そして別項でも書いたが、それでもジャコの非リーダー作のうち、ジャコの作風・目指す音楽が前面に出ていると思われるものを探せば、それはジョニ・ミッチェルのグループでの仕事のような気がする。
ジョニの作品を順に聴いていけば容易にわかるが、ジャコがミュージック・ディレクター的な立場で全面的にかかわっていた『Don Juan's Reckless Daughter』(77) 『Mingus』(78) 『Shadows and Light』(79) というアルバムは、あきらかにその前後のジョニのアルバムとは違ったスタイルの演奏を繰り広げている。ジョニの作品には、ウェザーリポートよりハッキリと、あきらかにジャコ時代というのがあるのだ。
さらにいえば、1stの『Jaco Pastorious』(75) から始まって、ジョニの前記3枚のアルバム、そして『Word of Mouth』(80-81) 『Twins』(82) 『Holiday for Pans』(82) というアルバムを並べてみると、そこに統一した流れというか、ジャコの作風のようなものが感じられる。
では、ここで以上7枚のアルバムから、ジャコがどんなミュージシャンだったのか、ごくかるく見ていってみよう。
まず見るべきは、1stアルバムの『Jaco Pastorious(ジャコ・パストリアスの肖像)』だと思う。デビュー作にはその人の全てがあるという意見があるが、ジャコの場合もまさにそうで、この1stは後にジャコが開花させていくいろいろな要素が随所に見られて興味が尽きない内容になっている。
まずわかることは、ジャコは多管によるアンサンブル、ストリングス・オーケストラなど、多人数によるオーケストレーションでサウンドを作るのを好むという点だ。それは1stでも随所に顔を出すし、『Don Juan's……』の "Paprika Plaints" のオーケストレーション、『Mingus』の "The Dre Cleaner from Des Moines"。そして勿論『Word of Mouth』、『Twins』のビッグ・バンド、『Holiday for Pans』と、ライヴ盤のため条件的に無理だったと思われる『Shadows and Light』を除けば全てのアルバムに多楽器によるアンサンブルが登場している。
これは最初から最後までワンホーンだったウェザーリポートと大きく異なる点だ。事実上、ウェザーリポートはジャコ、ザヴィヌルと多管アンサンブルを好むメンバーがいながらずっとワン・ホーンだったことになる。もしジャコがウェザーリポートの音楽性に大きな影響を与えていたのだとしたら、ウェザーリポートにも多管アンサンブルが取り入れられていただろう。しかし実際はそんな事はなかった。
そして、スチール・ドラムもまた "Opus Pocus" で印象的に登場する。ジャコのこの楽器への偏愛は当然後の『Holiday for Pans』に結晶する。
以上、アンサンブルやスチール・ドラムなど、ジャコは総じて生楽器指向、電気楽器は使っても、電子楽器はまず使わない人だとわかる。この時代ならもう既にシンセサイザーがかなり使われ出している頃であり、ウェザーリポートでもシンフォニックなサウンド作りをする場合はシンセを使用していた。しかしジャコは多管アンサンブルやストリングス、生楽器を組み合わせていく方法を選ぶ。この点もウェザーリポートの指向性と大きく違う点だろう。
もしジャコが人並みに長生きでき、ソロ・リーダー作を順調に出したとしたら、ジャコの総合音楽家としての才能はもっと明瞭なかたちで発揮されていたと思う。しかし、その音楽はウェザーリポートのようなタイプの音楽ではなかったろう。それは1stアルバムから『Word of Mouth』、『Holiday for Pans』等を結んだ延長線上の音楽になっていたのではないだろうか。
ジャコがウェザーリポートを変えた、ジャコがウェザーリポートに大きな影響を与えたんだと思い込みたいファンの気持ちも分からないではないが、そう考えてしまうとかえってジャコ自身の音楽が見えにくくなるだろう。
言わずと知れたジャコのデビュー・アルバムだが、ジャコというミュージシャンを知るうえでの最重要作だ。デビュー作にはその人のすべてがあると言われ、実は必ずしもそうでもない例もあるのだが、ジャコの場合はまさにその言葉通り、このアルバムにジャコのすべての可能性が見えている気がする。ジャコのこの後の活動は、このアルバムにあるそれぞれの要素を発展させ、その先を行こうとする行為だったと思う。
この項を書くために改めてじっくりと聴き返したのだが、あまりにも聴きどころが盛り沢山な内容にあらためて感心した。
冒頭の "Donna Lee" におけるパーカッションだけをバックにした速弾きが語り草になっているのだが、そんな部分は最初に卓越したテクをみせて一発みえを切ってみた程度の事だ。続く "Come On, Come Over" ではサム&デイヴをボーカルに迎えたソウル〜R&B的な曲調で、ブレッカー・ブラザーズを含む大編成のホーンセクションを華麗に響かせて編曲者としての腕も見せる。このへんギル・エヴァンスにしつこく電話をかけて教えを受けた成果がかんじられる。続く "Continuum" ではベースによる滑らかで音楽的なソロをとってベースのソロ楽器として使いこなす。続く "Kuru/Speak Like A Child" では急速曲における鉄壁なベース・ランニングを見せつつストリングス・オーケストラの編曲もみせる。"Opus Pocus" ではショーターのソプラノとスティール・ドラムの幻想的な響きを組み合わせて独特の世界を築き、"(Used To Be A) Cha Cha" は本作に8割がた参加しているハンコックが最高に燃え上がる聴きどころだ。音楽的なルーツも、実にさまざまなタイプの音楽からの影響が感じられ、ジャコがジャンルにこだわらない広範囲な音楽に興味をもっていたことがわかる。
そして、もちろん一番の聴きどころは、そのような多数のゲストミュージシャンを生かしつつ、作編曲で高度な実力を発揮しつつも、全編においてその演奏を支えながら、ベースという楽器に秘められた可能性を最大限に発揮してみせるジャコのベース・プレイそのものだ。
それにしてもどうしてこれほどの豪華な顔ぶれのデビュー・アルバムを作ることができたのか。ミルコウスキーの『ジャコ・パストリアスの肖像』を見ると、中心になっていたのはブラッド、スウェット&ティアーズのドラマーのボビー・コランビーであり、コランビーの発案によってこのアルバムでジャコのあらゆる可能性を見せようと、さまざまなタイプの曲をとりあげ、それぞれの曲にあったミュージシャンに声をかけていったのだという。参加曲の多さから全面的にバックアップしているように見えるハービー・ハンコックは、たまたまジャズ的なセッションのために呼ばれたのが、気が乗ったのでさまざまな曲に参加することになったようだ。個人的にはウェザー参加前のこの時点でショーターとの共演がどのように成ったのか、それぞれにこの時の共演をどう思ったのかが知りたいところだが、『ジャコ・パストリアスの肖像』はこのへんのジャコの全盛期の時代についてはあまり詳しく書かれていなく、わからない。
あと、本作を聴いてあらためて感じられるのは、たしかにこの後のジャコのソロ・ワークの音楽は本作の発展形といえるものなのだが、ジャコ在籍時のウェザーリポートの音楽へと発展する要素は本作には見られないということだ。つまり、ウェザーリポートでのジャコの役割は、あくまで素晴らしく有能なサイドマンという以上のものではなかったことがここでもわかる。
なお、現在では未発表トラックが2曲追加されたCDも出ている。一曲は "(Used To Be A) Cha Cha" の別テイクだが、もう1曲の "6/4 Jam" はハンコックも参加するスモール・コンボによる未発表曲。これベースはずっと同じパターンを刻んでいるだけで、むしろドラムが自由に動き回っている曲。個人的には本作でも最大の聴きどころのひとつである "(Used To Be A) Cha Cha" の別テイクのほうがうれしかった。
ジョニ・ミッチェルは現在までオフィシャルで2タイトルのライヴ盤を出している。うち一つはジャコがバックをつとめた『Shadows and Light』(79) であり、もう一つがトム・スコット率いる L.A.Express がバックをつとめた『Miles of Aisles』(74) である。そのトム・スコットのソロ作にジャコが一曲のみだがゲスト参加したのがこのアルバムだ。
トム・スコットという人は70年代のフュージョン・ブームを支えた中堅どころのサックス奏者というところだろうか。スタジオ・ミュージシャン出身で、前記 L.A.Express を率いて活躍した他、ソロ名義でも現在も活躍中だ。あるいは『ブレードランナー』のサントラでサックスを吹いている人といわれるとピンとくる人もいるかもしれない。
この『Intimate Strangers』は彼が70年代にリリースしたアルバムの中でも意欲作であり、リチャード・ティー、エリック・ゲイル、スティーヴ・ガッド……といった Stuff や TOTO 系の錚々たるメンバーがバックを支えている。
前半(LPのA面すべて)が組曲になっていて、ここが聴きどころだ。「ある無名サックス・プレイヤーと、ナイトクラブで出会った少女とのファンタジックな恋物語」といったストーリーをもとに、ソフトで都会的なサウンドで、映画のシーンを思わせるような場面が連続する映像的な演奏が繰り広げられる。
サウンドのすみずみまで繊細に丁寧に作られていて、例えば組曲2曲めの "Lost Inside the Love of You" のバックのリズムセクションの部分など、何気ないけど個性的。クレジットを見るとキーボード×2+ギター+ベース+ドラム+パーカッション+シンセといった大人数で演奏しているようで、しかし決してうるさくならず、ソフトで控えめ。緻密に編曲されていると思われる。
しかしあまり緻密に編曲してしまうと、即興演奏のおもしろさがなくなってきてしまうわけだが、本作にもその傾向は見られ、わりと甘いシャンパンのような音楽になっているきらいもある。ジャコはそのなかに即興演奏性を導入する役割をしていて、わずか1曲だけの参加とはいえ、シンセのみをバックに全編でソロをとっており、組曲の中でアクセントとなっている。意味のある起用といえるだろう。
ジャコは1曲のみの参加とはいえ、70年代の甘口フュージョンのなかではかなり高い完成度の作品なんで、興味がある人なら聴いてみる価値がある作品だと思う。
それにしても、『ジャコ・パストリアスの肖像』を読むと、ジャコはどうしてあんなふうになってしまったのかという疑問を感じずにはいられない。
ここからはぼくの単なる個人的な想像だが、ジャコが契約を自ら潰し、自滅の道を無意識的にでも選んでいったのは、強いプレッシャーがあったからのような気がする。
世界最高のベーシストだという自負と、作編曲者としての強い自信、それに比して、自分が勝負をかけたはずの『Ward of Mouth』(81) の不評(現在では高評価を受けているが、リリース当時は予想を大きく下回る売れ行きしか示さなかった)と、続く『Holiday for Pans』(82) に対する制作中止とクビというワーナー側の対応……。それは自信だけでなく、自信に見合うだけの才能・実力を持っていたジャコにとっては、相当キツイ打撃だったのではないか。
もちろん新しいレコード会社と契約し、新しいアルバムを作りたい意志はジャコにもあったと思うが、たとえ再起をかけて全力でアルバムを作ったとして、それが『Ward of Mouth』や『Holiday for Pans』のような扱いを受けたら、それこそ再起不能なまでの打撃を受け、自信を打ち砕かれてしまう。だからこそ再起を賭けるなら、今度こそ何としても成功させなければならないという強いプレッシャーが、ジャコに新しい契約への恐怖心をおこさせ、自分からチャンスを潰していく行為へと走らせていたのではないだろうか。
不遇な天才として、新しいアルバムを作れないという状況を維持しておけば、自分の実力がもう一度試され、傷つくことはなくて済むのだ。
では、何がジャコにそこまでのプレッシャーを与えたのだろうか。
当然のことながら、ウェザーリポートでの成功だろう。ワーナーはウェザーリポートの成功をみて、それがジャコの功績だとカン違いしたから大金をかけてジャコを引き抜き、しかし『Ward of Mouth』や『Holiday for Pans』があまりにもウェザーリポートの音楽と違い、このままジャコに作らせ続けてもウェザーリポートのような成功をもたらさないと思ったからクビにしたのだ。
そして、ジャコは自分の音楽を信じていたはずだが、ウェザーリポートは自分の音楽ではないことも熟知していたはずだ。ジャコがデビュー作の『Jaco Pastorius』(75) 以来、自分の音楽で6年ぶりに勝負をかけたのは『Ward of Mouth』と『Holiday for Pans』だったのであり、それがあのような扱いを受けたということは、ジャコはサイドマンとしての成功体験はあっても自己の音楽で成功したことがなかったことになる。ジャコがウェザーリポートを離れて活動を始めたとたん、ウェザーリポートがあまりにも大きな壁としてジャコの前に立ちはだかってしまったのではないか。
しかし、ここでいう成功とは主に商業的な成功である。例えばギル・エヴァンスやオーネット・コールマンのようなタイプのミュージシャンであれば、アルバムがいかに商業的に失敗しようが、それが理由でクビを切られようが、たんたんと自分の音楽を作りつづけたろう。ジャコはどうもそのようにわりきることができる人間ではなかったようだ。
そのへんにジャコと、ジャコがあこがれていたはずのギル・エヴァンスとのあいだの、人間的な差があるような気がする。