ウェイン・ショーターとジャズ・メッセンジャーズ







    目次

   ■59年から64年のジャズ・シーン
   ■59〜64、ショーター
   ■ジャズ・メッセンジャーズにとってのウェイン・ショーター時代 
   ■メッセンジャーズ、ショーター時代の見取り図
   ■ショーター=メッセンジャーズの先鋭性
   ■ショーターにとってのメッセンジャーズ時代
   ■ショーター=メッセンジャーズを聴く3枚



 ■59年から64年のジャズ・シーン


 ウェイン・ショーターの活動期間は長く、音楽スタイルも変化に富んでいるが、一貫性のある着実な変化をしているので、いくつかの時期に分けて考えるとその変遷も理解しやすいと思う。
 ショーターは59年にデビューするが、その50年代末から60年代がショーターがアコースティック・ジャズをやっていた期間である。そのうちデビューから64年まで、つまり『Night Dreamer』を完成させ、メッセンジャーズを離れる直前までが、まず最初の一区切りということができるだろう。『Night Dreamer』の完成によって、ショーターは一段階段を上ったように思う。
 なお、人間には人それぞれ一定の行動パターンがあるようで、ショーターの場合この『Night Dreamer』の完成〜メッセンジャーズ退団という流れ、つまり、これまでのソロ作とは次元の違う内容・完成度を持ったソロ・アルバムを完成させると、間もなくそれまで在籍していたバンドを離れる、というのが行動パターンのようで、これ以後にも何回か繰り返されることになる。つまり、『Super Nova』の完成〜マイルス・バンド退団、『Atlantis』の完成〜ウェザーリポート解散、といったぐあいだ。
 さて、ではまずショーターのその第一の期間というべき59年から64年について、当時のジャズ・シーンがどのようなものだったのかから見ていこう。

 ショーターがデビューした59年という年は、ジャズにとって大きな転換点というべき年だったようだ。
 この59年だけを見ても、マイルスの『Kind of Blue』、コルトレーンの『Giant Steps』、そしてオーネット・コールマンの『ジャズ、来たるべきもの』といったアルバムが録音されている。翌60年にはエリック・ドルフィーが最初のソロ作『Outward Bound』を録音するし、エルヴィン・ジョーンズ、マッコイ・タイナーが揃ったコルトレーン・カルテットが結成されている。
 つまり、この59年という年は50年代のジャズがある完成度に達し、その行き詰まりと、その向こうには新しい可能性も見えてきた時期といっていいだろう。
 『Giant Steps』はコルトレーンにとってあきらかにこれまでやってきたことの集大成的な作品であり、翌60年のコルトレーン・カルテットを結成しての『My Favorite Things』や『Coltrane's Sound』のセッションあたりから、コルトレーンは新しい地平へとゆっくりと踏み出していく。
 マイルスの『Kind of Blue』はジャズ・ジャーナリズム的にはモードジャズの試みという面ばかり宣伝されているが、演奏の安定感と保守的な雰囲気からして、やはりマイルス流ハードバップの完成形という意味ももっている。そしてマイルスはこの後モードジャズをいったん捨てて、ハードバップに戻って保守的な作品を作り続けていく。
 オーネット・コールマン、エリック・ドルフィーの登場がフリージャズの台頭を意味していることはいうまでもない、そして彼らが台頭してきたこと自体、50年代ハードバップの行き詰まりを多くのミュージシャンが感じとり、新しい可能性を誰もが模索していた証拠ではないか。
 そして59年〜60年にかけては、ソウル・ジャズの主力プレイヤーも次々にデビューし、ルー・ドナルドソンがバックをオルガン・トリオにかえるのは61年である。

 この59年から61年くらいまでが、オーネット、ドルフィー、コルトレーン、そしてショーターといった面々がジャズの新しい地平を意欲的に切り開いていっていた時代といっていい。
 62年になると、その反動からか、ジャズの最先端の部分が急速に衰え、保守化していくのが感じられる。まずオーネットは62年から64年まで一時引退してしまう。コルトレーンにしても、61年のドルフィーを加えてのヴィレッジ・ヴァンガードのライヴのアグレッシヴさに比べて、62年からは例の『Ballads』や『and Johnny Hartman』などのおとなしいアルバムを発表していくようになる。
 それにさらに反発して、また意欲的にジャズの新しい地平を切り開く動きが少しづつ生じてきたのが63年、そしてその力が一気に吹き出したのが64年といえるだろう。
 60年代に入ってからずっと保守的なジャズを演奏してきたマイルスが63年になるとトニー・ウィリアムス入りの新クインテットを組んで、ようやくジャズの最先端の部分に追いついてきたのが象徴的だ。




 ■59〜64、ショーター


 さて、この59〜64年のショーターはどんな活動をしていたかを見ていこう。
 ショーターは59年のデビュー直後にジャズ・メッセンジャーズに加入し、音楽監督として創作上のリーダーシップをとるかたわら、3枚のソロ・リーダー作を発表し、またサイドマンとしても数枚のアルバムに参加している。
 その中でも中心となっているのはやはりジャズ・メッセンジャーズでの活動だろうと思う。ショーターはもともと寡作なほうではあるが、4年間にソロ作3枚というのは少ない。この後64〜67年までにソロ作を8枚作っていることや、普通ミュージシャンはデビュー直後の期間は多作な場合が多い事を考えると、この時期は活動の比重がソロ作を作ることよりもメッセンジャーズでの音楽監督としての仕事に向いていたと考えられる。
 実際この期間にメッセンジャーズはスタジオ盤だけでLP15枚分も録音し、その他ライヴ盤も多数ある。その内に占めるショーター作の曲ざっと数えて33曲(ソロ作に収録されたオリジナルは14曲)、その他に他人の作品の編曲も含めれば、まさにショーターはメッセンジャーズにずっと多くの力を注いでいたということができるだろう。
 では、ショーターのメッセンジャーズでの活躍、メッセンジャーズにとってのショーターが音楽監督だった時代というのは、どのようなものだったのだろうか。次はそれを見ていってみよう。




 ■ジャズ・メッセンジャーズにとってのウェイン・ショーター時代 


 さて、ウェイン・ショーターはデビュー直後の59年にリー・モーガンの誘いもあって、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに入団し、64年まで同バンドに在籍した。
 ショーターはデビュー時には既に自己の演奏スタイルを確立し、作編曲の実力も身につけていたので、この時代を初期の修業時代ということはできない。事実この時代ショーターはメッセンジャーズの音楽監督として実力を発揮し、音楽的なリーダーシップさえとっていた。
 しかしその後の活動から見ると、このショーターとメッセンジャーズという関係はちょっとミスマッチにも見え、合っていたんだろうかとも疑う。はたしてどうなんだろうか。
 まずメッセンジャーズがどんなバンドかという面から見てみよう。

 アート・ブレイキーはマックス・ローチと並んでビ・バップの全盛期に名を上げた名ドラマーである。年齢はブレイキーのほうが少し上だが、ビ・バップ時代に個性が適応し大活躍したのはむしろローチのほうで、ブレイキーはやや不遇をかこっていた感もある。
 ジャズ・メッセンジャーズはそのブレイキーが50年代半ばに組んだバンドで、ブレイキーが自己の音楽を追求するためではなく、若い優秀なジャズマンに活躍の場を与えるためというコンセプトで組まれたバンドだった。そのため人間関係上のリーダー・シップはブレイキーがとるが、音楽上のリーダー・シップは他のメンバー、若い有能なジャズマンに任せる……というのが一貫したメッセンジャーズの方法である。結果的に音楽上のリーダー・シップをとるメンバー(音楽監督)の能力の有無によって、いい作品を連続して出していた時期もあれば、低迷していた時期もあるというバンドになった。
 では、ジャズ・メッセンジャーズの長い歴史の中で、有能な音楽監督に恵まれ、充実していた時代はいつだろうか。
 まず最初のピークはバンド結成当初のホレス・シルバーを擁した時代だといえる。この時期の演奏は(メッセンジャーズを名乗る以前の)『A Night at Birdland』(54) と『At the Cafe Bohemia』(55) の二種類のライヴ・アルバムが有名で、その他1、2枚のスタジオ盤があったと思う。メッセンジャーズがハード・バップの代表的バンドというイメージがあるのは、この時期のアルバムのためだろう。しかしこのシルバーとのコラボレーションは2年ほどで終わり、わりと早く二人は袂を分かってしまった。
 それ以後メッセンジャーズにはジャッキー・マクリーンやジョニー・グリフィンをはじめ、けっこうスター・プレイヤーが在籍しているのだが、音楽監督不在のためか低迷期が続く。
 第二のピークはベニー・ゴルソンを音楽監督として『Moanin'』(58) を大ヒットさせた時代だ。メッセンジャーズがファンキー・ジャズの代表的バンドというイメージがあるのは、この時期のアルバムのためだろう。しかし、これもたった1枚のスタジオ盤と数種類のライヴ・アルバム、映画のサントラ盤などを残して、ゴルソンは一年あまりでバンドを去ってしまう。
 そしてそのすぐ後に続くのが59年から64年までのショーター時代である。この間にメッセンジャーズはLP15枚分のスタジオ盤と多数のライヴ盤を録音する。
 しかし64年のショーターの脱退とともにメッセンジャーズはまたも低迷してしまう。以後、ウディ・ショウやキース・ジャレットなど有名どころが在籍していた時期もあるのだが、低迷は続いてしまう。
 メッセンジャーズが再び注目を集めるのは1980年頃にウィントン・マルサリスが加入した時である。以後80年代のアコースティック・ジャズの復活とともに、またも次々に才能ある新人ジャズマンが訪れて、ふたたび登竜門として機能しはじめ、ブレイキーは充実した晩年をおくることになる。

 さて、こうしてメッセンジャーズの歴史を振り返ってみると、メッセンジャーズとショーターというのは一見ミスマッチに見えるものの、実はメッセンジャーズにとってショーターの音楽監督時代というのは、最も長期間にわたって充実した最大の黄金時代だといえることがわかる。
 たしかに『Moanin'』は大ヒットし、以後のメッセンジャーズのイメージを強烈に決定づけたかもしれないが、もしそのすぐ後にショーター時代がなかったら、ホレス・シルバーが抜けた後低迷した時のように、この『Moanin'』一枚だけ残して低迷するよりほかなかった可能性が高い
 もしショーター時代がなかったらジャズ・メッセンジャーズの歴史はかなり寂しいものになったという印象が強い。




 ■メッセンジャーズ、ショーター時代の見取り図


 さて、4年余り続いたショーター=メッセンジャーズもさらにいくつかの時期に分けられると思う。そんなにハッキリと分けられるわけではないが、理解しやすくするために簡単に整理してみよう。
 まずショーターが加入して最初のアルバム『Africaine』(59年11月録音)から61年あたりまでが第一期だと思う。
 この時代はショーター色の濃い先鋭的な作品と、『Moanin'』以来の派手でファンキーなメッセンジャーズの作品とが入り混じって録音されていた。ショーター色が強い方は『Africaine』『Like Someone in Love』(60) 『Freedom Rider』(61) 『Roots & Herbs』(61) 『The Witch Doctor』(61) 等で、これらのアルバムはすべてリアルタイムではリリースされず、オクラ入りされている。一方、派手でファンキーな路線は『The Big Beat』(60) 『A Night in Tunisia』(60) 『Meet You at the Jazz Corner of the World』(60) 『Mosaic』(61) 等で、これらはすべてリアルタイムではリリースされている。
 派手でファンキーな路線の方にもショーター色は感じられるのだが、やはりショーター色が強いのは当時オクラ入りした作品のほうで、特に61年の前半に連続して録音された『Freedom Rider』『Roots & Herbs』『The Witch Doctor』のセッションがこの時期の、そしてモーガンとの2管メッセンジャーズのピークだと思う。
 第二期は『Buhaina's Delight』(61) あたりから始まり、『Three Blind Mice』(62) 『Caravan』(62) 等、62年頃までの時期だと思う。
 3管時代だが、それまでの若々しい勢いが消え、アダルトなムードが漂っているのが特徴だ。ショーター色の濃い先鋭的な面も鈍くなるが、ファンキーな派手さもなくなり、洗練された軽みをおびた面さえ出てくる。全体的におとなしめの演奏が多い。
 第三期は63年以後、『Ugetu』(63) 『Free for All』(64) 『Kyoto』(64) と続く時期で、3管メッセンジャーズの完成期といっていい。
 この時期はメッセンジャーズが再び勢いが取り戻すのだが、もう第一期のような『Moanin'』時代の影を引いているような派手なファンキーさではない。"Free for All" におけるドラムの滝のような連打を浴びながら猛然と吹きすすむサックスにしても、"Nihon Bash" (『Kyoto』)にしても、もう旧来のファンキー・ジャズではない、新しい表現に到達している。




 ■ショーター=メッセンジャーズの先鋭性


 さて先述した通り、ホレス・シルバー時代のメッセンジャーズはハード・バップの元祖にして代表的なバンドといったイメージが強い。
 また、ゴルソン時代のメッセンジャーズはファンキー・ジャズのバンドというイメージが強い。
 ではショーター時代のメッセンジャーズはどんなジャズを演奏していたバンドだったのだろうか。
 結果的にいうと、まず先述した第一期のショーター=メッセンジャーズは、当時のジャズ・シーンにおいて、コルトレーン・バンドと並んで、もっとも知的で先鋭的な作品をつぎつぎに作りだし、シーンを先導していたバンドだったといえる。
 しかしメッセンジャーズというと、陽気で派手な大衆的ジャズというイメージばかりがあり、知的で先鋭的なバンドだというイメージが意外なほど定着しなかった。そしてコルトレーン・バンドや、ずっと遅れていたはずのマイルス・バンドのほうが先鋭的であったかのように書かれ続けてきた。それはなぜだろう。
 それは先述のとおり、当時のブルーノートがメッセンジャーズの録音のうち、ショーター色の強い先鋭的な内容のものをすべてオクラ入りにし、ゴルソン時代のメッセンジャーズ・ファンにも受け入れられやすい、派手でファンキーな内容の『The Big Beat』や『A Night in Tunisia』『Mosaic』といったアルバムばかりをリアルタイムでリリースしていたためだろう。
 例えば61年前半に次々に録音された先鋭的な内容のアルバムのうち、唯一リアルタイムでリリースされたことになっている『The Freedom Rider』でさえ、リリースされたのは3年後の64年になってからのことだ。後に録音された『Mosaic』のほうがずっと先にリリースされている。64年といったらもうコルトレーンの『至上の愛』やショーターの『Night Dreamer』が録音された年だ。この3年の開きは大きい。
 当時のブルーノートの方針は『Moanin'』で獲得したファンをしっかり維持し、メッセンジャーズを第二のジミー・スミスにすることだったという。それはあきらかにショーターの進みたい方向と正反対だった。ブレイキーは自分のバンドを「第二のジミー・スミス」になんかする気はなく、わりにショーター寄りの立場にたって擁護してくれたようだが……。
 当時リアルタイムでリリースされたアルバムとオクラ入りしたアルバムを聴き比べてみると違いはあきらかで、おそらく当時リアルタイムで聴いていた人は、あいかわらずメッセンジャーズを "Moanin'" 路線の陽気で派手なファンキー・ジャズをやっているバンドだと思っていただろう。ブルーノートのイメージ戦略にのせられていたということだ。
 そして一度ついた先入観というものの呪縛力はなかなか強いもので、その後オクラ入りされていた録音が発掘・リリースされた後でさえも、メッセンジャーズ=陽気で派手な大衆的ジャズ、といったイメージだけで判断されてきたきらいがある。
 もちろんそのファンキージャズ路線は当時のメッセンジャーズ・ファンの願いである面もあると思われ、ブルーノートを悪者にも出来ないとおもうが……。

 さて、現在では当時オクラ入りにされていたアルバムも聴けるので、録音時期を見ながら注意深く聴きさえすれば、当時のブルーノートの戦略にはのせられずに、当時のメッセンジャーズがどういうバンドなのか、全体像がわかりやすくなっている筈だ。
 試みに、60〜61年のメッセンジャーズのオクラ入り後リリースされた諸作と、同時期に録音されたコルトレーン・バンド、マイルス・バンドのアルバムを並べて聴いてみればいい。当時のメッセンジャーズがどれほど先鋭的だったのかがわかるはずだ。




 ■ショーターにとってのメッセンジャーズ時代


 では第二期以後のメッセンジャーズはどうなのだろうか。単純な事実として『Alamode』 (61年6月録音)以後のメッセンジャーズ作品は、ブルーノート録音においてもオクラ入りになったものはない。そして、64年のショーターの『Night Dreamer』を聴くと、直前の、あるいは同時期のメッセンジャーズ作品と比べて、もう2、3歩先を行っている(つまりメッセンジャーズ作品は遅れている)気がする。これはなぜなんだろうか。
 たぶん『Alamode』や『Mosaic』以後のショーターは、求められるメッセンジャーズのイメージを大事にしながらも自分の音楽をそこに込めていくようになったからだと思う。それに先述したとおり、62年頃はジャズの最先端の勢いが急速に衰えて、全体的に保守化していった時期である。ショーターのこの時期の仕事も、その風潮をモロに受けているように思う。
 思うに、ショーターにとってジャズ・メッセンジャーズの音楽監督という立場は、かなり好きなことも出来たが、妥協も強いられるという環境だったのだのではないか。メッセンジャーズというバンドのイメージや、『Moanin'』以来のファンの期待、レコード会社の方針といったものにも応えながら、限られた枠内で自分のやりたいことを出していく(しかし出しすぎるとアルバムはオクラ入りする)という綱引きの中での仕事だったのだと思う。
 第一期にはショーターが自分のやりたいことを出しすぎ、アルバムが次々にオクラ入りするという事態もあったが、第二期以後にもなるとショーターもそれなりのさじ加減をわきまえてサウンド作りをしていたことも感じられる。そのためショーター色はストレートには出なくなり、先鋭性の面ではむしろ鈍くなっている。
 63年の『Ugetu』以後(第三期)は再び意欲的な姿勢が見られるが、それにしてもメッセンジャーズというバンドの枠を充分意識した上での前進だったのだと思う。だからこそオクラ入りするほどにはショーター色が濃すぎるアルバムは、やはり作っていない。
 逆にいえば第一期のメッセンジャーズは、当時のオクラ入り作品を聴けば、当時のショーターがやりたかった事がかなりの部分までわかり、その先鋭性もわかる。しかし、第二期以後のメッセンジャーズ作品は、ショーターがあらかじめオクラ入りしないように先鋭性を抑えて作り出していったものなので、ショーターが本当にやりたかった音楽からある程度離れたものになっていったのだと思う。
 それがストレートにショーターが自分を出した『Night Dreamer』と後期のメッセンジャーズ作品との差となって現れているのではないだろうか。
 つまり第二期以後、メッセンジャーズというバンドはショーターにとって自分のやりたい音楽をやるためのキャンバスであると同時に、だんだんと本当にやりたい音楽をやることの足枷にもなりつつあったんだと思う。そしてそのショーターの本当にやりたい音楽が『Night Dreamer』という形でメッセンジャーズとは関係のない場所で結実してしまったときに、ショーターの気持ちは急速にメッセンジャーズから離れてしまったのではないか。
 『Night Dreamer』と同時期に録音されたショーターのメッセンジャーズでの最終作、『Indestructible』(64) が案外つまらないのは、ショーターがもうメッセンジャーズというバンドにこめて自分の音楽を表現しようとはしていない点にあるのではないかと思う。




 ■ショーター=メッセンジャーズを聴く3枚


 さて、ショーターのメッセンジャーズ時代のアルバムはかなりの数にのぼる。
 もしまだ未聴で、けれどショーター時代のメッセンジャーズのアルバムを聴いてみたいが、アルバム数が多すぎて選びにくい……という人がいたら、とりあえずこのあたりから聴いてみたらいいんじゃないかというアルバムを3枚勧めておこう。


1、『Like Someone in Love』(60)

 ショーター色が出すぎて、ほとんどメッセンジャーズっぽくなくなってしまったアルバム。新主流派の始まりみたいな面もある。
 霧の中を歩いていくような名バラード "Sleeping Dancer Sleeping On" は必聴。


2、『The Witch Doctor』(61)

 61年に連続して録音されたショーター=モーガンの2管メッセンジャーズの頂点というべき3枚のうちの1枚。(他の2枚は『Freedom Rider』と『Roots & Herbs』)
 61年という時期にここまでやっていたということは驚異的。3枚とも名盤だが、まずは本作あたりからどうか。


3、『Kyoto』(64)

 3管メッセンジャーズの頂点というべき3枚のうちの1枚。(他の2枚は『Ugetu』と『Free for All』)
 3枚のうちどれを勧めてもよいが、ヴァラエティが豊かで文句なく楽しめる本作あたりが入門には最適かも。




03.12.30





『ウェイン・ショーターの部屋』

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