はいわゆる「法律上保護された利益」説という支配理論を、まことに教科書ふうに展開して少しも疑うところがない。しかし、この言説は、法的に唯一可能な理論として自らを打ち出しているものの、あれやこれやの超実定法的な諸制度・諸概念に深く依存してのみ成立する、その意味で歴史的な性格の強い教理であり、かかるものとして、日本国憲法との両立可能性を検証することを要する教理であるという自己認識に欠けるところがあってはいけないだろうと思う。

  注

(1) 広く知られているように、P.セルズニックがP.ノネと共著で公刊した『法と社会の変動理論』(六本佳平訳、岩波書店、1981年)は、法はすべからく「応答的」(responsive)であらねばならない、と主張している。従来の法は、「自律的」(automatic,「自己回転的」と訳す方が適切であると思うが)であることが特質であって、専門家集団による制度内的解決を以て良しとなし、既存制度を前提とし、そこの内においてだけ通用する特殊技術的な概念および概念構成を駆使して、論理一貫性を重んじ、そのことによって「法秩序」を維持することを旨として来た、とセルズニックは考える。それと違って、「応答的法」というのは、移行期に宿命的な変動しつつある社会に相応し得る(responsiveな)ものであることに力点を置く法である、と説かれ、こうした「法」が絶えざる移行過程にある現代社会において、「在るべき法」たることをセルズニックらは主張するのである。私は、この主張に基本的に共鳴する。とりわけて、本意見書が取り上げる原告適格法は、かかる法へと脱皮し進化すべきことが望まれる。

 ひるがえって、支配理論「法律上保護すべき利益」説にもとづいて現在機能している原告適格法は、伝統的に構築された制度の枠組みのなかで自律的に回転する、セルズニックらのいわゆる「自律的法」の典型であり、かかるものとして、「応答的法」への移行があるべきだというのが、本意見書の基調である。

(2) もっとも、ここにおいて、市民は、行政機関または行政主体を相手にして、自己の権利あるいは利益の保護をもとめて、純然たる民事訴訟を起こす余地があるではないかという議論があるのを無視し得ない。けれども、法上および事実上行政活動の側に与えられる力を括弧に付して、行政と市民を対等なものと見なす民事中心的な思考は、結局において弱者たる市民に不利な方向にはたらかざるをえない。また、行政の側の違法を究明するよりも、市民の「権利」・「利益」の存否やそれへの侵害の主張・立証の責任を不当に過重に原告に強いることになる。なおまた、この訴訟にあっては、公権力の行使の差止めなどの措置をもとめることが不可能であるなどの不利益を市民に課する。総じてこの言説は、現代に適合的でない。

(3) ここにカギ括弧づきで紹介した言説は、支配理論を解説する有力な裁判官らの論文のいくつかから摘出し構成したものであるが、標準的な言説の紹介文として大過なきものと言えると信じる。

(4) 最一小判1982・4・8民集36・4・594(いわゆる「家永教科書裁判第二次訴訟」)をいまは差し当たり念頭に置く。

(5) この裁判の事案にあっては、問題の教科書の検定申請をおこなったのは、教科書出版会社であった。教科書の著作者である家永教授は検定申請に名を連ねていなかったのである。このことに相応するが、文部大臣がなした当該検定処分は、申請人たる教科書会社に対してのみおこなわれた。家永教授は処分とは全く無関係な、文字どおりの第三者であるに過ぎなかった。しかるにもかかわらず、その教授が検定処分の取消訴訟の原告となったのである。支配理論を直截に採れば、氏には原告適格があろうはずがない、という結論になりそうである。ところが、第一審裁判所も第二審も、それぞれ似た論法を用いて、教授は第三者であるのではなく、教科書会社と同様に、処分の当事者本人であるのだと構成することによって、その原告適格を肯定した。東京地裁は「検定の効果」なるものを持ち出し、それは「著作者、発行者のいずれにも及ぶ」として、両者同一論にもとづいてそうした(東京地判1970・7・17行裁例集7号別冊)。続く東京高裁は、「検定合格処分の効果はその図書そのものに生じ、申請者とならなかった他の一方にも及ぶ」とする対物処分論を提示して、どっちにも同じように原告適格ありという結論に達している(東京高判1975・10・2行裁例集26・12・1446)。最高裁は「被上告人(原告−引用者)は右処分の取消しを訴求する適格を有するとした原審の判断は、その説示に照らし、正当として是認することができる。」と判示することによって、この難問はめでたく解決したのであった。

 私はこの事案について不必要な冗漫に耽けたかもしれない。しかしながら、当時まぎれもなく「難問」であったこの事件は、その解決方式を含めて今日からみれば、いささかもどかしさを感じさせるところがありはしないだろうか。私がこうした「難問」解決をかったるく感ずるのは、たとえばひとつ、アメリカ合衆国であったらこれをどう処理するだろうかということとの対比がある。現在の合衆国においては、察するに、争点は直ちに家永教授の「表現の自由」が侵害されたかどうかの本案に及ぶことになる。当該行政処分の本質・効果などの行政法総論的な問題やこれとの絡みでの、家永教授が処分の名宛人の相手方か第三者かといった原告適格性の有無に関する問題が「難問」として立ちはだかることはないだろうと思う。

 日本においては、最高裁判決があってから20年以上経った現今なお、教科書裁判的訴訟が生じたならば、まず原告は、処分の相手方に該当するかどうか、もしそうではないとしたら「第三者」にあたるのだが、この第三者には原告適格性が認められてしかるべきかどうか‥‥などなどが乗り越えなければならない「難問」として待ち受けている。こうした問題所在のありようは、われわれが引き受けねばならない必然性があるのだろうか。私がもどかしく思う、もうひとつの側面である(仮に、本件家永氏については、どうしても処分名宛人という構成ができないとしたら、次なる手は、「第三者」としての家永氏のディスティンクトに個人的な利益を保護している趣旨を表した法令規定をさがし求める作業に入らねばならない。私の見るところ、教科書検定関連法令のなかに、かかる趣のある規定をアイデンティファイするのは、一寸難しいものがある)。





第二章 支配理論としての「法律上保護された利益」説その概観


 原告適格法領域で支配的な「法律上保護された利益」説の問題性を認識するために、以下にこの説の成立・展開振りを大急ぎで略述する。

一、戦後制定された日本国憲法は、行政裁判所を廃止し(第76条第2項)、そのことによって行政に関する法を特別扱いするシステムを解体させ、司法権をすべて最高裁判所を頂点として構築する普通裁判所に一元的に統轄させることにした(第76条第1項)。他方、旧憲法のもとでは、市民が裁判についていかなるアクセス権(参加し利用する権利)を有するかということがらは、行政事件のみならず民事・刑事のあらゆる裁判についても、挙げてこれ、国家の立法政策にゆだねられていたのに反し、新憲法は、すべての市民に「裁判所の裁判を受ける権利」を「奪はれない」ものとして保障する旨宣言した(第32条)。この点の変革は、法定手続の保障(第31条)をはじめとした、いわゆる人権保障の諸規定および権力構造に関する諸規定と相まって、相当にドラスティックなものとしておこなわれるべきことを、憲法は要請したと言うほかない。従来の国家を「行政国家」と捉え、これと対照的に新国家を「司法国家」として特徴づける試みがなされたのは、右の憲法上の要請に応えるためのものであった。

 旧来の「行政国家」にあっては、行政事項は完全に自由に国家が掌握するものであったから、この領域に「法」を導入するかしないか、導入するとしてそれはどんな「法」であるべきかは、国家が決めることであった。行政裁判についていえば、旧憲法第61条は、「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟」は「別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノ」としていた。これを承けて行政裁判法(第17条)はいわゆる訴願前置主義を設け、「行政庁ノ違法処分ニ関スル行政裁判ノ件」は訴訟事項に関し制限的列挙主義の原則を明記した。また、原告適格については、憲法および「行政裁判ノ件」の文言に基づき「権利ノ傷害(毀損)」を受けた者に限定されることになった。

 このように訴訟事項といい原告適格といい法律上明示的に制限されたから、どちらについても解釈の余地が少なく、したがって法律学の興味を惹くところがほとんどなかった。

 さて、戦後憲法が要請した「司法国家」化がこの方面に総体としてどんな変革をもたらしたか(あるいは、もたらすことが無かったか)を追究する余裕がないので、原告適格法に限って若干の考察を進める。

 戦後は暫定的にことを処理する目的上、行政事件訴訟特例法が制定され、この方面の応急措置に当たった。特例法には原告適格に関する格別の条文が設けられなかったという事情も相まって、旧法体系下に確立していた「権利侵害」を受けた者にのみ出訴を許すという制度がそのまま居残り、昔どおりに機能しつづけることになった。このことは、この制度の背後にあってこれを支えてきたところの、伝統的な行政法理論が無傷で生き残り支配しつづけることが可能であったことを意味する。その法理論とは、行政庁を「優越的な地位」に立つものと構成し、その為す処分に「適法性の推定」がはたらくとする、あの「公定力」論であるのは、あらためて指摘するまでもない。「公定力」論は、行政処分なるものはひたすら公益の実現・確保を目指す法律にもとづくものである以上はいわば概念必然的に、ある種の貫徹力を持つということを出発点とした。そうはいっても、処分の相手方が別に定める法律上の権利を有する場合にまで、貫徹力を有すると論ずるほどまでには、非「法治主義」的であり得なかった。こうして、当該処分が自らの有する法律上の権利を侵害したと主張する資格のある者に限っては、原告適格が認められると構成したのである。ひたすら公益の実現・確保をはかる行政にあっても、法律が個別に権利を付与することによって特定の者の私益を保障している場合には、その場合に限り例外的に、その者に出訴のチャンスを認めようという、19世紀「法治国家」観に適合的な性格のものであった。



二、もっとも、「法律上の権利」といっても、「権利」概念自体がはっきりしない。「権利」と命名されているものでないにしても法律上個人に保護されていると解されうる「利益」をも包摂するという理解も成り立つ。こうして、戦後ある時期から徐々に旧来の「法律上の権利毀損」説から「法律上の利益」説へと、支配理論のシフトがはじまることになる。

 すなわち、特例法のもとで暫定的・経過的になされた法的実践を経たのち行政事件訴訟法が制定されたときには、その第9条において「処分‥‥の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」という文言を設定することに相成ったのである。そしてこのことによって、一方では従来どおりの「権利保護」に多少の修正を施したうえで、将来の新しい法の発展を待つ方策を採るとともに、他方では「権利保護」説を支えてきた伝統的な行政法理論そのものは、断固その命脈を保つことになったのである。

 行政事件訴訟法第9条のもとにおいて、明治以来の「権利保護」説から「法律上保護された利益」説へと移行し、その意味では「法の発展」が全く無かったわけではない。たとえば、旧説にあっては、「処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟」(旧憲法第61条)の文言が反映して、もっぱら処分の相手方たる市民の原告適格性が問われる構造になっていた。相手方以外の市民は、第三者であって原告適格法の埒外に置かれていた。行政事件訴訟法施行以降もしばらくは、第三者は原告適格を認められる余地はほとんど無かったが(1)、やがて関連法規のなかから第三者の個別利益を保護する定めがあるかないかの、宝探しにも似た手法が案出され、なんらかの保護規定が見つけられた幸運な場合には、第三者にも原告適格が認められることになった。

 しかしながら、こうした個別条文の検討の次第によって、第三者に辛うじて原告適格性を承認するという手法 これが「法律上保護された利益」論の体現する手法なのであるが は、一方でたしかに case-by-case approach による原告適格法の自由化をもたらしたに違いないのだが、その裏側にはそうした流れと逆行する裁判例を少なからず残してもいるのである。例を以て示そう。都市計画法施行令が排水施設等につき周辺地域に対する悪影響発生を予防するため、排水規制基準を定めているのであるが、裁判所は「その許可基準が定められていることによって、結果的に原告の居住環境が保護され平穏で安全な都市生活を送り得ることとなるとしても、それは結局のところ、同条が都市の健全な発展と秩序ある整備という公益の実現を目的とする都市計画法の趣旨を担保し徹底しようとすることに由来する反射的利益にすぎないものであって、同条はそのような原告の利益を個別的具体的に保護することを目的としたものとは解されない。」と判示している(2)。周辺地域住民の主張する利益を、ものの見事に一刀両断に「反射的利益」と切り棄ててしまい怪しむところがないのは、これは、まごうかたなく旧法体系の「法律上の権利毀損」説の嫡出子である。しかし、それでありながら同時にこれは、同説の修正であるところの「法律上保護された利益」論が推奨する「個別条文の検討」という手法を採っているといえば、そう言えるものなのでもある。

 似たような裁判例をもうひとつだけ挙げる。都市計画法第33条第1項が掲記するいくつかの開発許可基準規定は、「私人の権利ないし具体的利益を直接保護することを目的とした規定ではない。」と断じたうえで、「原告らの主張する諸利益は、いずれも都市生活上重要な利益ではあるけれども、これらは‥‥公益の保護の結果として生ずる反射的な利益ないし事実上の利益にすぎず、個人的利益として法律上保護された利益とはいえない。」と判示しているものである(3)。この裁判例もまた、「権利毀損」説が通用する法世界と「法律上の保護する利益」説なるものが画くところの法世界との、両世界に跨って生きる鵺のような性格を帯びている。この例もまた、現在支配理論と旧「法律上の権利毀損」説との密接なつながり具合を、反射的に、しかし鮮やかに暴露している。



三、この間にあって最高裁判所は、いわゆるジュース表示訴訟(4)および長沼ナイキ基地訴訟(5)などをつうじて、「法律上保護された利益」論を確定させ、そうすることによってこの法領域における安定化(予見可能性の確保)をはかろうとした。その結果、「法律上保護された利益」の有無をめぐって、ケース・バイ・ケース処理方式が定着することになった。この方式を使って、事実上この法領域において柔軟な運用あるいは自由化のうごきがうかがわれるようになり、それはそれで円満に時代の要請に応えるものとして結構な線を辿りつつある、と積極的・肯定的に評価されてもいる。法の、妙なる「日本的経営」というわけである。

 たとえば、1989年、最高裁は、新潟空港周辺に居住する一市民に対して、航空機騒音による生活への影響など生活環境にもたらす効果を理由に、運輸大臣のなした定期航空運送事業免許処分の取消を求める原告適格を認めたのであった(6)。原告は処分の名宛人ではなく、単なる一般的な周辺住民のひとりであるにとどまったが、処分のもたらす効果のゆえに、「第三者」として切り棄ててしまうのではなくて、当該紛争の当事者として紛争を争い得る資格が認められたのであった。最高裁はまず「当該処分を定めた行政法規が、不特定多数者の具体的利益をもっぱら一般的公益の中に吸収解消させるにとどめず、それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むと解される場合には、かかる利益も右にいう法律上保護された利益に当たり、当該処分によりこれを侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者は、当該処分の取消訴訟における原告適格を有することができる」と判示する(これは、先例としてのジュース表示判決、長沼ナイキ判決を踏まえたものである)。こうして最高裁は、当該処分に関する法規中に、「単に飛行場周辺の環境上の利益を一般的利益として保護しようとするにとどまらず、飛行場周辺に居住する者が航空機の騒音によって著しい傷害を受けないという利益をこれら個々人の個別的利益としても保護すべきとする趣旨を含む」ものかどうかという検討をおこなった。航空機騒音の規制に関係する法として、上は国際条約からはじまり航空法の関連法規のあれやこれを挙げ、外は「公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止策に関する法律」の関連法条などを動員して、周辺居住の住民に原告適格を認める結論を導いた。

 それから後、約3年有余、1992年9月、いわゆる「もんじゅ」原子炉設置許可処分の無効確認請求訴訟事件において最高裁は、「(原子炉)事故が起こったときは、原子炉施設に近い住民ほど被害を受ける蓋然性が高く、しかも、その被害の程度はより直接的かつ重大な被害を受けるものと想定される」と提示して、許可処分がもたらすかもしれない被害の特質に着目しつつ、いわゆる原子炉規制法の関係諸規定のいくつか(とくに許可基準等に関する24条1項3号・4号)を挙示し「右各号は、単に公衆の生命、身体の安全、環境上の利益を一般的利益として保護しようとするにとどまらず、原子炉施設周辺に居住し、右事故等がもたらす災害により直接的かつ重大な被害を受けることが想定される範囲の住民の生命、身体の安全等を個々人の個別的利益としても保護すべきものとする趣旨を含むと解するのが相当である。」と判示した(7)。

 1980年代の終わりから1990年はじめにかけてくだされたこのふたつの最高裁判決がいわば追い風になって、これらと類似の生活環境に及ぼす影響をめぐる紛争という性格をもった開発許可処分との関係で、開発区域周辺住民に、処分取消訴訟の原告適格を認めた、いわゆる川崎がけ崩れ開発訴訟の判決(8)が出された。問題の都市計画法には法の目的を定めた総則規定はもちろんのこと、開発許可の基準等を定める諸条項のなかにも、いわゆる「開発区域周辺の住民個々人の個別的利益を保護する趣旨を含むことをうかがわせる文言」を全く見出すことができない。にもかかわらず最高裁は、都市計画法施行令および同法施行規則の関連規定を動員したうえで、法33条1項7号を浮かび上がらせ、同号は「良好な都市環境の保持・形成」という一般的利益(公益)をはかるとともに「がけ崩れ等による被害が直接的に及ぶことが想定される開発区域内外の一定範囲の地域の住民の生命、身体の安全等を、個々人の個別的な利益としても保護すべきものとする趣旨を含むものと解すべきである。」という解釈を導き出した。そのうえで、右の「一定範囲の地域の住民」にかぎり、原告適格を有するという結論に達している。結論にいたる手法の良し悪しを別としていえば、本件原審および一審が否定的に判断した争点につき最高裁は、積極的肯定的な結論を示したことによって、都市計画法上の原告適格はある種の拡張をみることになった。



四、右にみた、この一連の判例が、原告適格法の自由化の兆しを示すものであるとすれば、1998年12月の風俗営業許可処分の取消訴訟において風俗営業制限地域居住者の原告適格を消極に解した最高裁判決(9)は、自由化の限界を画したもの、あるいはそうした兆し自体を否定したもの、と言えるかもしれない。ここではいわゆる風営法は、ひたすら「一般的利益の保護」のためのものであると判示し、法律の目的規定、許可基準の定める規定、さらに法施行令による基準設定および法施行条例などはすべて「個々人の個別的利益をも保護する趣旨(傍点引用者)」を金輪際含むものではない、と断定された。

 この判決は、「個別的利益」さがしにおける関連法規の挙げ方がいかにむずかしく、一義性あるいは予見可能性に乏しいかを、教示して余りあるものがある。その点はいま一度のちに総括的に論及するところにゆずるとして、その翌年、1999年に最高裁がくだした、都市計画事業(環状6号線の拡幅事業等)認可処分等の取消訴訟における居住者等の原告適格否定判決(10)は、自由化との関係ではこれを明らかに逆流させるものである。  この訴訟で最高裁は、要するに、都市計画事業の認可等が対象としている不動産上の権利を有する者に限り、当該処分等の取消しをもとめる原告適格が認められるのであって、権利者以外の者にはこれをもとめる資格が無い、と判示した。ここで最高裁は、いわゆる川崎がけ崩れ事件等一連の判決とは反対に、原告適格の範囲を極小にとどめることにその力を傾注している。

 このように最高裁が不動産上の権利を有する者に限ってのみ原告適格ありと解釈した根拠は、都市計画事業の認可等があれば、当該事業地内の不動産について権利を有する者は、事業の施行をさまたげるおそれのある土地の使用を制限される等の拘束、すなわち権利の制限を受けることになるという理屈に置かれている。不動産について何らの権利をも有しない者は、認可処分等の公権力の行使との関係では、全く以て「御呼びで無い者」と言わんばかりの調子のように響く。周辺地域住民でしかない原告らは、都市計画法の目的・基本理念・基準などの規定や公聴会の関係・住民らの意見書提出に機会を与える規定を挙げて、個人の個別的利益を保護しようとすることが法の趣旨であると主張したが、斥けられた。これら諸規定はすべて、「やはり専ら公益的観点から設けられたものと解すべきである。」(傍点引用者)と説示されている。

 専ら公益的観点から繰り出された公権力行使に異議申し立てが出来る者がいるとしたら、それは法律上の歴とした地権を有する者でなければならない、というわけである。この立場たるや、いかにも支配理論としての「法律上保護される利益」説の範囲に在ると言えるにしても、同時に、旧法体系のもとで支配的であった「権利毀損」説とも何の矛盾もなく成立するものである。「権利毀損」説という19世紀的「法治国家」行政法理論は、「法律上保護される利益」説という形をとったうえで、いまなお厳然と生きつづけていると解するのが正当なのかもしれない。 その点はさておき、以上大急ぎで触れて来た最高裁判例は、原告適格の判定基準なるものが一応は語られてはいるものの、それは余りにも一般的・抽象的なものであって、結局は最高裁がケース・バイ・ケースで判定するという行き先不明の性格を帯びているように思われる。なぜそういうことになっているのかを解明するのには、序論で垣間見たような、支配理論が前提とする先行諸制度そのものの歴史的な限界に対する客観的な分析が必要である。

 この小論で、そうした分析を十全になすことはできそうもないが、そのための一助として、以下に、「権利毀損」説あるいはその変形としての「法律上保護された利益」説の問題性を浮き彫りにする目的から、アメリカ合衆国における原告適格法の基本的な性格がいかなるものかに考察の目を移してみたい。



  注

(1) この間の事情については、建設・開発行政分野に限ることになるが、差し当たり、荒秀「建築・開発行政訴訟における訴えの利益」『法曹時報』37巻1号1頁以下参照。なおまた、本意見書第1章注(5)参照。

(2) 広島地判1980・9・2行裁例集31・9・1745。

(3) 静岡地判1981・5・8訟務月報27・7・1359。

(4) 最三小判1978・3・14民集32・2・211。

(5) 最一小判1982・9・9民集36・9・1679。

(6) 最二小判1989・2・17民集43・2・56。

(7) 最三小判1992・4・22民集46・6・571。この訴訟は取消訴訟ではな  くて無効確認訴訟であった。しかし、原告適格の有無に関する限りでは、両訴訟形   態において目くじら立て論ずるに足る違いはあるまいと思う。

(8) 最三小判1997・1・28民集51・1・250。

(9) 最一小判1998・12・17民集52・9・1821。

(10)最一小判1999・11・25判時1698・66。





第三章 アメリカ合衆国の原告適格法を垣間見る



一、アメリカ合衆国における原告適格法について書かれた論文は、本邦でも、意外にたくさんあり、したがってここでこの主題に関し縷言する要をみないと思われるかもしれない。しかしながら公刊された論文の多くは、背後に日本法との比較検討という意図が秘められているとはいえ、結局は単に外国法制を紹介するという意味を有するに止まっている。本意見書にあっては、当該主題を、日本のこの法領域における現実の問題性を批判的に検討するという目的意識のもとで、要約的に考察する。

 はじめにまずは 本邦の論者がほとんど着目しようとしないことがらであるが アメリカ合衆国(以下、単に「合衆国」という。各州の法制は考察外に置く)における原告適格法は、現象的には多くは合衆国行政手続法その他から構成される行政法体系のなかで取り扱われるが、その扱いの前提には、憲法論上の精査を踏まえているということがある。すなわち、この主題はなによりもまず、憲法第3条によって“cases”and“controversies”という文言で表現される司法権概念の外延に関する問題として観念されているのが特徴的である。日本でも自然環境保全行政のありようが争われた判例としてよく知られている「シエラ・クラブ」事件(1)を例にとろう。そこでは最高裁判所は、<原告適格問題というものは「当事者が、その他の点では司法判断を受ける資格要件を具えた、一定の係争事件(an otherwise justiciable controversy)において、当該係争事件の解決を得るに足る十分な利害関係(a sufficient stake)を有する」(2)かどうか、ということなのだ>と説示している。この説示は、単なる法律上の言明なのではなくて憲法規範上のそれなのである。

 原告適格の問題は、憲法が裁判所という統治機関にどんな役割を果たすことを期待しているかを問う憲法問題の一部を構成すると、こう合衆国では考えられている(3)。けっして単なる法律解釈や立法政策のレベルでどうにでも処理できる問題とは考えられてはいない。

 合衆国においては、このように原告適格法は第一義的に憲法規範レベルのものとして把握されている事情を理解するひとつの手掛かりは、私の理解によれば、次のことに見出すことができる。合衆国にあって原告適格が問題になる訴訟事件の少なからざるものが、じつは、いわゆる「処分」の、いわゆる「取消し」を求めることを内容とするのではなくて(したがって、既存の「処分」がまずあって、その適法性を争うレベルの事件ではなくて)、法令等それ自体の違憲無効を争う、その意味でディスティンクトに憲法上の訴訟たる実体を具えたものなのである。

 たとえば、これまた日本でもよく知られている最高裁判決であるFlast事件(5)を見てみよう。ここでは、原告はカトリック系の学校への公費支給が憲法修正第1条(政教分離に関する規定)に違反することを理由に、福祉教育省長官を相手にしてその支給の差止めをもとめて争ったのである。原審裁判所は原告適格無しとして訴えを斥けたが、最高裁は、これを破棄し原告適格有りとして、審理差戻しの判決をくだしたのであった。

 合衆国にはこのように直截に法令の合憲性を、差止請求訴訟や宣言判断請求訴訟などの形式をとって争う事例が少なからずあり、それとの関係で原告適格が問題になるのである。ここでは問題の扱いが憲法レベルのものであるのは不可避である。しかし、ここにおける原告適格法は、切れ目なく行政措置の適法性を争う訴訟上の原告適格法へと繋がって在るのであって、ひとしく原告適格の問題でありながら、憲法上のそれと法律適用上のそれとがふたつ別にあるわけのものではないのである。

 ひるがえって日本では、憲法第32条(「裁判を受ける権利」)にもかかわらず、現実には、後発の行政事件訴訟法が構築する法律上の制度のはたらきによって、端的・直截に法規の合憲性を争う訴訟は法上不可能であると考えられており、したがって原告適格問題は、憲法第32条と遠く離れたところでのみ論ぜられるべきことがらと見なされており、それと連結してこの問題は立法政策レベルにあるとされ、法律準拠主義を前提とした解釈論がアルファでありオメガであるとされている。

二、合衆国の原告適格法の発達過程を瞥見しよう。この国でも長い間、原告適格問題は憲法上の精査無しに処理されて来た。公権力行使の適法性を争うにつき、原告適格の有る無しを決める基準は、当事者がコモン・ロー上の権利を有するか否かにおかれていた。権力行使がその相手方のコモン・ロー上保護されている権利を毀損したかどうかが決め手とされたのである。この、「コモン・ロー上の権利毀損(legal wrong)」説は、いろいろな点で、日本の旧法体系下における「権利侵害」説に似ていた。日本のそれが、いろんな意味で現実社会と適合せず、やがて破綻したと同じように、合衆国のそれも、有用性を失い、消滅した。以下にその過程を詳しく追ってみる。

 「コモン・ロー上の権利毀損」説は、いわゆる「ダイシー理論」に適合的な、その意味できわめて歴史的な限界を伴った法理であった。ダイシー流に理解された「法の支配」のもと、<英米社会には特別な法体系としての「行政法」は存立する余地がない。行政その他統治にかかわる法領域にあっても、普遍法としてのコモン・ローが貫徹する>という考えが、原告適格法のありようを左右したのである。

 けれども、「ダイシー伝統」の神話にもかかわらず、19世紀後半ともなると、実は、合衆国にも行政法が着実に成長しはじめていたのであった(6)。公権力行使は向けられた直接の相手方のみを念頭におき、その者のコモン・ロー上の権利侵害の有無だけを基準として原告適格性を判定するという構えに止まっていたのでは、数知れない多数の市民に影響を与えずにおかない公共的な諸事業を展開する必要があった、ニューディール政策を推進するいわゆる「積極国家」のありように対して、法的な正当性を確保することができなくなるのであった。

 顕著には1940年代に入ってから以降、「コモン・ロー上の権利毀損」説は散りはじめ、やがて全く通用力を失う。その出発点は1940年のSanders事件(7)にある、と一般に理解されている。この事件では実体法上は何の権利も与えられていない、そして、当該処分の相手方でなく単なる第三者に過ぎない原告に対し、最高裁は処分を争う適格性を認めたのであった。最高裁は、処分により「利益が害され、あるいは不利な影響を受けた」者(“aggrieved or whose interests are adversely affected”)は、司法審査を求めることができるとする手続規定に着目し、これを手掛かりとしてそうしたのである。そのさい法廷を代表してロバーツ裁判長が書いた判決は、当該第三者の個人的な利益保護にではなくて、関係行政法規が含意する公益(「公衆」一般の利益)を保護することに、むしろ力点を置いているのが注目される。

 2年後のScripps-Hawardラジオ事件(8)では、右Sanders事件と相似の事案であって、放送免許処分の適法性を第三者たる競業者が争うものであった。フランクファーター裁判官により代表された多数意見は、「これら私的な訴訟当事者らは公共の利害の代表者としてのみ、原告適格を持つ」と断定的な言明をおこなうことによって、Sanders判決の採ったオリエンテーションを踏襲した。

 この判決で注目に値するのは、やがてのち熱心なエコロジー保護者として、また環境訴訟における原告適格につき一家言持つ裁判官として世界的に知られるところになるダグラス裁判官がこの時点では、反対意見を書いて、憲法上の疑義を表明している事実である。法律上の実体的な権利を持たない第三者たる事実には、行政当局とのあいだに“case or controversy”があり得ないのだから、司法救済をもとめる資格が無い、と論じた(9)。ダグラスは「法律上保護された権利毀損」論になおこだわっていたのである。これに対しフランクファーターは法廷意見のなかで「裁判所が個人の財産権上の利益ではなくて、公共的な権利(public rights)の実現(enforce)をもとめられるからといって、そのことは、こうした財産権を保護するという司法権の縮減となるものではない」と論ずることによって、ダグラスの疑義に一応対応しているのであった。

 実体的な権利が無い以上は、それへの侵害も無く、したがってそこに司法救済が出て来る余地があろうはずが無いではないかというダグラスの疑問に、はっきり答えることを意図して原告適格に関する裁判に臨んだのは、第二巡回区控訴裁判所のJ.フランク裁判官であった。このリーガルリアリズム最強の論者のひとりとして日本でもつとに知られているフランクは、「私的法務総裁」というコンセプトを用いることによって、処分の第三者が当該処分の取消しをもとめる資格があることを説明した(10)。こうである。<私的な市民としては違法と思えるのに、当該行政処分に対して 憲法上の制約から 手も足も出せない場合であっても、議会は、法務総裁のような公務員に対して、その処分を争う権限(資格)を与えることが憲法上可能である。議会は、法務総裁などのような公務員にそうした資格を与える代わりに、私人またその集団に対して、そうした資格を与える立法を制定できるのであって、その場合には、現実に「争訟」が在ることになり、私人であっても公務員の違法な行為を裁判所で争うことができるのである。こうした私人、つまりこのように授権された者は、いうならば、私的法務総裁なのである(11)>。

 フランクによれば、「公益」を実現する目的の行政法規(およそ行政法規であってそうでない目的のためのものを想定し得るだろうか?)を実行に移す行為が適法に、つまり「公益」目的適合的に、なされていない疑いがある場合には、それによって「権利」が侵害されたと称し得る者であろうとなかろうと、つまり実体法上何らかの権利の有る無しを問わず、当該行政法規になんらかの形で司法救済規定があるならば、それにもとづいて誰でも、私的法務総裁的に振る舞って「公益」実現(あるいは日本流に言い換えていえば「客観的適法性」確保)の役割を分担できる、ということになる。

 こうした理論は日本の伝統的思惟にとっては余りにも隔たりがあって、参考に値しない雑音である、と受け取られる運命にあるのは、私にもよくわかる。ここには、日本の「法律上保護された利益」説が当然のこととして前提にする、公=客観・私=主観の区別の混交、行政庁に具わる公定力の無視、などなど本質的な欠陥があると見なされるからである。けれども、合衆国にあっては、1940年、旧来の法理として君臨してきた「権利毀損」説に致命的な打撃を与えたSanders判決、それを承けて展開しはじめた原告適格法の自由化の流れに即して、それを法理論的にバックアップするものとして、フランクの「いうならばの“私的法務総裁”」論は、決定的に重要な意義を持つことになるのであった。

 フランクのそれは学理上の論文のなかで語られたのではなくて、特定の実践目的に規定された判決文のなかで表現されたものであった。やがてまもなく、同様の法理解・法構成をより理論的な形式によって正当化をはかる諸論文がハーバード・ロースクールのジャフェ教授の手によって、つぎつぎに公刊されることになる(12)。

 「私的法務総裁」とかジャフェ流の「公共訴訟」とかいうことばが用いられるかどうかが問題なのではない。そういうことばの背後にあって、そういう表現方法を採らせるにいたっている法的理念が問題なのである。そうした理念に導かれて司法によって展開する法実践が大事なのである。ここでは、無数にある判例のうち、たったふたつだけを、「流れ」を構成する部分(part)の実例として示しておく。

 ひとつはハドソン河域保存会議事件(13)である。ここでは電力会社のためになされた施設設置許可処分の適否を争う訴訟事件において環境保護組織の非営利連合体(非法人)たる第三者は、「当該地域の保有する景観的、歴史的ならびに保養的な価値」について、「それに相応しい利益」を持つことが認められ、当該連合体は原告適格有りと判定されている。被告=行政庁は、事業経費の多寡いかんがもつ公益性を盾にして処分の適法性を論じたが、裁判所は処分庁に事案差戻しをするにさいし「わが国のような豊かな社会にあっては、事業経費(の多寡)なるものは、考慮さるべきさまざまな要素のたったひとつの要素でしかないことを、肝に銘ずるように」と、一言つけ加えているのが印象的である。

 もうひとつ。キリスト教統一教会コミュニケーション事務局事件(14)は、やがて最高裁長官へと昇任することになるバーガー裁判官が判示したものであって、この法領域の歴史に長くその名を残すことになるはずの判決である。事案は、連邦通信委員会があるテレビ会社に対しておこなった免許延長処分の適法性が争われたものである。ある放送会社に与えた免許処分の取消しを、サービス区域を同じくする他の放送会社が請求できるかどうかという問題でさえ、40年代まで命脈を保ってきた伝統的な思考からすれば、頭を悩ませる性質のことがらであった。しかしながら、この事件で訴えを提起したのは、同業の競争会社ではなかった。当該サービス区域に居住する視聴者たる市民たちであったのである。つまり、一般公衆が訴えたのである。かれらの訴えの趣旨はこうである。本件で免許更新が認められた問題の放送局は、これまでにいちじるしく人種偏見にみちた番組制作および番組編成をしてきたのであるが、免許更新のための審理過程において、通信委員会はそういった過去の放送のありようを十分に考慮せずに、延長許可をしてしまったのは違法である、とこういう主張である。バーガー裁判官は当該市民らに原告適格を認めた。バーガーは判示していわく、「通信委員会は、私的法務総裁の役割を果たす正当な視聴者代表の助けと参加なしにでも、免許更新手続においてちゃんと視聴者利益を反映できると考えたが、」これは、あまりにも楽観的であって、実際上前提を欠いた頼りがたいものになってしまっている、と。「行政法における原告適格をめぐる諸概念が徐々に拡張と進化を遂げてきた実績からみれば、手掛かりとして受けとめられてきたのは、論理とかゆるぎなき規則とかではなくて、むしろ経験だということがわかる。」「経験の示すところ、視聴者(消費者)こそが公共的利益の最良の擁護者なのである。」

 私としてはこの場に立ち止まって、こうした法理解を成り立たしめているアメリカ行政法の諸要素を考察してみたい誘惑を感ずるが、しかしここでは、原告適格法の自由化の流れを作っていくうえで、「私的法務総裁」・「公共訴訟」といったことばで言い現される観念あるいは理念が大きなはたらきをしたことを確認するだけにしておくほかない。



三、ニューディール政策および戦時・戦後の国家経営のなかで、行政法規はマッシュルーミングした。そうした法規の司法救済規定との関係で原告適格のありようが問われていたのであった。こうした法実践を踏まえてこの方面の一般法としてAPA(行政手続法)(16)が成立した。原告適格に関係しては、コモン・ロー上の権利毀損を受けた者(any person suffering legal wrong)のほか、「当該関係法律の定める意味にしたがい不利な影響を受けた者、もしくは利益を害された者」(any person ... adverselly affected or aggrieved)と定められた(17)。“adverselly affected or aggrieved”という文言はそれだけとれば、日本行政事件訴訟法第9条でいわゆる「取消しを求める法律上の利益を有する者」というのと、似たり寄ったりの程度の多義性・あいまいさを蔵すると言える。けれども、日本の場合はいざ知らず、合衆国にあっては、この規定で意味するものは、伝統的な「権利侵害」要件にもとづいて認められる原告適格のほかに(それは“any person suffering legal wrong”という文言によって包摂されている)拡張された原告適格があるのが一般実定法上承認されたということである。別言すれば、既述したSanders判決およびScripps -Howardラジオ判決が、当該処分の名宛人でないところの第三者にもかかわらず、処分適法性を争う資格を認めたときに採った論理が、APAのなかに取り込まれるにいたったのである。

 この論理の眼目は次の点にある。すなわち、行政庁の措置が誰かの権利の毀損、あるいは、法律によって個別的に当該個人に対して与えられた保護利益の侵害をもたらしたかどうかではなくて、当該措置が、誰であれある者が従来から享受して来ている利益を傷つけたと主張し得る者に、当該措置の適法性を争う原告適格を認めるべしということが法の要請するところであるというのである。

 処分を争う者の私的・個別的な権利・利益の被害の有無やその性質・程度に専一的にかかずらうのではなくて、市民の訴訟提起の意義を、処分それに「公益」実現・確保を使命とするものであるがゆえに、単に処分の名宛人に影響を与えるに止まらず、多かれ少なかれ一般的効果を有し、かかるものとして「公衆」(the“public”)の利害と関わらざるを得ないものなのであるが実体上、手続上適法であり、そしてそういうものとして妥当性を持ち得ているか、それを審理するのが、司法審査であるという考えである。この考えに立てば、訴訟の入り口(threshold)のところで私的な被害利益のあれこれを吟味することに重点を置くことは、法的に正しくないことになる。こうして勢い、この国にあっては、原告適格を自由化し、「事実上の利益侵害」(injury in fact)の有無をもって判定基準とするという流れが完全に支配的となり、現在にいたっている。

 「事実上の利益侵害」論は、原告適格法を憲法上の諸原則に照らしつつ柔軟に構築してゆこうという構えをとるものであって、その意味で「開かれた体系」と言える。けれども、「体系」である以上は、それを成り立たしめるために必要な限界づけが無いわけにはゆかない。すなわち「事実上の利益侵害」法理には、そこに固有なそれなりの論議を随伴し、それは止むところを知らないと言えるほどのものがある。

 論議が随伴しているという点だけをとれば、合衆国の「事実上の利益侵害」論も、日本の伝統的に支配的な「法律上保護された利益」論も、どちらも同じ、どっこいどっこいではないか、と達観する向きがあろう。そのような向きからすれば、日本の伝統的解決方式に固執しつづけるのも、そんなに悪くないという評価になるであろう。けれども、合衆国の場合は、憲法の諸原則に照らして「開かれた体系」を採ったことから生ずる問題性であるのに反し、日本の場合には、日本に固有な憲法上の精査を受けたものではなくて、逆に旧憲法に特有な制度的拘束のもとで形成された「閉じられた体系」のなかで、いかに上手に辻褄合わせをするかということから来る問題性である。一方は「開かれた」方向をとっており、他方は「閉じられた」方向に向けられたものなのであって、あれとこれとを同一視するのは、大きな誤りである。

 「開かれた」とか「閉じられた」とか比喩的表現を用いたが、要するに前者にあっては、行政裁量に司法統制の途をできるだけ開いておくことによって市民の権利利益の保障と行政権力の法適合性の確保の両方をはかるべしとする要請、別言すれば「法の支配」の運営に市民が参加する手続を講ずることによって司法の世界においても民主主義化を貫徹しなければならないという要請、が基底的にはたらいている。これに反し後者は、公権力の側の「公益」実現の貫徹に最大限の力点を置き、これと付随して「法律上保護された具体的な権利利益」にかぎっては、私人の側にそれ相当の配慮を与えるという構えになっていて、慣習、習俗、伝統という名の、憲法上吟味されたことのない現実制度を期するところがあってのことか、期せずして結果においてか守ることに機能している。ここには、市民的権利利益の保護と行政の法的適合性の確保を目的とした手続保障制度への関心という点で、考慮を払う観点が欠如している。目前の事件に関連する実定法規のなかに「法律上個別に保護された権利利益保護の規定」が有るか無いかにひたすら問題関心があり、原告適格法についての将来の展望を持つこと無しにことが処理されているのではなかろうか、と憂慮される。





(1) Sierra Club v. Morton,405 U.S..727(1972).

(2) ibid at 731.

(3) その表徴の一例を、次のことにみることができる。Laurence H.Tribe,American Constitutional Law(The Foundation Press,1978)は、いまでは古典の部類に属すると言われそうだが、しかしなお、憲法に関するもっとも標準的な概説書のひとつたるを失っていない。この本の第3章(20〜156頁)では、司法権が扱われており、その内、原告適格問題については、第17節から第29節まで、相当数のページ(79〜114頁)が割かれている。そして、その内容は、日本でだったら行政訴訟関係論文でのみ論ぜられる細かい議論に渡っている。すべてこれ、トライブは憲法論として分析し語っているのである。この方面で日本に支配的な法律準拠主義は、トライブの本のなかに、その痕跡さえ見出すことができない。

(4) こうしてたとえば、もっぱら憲法訴訟との脈絡で原告適格法を批判的に検討する作業が、合衆国には見られる(See,e.g.Mark V.Tushnet,The New Law of standing;Aplea for Abandonment,62 Cornell L.Rev.663(1977))。

(5) Flast v. Cohen,392 U.S.83(1968).

(6) 合衆国の場合、行政に特有な法の展開、すなわち行政法体系の成立が不可避であると考えられたとき、ダイシー理論でいわゆる「法の支配」を司法手続類似の手続の導入によって充足し得るという理解が生まれ、行政過程の「適正手続」化がはかられるようになった(この辺の経緯については、鵜飼信成『行政法の歴史的展開』(有斐閣、1952年)が参考になる)。合衆国の行政法は、手続保障要件を抜きにして考えることができない。このことは、行政手続法上の原告適格を問題にする場合、軽視してはならない点であると思う。

(7) FCC v. Sanders Brothers Radio Station,309 U.S.470(1940).

(8) Scripps-Howard Radio,Inc. v. FCC,316 U.S.4(1942).

(9) ibid at 18ff. (10) Associated Industries,Inc. v. Ickes,134 F.2d 694(2d Cir.1943), vacated as moot, 320 U.S.707(1943).

(11) この文章は、フランク裁判官の言説(ibid at 704)そのものではなく、その要約である。

(12) Jaffe & Henderson,Judicial Review and the Rule of Law:Historical Origins,72 L.Q.Rev. 345(1956);Jaffe,standing to Secure Judicial Review:Public Action,74 Harv.L.Rev.1265 (1961);do.,The Citizens as Litigant in Public Actions:1033(1968),et al. the Non-Hohfeld- -ian or Ideological Plaintiffs,116 U.Pa.L.Rev.1033(1968),et al.

(13) Scenic Hudson Preservation Conferance v. FPC,354 F.2d 608(2d Cir.1965).

(14) Office of Communication of United Church of Christ v. FCC,359 F.2d 994(D.C.Cir, 1966).

(15) 橋本公亘「行政訴訟の原告適格」(田中二郎先生古希記念『公法の理論(中)』有斐閣、1976年、1097頁以下)は、合衆国の原告適格法を紹介するものであるが、フランクの「いうならばの私的法務総裁」説およびジャフェの「公共訴訟」論の受けとめ方が、私のそれとかなり異なる。橋本論文は、どちらかというとこれらの新しい動きに対して消極的な評価をくだし、また“自由化”という全体の流れと切り離して捉えているように思う。いずれにせよ、アメリカはアメリカ、日本は日本という制度峻別論が基調になっているきらいがある。

(16) 60 stat.237(1946),5 U.S.C.§§1001-1011.

(17) ibid§1009 (a).





第四章 あるべき原告適格法を求めて



一、以上、合衆国の原告適格法の展開過程を概観したが、私が日本のそれとの比較検討にとって大事だと思うのは、合衆国の場合この法領域で「法の発展」を促したものは何であったのかという点に思いをいたすことである。この種の問題に当面するとき、キプリング流に「東は東、西は西、両者は交わるところがない」と達観して、それで話を済ませてしまう傾向が、日本の、特に法の世界では、強く感ぜられる。「前提的な制度」の違い、この違いをゆえなく既成事実として承認し肯定的に受け止め、さらに法律準拠主義に基づいて万事法律待ちの構えで応対し、自らは根本的なところを求めようとしないのが通弊だと思う。けれども、「違い」で話を終わらせてしまう前に、最高法規としての日本国憲法がエッセンとして指し示している次のメッセージを想起したい。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原則であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。」(傍点引用者)という宣言である。ここで語られる「人類普遍の原則」とは、実定法律のレベルで決められるような制度的な枠組みを越えたところにある、と理解すべきである。そうでなければ、「普遍」の可能性はない。

 現に日本を支配している「権利毀損」説の変形としての「法律上保護された利益」説のひとつの特徴は、哲学の世界できびしい批判の的になっている公・私二元論を踏襲した上で構築された公法・私法の二元論を前提にし、<「公益」を実現確保するものとしての「公法」は、本質的に国家権力にのみむけられた客観法である(したがって、この本来的に客観法であるところの規範が、偶発的に私人たる誰かに利益を与えても、それは反射的な利益にすぎなく、もともと法によって保護される契機を持たない)>という理解に、結局において今なお固執している。その反面、「私法」は端的に私益保護に任ずるものであって、実定法が個別具体的にこれを保護する趣旨を明らかにしている場合の限りにおいて、「公法」の貫徹は妨げられるという理解になるのである。これは時と所を超えてある普遍的な思惟の産物というのではまったくない。

 支配理論は右の点に特徴があるから、これに規定されて、「公益」を実現確保する担い手は概念必然的に国家機関でしかないという考え方を包蔵している。こうして、もうひとつの特徴がうかがわれることになる。すなわち、「公益」実現確保の審議過程・決定過程には、私人は権利の持主であろうと単なる利害関係者であろうと、その他だれであっても参加する権利をそもそも持たない。「適正な手続を受ける権利」という外国では憲法上保障されているものは、日本と無縁であるという考えを背後に秘めている。

 先に垣間見た日本の原告適格法に関する判例には、憲法32条の「裁判を受ける権利」が実は裁判以前の権力行使過程における手続保障的な観点と密接な関係に在ることをうかがえるものが皆無であるのが特徴的である。そうだから、たとえば、先に見た1999年の「環状6号線拡幅事業」等に関する訴訟にあって原告が持ち出した公聴会開催及び意見書提出に関する諸規定は、最終的には市民の「裁判を受ける権利」へとつながってゆく利益保障的な手続的規定であるという側面が全く無視されたまま、行政庁に任された裁量行使の便宜のために設定された「客観法」であり、かつ、それにとどまるという理解になってしまっているのである。

 比較的最近、日本でも規範定立過程におけるパブリック・コメントの制度が徐々に浸透しはじめてきているがごとくである。この場合日本では、こうした制度は、各統治機関が本来裁量で決定しうるところであるのに、ある種の政策目的上、当該機関の便宜のために設けられたものであって、この制度によって市民の側になんらかの程度の権利もしくは法によって保護される利益が与えられたわけではない、と考えられている。そういう理解と裏腹に、こうした性格の制度は、もっぱら法律の定めのあるときにのみ、法律の定める仕方でのみ設定されるという、端的に法律準拠主義的な思惟によってのみ、理解されてしまうのである。

 1999年に成立したいわゆる行政情報公開法は、すべてのものに行政情報開示請求権を与え、この権利を裁判上貫徹し得る市民の権利として保障するものとした。もちろんこれを丸ごとすべて法律準拠主義に基づいて、実定法が特別に設けた「民衆訴訟」の一形態として特殊化して理解するのが支配的傾向であるのは私にも分かる。「自己の法律上の利益にかかわらない資格で提起する訴訟」(行政事件訴訟法第5条) であるときめつけたり、開示請求拒否処分には「公定力」があると解したりする理論は、こうして無傷で生き残ることになるであろう。けれども、他方これを、原告適格法を狭く考えさせるのに役立ってきた伝統的行政法体系に対する改編を迫る立法的な現れだと見ることもできるのである。そして、立法の形態をとってなされる解決は、ありうべき手段のひとつではあるが、それが憲法上の要請に相応するものであると考えるならば、同じ要請に応えるのに、既存法規の解釈運用のレベルで、行政府・司法府がそれぞれの行動形態を以てなすことができるはずであり、なすべきなのである。行政も司法もともに、それぞれの仕方で自らのイニシアティブにおいて憲法規範を実行に移すことを、ほかならぬ憲法が命じているところだからである。憲法が最高規範であるというのは、そういうことを意味するのである。司法部は司法部なりに機をみては憲法規範をパラフレーズし、ブレークすることが期待されているのである。



二、さて、先に垣間見たいくつかの最高裁判例のなかからひとつうかがえるのは、原告が主張する被害事実の性質のいかんによっては(それが深刻である故にこれを軽視することが憲法上の価値体系に照らして正当でないと思われる場合)、あえていささか苦しい法解釈を弄してでも、原告適格の自由化を図る方途を選ぶのに吝かではないという傾向である。新潟空港事件では航空機騒音、もんじゅ訴訟では原子炉からの発生事故、川崎がけ崩れ開発事件におけるがけ崩れといった場合には身体、生命への被害ということの重大性の故に、周辺住民を単に「第三者」と言い放って裁判拒否を断行することは回避している。この種の場合には、関連する法規のあれやこれやを検索して、個別具体的な利益に配慮していると言えそうな規定を探したり、そういうものを構成するという労をとる。そうでない場合、たとえば、環状第6号線拡張工事事件で主張されるような生活環境の悪化などという、現代日本経済の大勢から見れば、比較的マイナーであるといって済ませそうな被害が問題になる場合には、関連法規の探索・構成の労は省いて、「権利毀損」論一本でゆく。そういう仕組みになっているがごとくである。ケース・バイ・ケース処理を成り立たしめている主要な要素は、このように市民への被害・悪影響の性質・多寡などの判断をその都度カウントすべきものとして抱えもっているということがあるように思う。

 そこから、少なくとも一つの問題が浮上してくる。すなわち、生活環境の悪化というのは、それ自体として個別の身体・生命に直接つながらないから、マイナーな利害であるという決めつけがもしあるとすれば、そうした見做し方は、憲法第13条、第25条と矛盾なく成立しうるものなのであろうか、ということである。現代社会における都市は、その器を国家が政策裁量的に作り、そこに住む市民はかく作られた器をひたすら既成施設として受け取り、その範囲で可能な生活環境を作り、その範囲で当該環境を享有するというただ単にそういったものでしかないのだろうか。生活環境はそこに生きる市民に決定的な利害関係をもつがゆえに、都市作りは国家が一方的に作り、市民はこれを消極的に受容するといったものではなくて、生活者としての市民が何らかの形で都市作りに参画するという手続がとられることを、民主主義的憲法は要請しているのではあるまいか。また同じ理由によって、市民は、生活環境がもたらす不利益のある種のものが公衆一般に係わる性質のものである場合、一般的な利益の名においてであれ私の利益の名においてであれ、関係する当該公共事業の差止め、取消、改善等を求める資格がある、と考えるべきなのではないだろうか。

 都市社会における生活環境ということは、どんな市民にとっても日常的にかかわる生活の、その質にかかわることがらである。マイナーな利害にかかわり、官庁の裁量的処理に任せられていると見做すのは、現代社会においてはもはや適合的ではない。そういう扱いは、憲法の要請するところから外れた方式である。



三、叙上のように、逸する利益の重大性を決め手とする最高裁判例にならって、生活環境の一般的利益のみならず個別市民的利益との関係における問題性を指摘したが、この点をもう一つ別の角度から考察しておきたい。ここでは行政裁量の司法統制について新機軸を持ち出した裁判例として高い評価を受けてやまない、いわゆる日光太郎杉控訴審判決(1)が引き合いに出される。この事件は処分相手方たる土地所有者(宗教法人東照宮)が原告となっているため、私の意見書の本来の争点とは全く関係ないと言えば、たしかにそういえる。けれども、私の立論にとっては、いささかの関係があるのである。

 この訴訟では、太郎杉伐採が土地収用法上適法か否かが争われた。東京高裁は、当該収用処分は行政庁の裁量に属し、その判断は当該事業を囲繞する「諸価値の比較考慮に基づく総合判断として行われるべきもの」としたうえで、行政庁が「この点を判断するにあたり、本来最も重視すべき諸要素、諸価値を不当、安易に軽視し、その結果当然尽すべき考慮を尽さず、また本来考慮に入れるべきでない事項に容れもしくは本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価し、これらのことにより同控訴人のこの点に関する判断が左右されたものと認められる場合には同控訴人(当該行政庁引用者挿入)の右判断は、‥‥違法となるものと解するのが相当である。」と判示した。

 要するに裁判所は、<カウントに容れるべきものはちゃんとカウントし、カウントしてはならないものはきちんとカウントからは排除せよ>と命じている。この命題によって確保されるべき利益は、たまたま土地収用に見舞われた者について守られるべき利益にとどまるのか、それとも処分の効果が何らかの程度で及ぶことになる地域住民にとっても守られるべき価値なのか、という疑問を生じさせはしないか。

 東京高裁は、上記命題が示す判断基準に照らして当該処分の法的評価を進め、結論として<カウントに容れるべきことを軽視し、カウントしてはならないことを重視したり混入させた>として、違法であると判定した。こうした結論に達するについて最も決定的であったのは、「本件土地付近のもつかけがえのない文化的諸価値ないしは環境の保全という本来最も重視すべきことがらを不当、安易に軽視し」(傍点引用者)たという要素であったのである。

 裁判所はそう語る前提として、こういっている。「本件土地の所有権こそ被控訴人の私有に属するとはいえ、その景観的・風致的・宗教的・歴史的諸価値は、国民が等しく享有すべき文化的財産として、将来にわたり、長くその維持、保存が図られるべきものと解するのが相当である。(傍点引用者)」と。この言い方に賛同するかどうか別として、ここで強調されている利益は、「個別具体的に保護すべき個人的な利益」と言い切るにしては、あまりにも「公共的性格」の強い「公益」であることを否定できるものではほとんどあるまいと思う。これは、「権利」という名によって法が保護する「利益」とは別な、それを超えたところにある「公益」である。日光太郎杉事件の場合は、「公益」を主張するものがたまたま、地権者であって、処分取消を求める原告適格があることについては疑う余地がなかった。このところで一点突破すれば、堂々と「公益」を主張することが出来るというわけである。

 「公益」の主張が認められ、その主張が肯定されて、原告の所望するように、処分は違法として取り消された。原告はまさに、合衆国でいわゆる「私的法務総裁」として振る舞い、そう振る舞うことが許され、かつかく振る舞ったが故に、処分の適法性が維持されるという客観的目的を達成した。すなわち、太郎杉は、伐られずに済んだのである。

 これはある意味で非常に奇妙な現象である。この奇妙さを指摘した者が居るのか居ないのかを私は知らない。原告適格法は純粋手続上の問題であり、これと全く独立に実体審理問題があるのだという説明で、この奇妙さを解決してみせる手があるだろう。これによれば、一度原告適格が資格づけられると、そのさい問題になった「法律上の利益」とは全く関係なく、取り消しを求めるのに有利な実定法上の利益を何であれ主張できることになるだろう。

 しかしそうだとすると、今度は、行政事件訴訟法第10条でいわゆる「法律上の利益」と第9条でいわゆる「法律上の利益」とは同じなのか違うのかという、用語上の釈義があれこれと論ぜられることになるのであろう(2)(思うに、日光太郎杉事件の場合は、原告は、地権者であるのだから、太郎杉伐採につき、その取消を求める原告適格を有するのに問題がなく、かつ、文化財保護等に関する「公益」上の主張は、自己の土地が傷つけられずに済むという純乎たる「私益」に仕えるための便法にすぎないのだから、第10条「自己の法律上の利益に関係のない」ものではない、という理屈づけになるのであろう。すなわち、文化財保護といった「公益の確保」は、純粋「私益」保護の反射効であるに止まり、法上云為に値する利益ではないそういった理解で、辻褄が合わさっているのだろうと思う。けれども、私はこうした矛盾は、憲法必然的な産物ではなく、むしろ憲法外的な単に人為的な制度がもたらしたものなのであって、辻褄合わせは、一時の効き目しかもたなかろうとおもう) 。



四、私は、本件都市計画事業が典型的にそうであるように、諸個人の日常的な生活利益に大きな影響を及ぼさずにおかない性質の公共事業の立案・決定の過程には、広く関係市民の討議を経るべきだと思うし、事業認定処分決定を再吟味する機会を関係市民に与えるべきだと思う。憲法が要求する民主主義は、上記のようにあるべきことを要請している。

 本来なら計画決定の違法性を争う宣言判断請求、差戻の請求などを内容とする関係市民の提訴が認められてしかるべきだと思う。現状ではそれは立法論にすぎないとして、簡単に斥けられている。しからばせめて取消訴訟により、関係市民の利益を保護する手立てが講ぜられるべきである。このゆえに市民に認められるべき原告として提訴する資格は合衆国の適格法に倣って何らかの自由化を図るべきである。私にはこの場合、日本の学会で有力ないわゆる「法上保護されるに値する利益」説と名付けられている理論が適切なのか、それとも合衆国風の「事実上の利益」説と言われるものの方がよいのかは、差し当たりどうでもよい。市民の日常に決定的に関わる生活環境への悪影響を恐れ、不適切な行政がもたらす様々な不利益などを、ディスティンクトに主張しうる市民には、処分の違法性を争う資格を認めるべきであると思う(3)。

 裁判所は、そうした改革は立法府の立法政策事項であって、立法府にのみ任せられている、と法律準拠主義的に応えるかもしれない。しかしここでことば的な釈義にふけるつもりはないが原告適格につき、旧法体系の名残りが濃い「法律上保護された利益」説を案出して、原告適格法を制限的・抑制的に仕立て上げてきたのは、他ならぬ裁判所である。この点の責任は裁判所のみが負うべきである(4)。

 文言上からすれば、「法律上の利益」は右のように狭く解さねばならないことはない。それは、発展的に、より広げて、解釈する余地が十分にある。第9条で問題になる「処分」は、それ自体一定の「法律上の」構成物であり、この構成物を取り消してもらうには、そうしてもらうにつき法的に是認しうる利益がなければならない。取り消してもらうに足る、法上是認しうる利益がここでいわゆる「法律上の利益」である、と解釈すること結果として「法上保護に値する利益」説の採るところと本質的に違わないであろうがは、文言それ自体の意味許容範囲に属すると言えると思う。問題はむしろ、裁判所がより憲法適合的な解釈に変更するかどうかの決断に関わる。法律を伝統的なしがらみにとらわれるあまり不必要に狭く解釈し、そのことによりその運用のためにケース・バイ・ケース方式に伴う法のあいまいさを招来し、結果において一方では市民的利益の確保に欠け、他方において国政の適法性確保にも欠けるところが出ているという司法の現状を、本件上告審をつうじて、司法の手によって改革することが期待される。





(1) 東京高判1973・7・13行政例集24・06・07・533(いわゆる日光太郎杉事件)。この判決が、行政裁量に加えられるべき司法統制に新機軸を打ち出したものとして歴史的に意義深いことは、たとえば、みよ、園部逸夫『裁判行政法講話』日本評論社、1988年67〜70頁。

(2) 第9条の「取消を求めるにつき法律上の利益を有するもの」と第10条の「自己の法律上の利益」との異同関係については、たとえば芝池義一「行政事件訴訟法における『法律上の利益』」、(京都大学法学論142巻3号1頁以下、1997年)参照。しかし、一般に、日光太郎杉判決がポイントにおく「かけがえのない文化的諸価値ないし環境の保全という本来最も重視すべき事柄」が「自己の法津上の利益」と言えるのかどうか、これとは別に、そうした「法律上の利益」が第9条でいわゆる「取消を求めるにつき法律上の利益を有するもの」の「法律上の利益」とどう違うのかを問題にする議論があるのかどうかを、私は知らない。

(3) 「法律上保護された利益」説を放棄し、したがって、関連法令のなかに個別具体的に個人的利益を保護する趣旨の規定が有るか無いか検討する手法を止めてしまったらどうなるか。そうなったら直ちに、必然的に、濫訴の猛嵐が吹き荒れ、法秩序は収拾がつかなくなる、と予見するものが多いだろう。合衆国の経験に照らして言えば、司法裁判所が憲法に基づき伝統的原告適格法を解体させて「事実上の利益侵害」説へとシフトさせたからといって、決して濫訴現象(日本流に言えば「主観訴訟の崩壊」あるいは「民衆訴訟化」)が生じたわけではない。そうならないように、司法は自らのイニシアティブをとることが出来たのである。
 この法領域において、司法が効果的な行政統制を案出するという法創造的な役割(これは、司法を通じて行政への民主的統制手段の導入という役割でもある)を果たしたならば、それをきっかけに立法部も、「行政法改革」への重い腰を上げることになるであろう。憲法に基づく司法の法創造的な役割は、立法及び行政における「憲法の具体化」作業に小さくない影響を与えるであろう。

(4) 私には、研究者責任の所在を軽視するつもりはない。たとえば、日本最高権威の地位にある行政法学者たちによる「研究会・現代型行政訴訟の検討課題」(塩野宏ほか) 『ジュリスト』925号2頁以下、1989年を取り上げよう。そこでは環境行政事件・計画行政事件などに関連して、かなりの程度広く、原告適格問題が検討されている。話は高度に専門的・法技術的であって、率直に言って私は、"esoteric"( 辞書的には「奥義の」「少数の高弟だけに伝授される」といったような訳がつけられることば)とはこういうことなんだ、という印象をもった。参加者が論じていることが、日本国憲法でいわゆる「人類普遍の原理」とどこで、どのようにつながっているのか、が私には見えないままである。ことは結局、行政訴訟における原告適格法は、民主主義的な要請にどう応えているかを検討することであるだろう。けれども、そういう観点から物を見るのは、青臭く書生っぽいことであるという評価があるようである。
 なんであれしかし、研究者は、権力を持たない。結局は、研究者の責任は、権力機関のそれと対比して言えば、あくまでも間接的・第二義的でしかない。法を語り、法を決定する最終責任は、所詮は裁判所に課せられている。





結び 「樹を見て森を見ない」手法は間違っている



 原審判決は原告適格の範囲を極度に狭くとった点で、現代社会の要請に応えることを怠った。この事は、以上の指摘で明らかである。

 原審裁判所はしかしながら、そればかりではなく、この法領域においてもう一つの致命的な誤りをおかした。その点を、本意見書の最後に問題としないわけにゆかない。

 この事件で、第一審東京地方裁判所は、本件都市計画事業等の事業地内に地権を有しない周辺住民には原告適格を認めないと判断したかぎりでは、伝統的な「法律上保護された利益」説に、伝統的な仕方で従った(そうだから、この点で大いに批判される余地を残した)。他方でしかし、東京地裁は、正当にも、各個都市計画事業認可処分を個別に切り離してその個々の適法性について法形式的な検討を加える手法に満足せず、同一目標に向けて現に機能しつつある各事業をその実態に則して一つのシステムとして捉え、その総体の法適合性を検討するという手法をとっている。その点をこう説示した。いわく、「本件鉄道事業に係る9号線都市計画と本件各付属街路事業に係る本件各付属街路都市計画とは、形式的には異なる都市計画ではあるけれども、その実体的適法性を判断するに当たっては、両者が相俟って初めて一つの事業を形成するという実質を捉え、一体のものとして評価するのが相当である」と。

 このように東京地裁は、諸都市計画事業を一体のものとした上で、その適法性を判断するという見地を設定したのが特徴的であり、かつ、この点で高い評価が与えられるべきである。東京地裁は、この見地から、本件訴訟における原告適格を、各都市計画事業の事業地のいずれかに地権を有する者一般に認めるという判断を行った。

 ところが、原審東京高裁は、右と全く対照的に、本件個別の都市計画事業が同一目的に仕える構成要素であるという実体を完全に無視して、個別事業認可処分のそれぞれについてのみ、法的適合性を問うという方法をとった。バラバラの事業の、バラバラの法的適合性だけが問題なのだから、それを問うことが出来るのは、バラバラの事業の事業地内に地権を有する者に限られるという結論になった。いまここで、各個別の都市計画事業をそれぞれ一個の積木に例えることをお許しいただきたい。

 積木細工という遊戯は、個別の積木(材) を積み重ねて、一つの多かれ少なかれまとまりのある総合的構成物としての形を作り上げることに意味を見いだす行為(わざ)である。個別の積木を用いて積み上げる行為は、一つの形ある総合体を作成する工程の一環としてなされる。しかし肝心なのは、それらによって作られた総合体である。この技の良し悪しは、すべて最終的に形成された作品によって決まる。

 比喩が持つ意味には限界があるから、今の叙述をそのまま東京高裁がとった原告適格(限定)手法に当てはめるのは、正しくない。たとえば、本件各計画事業はそれぞれ、単なる一個個別の積木(材)とは違って、固有の法的根拠に基づいてなされる意思的な行為である。また、それがもたらす社会的な効果・効用は他の事業認可処分に解消されることなくディスティンクトに評価されるべきものであろう。したがって、それぞれの処分の適法性について個別に、原告適格の有無を審理するという裁判が持つ意義を軽視してはならない。問題はしかし、個別の処分を要素にして積み上げられた結果成立する都市計画事業というひとつの作品の良し悪しの評価を誰が問題提起できるか、という点にある。先程の比喩に戻して言えば、個別の積木作業の結果創造されたひとつの積木作品の良し悪しは、東京高裁の手法によれば、なんぴとも論じ得る資格を有しないことになる。

 こうした手法を貫徹するために東京高裁は各個別事業によって織り成された、ひとつのまとまりのある総合作品としての本件都市計画事業を「法的にはそんな物はないよ」と、一蹴している。かなり露骨に法的形式主義に固執した上で、そうしているのである。体系的・総合的に構築される都市計画上の完成作品などというものは、法的には空中の楼閣であり、法的には存在しないのだから、なんぴともその良否を問えるはずがない、という構えになる。

 すぐ後に考察するように、東京高裁はことの実体そのゆえに原告らが出訴し訴訟を継続している当のものを無視し、法形式主義に徹することによって、じつは法的正義の追求を怠ったのである。

 もっとも、原審裁判所のこの点の判示は、原告適格に関する支配理論を基準として言えば、この理論を応用した優等生的な模範解答であるという評価を欲しいままにするはずのものであるかもしれない。支配理論は、個々の法規のなかに個別具体的に権利もしくは利益を規定する趣旨が有るか無いかだけを問う構造になっている。こうして、本件でいえば、各個別の都市計画事業の事業地内に地権を有するものにのみ原告適格を認めるにとどめる。そして、その点において原告適格を認められたからといっても、当該事業をその部分(part)とする総合的な事業システムが実際上存在し、現に機能しているとしたところで、その事実がその者にその適否を争う原告適格があろうはずがないことになる。これに比べて東京地裁の方は一方で、各事業地における地権者にのみ原告適格を認め、そのことにおいて支配理論に忠実であったが、他方、その原告適格を、当該事業を超えた、しかしそれと一体を構成する全事業の適法性を争う領域にまで拡張させた点において、実は支配理論に不忠実であったということになる。地裁は支配理論に半分だけしか忠実でなかったのに対し、高裁はすべての点で忠実であり、そうであることによって先述のごとくに優等生であり得た。

 それでは一体、この点における東京地裁の不徹底さは何に由来するのであろうか。これは問うに値する問題だと思う。これはこの裁判所の単なる思慮の足りなさ・不注意さに帰せらるべきか。それとも、支配理論に徹底することによって、総合体としての本件都市計画事業システムそのものの法適合性を争う者が誰もいなくなるという必然的な結末を、なんらかの便法を講じて避けようとした苦心のあげくの産物であったのか。私は、東京地裁は相当に思慮するところがあって、あえて不徹底という選択をしたのだろうと思う。  一つの実体として認識し得る都市計画システムそれ自体の法適合性を、誰も訴えることが出来ないという事態、このアノマリーを、なんとかして回避せねばなるまいと東京地裁は考えをめぐらしたに違いないのである。

 各都市計画事業を作り上げてゆく作業課程では、各個別事業の検討のみならず、一つの総合作品として仕立て上げてゆくための検討が関係行政機関及び事業主体によってなされたのは顕著な事実である。こうした総合作業を行政活動として可能ならしめるために、関係行政機関は「建運協定」を典型として、各種のintergovernmental な取決めを結び、立派な作品に仕立て上げるのに努力を傾注しつつあった。こうした総合的事業立案・遂行のメカニズムを通じて個別事業は、調整され、補完し合うことになったのは、疑う余地がない。(原審東京高裁でさえも、intergovernmental operationsとでも呼称し得るものがはたらいている事実を、頭から否定し去ることはできなかった) 。

 「法律上保護された利益」説には、こういう事態を念頭におき、こうした事態に適切な法適合性判断を実行する用意は全く出来ていなかったようである。この古典的・伝統的な法理にとっては、現代社会に展開中の総合計画行政は視角の外にある現象であった。まさにさればこそ、このような視野狭窄症を抱え込んだ古い法理は、現代に適合的な新しい理論にとって代えられるべきなのである。総合計画行政にとっては、組成要素としての個別行政処分も大事でないことはないが、なお一層大事なのは最終作品としての総合体である。東京高裁は定めし、この総合体の適否を争う者が市民のあいだには不存在であっても、ちゃんと政府が立派な判断主体として控えているのだから、心配することはないという19世紀「法治国家」論によって、私達を説伏しようとするであろう。しかしながら現代「法の支配」は、統治機構内部にのみ通用することが認められてきた内部規則の限界を突き破って、それに法的統御力を与えるべく、関係市民の参加と司法の関与を、能うかぎり許容すべきことを要請している。原審裁判所は法形式に固執する余り、法における実質的な正義の追求を怠り、法の保護と裁判の拒否をおこなってあやしむことがなかった。対照的に東京地裁は、そうなることを惧れ、それなりに、そうならない方途を考案し、それを選択したものと考えられる。

 原審裁判所が拒否した裁判はなんであったのだろうか。原告らが問うたのは、個別都市計画事業が及ぼす個々の利害の有無の審理であったのでは必ずしもない。構築されようとしている事業システムのことのはこび方(performance process)の欠陥、及びシステムの稼働がもたらす生活環境への悪影響、要するにシステムの法適合性を、原告らは争っているのである。本件においては原告たる周辺地域住民と被告行政庁とのあいだには明らかに利害の対立がある。つまり、“case or controversy” があるのは否定できない。これは「法律上の争訟」(裁判所法第3条第1項) には当たらないといって、憲法第32条における「裁判を受ける権利」の制限にはならない、と論ずるものがいるかもしれない。「法律上の」という文言を、既存の概念及び制度にとらわれたまま狭く解釈したうえで、法の下克上よろしく、実定法律に依存して憲法上の権利を縮小してみせるという、常套の手がここでも使われるおそれがある。憲法制定時には誰も予想しなかった性質の、あるいは程度の、行政活動の展開を目の当たりにする現代にあって、そしてまた憲法制定時には考えられもしなかった程度に司法統制の、人権保障的な契機と民主主義的な契機が重要視されつつある現代にあって、「裁判を受ける権利」の新展開が大いに期待されているのは、なんぴとも否定できない趨勢である。

 原告適格法の自由化が不可避なゆえんである。






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