新主流派って、何だろう?






    目次

   ■新主流派って、何だろう
   ■「新主流派」はほんとうに「主流」だったのか?
   ■新主流派はいつ始まったか?
   ■新主流派にとっての1965年
   ■新主流派とはどんなスタイルか
   ■誰が新主流派を
   ■新主流派の中でのショーター




 
■「新主流派」って、何だろう?


 ウェイン・ショーターのミュージシャンとしての第二の時期は、64年の『Night Dreamer』の完成から67年に至る時期で、これは一口にいえば「新主流派の時代」である。
 さて「新主流派」って何だろうか?
 まずここから見ていこう。

 「新主流派」という言葉はアイラ・ギトラーが名づけた「new mainstream jazz」という言葉の訳語らしいが、個人的にはこの名称自体は好きではない。60年代の音楽をいまさら「新」もないが、当時彼らが本当に「主流」だったのかもわからない。そもそも評論家が音楽を「主流」や「非主流」に分類していいもんなんだろうか。なんだか嫌な言葉だと思う。
 しかし60年代、ショーターあたりを中心に独特の共通する雰囲気を持つ一連の音楽があったのは事実で、それらのミュージシャン・音楽を一つの言葉でサブジャンル分けしたこと自体は慧眼だったと思う。
 もっとも、この「新主流派」というジャンル、どこからどこまでがそうなのかも、定義づけもよくわからない。
 そこで、ぼくの感覚だけをもとに、この「新主流派」の考察・定義させてもらう。それが従来の「新主流派」と呼ばれているものと重なるのかどうかはわからないが、ま、ぼくはこういう定義で使っているという程度の意味に受け取ってもらってもいい。




■「新主流派」はほんとうに「主流」だったのか?


 そもそも新主流派ってほんとうに当時のジャズの新しい「主流」だったのだろうか。この点について考えてみよう。
 ぼく自身は当時のことは知らないので、ぼくが当時の時代について語るのは無理があるのかもしれない。しかし旧世代のジャズ・ジャーナリズムはマイルスを中心としてしかジャズを見ていないので多くのものが見えなくなっている現状をあちこちで見てきたので信用はできない。なんでもかんでもマイルスやその周辺のミュージシャンがやっていることを、強引にでも「主流」と思いこんでしまおうとするような傾向が、旧来のジャズ批評には強いからだ。

 まず60年代のジャズの状況を見てみよう。50年代まではジャズの最先端というのは、だいたい一目で見て取れた。40年代には過激な「ビ・バップ」が流行し、次に「クール・ジャズ」の時代が短期間きて、50年代にはビ・バップとクール・ジャズを足して2で割ったような、ビ・バップよりソフトで親しみやすい「ハード・バップ」の時代がくる。
 60年代という時代は、その最先端の部分がだいたい3つに分かれて流れを作っていた時代だったと思う。
 一つはソウルジャズと呼ばれた、黒人的なリズムやノリを重要視したタイプで、ハモンド・オルガンやエレキ・ギターなど電気楽器の使用や、ファンキーなリズム等に特徴があった。
 2つめはフリージャズ。これは説明は不要だと思う。
 そして3つめに「新主流派」だ。
 この3つのうちどれが当時の「主流」だったのかと考えてみると、個人的にはソウルジャズが主流で、フリージャズが対抗馬、「新主流派」はいちばん「主流」から外れていたように思える。そう考える理由を次にあげていこう。

 まず第一に、どれが売れていたのかという問題だ。
 こちらには当時のレコードの売り上げのデータなどないので分からないが、60年代の半ばに大ヒットしたといわれてるジャズ・アルバムを上げていくと、リー・モーガンの『The Sidewinder』やラムゼイ・ルイスの『The in Cloud』、ルー・ドナルドソンの『Alligator Boogaloo』など、ソウルジャズ、ファンキー系のアルバム・タイトルがまず思い浮かぶ。
 一方「新主流派」は売れていたのか? 例えばマイルスが『Sorcerer』などショーター主導の新主流派路線をあらため、エレキ・ギターやエレクトリック・ピアノなど電気楽器を導入していく道を選んだのは、新主流派路線のアルバムがまったく売れなかったからだと自伝に書かれている。そのエレキ・ギターもエレクトリック・ピアノも当時ソウルジャズで使われていた楽器である。
 第二にミュージシャンの数である。思い浮かぶまま名前を上げていっても、「新主流派」的なアルバムを出したミュージシャンというのは、案外数が少ないのである。しかもごく数枚「新主流派」的なリーダー作を出しただけで、すぐに別の路線に移っていった者も多い。極端にいえば、60年代に新主流派のスタイルである程度の枚数アルバムを作ったミュージシャンというと、ショーターの他、ジョー・ヘンダーソン、ボビー・ハチャーソン、アンドリュー・ヒルの4人くらいだろうか。しかしアンドリュー・ヒルは新主流派ではないのではないかという人もいるだろう。
 第三に、60年代の「新主流派」の代表的なアルバムを上げていくと、ほぼブルーノートのアルバムに限られてしまう点がある。つまり他のレーベル、レコード会社は「新主流派」に手を出そうとはしていない。ソウルジャズのアルバムが様々なレーベル、レコード会社からリリースされているのとは対称的である。
 これは逆にいえば、「新主流派」とは当時ブルーノート一社のみの判断によってアルバムがリリースされたために、かろうじて存在できたサブ・ジャンルでしかなかったとも見ることもできる。

 いったい、主流・非主流と言うときに、何を基準にして判断するのかは個々で違いがあるかもしれない。しかしどう考えたって、ミュージシャンの数がより多く、より多くの会社・レーベルがより多くのレコードをリリースし、より多くのレコードが売れているほうが主流なのではないか。
 そう考えるのなら60年代のジャズの主流はソウルジャズだったと見るほうが自然ではないか。
 そしてそのソウルジャズの対極としてあったのがフリージャズだったと思う。これは聴く人を選ぶ筈だし、かならずしもポピュラーな人気を得ていたとは思えないが、コアとなるファンのあいだでは熱狂的な支持を受けていたはずだ。とくに60年代後半においてはフリージャズは時代の音楽だったという見方もできるだろう。
 その2つの流れに対して「新主流派」とは、名前とはまったく逆に中途半端でマイナーな存在だったように感じられる。レコードは売れず、それに属するミュージシャンも少なく、ブルーノート一社の判断によってかろうじてやっていられた音楽である。
 40年代にモダンジャズが登場したときに、モダンジャズはやらず、しかし旧来のスウィング・ジャズも拒否する「中間派」と呼ばれたジャズマンたちがいたというが、むしろこの「中間派」に近い位置づけにいたのが60年代の「新主流派」の状況だったのではないだろうか。

 さて、ここまで「新主流派」について否定的な書き方をしてきたと感じられるかもしれないが、そうではない。
 実際のところ、売れるかどうか、ミュージシャンの数が多いかどうか、時代の音であったかどうかということは、作品の質とは必ずしも関係ない。
 新主流派のミュージシャンには次の時代もジャズの最先端を築き上げていった者たちが多いことでも分かるとおり、60年代当時、新主流派にはジャズの最も優れた才能が多く集まり、作品の質も総じて高かったと思う。もしかしたらそのために、レコードの売り上げの実状とは無関係に「新主流派」などと呼ばれたのかもしれない。
 また、80年代のアコースティック・ジャズの復活が V.S.O.P. の成功の影響を強く受けていたために、80年代以後は「新主流派」的なスタイルが本当に「主流」になっていくような現象もおきた。
 このへんで名称に関してのことは切り上げて、「新主流派」というものの実像について見ていこう。



■「新主流派」はいつ始まったか?


「新主流派」はいつごろから始まったのだろうか?
 新主流派を説明するにはまずモードジャズから説明しなければならないだろうし、モードジャズを説明するにはビ・バップから説明しなければいけない。最初から簡単に説明しよう。(なお、ぼく自身は演奏家ではないため、以下の説明は実はあまりよくわかっていないので、間違った書き方をしているかもしれないので、ご了承を)
 ビ・バップ以来のモダン・ジャズのアドリブの方法とはコード進行に基づくものであった。つまりテーマ部分のコード進行をもとにして、そのコード(和音)に含まれる音からアドリブでフレーズを作り出していくという方法である。
 そのビ・バップに編曲性を加えて、よりソフトにしたものをハード・バップといい、これが50年代の主流だった。(用語の意味がわかりにくいように思うが、そう呼んでいるので仕方がない)
 しかし、コードに基づいてアドリブを行っていると、使える音の数が限られてしまうため、50年代末にはだんだん誰がやっても同じようになってきてしまうという行き詰まりを見せてきた。それを突破するためにコードをやめ、モードによる音階(スケール)に基づいてアドリブを行うようにしようというのがモードジャズという方法だ。
 そもそもモードジャズとはギル・エヴァンスがマイルスにモード奏法を教え、そう吹くように指示したのが始まりらしく、マイルスは後にこれを発展させて『Milestones』(58) や『Kind of Blue』(59) を完成させた。
 さて、マイルスやビル・エヴァンスの諸作によって一般的になったこのモードジャズは、しかし新主流派と比べるとかなりハード・バップに近く、なんかちょっとムードが違うな……という程度の差しかない。そのため『Kind of Blue』やビル・エヴァンスの諸作はハード・バップのファンにも抵抗なく受け入れられ、大衆的な支持を得られている。そしてマイルスは『Kind of Blue』の後ハード・バップに戻ってしまう。
 個人的にはハードバップとモードジャズの差より、この初期モードジャズと新主流派のモードジャズとの差のほうがよほど大きいと思う。
 つまり、『Kind of Blue』やビル・エヴァンスのモードジャズはちょっと味付けを変えたハードバップという程度のものであるが、新主流派となると骨の髄から違う音楽になっている気がする。たぶんこれはぼくだけの感想ではないだろう。
 ハードバップ、モードジャズと分けてしまうと、『Kind of Blue』あたりが最初のモードジャズとしてさも歴史的価値があるように書かれてしまうのだが、実際にはハードバップから『Kind of Blue』への変化は小さな進化に過ぎず、『Kind of Blue』から新主流派への変化のほうがずっと大きな進化だといえる。
 では、一聴しただけでもかなり印象の違うモードジャズと新主流派は、いつ頃から始まったのだろう。
 何をおいて新主流派というかという点は不明確だが、ここではそれを後まわしにして、ぼくが新主流派的だと感じる音楽ということで語らせてもらう。

 モードジャズではない「新主流派」の音楽がいつ頃から出てきたかと遡っていくと、個人的には新主流派を感じるもっとも古い作品は60、61年のジャズ・メッセンジャーズの諸作のある部分(たとえば『Like Someone in Love』(60) のショーター作の部分)や、フレディ・ハバートの『Ready for Freddie』(61) あたりだ。その『Ready for Freddie』はショーターも参加しているが、リズム・セクションはコルトレーン・バンドのメンバーが中心となっている。そして同時期のコルトレーンのアルバム、『Ole』(61)や『Coltrane』(62)にも、ぼくは新主流派と通底する雰囲気を感じる。
 この頃コルトレーンは既にビック・ネームであり、いまさら新主流派の一人とは言われていないが、例えば『Crescent』(64) など、60年代前半のコルトレーンのクールな面を代表するアルバムは、ぼくの耳には新主流派と通じる流れの音楽に聴こえる。また、コルトレーン・カルテットのメンバーは新主流派のセッションに見事にハマる。(例えば『Night Dreamer』)
 ここで提案なのだが、このような60年代前半のコルトレーンや、60年代半ばのマイルス・バンドなど、ビッグネームであるがゆえに新主流派には組み入れられていないが、スタイル的には新主流派的なモードジャズを行っているミュージシャンの作品も、ここでは「新主流派的モードジャズ」ということで一括りにさせてもらうことにしたい。同じスタイルで演奏しているのに、ビッグネームであるか否かを理由にいちいち分けて扱うのが面倒だからで、ここだけの便宜的な分類だ。しかし、そう分類してみることで見えてくるものもあると思う。
 さて、60年代初頭、ショーターとコルトレーンはプライベートでかなり仲が良く、一緒にセッションしたり互いの音楽を研究していたということだが、ぼくが考えるにこの二人の影響関係の中から、後に「新主流派」と呼ばれることになる音楽の萌芽が生まれてきたのではないだろうか。もっと極端にいえば、コルトレーンとショーターとの影響関係のなかで、モードジャズとショーターの和声感覚が出会ったところに生まれたのが新主流派だったのではないだろうか?
 当時のショーターとコルトレーンの影響関係とはどのようなものだったのだろう。もちろんショーターはこの先輩サックス奏者から多大な影響を受けただろうが、一方、コルトレーンのほうも、やはりショーターから影響を受けていたのではないかと思える。
 なぜなら、60年頃のコルトレーンといえば、大きな変換期にあった。
 つまり、多くの人が指摘することだが、コルトレーンの50年代のスタイルは『Giant Steps』(59) や『Coltrane Jazz』(59-60) で終わり、『My Favorite Things』(60) あたりから、これまでとは次元の違う新しいスタイルに大きく作風を変化させている。後に『至上の愛』(64) へと至るスタイルだ。モードの手法を取り入れているのだが、『Kind of Blue』(59) での奏法とは違った境地を、この頃から切り開いていく。
 60年頃はこの新しいスタイルを作りあげるためにコルトレーンが各種民族音楽などを聴き込んだり、様々なものを貪欲に吸収していた時期だった。そのコルトレーンが、親しくつきあっていた、異様に個性的なこのサックス奏者から何も吸収しなかったとは考えにくい。この二人の影響関係とは、相互影響関係だっただろう。
 実際、コルトレーンの60〜64年あたりのスタジオ録音のアルバムを聴くと、本来熱狂的で多作なのが本領のコルトレーンにしてはめずらしく、クールな雰囲気の演奏が多く、作品も一枚々々時間をかけて作られている。ここには多分にショーターの個性の色もうかがえる。
 このようにコルトレーンが「新主流派的モードジャズ」を始めたのは60年だが、ショーターがジャズ・メッセンジャーズで音楽監督となり、バンドの音楽面を掌握しだしたのも60年。この二人は同じ時期からこのスタイルを始めているのである。
(ちなみにこの時期、マイルスは『Someday My Prince Will Come』(61) 等でまだのんびりしたハードバップをやっている。新主流派がマイルスからの影響によって始まったなどというのは、例によってマイルスしか見ないジャズ評論家がこじつけた間違った説だろう。またハンコックは『Takin' Off』が62年であり、やはり違う)

 つまり、60年頃、コルトレーン=ショーターの相互影響関係の間から新しいスタイルのジャズ、「新主流派的モードジャズ」が誕生した。それが、二人のそれぞれの活動の中で発展していった。それが一方は60年代前半のコルトレーンのジャズであり、もう一方、ショーターらがメッセンジャーズで育てていったジャズが後に新主流派と呼ばれるようになったのだと考えられる。
 60年代前半のコルトレーンと、60年代のショーターのジャズの相性がいいのは、それぞれにそれぞれの要素を取り込んだ、相互影響関係の中から生まれたものだからに違いない。

 もしかすると、新主流派がメッセンジャーズから生まれ育っていったというと、首を傾げる人も多いかもしれない。一般的にメッセンジャーズはそのようなイメージではとらえられていなく、ファンキーでノリのいい、わかりやすいジャズを演奏しているグループというイメージが強いからだ。
 なぜそのようなイメージになったのか。なぜ新主流派のイメージがないのかというと、当時のメッセンジャーズのアルバムのうち、ショーター色の濃い新主流派のイメージが強いアルバムはことごとくオクラ入りにされ、『Moanin'』の路線を引き継ぐファンキーでノリのいいアルバムばかりがリアルタイムでリリースされていたからだ。
 例えば先述した『Like Someone in Love』(60) もリリースは66年だし、メッセンジャーズの先鋭的な部分を特徴づける61年前半に録音された数枚のアルバム『The Freedom Rider』『Roots & Herbs』『The Witch Dictor』のうち、一番早くリリースされた『The Freedom Rider』でも64年のリリース。残りの2枚は67〜8年にリリースされている。64年といえばもうショーターが『Night Dreamer』を、コルトレーンが『至上の愛』を録音していた頃である。つまり当時のメッセンジャーズの先鋭的な作品は、録音してから3〜7年ほど寝かせて、その作品が先鋭的に見えなくなってきた頃を見計らってリリースされたのである。一方、録音してすぐにリリースされたのは『Mosaic』のような派手でファンキーなアルバムである。
 これらはブルーノートによる方針で、つまりは『Moanin'』でついたメッセンジャーズのファンを離さないために、メッセンジャーズ=派手でファンキーなバンドというイメージで売り出そうとしたのだろう。
 まあ、もちろんそれはそれで悪いことではない。現在ではそういったアルバムも入手できるわけだし、当時のファンには不可能だったメッセンジャーズのアルバムを録音順に聴いていくことも可能だ。当時のファンがブルーノートの計略に騙されてメッセンジャーズは『Mosaic』のバンドだと思わされていたとしても、現在のリスナーはそんな手に引っかかる必要はない。
 そうすれば、例えば同時期のマイルス・バンドのアルバムとメッセンジャーズのアルバムを並べて聴いて見れば、当時はマイルス・バンドよりメッセンジャーズのほうがずっと先鋭的な音楽をやっていたことが理解できるだろうし、同時期のコルトレーン・バンドと比べてきいてみれば、互いの似た部分と差もわかるだろう。



■新主流派にとっての1965年


 さて、ここまで新主流派と呼ばれる音楽の起源について書いてきて、その起源を60年あたりまで遡った。だが、新主流派の作品だと呼ばれるアルバムは、一般的には64年のショーターの『Night Dreamer』や、ハンコックの『Empyrean Isles』あたり以後のものだ。なぜそんなに後になるんだろうか。
 しかし、それ以上に、一般的に新主流派と呼ばれるグループがほんとうに注目されだしたのは65年以後のことのようだ。それはなぜか。その理由は一つにはショーターがメッセンジャーズ等で作ってきた先鋭的な音楽は多くがオクラ入りされ、全貌が見えなかったという点があるだろう。そしてもう一つ大きな理由はコルトレーンのフリー路線への移行だと思う。
 つまり、それまでもショーターとその周辺のミュージシャンは新主流派的演奏を行っていたし、ハバードの『Ready for Freddie』のようにいくつかリアルタイムでリリースされたものもあった。だが、このコルトレーン=ショーターの相互影響関係から生まれた新主流派的モードジャズは、しかしコルトレーンのほうが知名度も人気も高く、ショーターらはその影に隠れていたと思われる。つまり64年の時点では『Night Dreamer』は、新主流派というより、むしろコルトレーンの影響を受けた作品だと思われていたのではないか。
 しかし65年にコルトレーンはフリーへ移行し、しかもその変化は現在でもこれ以後のコルトレーンにはついていけない……という人も多数いるほどの激烈なものだった。とうぜん当時にもついていけなかった人は多数いただろう。
 そのため、60年代前半にコルトレーンのような音楽をやりたいと目指していた新人ミュージシャンや、それを愛好していたファンは行き場を失ってしまった。そのときに、これまでコルトレーンとともに新主流派的モードジャズを推し進めながら、コルトレーンの影に隠れていたショーターらの姿が浮上して見えてきたのではないか。(また、この頃から徐々に60年代初頭に録音されたままオクラ入りになっていたメッセンジャーズの先鋭的なアルバムがリリースされはじめた)
 そして、そういった音楽をやりたいミュージシャンたちがショーターの周辺に集まってきて、新主流派と呼ばれるグループを形成し、ファンの目もしぜんにショーターやその周辺のミュージシャンへと集まってきた。
 そのようにして、65年以後に新主流派と呼ばれるミュージシャンが注目されだしたのではないか。しかし、例えば『Maiden Voyage』(65) を新主流派と呼んで、それと同じようなメンバーで、同じようなスタイルで演奏している64年の『Empyrean Isles』を、これは新主流派ではないというわけにはいかない。そういった理由で、だいたい64年あたりのアルバムは、後づけで新主流派の作品の内に組み入れられたのだと思われる。




■新主流派とはどんなスタイルか


 ではここで、いわゆる「新主流派的モードジャズ」とはどんなスタイルのジャズかということをもう一度考えてみたい。
 まず「新主流派」は、同じモードジャズでも、50年代のマイルス=ビル・エヴァンスの『Kind of Blue』等とは一線を画する音楽だが、ではどこが違うんだろう。
 一つには和声的な違いが大きいらしく、クラシックの印象派の和声に近いのだと聞いたことがある。正直なところぼくはこのへんのところは良くわからないが、おそらくショーターの和声感覚が大きく影響しているように思う。ショーターはプロデビューの話を蹴って入った大学でクラシック音楽も学んだようである。
 そしてもう一つ、大きな違いはフリージャズとの関係ではないかと思う。
 『Kind of Blue』は50年代のハード・バップにモードの手法を導入する試みだった。そこにはフリージャズの影響はない。
 しかし、「新主流派」とはフリージャズの影響を強く受けつつ、しかしフリージャズにはならずに、モードの手法の中にとどまったジャズだといっていいのではないか。
 そう考えると、50年代には『Kind of Blue』を作ったマイルス・バンドが、60年代に入ってモードジャズを再開させた時には新主流派風になった理由もよくわかる。もちろんコルトレーン=ショーターからの影響もあるが、フリー指向の強いトニー・ウィリアムズがいたことが大きく影響していたはずだ。トニーがフリーの方向に引っ張っていき、しかしバンド全体はフリーにはならずにモードジャズの枠内にとどまったとしたら、しぜんに新主流派風になる。
 では、なぜ「新主流派」はフリージャズの影響を強く受けながらも、フリージャズにはならない方向性を指向したんだろうか。
 それは、クールさへの指向だったのではないかと思う。つまり、熱狂的になりきらず、絶叫・咆吼はせず、あくまで知的にクールに、スタンスをおいて音楽と向き合う姿勢、音楽に音楽以外のものを持ち込まず、あくまで「音楽」を演奏する姿勢が、「新主流派」を成立させていたのではないか。つまり、熱狂的にならず、知的にクールに、音楽に音楽を求めるスタイルが、「新主流派」のミュージシャンに共通する性質だといえる。
 新主流派のなかではかなり攻撃的・野性的なスタイルをもつジョー・ヘンダーソンでも、けっして絶叫・咆吼してサックスの音そのものの迫力で相手を圧倒しようとはしない。あくまで音楽指向なのだ。
 例えば、ジョン・コルトレーンの場合、クールにかまえた『Crescent』(64) の頃は新主流派的モードジャズを演奏していたが、だんだん熱狂的になっていくにつれ、フリージャズへと移行していく。このような気配はすでに『Live at Village Vanguard』(61) の"Chasin' the Trane"でも見られていて、つまり、コルトレーンは一時期はショーターからの影響などもあって新主流派的モードジャズを演奏はしたが、資質的にはさほど新主流派的モードジャズに合ってはいなかった、基本的には知的でクールであるよりは、熱血タイプのミュージシャンであり、むしろ『Giant Steps』からフリージャズへの路線が本質的な人だったといえる。
 マイルスにも似たところがある。マイルスにはもともとフリー指向がないので、はじめから「新主流派的モードジャズ」の人ではないのだが、マイルス・バンドは60年代には(ショーターやトニーの存在があって)新主流派的な演奏をしていた。しかし、60年代末から70年代にかけて、マイルスが熱血・絶叫型の演奏に移行していくに従って、同時にマイルス・バンドから新主流派的モードジャズの色あいが失われていく。



■誰が新主流派を

 さて、新主流派というジャズは、いったいどんなミュージシャンによって演奏され、発展してきたのだろうか。
 当然のことながら、新主流派のミュージシャンのうちでも、体質に合わなかったのか、すぐにやめて別の方向へむかったミュージシャンもいれば、体質に合って新主流派の枠内で意欲的に次々と作品を発表していったミュージシャンもいる。
 それぞれのミュージシャンの新主流派への取り組みを見ていってみよう。

 まず、体質に合わず、さほど作品を作らないまますぐにやめていった人たちを見ていってみよう(ここでは「新主流派的モードジャズ」の演奏を行ったミュージシャンということで、コルトレーンもマイルスも含めて考えてみる)
 まず、このタイプでビッグ・ネームをあげれば、何といってもマイルス・デイヴィスとハービー・ハンコックだろう。
 というと意外に思う人も多いかもしれない。たいがいの本を覗けば新主流派・モードジャズの代表作としてマイルスとハンコックのアルバムが紹介されている。
 しかし少しでも考え直してみれば、むしろ自明だろう。60年代のハンコックのソロ作で典型的な新主流派といえるものは『Empyrean Isles』(64) と『Maiden Voyage』(65) の2枚ぐらいだ。
 むろん70年代に入ると、V.S.O.P.をはじめとして新主流派的演奏を再開し、多数のアルバムを作っていくが、それらは分けて考えるべき性質のものだろう。
 マイルスもまた、そもそも新主流派的なミュージシャンでないのは先述した通り。新主流派以前のモードジャズまで広げてみても、『Milestones』(58) と『Kind of Blue』(59) でこの手法を先駆的に行うものの、この2枚きりで断念。63年頃から新主流派的モードジャズを始めるものの、マイルス自身の演奏は『Miles Smiles』(66) あたりではもう既に『キリマンジャロの娘』(68) 以後に続く熱狂路線への指向が見られる。
 コルトレーンも、新主流派的モードジャズの発展には、むしろマイルス、ハンコック以上に影響力を発揮した、というより他の誰より影響力を発揮した存在だったが、コルトレーン自身はそれほど資質に合っていなかったように見えることは先述した通り。
 コルトレーンは60年代の前半を通して新主流派的モードジャズに取り組み、結果的に短かった彼の音楽活動の中では大きな部分を占めるものの、その内でもヴィレッジ・ヴァンガードのライヴなど、新主流派的モードジャズを飛び越えてしまおうとする精神が感じられる。コルトレーンもっと長生きしたとしたら、新主流派的モードジャズはごく一時期取り組んだだけのものに見えていたかもしれない。
 しかし、それでも結果的に見ればこのスタイルでの演奏はコルトレーンの全アルバム中ある程度の部分を占めており、この時代の新主流派的モードジャズの代表的なミュージシャンの一人といっていいのかもしれない。

 いっぽう、新主流派のスタイルに見事にハマり、新主流派的モードジャズを推し進めていったのはどのようなミュージシャンたちだったろうか。
 ソロ・アルバムをコンスタントに発表したという点でいえば、ウェイン・ショーター、ボビー・ハチャーソン、ジョー・ヘンダーソン、アンドリュー・ヒルといった所が代表的だと思う。うちアンドリュー・ヒルはむしろ独自路線の印象も強いが、この一派に含めるのであれば、当然代表的なメンバーということになる。(本稿ではいちおう新主流派の一人として扱わせてもらうが、別に「そうではない」という意見を否定する気はない)
 トランペッターではフレディ・ハバードの名がよくあがるが、ハバードは新主流派でのソロ作は60年代前半にほんの数枚あるだけで『Backlash』(66) からは別の道を行った感が強い。むしろウディ・ショウのほうがこのスタイルに意欲とこだわりを持って取り組んでいたかもしれない。

 しかし、先述したことではあるが、それにしてもある感慨をかんじる。モードジャズ・新主流派といった時、あまりにも多くのジャズ・ジャーナリズムが、マイルスやコルトレーン、ハンコックの『Meiden Voyage』等をその代表作として扱い、本来このスタイルを積極的に発展させてきたミュージシャンたちをおろそかにしてきたのではないか。
 ボビー・ハチャーソンの『Happenings』(66) 以外のアルバムの紹介を活字で見かけることはかなり少ない。あれだけ質の高いアルバムをコンスタントに発表してきたのにである。
 ジョー・ヘンダーソンにしても、80年代以後の人気復活がなければどう扱われていたか……。



03.7.4



『ウェイン・ショーターの部屋』

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