■デビューまで


 『コレクター』の油井正一氏のライナーノーツ(『ジャズ批評99 ウェイン・ショーター』の原田和典氏の文章からの孫引き)や、同じく『ジャズ批評99 ウェイン・ショーター』の大村幸則氏の文章をモトに、デビューあたりまでのショーターの経歴をまとめてみると、次のようになる。


□1933年8月25日。ニューヨークからさほど遠くない、ニュージャージー州ニューアークで生まれる。
 3歳年上の兄、アランがいて、後にトランペッターになる。(ウェインとの共演は録音されているものでは『The All Seeing Eye』の「Mephistopheles」ぐらいか)

□46年。13歳。「フットボール」という油絵をニュージャージー州の美術展に出して入賞。当時は音楽より絵画に興味を持っていた。

□48年。15歳。この頃からじょじょに音楽に興味をもつようになる。
 当時、映画好きだったウェイン少年はよく映画館に足を運んでいたが、当時の映画館では映画の合間にバンドのライヴ演奏を聴かせるパッケージ・ショーをよく行っていた。その演奏を聴くうちに、次第に音楽に興味をもっていったようだ。(なお、後に映画『Round Midnight』に出演したとき、監督のタヴェルニエはショーターの映画の知識の豊富さに驚いたという)
 またこの頃SFコミック『アザー・ワールズ』を書いて、出版している。(『Phantom Navigater』のLPの内袋でその一部を見ることができる)

□49年。16歳。ニューアーク・ハイ・スクール・オブ・ミュージック・アンド・アーツに入学。祖母にクラリネットを買ってもらい、演奏しはじめる。やがて興味の対象が絵画から音楽へ変わっていく。

□51年。18歳。クラリネットからテナー・サックスへ転向。

□52年。19歳。ソニー・スティットと共演。サヴォイ・レーベルからレコーディングの話が来るが、断り、就職。貯めた金でニューヨーク大学へ入学。
 週末にはナット・フィップスのバンドで演奏した。当時の仲間にはグレシャン・モンカー三世がいる。ジャム・セッションではレスター・ヤングや、ウォルター・ビショップ・ジュニアと共演。

□56年。大学卒業後しばらくローカル・バンドで演奏していたが、徴兵されて以後58年まで軍隊へ。陸軍に入隊し名狙撃手とよばれる。
 この頃、休暇を利用してホレス・シルヴァーと共演。カナダ・ツアーに加わり、オリジナルをいくつかシルヴァー・グループに提供。

□58年頃、ワシントンでコルトレーンの入ったマイルス・バンドの演奏を見る。コルトレーンと知り合い、以後親友に。

□59年。マイルス・バンドを脱退する決意をしたコルトレーンが、後任としてショーターをマイルスに推薦する。
 同年、夏。メイナード・ファーガソン・オーケストラに加入。ジョー・ザヴィヌルは同オーケストラの一員だった。
 この頃、ウィントン・ケリーの『Kelly Great』に参加し初録音。録音は8月21日で誕生日の4日前の25歳のとき。リリース(デビュー)は26歳になってからのことになる。
 同年、秋。ファーガソン・バンドでフェスティバルに出演中、ステージを共にしていたジャズ・メッセンジャーズのサックス奏者に穴があいた。モーガンの推薦もあって急遽ショーターがその代役をつとめ、その一回の演奏でブレイキーはショーターを正式メンバーにすることに決める。


 と、メッセンジャーズへの加入までの経歴はこうなる。

 こう見ていてわかることは、異様なまでに才能に恵まれていることだ。
 天才というのはこういうものなのかな、とも、こういう人って本当にいるもんなんだな、とも思う。
 現在も昔も、ミュージシャンとしてプロ・デビューすることを目指して身を粉にしている若者は数限りなくいると思う。その中で見事デビューを飾れる者はごく少数だ。
 しかし、ショーターは初めてテナー・サックスを手にしてからたった一年ですでにプロ・デビューの誘いがきている。その前にクラリネットを吹いていた時期を考えても計3年だ。ジャズという音楽が楽器を身体の一部のように使いこなせなければ話にならない音楽だということを考えると、まさに驚異的だ。その一年間にめちゃくちゃ練習したのかもしれないが、だからといって一年でプロデビューできるもんでもないだろう。
 しかし、そのプロ・デビューの話を自分で蹴っているところに、ショーターらしさを感じる。どうもショーターという人には、何がなんでもチャンスを掴み取らなければというハングリー精神が感じられない。かわりにあるのは、自分で納得がいく完成度に達していなければ、中途半端な形で世には出さないという完全主義的な面だ。おそらくこの頃の演奏もレコード会社から見ればデビューするに充分に思えたとしても、ショーター自身は自分の実力に納得していなかったのだろう。
 大学卒業後、兵役にとられたことは予定外のことだったと思う。それによってデビューが2、3年遅れたのかもしれない。しかし、26歳でデビューというのは、当時のジャズマンはともかく、現在の感覚からいけば、むしろ順調な出発だ。とくに単なる一演奏家ではなく、作編曲を含めた音楽活動を行っていくタイプであれば、むしろ早めのデビューといっていいのかもしれない。

 また、兵役中にホレス・シルヴァーのバンドを加わってオリジナルを提供したという話も凄い。ご存知のようにシルヴァーはジャズ界でも有数の名作曲家であり、シルヴァー・バンドのレパートリーはシルヴァー自身のオリジナルばかりだ。そこでショーターのオリジナルを演奏したということは、シルヴァーがそこまでショーターの作曲の才能を評価していたということになる。ちなみに56年といえば、ホレス・シルヴァーは『6 Pieces of Silver』を録音してた頃で、バンドにはハンク・モブレーやドナルド・バードがいた時代にあたる。

 さて、デビューしたらしたで、その年のうちにリーダー作を録音。しかもその年のうちにジャズ・メッセンジャーズとマイルス・バンドというジャズ界の二大登竜門というべきバンドの両方からお呼びがかかる……という、なんだか夢のような話である。
 現実の話だから仕方ないが、これがフィクションの人物設定だったら、こんな人間いるわけないだろうと却下されるところだろう。
 さて、ショーターの口から初めてコルトレーンのバンド脱退の意志を聞いたマイルスは驚き、ツアーが控えてるんだから、そのツアーが終わるまではいてくれとコルトレーンを引き止めにかかる(別人にバンドのレパートリーすべてをおぼえさせる時間的余裕がなかったため)。よって、すぐにはショーターのマイルス・バンド入りは実現せず、その間にショーターはメッセンジャーズ入りした。その後、マイルスがあらゆる手を使って(しまいにはブレイキーが怒りだしたほど)メッセンジャーズからショーターの引き抜きにかかったというエピソードを聞けば、この時ショーターがメッセンジャーズ入りしなければ、わりとスムーズにマイルス・バンド入りしたのだろう。
 なんとかチャンスを掴もうと必死になっているミュージシャンはいくらでもいる。しかし、ショーターの場合、チャンスなんて自分で掴もうとしなくても、チャンスのほうから何度も訪ねてきてお辞儀をしてくれるようだ。




■努力型・天才型

 しかし、これほど才能に恵まれていることが、はたしてその人にとっていいことなのかというと、疑問でもある。
 世の中を見ているとたいてい、天才型の人は早めに凋落し、努力型の人が長く頂点の座にすわり続けることが多いものだ。たぶん人生の出発点においてあまりにもうまくいきすぎると勘違いしてしまうのだろう。最初は苦労してなかなかうまくいかず、辛酸をなめた人のほうが、長い目で見ると成功している場合が多い。
 じっさい、ショーターのデビュー以後の活動を見ていても、天才型特有というべき足腰の弱さみたいなものがある気がする。つまり、なんとしてでもこのバンドを維持し、成功させなければ……というコケの一念、ガッツが感じられないのである。
 おそらくショーターには、死にもの狂いになってチャンスを掴み取ったとか、血の汗を流して成功を勝ち取った……といった経験はないか、あるいは少なかったんだと思う。そこまでしなくても、ちょっとした努力でかなりの成功を勝ち取れてしまったのではないか。ショーターには自分の地位とか立場、名声に対する執着が感じられないのだ。
 苦労してある地位を手に入れた人は、苦労したぶんだけその地位に執着するものだ。何としてでも自分が勝ち取った名声、手に入れた立場を守ろうとするものだ。
 例えばマイルスの場合、チャーリー・パーカーのバンドで幸運なデビューをかざったものの、あんな下手くそなトランペッターはやめさせろと罵倒され、その後麻薬中毒に陥るなどして、マイルスの仕事が本当の意味で軌道に乗りだしたのはコルトレーン入りのクインテットが成功してからだろう。当時マイルスはもう30歳であり、他のジャンルではともかく、当時のジャズマンとしてはもういい歳だ。
 そしてビッグ・ネームの仲間入りし、その地位の維持が自己のバンドの成功にかかっていることを熟知していたマイルスは、何としてでも自己のバンドのレベルを維持しようと努めた。自分の力で足りない時は、才能ある新人ジャズマンを引き抜いてバンドに入れるなどして、苦労してバンドの維持・管理し、自分の地位・名声を守りぬいた。地位・名声を失えば、もう思うように自分のやりたい音楽はできなくなるとの考えもあったと思う。
 しかし、ショーターのミュージシャン人生は基本的に順調で、そんなに必死にならなくても、なんとなくうまくいくんじゃないか……みたいに考えが感じられる。別に苦労してバンドの維持・管理なんてことをやらなくたって、自分の好きな音楽はできると思っている。ブレイキーやマイルスのように、自分の才能を評価してくれるバンドに入って自分の好きな音楽を作ったっていいし、それで満足できなければ自分のリーダー作を作ればいい。そのリーダー作だって、ブルーノート等自分の才能を高く評価して、好きなようなアルバム作りをさせてくれる制作会社もあるし、サポートしてくれる共演ミュージシャンにも困らない……と思っているのではないか。
 一言でいうとショーターの考えには、世の辛酸をなめた苦労人の厳しさに欠ける。それはあまりの才能のため、いままでの音楽人生でさほど苦労せずとも、周囲のほうから手を差し伸べてられてきた天才特有の甘さだ。
 しかしふつう、そんなふうに持ってうまれた才能だけで周囲のほうから手をさしのべられている状態は、そう長く続くものではない。
 たいてい世の中で天才型の人が早めに没落する人が多く、努力型の人のほうが長く地位を維持することに成功する例が多いのは、だいたいそのような理由からではないか。
 しかし、ショーターという人はそれでも没落もせず、才能と実力だけで、デビュー以来の40年以上の期間を第一線で活躍しつづけることができしまった人だ。そんなことをいうと、いやショーターだって様々な苦労はしているんだ……と指摘されそうだし、それはそうなんだろうが、例えばマイルスがバンドの維持・管理にかけた努力に比べると、そういった面にかけた苦労はずっと少ないのではないか。ショーターはどうも好きな音楽を作り出すこと、好きな世界で遊びまわることにむしろ全勢力をかけてきたような人だと思える。
 そして、それ故の確かに損もしてきているように見える。活動期間が長いわりにソロ・リーダー作が少ないのが一例で、最初はショーターを中心に始まったはずのウェザーリポートも面倒な維持・管理の作業をザヴィヌルまかせにしたために、一見ザヴィヌルにバンドを乗っ取られたような印象を与える結果になってしまっている(しかし、これはかならずしもそうではないことは別項で扱う)。つまりはキャリアに安定感が感じられない面があるのだ。
 しかし、どんなグループの名義でアルバムがリリースされたのかを考えず、ショーターが作った音楽という点で見ていくならば、ショーターは他に例を見ないほどに安定して、一貫して自分の世界を創りつづけてきた人だと思う。



04.1.26



『ウェイン・ショーターの部屋』

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