阪神淡路大震災あれから一年、当時をふりかえって


昨夜はなかなか寝つけずいつの間にか朝が来ていた、まだ外は真っ暗闇である。パソコンの前に座って、テレビを点けると早朝の番組が始まった頃だった。いつものパターンでチャンネルをちょくちょく変えては各局の番組を見て回った。いつもと変わらぬ番組が流れていた。その時である、突然部屋が揺れだした。ん、地震。そう思った瞬間急に揺れが大きくなった。わっ、とっさに身構えた。ますます揺れが大きくなる、棚の上に立て掛けてあったジグソーパズルが倒れてきた。そばにあった温湿計が落ちてきて私の頭にコツン「いて」、ようやく揺れがおさまった。ガラス製の置時計が横倒しになっている、チリ紙交換に出そうと積んであった雑誌が崩れて散らばっている。冷蔵庫の上のオーブントースターが移動して壁に寄りかかっていた。12月28日に三陸はるか沖地震があったばかりである、すぐにチャンネルをNHKにした、まだニュース速報は流れていない。東の方かな?、ん、ちょっと待てよおかしいやないか、雑誌は北北東方向に崩れている、時計は南南西、オーブントースターやジグソーは西北西、「どういうこっちゃ震源はいったい何処や」。この時間に唯一大阪ローカルの番組をやっている朝日放送に変えた。特に詳しいことはまだ伝えていない。「詳しい情報が入り次第お伝えします」。と言うだけである。他局に変えても特に変わりはない、再びNHKにすると速報のテロップが流れた。大阪は震度4、「うそつけい」私は思わず叫んでいた。私は東京と千葉に合わせて7年半住んでいた、震度4クラスの地震は何度も経験している、今のは絶対4やないそう思った、とにかく今まで経験したことのない揺れだった。京都、彦根、それに日本海側の豊岡が震度5である。京都か?、暫くしてテレビ画面が変わり男性アナが速報を伝え始めた。画面に映し出される各地の震度を表す地図で神戸が6になったり消えたりする。「画面には出ていませんが神戸で震度6と言う情報も入っています」アナウンサーが伝えた。後で判ったが神戸海洋気象台にある地震計と気象庁を繋ぐ回線が地震発生と同時に切れたそうだ。最大震度は後に7に訂正された、史上初の適用である。震源地は淡路島北部、マグニチュード7.2とアナウンサーが伝えた。「神戸が6京都が5何で大阪が4やねん」事実、大阪市内でも民間が設置している地震計で震度5〜6に相当する揺れを記録した所があった。チャンネルを他局に回してみると、朝日放送が局舎前の日産ギャラリーを映していた、道路に面したショールームのガラスが当たり一面に飛び散っている、すさまじかった。他の民放は相変わらず東京キー局のネット番組を放送していた。近畿地方で地震があったと伝えるだけである。NHKやABCに比べて全然緊迫感が伝わって来ない。「何しとんや」もっと情報が欲しかった。だいぶ時間が経ってようやく民放各局が大阪から地震の内容を伝えはじめた。この時既に兵庫県内で多数の家屋やビルが倒壊し、いたる所で火災が発生している事など知る由もなかった。兵庫県内の鉄道が数個所で脱線しているらしい、関テレのアナウンサーが衝撃的な言葉を伝えた。阪神高速が神戸市東灘区深江付近で200mに渡って橋桁が落下しているという。「えーうそやろ」私は耳を疑った。V89年サンフランシスコに大きな被害をもたらしたロマプリータ地震でハイウェーが落下した時、日本の専門家たちは「日本では絶対にそんなことはない」口々にみんなそう言い構造の問題を指摘した。でも、日本で同じことが起こったようである。それにしても正確な情報があまり入ってこない。阪神高速,名神高速,中国縦貫道,近畿自動車道、高速道路は全て閉鎖、鉄道も全面ストップ、関空も孤立している、山陽新幹線も橋桁が落下しているらしい。兵庫大阪京都の交通網は全面ストップしているようだ。兵庫県内で多数の家屋が倒壊しているらしい、それにしても情報が少ないもっと欲しかった、職場の同僚が神戸に住んでいる。私は実家から歩いて2〜3分の所に一人で住んでいる、ふと家族が気になった。恐らくあの時間にはまだ寝てるはず、ひょっとして怪我してないか?、会社も気になった。私の会社は大阪市福島区でガラス製品等を造っている、淀川の直ぐそばである。とりあえず実家に向かった、みんな無事だった。朝食は摂ったもののさてどうしようか、会社が気になるが交通手段がない、恐らく道路は大混雑だろうと思った。でも会社が気になる、ひょっとしてコンピューターが倒れていないか、ディスクがクラッシュしてるんじゃないか。そんなことばっかりが頭をよぎる。時間がかかってもええからとりあえず行ってみよ、そう思って家を出た。予想に反して道路はいつもと変わりない、タクシーもすぐに拾えた。会社に着くとまず倉庫の壁の亀裂が目に入った、遠くから見ると斑模様に見える。うちの部署の人間はまだ誰も来ていない。部屋に入ってみると、まず倒れた本棚が目に入った。これはもともと不安定だから倒れても仕方無かった。机がみんなずれて間に隙間を作っている。キャスターの付いたものはキャスターが固定してあったにも拘らず軒並み動ごいていた。パソコンのディスプレイが移動してあさっての方を向いている。肝心のコンピューターはどうか?、幸いなんともなかった。内線電話でコンピューターが無事である事を本社に伝え、工場内を見て回ることにした。倉庫内の製品がパレットごと荷崩れを起こしている、手の付けようがない状態である。事務所の方に行ってみた、ショールームの展示品はみんな床に落ちて粉々に砕けている、総務も営業もまだ誰も来ていない、机がみんなてんでばらばらの方を向いている、コピー機が大きく向きを変えている。2階のデザイン室に入ってみた。ショーケースが倒れて床にガラスが散乱している、足の踏み場がない。天井の蛍光灯が外れて今にも床に届きそうなくらい垂れ下がっている。別棟の事務所に入って驚いた、スチールキャビネットが倒れて通路を塞いでいる、図面やら書類やらが散乱している。この建物は横の道路を大型トラックが通る度に振動が伝わってくるので、地震発生時は物凄い揺れを受けたに違いなかった。製造ラインは全て止まっていた。倉庫内いたる所で荷崩れを起こしている、入ろうとすると「危ないから入らんとき」制止された。工場内の一角に子会社の販売代理店がある、行ってみると中学の先輩でうちの会社から出向している人が一人だけ出社していた。彼は東京からの単身赴任で工場の近くに住んでいる。「こんな地震は初めてや、今まで経験した事のない揺れや」長年東京に住んでいた彼がそう言うのである。床にはいった亀裂が地震の凄さを物語っていた。工場内を一通り回って部屋に戻った。まだ誰も来ない、神戸の同僚が気になる、こっちから連絡はとらずに向こうからの連絡を待った、どうせ電話しても輻湊起こして繋がらないのは判っていた。持ってきたウォークマンのスイッチをラジオに入れた、ラジオとテレビの音声が聞けた。ラジオから流れる情報で兵庫県内の状況が徐々に明らかになってきた、大阪でもかなり被害が出ているらしい。尼崎から通勤している女性同僚から電話が入った、今日はこれないという。やがて次々と同僚がやって来た。いくら待っても神戸の同僚からは連絡がない、電話してみたがやはり輻湊で繋がらない。試しに公衆電話から掛けてみる、災害時に公衆電話は非常電話として機能し繋がりやすくなる。すぐに繋がった彼もその家族も無事だったが、家屋はだいぶ損傷しているという。暫くは出社できないようである。時折大きな余震が襲ってくる、その日は殆ど仕事をする気になれずラジオを聞きながら仕事をした。被災地の電気,ガス,水道はみんな止まっている、今、西宮市仁川で崖崩れが起こり多数の人が生き埋めになっていると言う。ラジオはその後も増えてゆく死傷者の数、水が出ないため広がる一方の火災の状況等衝撃的な事実を伝えていく。パソコン通信のNiftyserveでは地震関連のコーナーができていた。家に帰って新聞の夕刊を見たとたん絶句した。一面トップに横倒しになった阪神高速の写真が大きく載っていた。何でこんなことに、その写真からはすさまじい迫力が感じられた。テレビはどこも地震特番一色だった、岸壁が大きく破損した神戸港、激しく燃え上がる神戸の町並み、倒壊した家屋、今にも倒れそうなビル、脱線した列車、自然と涙がこみあげてきた。その日もなかなか寝つけず朝を迎えた。18日もラジオを聞きながら仕事をした。神戸でLPGタンクからガス漏れが起こって付近の住民に非難勧告が出ているという、同僚宅の近くである。時々彼から入る情報によると、どうも食料が不足しているようである。急遽、救援物資を届けることになり交通手段の入手にとりかかった、テレビラジオの情報だけでは足りない。NiftyとPeopleに繋ぐと、車で神戸まで行く方法、電車を乗り継いで歩いて行く方法、通行に危険な場所など、様々な情報があった。マスコミ情報に比べるとはるかに充実している。この時ほどパソコン通信の価値に感嘆したことはなかった。翌19日、男連中はリュックを担いで神戸まで行った。電車で途中まで行き後は歩きで、大阪から神戸まで4時間掛かったという、私はコンピューターのお守り役で残った。一度沈静化に向かった火災が再びぶり返してきた。その日、死者行方不明者は4,000人を越えた。私はNiftyとPeopleでやっていた義援金募集に協力する事にした。翌週、被災した彼が出勤してくるまでの間、ラジオとパソコン通信で情報を得ながら仕事をする日々が続いた。地震の専門家達はまだ最大余震が来る可能性があるという、大きな余震が来るたびにウォークマンのスイッチを入れた。会社の近くでも淀川の堤防が破壊的ダメージを受けた、阪神電鉄野田駅近くの商店街でも、路面に亀裂が入り沿道のビルが数十センチ沈下した。あれから1年今だに非難所暮らしをしている人がいる。が、街は復興に向かって着実に歩んでいる。1月17日最後まで残った神戸高速鉄道の大開駅が復旧した。震災後私はまだ神戸の地を踏んでいない。

平成7年1月17日午前5時46分日本の子午線が通る明石天文科学館の時計はそこで止まった。建設中の明石海峡大橋は南側の基礎が約50cm移動し、淡路島方向に1.1m伸びた。淡路島では野島断層が地表に現れた、阪急伊丹駅が高架ホームに列車を留めたまま崩壊し、高架に造られた阪神石屋川車庫は崩れ落ちた。阪神高速神戸線は635mに亘って横倒しになった。ロマン溢れる神戸の街、高校野球で賑わう甲子園の西宮、高級住宅街の芦屋、歌劇の宝塚、灘の酒蔵地帯、兵庫県南部地域は一瞬にして瓦礫の町と化し多くの人命が失われたこの時政府の危機管理体制が問題になった。

私達は戦後最大のこの惨事を忘れてはならない、語り継がれる思い出は何もいい事ばかりではない。

阪神淡路大震災のデータ
名称:平成7年兵庫県南部地震
発生:平成7年1月17日午前5時46分
震源地:東経135度02分、北緯34度36分
    淡路島北東約3キロの明石海峡付近
深さ:約16Km
規模:マグニチュード7.3
モーメントマグニチュード6.9
最大震度:7(激震)、神戸市中央区三宮付近、他
最大加速度:818gal
死者:6,308名(消防庁発表)
   (震災関連死を含むと6,434名)
不明者:3名
負傷者:43,792名
全壊家屋:104,976棟
半壊家屋:144,274棟
火災件数・全焼建物:531件・7,036棟
被害総額:9兆6千億円(政府概算)
疎開した子供:10,479人
参加ボランティア:1,350,000人

                                                       Create is 01/17/96