ショーターの音楽のどこが魅力的なのか?






     ■インプロヴァイザーとサウンド・クリエイター
     ■不思議なメロディー感覚
     ■コンセプト性





■インプロヴァイザーとサウンド・クリエイター

 自分なりに、ショーターの音楽のどこが魅力的なのか、ショーターのどこに魅力を感じて聴いてきたのかを考えてみたいと思う。
 いったいウェイン・ショーターという人はどんなタイプのミュージシャンなんだろうか。まず、ちょっとした説明から入らせてもらう。

 ジャズ系のミュージシャンには大きく分けて二つのタイプがいるといえる。
 一方はインプロヴァイザー。楽器一本持ってバンドに乗り込んでいき、楽器の即興演奏そのものに完全燃焼するタイプと、もう一方は音楽全体を作り出すことに力を注ぐタイプだ。いちおうここでは(ちょっと意味あいが違うかもしれないが)後者のタイプをサウンド・クリエイターと呼んでおく。
 この対比は、50年代のマイルスとリー・モーガンを比べてみればわかりやすいと思う。
 二人ともデビューは十代。しかし、デビューしてすぐに、その華麗なテクニックとほれぼれするような音色でメキメキ頭角を現していったモーガンに比べ、マイルスはパーカーのバンドで、あの下手くそなトランペッターをやめさせろと罵倒される毎日。サイドマン時代のマイルスには本当にいい所がなかった。
 しかし、自らがバンドを率いてサウンド作りをする段になると様子は一変する。マイルスは自分に合ったスタイルの演奏を追求し、トランペットの音にはエフェクターをかけて自分の音を作り上げ、音楽全体をうまくコントロールして独自のサウンドをつくっていった。
 いっぽう、モーガンにも50年代からリーダー・アルバムが多数あるが、やはり一番モーガンらしい名演というのは、メッセンジャーズほか、他人のバンドでの演奏だ。他人がお膳立てをしてくれた状況のほうが、何も余計なことは考えずに演奏そのものに熱中できるからだ。そもそもモーガンのリーダー・アルバムであっても、サウンド作りはベニー・ゴルソン他、別の人が担当している場合が多い。
 しかしこれはこの2人の資質の差ばかりではないかもしれない。たいていの場合、ジャズ・ミュージシャンは最初は演奏家=インプロヴァイザーとしてデビューし、経験を積むうちに音楽全体を作り上げていくサウンド・クリエイターとしての実力をつけていくパターンが多いように思える。
 じっさい、モーガンも60年代末にもなるとサウンド・クリエイター的に音楽を作り上げていくようになるし、マイルスにしても、コルトレーン入りのクインテットを組んでマイルス・バンドが軌道に乗るのは、マイルスが30歳近くになってからだ。

 さて、ショーターはどちらのタイプなんだろうか。
 どうもショーターという人はデビューした時点からインプロヴァイザーとサウンド・クリエイターの両方の実力を持っていた人のようだ。つまりインプロヴァイザーとしても他人のバンドでリーダーを食うほどの演奏をするし、また作編曲の面でもデビュー直後からメッセンジャーズで音楽監督として実力を発揮している。これはデビューが26歳と、当時のジャズマンとしては比較的遅咲きだったという理由もあるのかもしれない。
 さて、しかしインプロヴァイザーと一口にいっても様々なタイプがあるし、サウンド・クリエイターと一口にいっても様々なタイプがある。ショーターはそれぞれどんなタイプなんだろうか。

 ショーターはインプロヴァイザーとしては、天性のインプロヴァイザーだといえる。天性のインプロヴァイザーとはあらかじめ何も用意せず、何も考えないでアドリブを始めるタイプだ。つまり、ひとたび自分が吹きはじめれば素晴らしいフレーズが後から後から自然に溢れ出し、すばらしいアドリブが演奏できると強い自信を持っているのだ。これはつまり天才型のインプロヴァイザーということもできる。
 天性のインプロヴァイザーではない人は、あらかじめ全体の構成を考えておいたり、キメのフレーズをいくつか考えておいてからアドリブを始める。構成力は努力や経験で身につくものだし、キメのフレーズも時間をかければいろいろ考え、用意しておくことができる。つまりこういったタイプは天性の才能には乏しい努力型の人だということができる。マイルスがその典型的な例だ。
 この2つのタイプを見分けるわかりやすい方法は、失敗の有無を見ることだ。天才型のインプロヴァイザーは何も考えないで演奏を始めるので、時には大きなミスをする。ソロの途中で止まってしまったり、ただ吹いているだけになってしまったりする。例えばソニー・ロリンズの名盤『サクスフォン・コロッサス』の冒頭の「セント・トーマス」を聴くと、テーマが終わってアドリブが始まったあたり、アイデアが湧かずに同じような短いフレーズを何回も繰り返す所がある。これはつまり、ロリンズが天才型のインプロヴァイザーだということを示している。ショーターも聴いていくと、大失敗例がけっこうある。
 それに対し、はじめから構成やキメのフレーズを用意してからアドリブを始めるタイプは、何をすればいいのかあらかじめだいたい決まっているわけだから、大きな失敗をすることはなく、いつでも安定してそれなりの演奏ができる。
 しかし、インプロヴィゼーションの本当の醍醐味、おもしろさは、何も考えないところから瞬時に生まれてくる音楽とエモーション、演奏と精神・肉体の一体感にあるのであり、その意味でいって天性のインプロヴァイザーの演奏のほうによりジャズのほんとうのおもしろさがあるのではないか。

 さて、ではショーターはサウンド・クリエイターとしてはどのようなタイプなんだろうか。
 サウンド・クリエイターには作編曲をとおして計画的にセッション全体をコントロールするタイプもいれば、そこまで細かく準備はせず、バンドのメンバーの選択や、演奏する上でのリーダー・シップなどでなんとなくまとめ上げていくタイプの人もいる。ショーターの場合は作編曲をとおして計画的に全体を作り上げていくタイプであり、それもかなり本格的だといえる。つまり、作編曲両方において卓越した実力を示し、編曲においてはビッグ・バンドやストリングス・オーケストラなど大規模な編曲も行っている。しかも『アレグリア』収録の曲などは、数十年かけて編曲したという例が目白押しだ。
 また、初期のジャズの枠内で編曲作業を行っていた時代から、フュージョン・サウンドを駆使していた時代、そして先述したオーケストラなど、時代や作品によってかなり多彩な編曲作業・サウンド作りを行っている。

 まず、これがショーターの魅力の一つだと思う。
 つまり、ショーターはインプロヴァイザーとしても、サウンド・クリエイターとしても、最高の実力を持っていて、つまり音楽の創造性の幅が広い。つまり、何も用意せずに瞬間的に、音楽とエモーション、演奏と精神・肉体の一体感から生まれてくる音楽の素晴らしさもあれば、時間をたっぷりかけて作り上げっていった音楽の味わいもある。その両極端の音楽の魅力を同時に味わえる。
 しかも、時代や作品によって、その両方の要素をさまざまなかたちで融合させながら作品を創っていってくため、作品が変化に富んでおり、いろいろ聴いていても次々に新しい発見があって飽きないということだ。



■不思議なメロディー感覚、サックスの音

 つぎに、なんとも不思議なメロディー感覚、和声感覚があると思う。
 どうも言葉にあらわしにくいのだが、ショーターの音楽は曲のテーマにしても、アドリブのフレーズにしても、実に不思議で突拍子もなく、奇妙な浮遊感があって、聴いているとどこまでも遠いところへつれて行かれそうな気がする。最初はちょっと難解でなじみにくい気もするのだが、一度ハマるとなかなか抜け出せなくなる味だ。
 実をいえばぼくが最初にショーターを好きになったのはここからだし、たいていの人はそうではないだろうか。
 また、それを演奏するサックスの音の独特の美しさも、ショーターにしかない魅力だろう。ショーターのサックスの音はテナーにしてもソプラノにしても見事なくらい美しく立っていて、聴いているだけで惚れ惚れとする音だ。

 また、ショーターをサックス・プレイヤー=インプロヴァイザーとして見た時に気づくのは、どの時代がピークかわからない事だ。
 例えばデビューしたての頃の60年代前半のショーターの音・フレーズも見事である。この頃のショーターはテナーの音をちょっと歪ませていて、ミステリアスでありながら黒々としたソウルフルな響きもあって、他にはない魅力がある。
 少し飛んで、60年代末の『Super Nova』や『Odyssey of Iska』のあたりのソプラノの音を聴いても、これはこれで凄い。この頃のショーターの音はソウルフルな部分がなくなってより神秘的に、ソリッドに凛と立っている。フレーズも存在感もズバ抜けている。
 また飛んで、例えば87年の『Tribute to Coltrane』あたりの演奏を聴くとまた凄い。このアルバムはデイヴ・リーブマンと聴き比べができるのでショーターの個性がわかりやすいのだが、ぼくはリーブマンも大好きで一流のミュージシャンだと思っているが、こうして聴き比べるとショーターの音の立ち方は異様なほどで、フレーズは人間的なこすっからい情感がスッパリと切り落とされたように、デジタル的に叩きつけてくる。
 さらに『Footprints Live!』(01) までいくとさらに新境地であり、一音だけですべてを語りつくしてしまうかのような響き、深みと奥行きのある緊張感をサックスの一音だけで描き出してしまっているかのようだ。
 ふつうならば、ミュージシャンのインプロヴァイザーとしてのピークは比較的若い頃にあるもので、それ以後はサウンド・クリエイター的側面や、音楽全体をコントロールする能力を身につけることで音楽活動を続けていく……というのが一般的なミュージシャンのパターンだと思う。
 しかし、ショーターの場合、インプロヴァイザーとしてもどんどん研ぎ澄まされて、前進していっている部分があるように思う。
 しかし前進しているというと、過去の作品は現在にくらべて魅力的ではなかったのか……といわれそうだが、やはりその時代にはその時代にしかない、それぞれ独自の味わいがあって、それはどれも素晴らしいものだ。

 けっきょく、ショーター作品を聴いていると、どの時代のどんなスタイルでの演奏であっても、ショーターのサックスの音とその不思議なフレーズを聴いているだけで魅了されてしまうものがあり、それがショーターの魅力の一つだと思う。


 
■コンセプト性

 また、ショーターの音楽の大な特徴の一つに、コンセプト性がある。
 ショーターのイマジネーションの独自性は曲のタイトルを見ただけで感じられる。例えばごく初期の曲のタイトルを並べてみると「深淵の奥へ」「黒いダイアモンド」「チェス・プレイヤー」「罪の種」「モモとクリーム」「屋根裏の物音」「眠る踊子は眠りつづける」「女巨人」「第二創世記」「アホウドリ」「根と香草」「真夜中の子供たち」などなど……。
 ジャズやフュージョンは原則として歌詞のない音楽であり、曲のタイトルはどの曲か判別できさえすればいいもので、いってみればどうでもいい。実際どうでもいいと思ってつけたようなタイトルがすごく多い。
 音楽を聴いている人間は、歌詞のない音楽にも勝手にさまざまなイメージ・映像・物語を想像して聴いていたりするものだが、ミュージシャンというのは意外なほどそんなものにはこだわってなく、音のつらなりとしかとらえていないのが普通であると聞く。
 しかしショーターだけは特別で、とんでもないタイトルの曲についてインタビューしたのを読むと、その曲にこめられたもっととんでもないイメージ・映像・物語を嬉々として語っている。
 ショーターはもともと絵を描いていたこともあり、また映画ファンで読書家でもあるためか、音楽に対するインスピレーションと、映像的・物語的なインスピレーションがどこかでつながっているようだ。
 そういった音楽に映像的・物語的なイメージを織り込んでいく作業が本格化すると、コンセプト・アルバムが出来上がることになる。
 アルバム一枚がまるごとコンセプトを持っているという作りのショーター作品は『Night Dreamer』(64) が最初ということになるだろうが、これはロックや他ジャンルのコンセプト・アルバムと比べても、かなり初期の試みなのではないだろうか?
 先行する例として、チャールズ・ミンガスの『直立猿人』や『道化師』が思い当たるが、あれはアルバム一枚まるごとではなかったはずだ。

 さて、コンセプト・アルバムという手法は70年代に入るとプログレッシヴ・ロックなどを中心に広く試みられていくが、はっきりいって失敗例が多い手法だと思う。それはコンセプト性を重視しようとすると、それが音楽の自由度を邪魔してしまい、時には音楽がコンセプト・内容の説明のようになってしまったりするからだ。例えば前記のミンガスの『道化師』の表題曲などはあきらかに失敗例だと思う。
 しかしショーターがめずらしいのは、そのような失敗をまったく犯さない点だ。つまり、どんなとんでもないコンセプト性を盛り込んでも、音楽は純粋に音楽としての自由度・魅力を失わず、決してコンセプトの説明なんかにはならない。純粋に音楽として楽しめるものになっている。

 このような映像的・物語的なイマジネーションあふれるコンセプト性、聴いている人間の空想力を刺激して、見たこともない不思議な世界を見せてくれるような部分も、ショーターの魅力の一つだと思う。




04.2.5



『ウェイン・ショーターの部屋』

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