最近読んだ本について、題して『オレはこんな本を読んでるぞ』



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  SF、とSF的手法を使った日本の小説について
       (瀬名秀明『パラサイト・イヴ』を読んで)




 どうもヘソ曲がりの性格のせいか、ベストセラーっていうと読む気がしなくなるんだけど、ブームが過ぎた頃に、なんかの拍子に読むこともあって、そんなわけでいまさらながら『パラサイト・イヴ』を読んだ。
 膨大な専門的知識の記述をとっぱらってしまえば、あまりおもしろくもなかった映画『スピーシーズ(種の起源)』によく似たストーリーで、内容の噂からいうとグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』に似た話なのかなと予想していたんだけど、むしろハミルトンの「反対進化」を連想してしまった。ハミルトンが初期に書いた短編って、あまりにブッ飛んだアイデアが今読むと爆笑物になっていて、「反対進化」なんかも、当時はマジメだったんだろうけど、いまではどう見てもギャグにしか見えないところがあって、つまり『パラサイト・イヴ』もホラーというよりギャグ小説っぽく読めてしまった。(念のため言っておくけど、これは別にケナしているわけじゃない。ぼくはハミルトンは大好きだし、もちろん『パラサイト……』はまったく怖いとは思わなかったけど、もともとモダン・ホラーなんて怖いものじゃないしね。でも『パラサイト……』はやっぱりハミルトンほどは笑えなかったけど。)
 ま、そんなことよりも、けっこう考えてしまったのはSF的な手法を使った日本の小説と、SF小説との違いについてなのだ。

 たとえば、この『パラサイト・イヴ』の他に、岡嶋二人の『クラインの壺』、宮部みゆきの『レベル7』とあげていくと、SFを読んでいる人間ならたやすく原典というべきものが思い浮かんでくるだろう。『クライン……』はP.K.ディックの作品を容易に連想させるし、『レベル7』はファーマーの『果てしなき河よ我を誘え』や、もっちょっとマニアックにいくならマイケル・ビショップの短編も思わせる。
 そして、この3作に共通しているのは、原典のSFに比べて、現実世界との整合性(リアリティー)には異様なくらい気を使っているのに、それをとび越えた向こう側から逆に打ち込まれるリアリティーに乏しい所だ。
 つまり日本製の3作の堅実な設定に比べれば、たとえばディックのSFの設定なんて、かなり無理があるかもしれないし、ファーマーなんて、めちゃくちゃかもしれないし、『ブラッド・ミュージック』だってフロシキの広げすぎ……という評価だってくだせるだろう。
 けれど、たとえばディックのSFの世界は、偽装されたり、あるいは変容した現実のなかを歩いているうちに、逆にこの現実もまたそんな世界の一つでしかないと気づかされているようで、いままで確かだと思っていた足もとの地面が崩れていくような感覚(リアリティー)をかんじるけど、『クラインの壺』では偽装された現実を描いたあとで、それがどんな偽装だったのかのタネあかしをして、それでオシマイ。この現実は疑われてさえいない。
 『パラサイト・イヴ』には死んだ自分の妻とそっくりのもの(モンスター)が現れてくる場面があって、これはすぐにレムの『ソラリスの陽のもとに』にも同じようなシーンがあったことを思い出させるわけだけど、『パラサイト・イヴ』では、それは単に主人公に敵対するモンスターが、主人公の死んだ妻と同じ姿だから気味悪い……という程度のものでしかない。しかし、『ソラリス……』では、たとえその正体が人間以外の生命体であったとして、もう死んでしまった自分の愛する妻が、そのままの姿で自分の前に現れてきたときに、彼女とどう関係を切り結ぶのか、殺してしまうのか、いやたとえ正体が何であって愛する者として扱うのか……といった問題が立ち現れてくる。
 『ブラッド・ミュージック』でも人間の形が細胞のレベルから崩れ、変わっていくときに、そもそもの人間という種の、不完全なものにしかすぎないかもしれない存在形態に逆に気づかされる視点が感じられるのだけど、どうもこういった視点が『パラサイト……』には感じられない。
 これはひょっとしたらぼくの個人的な感想でしかないのかもしれないけど、原典となった海外SFの方には現実=常識を飛び越えた設定の内に、そんな現実=常識の枠を壊すようなリアリティーといったものが感じられるのだけど、日本製の小説のほうではリアリティーはあくまでこの現実=常識の枠内にあって、この現実=常識の感覚はビクとも揺るがない。
 つまり、日本製の小説がストーリー=設定の説明を辿っただけで終わっているのにたいして、原典のSFではそこから先、つまりそのストーリー=設定の内から人間を逆に見直し、あるいは批判するような視点があるように感じる。そして、じっさいのところ、ほんとうにおもしろいのはそこなんじゃないかと思うんだ。

 もちろん『クラインの壺』や『レベル7』は、ミステリなんだからこれが限界という理由もあるだろう。けれどこの『パラサイト・イヴ』に関していえば、ホラーなんだし、ここまで来たらあとは何でもアリなはずだ。それがなんで、前半は細かすぎるぐらいに慎重に進んでいって、いよいよモンスターが姿をあらわした途端、いきなり尻すぼみになって、たいした発展もなく『スピーシーズ』に終わってしまうのか、ぼくにはよくわからなかった。
 これは日本の小説をとりまく風土がそうさせるものなんだろうか。
 とはいえ、楳図かずおというマンガ家もいることを考えると、かならずしも日本人の気質だからとは思えないんだけど。

 ふと、楳図かずおって、キングやクーンツがタバになってかかってもかなわないくらいのホラー作家ではないか……と思ったけど、キングやクーンツって、そんなにたくさん読んでいるわけでもないんで、やめておこう。(97,7,10)


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  相部和男『こんな親が問題児をつくる』(講談社文庫)


 ぼくは親でもないし、基本的にこの本とは何の関係もない立場の人間なわけなんだけど、ただなんとなく古本屋でペラペラとページをめくっているうちに興味をひかれて読んだんだけど、これはおもしろい。
 「非行を防ぐ第一歩は、生徒に教室内で自由にタバコを吸わせること」……こんな提案どう思うかな? 教室内で生徒にタバコを吸わせた教師なんかいたら、問題教師だってことでTVニュースで、したり顔のニュース・キャスターが「いま学校は危機ですねえ」なんてコメントを出しそうだけど、数十年にわたり一万人もの非行少年とカウンセリングしてきた作者のセリフには重みがあって、理屈もしっかり筋が通ってるんで、この本を読んだらだれでも必ず説得されるんじゃないかな。そう。タバコくらい生徒に自由に吸わせるようにしないと、きちんとした教育なんてできないんだよ。それを知るためだけでもこの本を読む価値はあるんじゃないかな。
 その他、なるほどと思える盲点のような指摘が多くて、別に問題児を持つ親じゃなくても、いろいろと得るものの多い本なんじゃないかと思う。(2/4)


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  佐和隆光『経済学とは何だろうか』(岩波新書)


 これは経済学の本じゃなくて、題名どおり経済学というのがどんなものなのかという本。これから経済学を勉強したいという人より、ぼくみたいに別に経済学をやったことはないし、これからやる気もないし、でも、経済学なんてしょせんこの程度のものなのさ、ワッハッハ……と、ほがらかに笑いたい人間に向いた本だと思う。
 この本を読んでいると、現代の経済学なんてものが、価値のあるものなんて何も生み出さない膨大な無駄な努力のシステムに思えてきて、こんなことならマルクスだのケインズだのといった古典でも読んでたほうが、ずっとマシなんじゃなかろうかという気になる。といっても、あの膨大なマルクス全集だの、難解だというケインズなんてのを読む気もないんだけど……。
 ま、1982年に書かれた本なんで、その後、経済学がどのように発展したのかはわからないんだけど、しかしこの本を読んだかぎりでは、経済学なんてものが、その後多少改善されたとしたって、それほど大したものになったとは到底思えない……という感想を抱かせる本であった。
 間違っても大学の経済学部なんてのに行かなくてよかったと思った。(2/4)


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  白川静『孔子伝』(中公文庫)


 これも、こっちの方面ではけっこう有名な本らしいんだけど、いままでこっちの方面にあまり興味のなかったぼくとしては今まで知らず、今回ふとしたきっかけで読んでみたもの。しかし、これはとてもおもしろい本で、孔子という人間にたいする印象がずいぶん変わった。
 これほど後世に影響を残したのだから、孔子という人はさぞエラい先生だったのだろうと思っていたのだけど、実はそうでもなく、この人は学問で身を立てようと志したはいいが、けっきょく何やかんやで一度もマトモな仕官ができないまま終わった人なようで、つまりは死ぬまで万年就職浪人だったような男だったようである。
 四十歳頃から教団をつくり、弟子はけっこういたようだが、孔子の教えを完全に理解できた弟子は顔回ひとりだけだったようで、つまりはあまり優秀な弟子にも恵まれてなかったようだ。そんなわけで、孔子自身は教団を顔回に継がせようと思っていたのだが、その頼みの綱の顔回は若くして孔子より先に亡くなってしまった。この時、孔子教団は自分一代かぎりで終わりだと覚悟したらしく、じっさい孔子の死後は弟子は四散してしまったらしい。
 つまり、教団を継ぐ者もなく、論語は後に編集されたものだから、孔子本人は何ら著作を残したというわけでもなく、つまりはどっからどう考えても、とうてい後世に名を残すはずのない人間だったようだ。そういうと、イエス・キリストだって絶望的な状況で亡くなったじゃないかと思う人もいるだろうけど、若くして劇的に死んだイエスにくらべて、年老いて何も残せず、平凡に死んでいった孔子は、はるかにみじめだ。
 作者の視点はこの孔子につかず離れずのいい距離を保っていて、例えば万年就職浪人でマトモな仕官ができなかったことは孔子にとってむしろ幸運なことで、仕官して地位や権力を持つようなことになったら、たぶん腐敗して後世に名を残すことなどなかったろうという指摘はなかなか辛辣だ。
 孔子以外の『老子』『荘子』『墨子』『韓非子』……などの位置関係がわかったことも、よく知らなかっただけにおもしろかった。
 孔子やら論語やらにたいして興味のない人でも、一度かるい気持ちで通読してみるとおもしろいと思う。(2/4)


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  レイモンド・カーヴァー誤読


 さほど村上春樹の愛読者でもなく、私小説的なアメリカ小説にはあまり興味のないぼくとしては、レイモンド・カーヴァー作・村上春樹訳の『ぼくが電話をかけている場所』なんて短編集はまったく興味外だったんだけど、ふとしたきっかけで読んでみたところ、思ったやり面白い読み物であった。なかでも読み物は「ダンスしないか?」だろう。
 「ダンスしないか?」のおもしろさは、“屋外家庭”というアイデアにつきる。おそらくこのアイデアの出所はキリコの絵画(筆者はあいにくタイトルを忘れてしまったが、屋外に椅子やテーブルやタンスが置かれた絵)だろう。主人公の男は自分の家の家具をすべて庭に持ち出すことによって、つまり道端に家庭の居場所を移すのである。
 しかし惜しむらくはこの屋外家庭のアイデア、日本では映画『逆噴射家族』のラストシーンによってすでに再利用されてしまっている。作られたのはおそらくこちらのほうが先なのだろうが、現在翻訳で読むとすると、いささかオリジナリティの薄さをかんじてしまうのは残念である。
 しかし、そのことを考慮にいれても、この作における道端家庭は、『逆噴射家族』の橋の下の家庭以上の意味がある。つまり、この家庭に侵入するアベックという他者の存在だ。場所が道端である以上、この家庭への他者の侵入は、家庭の居場所が移された時点で考慮に入れられるべきものである。そしてこの他者の家庭への侵入という事態が、小説に新しい可能性を与えている。しかもこの他者であるアベックは、この男の家庭の家具であるベッドで愛の営みをはじめるというシーンまで出てくる。ここまでくるとここに新しい屋外家庭の可能性を見出さずにいることはできない。
 つまり、われわれはここに、この男によって屋外に持ち出された家庭の居場所に、新しい家庭の萌芽(アベック)が根付く(一時的にしろ)のを見るのである。そしてそれは家庭環境を共有する男との関係の萌芽でもある。つまり、われわれはここに核家族マ家庭崩壊の次の展開として、道端における屋外家庭環境と、そこに侵入した者たちによって築かれる道端家庭という存在の萌芽を見ることがでるのである。
 けれど、この小説はそのようなテーマを追求することなく、小ぎれいに終わってしまう。

 作者の興味はべつの部分にそそがれているのであり、作者はこの小説のこのような楽しみ方はまったくねらって書いてはいないのではないかという明白過ぎてつまらない事実については考えないでおくことにしよう。(3/6)


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  広瀬正『マイナス・ゼロ』『鏡の国のアリス』『T型フォード殺人事件』(集英社文庫)


 なぜか今まで読んだことのなかった広瀬正を三冊続けて読んだ。
 『マイナス・ゼロ』は過去の風物等が細かく書き込まれている所が魅力的だと聞いていたのだが、既に大岡昇平の『少年』や『幼年』を知っている目で見てみると、そのへんの部分はそれほど魅力的とは思えず、むしろストーリーや語り口にひかれて読んだ。そのような見方をすると、少しモタつく所はあるが、よくできた小説というかんじがする。
 ラストでタイム・パラドックスもののようになってしまう所は、おもしろいといえばおもしろいともいえるのだけど、この小説のカラーからいくとちょっと残念のような気がする。クライマックスは登場人物の内面の動きなどに持ってきたほうが、この小説には合っているんじゃなかろうか。ふと、シマックの『中継ステーション』を懐かしく思い出して、あんなふうに持っていくことを考えたほうが良かったんでは……などと思ったりもした。  『T型フォード殺人事件』は作者の遺作とかで、ずっと上手くなっている。ミステリとしての仕掛けの部分はたいしたことはないのだが、犯罪にいたるまでのストーリーの描き方などが魅力的で、個人的にはこの三つの中でいちばん好きだ。
 この作家の魅力は、良くも悪くも“おとなしめ”のストーリー展開と、安定した語り口にあるのだろう。『鏡の国のアリス』も、じつはまったくつまらない話だとは思うのだが、読んでいる間は、語り口にひかれでどんどん読み進んだのだった。若死にしたのが残念な作家だったという評価には同感。


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  『ルイス・キャロル詩集』(ちくま文庫)


 古本屋で見つけるまではこんな本が出ていることも知らなかったのだけど、内容は初期から(ルイス・キャロルが十三才の時のものから)晩年までの独立した詩を集めたものと、『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』『シルヴィーとブルーノ』から、詩の部分だけを抜き取ったもの。それに『スナーク狩り』の全編(だと思うけど、本当はこれに序文がつくらしい)。
 読んでみて、ルイス・キャロルって、けっこうぼくと発想が似ているんじゃないかと、へんに親近感をおぼえる所が多かった。
 じつは『スナーク狩り』を読むのはこれが初めてで、──『ヘラーク狩り』なんてパロディの詩を書いたのだけど、じつは『スナーク狩り』という題名だけ読んで持ってきたもので(なんていい加減なんだ!)──だいたい『スナーク狩り』が長編詩だとは知らなくて、『……アリス』みたいな童話(小説)だろうと思っていたんだけど、読んでみると、パロディのつもりだった『ヘラーク狩り』とけっこう発想が似ていて、マズいな……などと思ったりもした。「火を点けるのに役立つ」という所は素晴らしい!
 二つの『……アリス』がアリス・リデルという女の子への熱烈なラブレターだったんだな……ということもあらためて実感した。アリスと一緒に舟遊びをしたときに話した話を書いたという『不思議の国のアリス』が二人の蜜月時代のラブレターなら、その後、会えなくなって七年後に書いた『鏡の国のアリス』は失ってしまったアリスにたいする悲痛なラブレターだ。ここに収められている『鏡の国のアリス』の序文の詩を読むと、そんな気持ちがひしひしと伝わってくる。(考えてみれば『鏡の国のアリス』のラストでは、アリスは女王になるんだったな……)
 原文と並記という方法はすごくいい。この手の詩はだいたい原文を見てみたくなるし、そもそも外国の詩の詩集はみんな原文と並記にしてもらいたいものだとぼくは思っている。注釈が丁寧なのも嬉しい。ただ、長い年月にわたって書かれた、いろいろな詩を集めたものだけに、もっと丁寧な解説があったほうがよかったかな……というのと、やや古風な言いまわしの多い訳文が目立つのが、この本に感じた不満だった。

 それにしても、この『ルイス・キャロル詩集』を読んではじめてわかったのは、ルイス・キャロルの詩や文章は、ほとんどがパロディを意識して書かれたものだということだ。『スナーク狩り』や「ジャバーウォックの歌」とかは古くからある怪物退治の物語のパロディだってことくらいはわかるけど、ワーズワースの詩のパロディやら、当時有名だった教訓詩のパロディだとかは、これで説明されるまでわからなかった。『アリス』を読んだ時に、面白い反面、けっこう退屈にかんじた部分もあったのは、翻訳で読んだんで日本語にならない部分があるからだと勝手に思いこんでたけど、それよりもパロディの原典を知らないもんで、何をやったのかわからないでいたということが大きかったんだなあと気づいた。
 こんなことなら、『アリス』なんて、大人になってから読む人間だってけっこういる本だろうし、そのへんの脚注もいっぱいつけた『アリス』をどっかの出版社が出してもいいんじゃないかと思ったんだけど、もしかしたらもうどっかで出しているのかな。


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  井沢元彦『言霊(ことだま)』(祥伝社・NON POCHETTE)


 これは日本人の必読の本の一冊ではないだろうか。
 書名だけ見ると伝奇的な世界の本のように思えるかもしれないが、これはきわめてリアリスティックな日本人論だ。
 つまり、日本のマスコミの差別用語の言葉狩りや、日本の教科書における、侵略を進出などとする言い換え、さらにはいつまでたっても進まない日本の役所の情報公開や銀行の不良資産隠しなどといった事例を、平安時代からずっと日本人のなかで意識されないまま信仰されているコトダマ信仰。つまり、言葉を使わなければ無いことになる。言葉の上で無いことにしてしまえば、無くなるんだ──という信仰からきているものだと、さまざまな例を上げて説明していくのだ。
 これと対置するのは、言葉で言っていればそれが実現するんだという、やはりコトダマ信仰であって、その例として、みんなで集まって平和だ平和だと言っていれば平和が訪れると思っている、ほとんど大昔の雨乞いと同じセンスの日本の平和運動などがあげられている。
 一気に読める本なんで、騙されたとおもって読んでみるべきだとおもう。
 日本では他人と違った自分の意見をいうと、それを一つの意見として扱ってもらって、きちんとした反論をされたり、論理的に誤りを指摘されたりすることは絶対になく、そんな意見を言うのが悪いとか、そんな意見を言うお前の態度が悪い……などとほとんど論理も何もない言いがかりをつけられたり、その集団からつまはじきにされたりする──などという部分は、何度も経験があるだけに実感する。ぼくはそれは単に日本人は他人と議論する訓練を教育のなかで受けていないからこんなことになるんだと思っていたけど、作者は、これも言葉をたんなる言葉として受け取れない日本人のコトダマ信仰の一例だという。
 これだけ豊富な例をあげて説明されると、これはかなり根の深いものだと実感されずに はいられない。


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  サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』(ハヤカワ文庫)


 ついにというか、ようやくというか、忘れた頃に……というか、まだ忘れてなかったの……というか、ふと本屋を覗いてみたら、ディレイニーの『アインシュタイン交点』がハヤカワ文庫から出ていた。
 それにしても、またしても売れそうにない表紙だ。まえの『ノヴァ』も、まるで古くさいハードSFみたいな表紙だったし、『バベル17』も嫌な表紙だったし、ハヤカワ文庫から出るディレイニーにいい表紙はないって法則でもありそうだ。いったいハヤカワはディレイニーを売りたくないのかと思ってしまう。それを考えるとサンリオから出てたディレイニーの本の表紙はみんな良かったな……と思ってしまう。とくに、もはや門外不出の品にするほかなくなってしまった『時は準宝石の螺旋のように』とか。……ま、こんなのは感覚的な問題なんで、ぼくだけの意見なのかもしれないが。
 ハヤカワ書店がどんなふうにしようと、ぼくには関係ないのだけど、ディレイニーはぜひとも売れてくれて、『ダルグレン』以降の小説も次々と訳されてほしいと思っているだけに、ふとそんなことを考えてしまった。
 それにしても、こんなに薄い『アインシュタイン交点』でも、これだけの時間がかかるんだったら、あんなに分厚い『ダルグレン』以降の小説は、いったい何十年かかるんだろう。それとも、『ダルグレン』からは作風を変えているらしいんで、『アインシュタイン交点』のようには時間はかからないんだろうか。
 どうも飽きっぽい性格なもんで、分厚い本は洋書では読む気がしないんで(たいがい、おもしろい本でもあっても途中で飽きる)、邦訳を待ってるんだけど、しばらくの間は望み薄かなあ……。

 ということで『アインシュタイン交点』を読んでみると、『ノヴァ』が単なるよく書けたスペース・オペラだと誤読できるように書かれているようには、『アインシュタイン交点』は普通の冒険SFと誤読することはむずかしい小説だと思えた。つまりは、ぼーっとして読んでいても、内容の重層性に気づかずにはいられない書き方をしていると思う。『ノヴァ』の時は買ってすぐに一気読みしたが、今回はけっこう時間をかけて読むことになった。冒険SFだと思って一気に読んだなんていう人間は、そうとうぼーっとし過ぎている人間なんじゃなかろうか。もっとも、これは作品そのものの差というより、時間をかけた翻訳の成果なのかもしれない。洋書の古本屋で探して両方とも原書はもってはいるんで原文で少し読みくらべてみるのがいいんだろうけど、ぼくの英語力で、そのへんの「感じ」がつかめるほどに読めるかは疑問だ。
 『アインシュタイン交点』は、おもしろいことはすごくおもしろいのだ。傑作だと誉めてしまうこともやさしい。しかしみょうな疑問を抱かせてくれる小説である。解説等でも意味の重層性などが説明されているが、こんなに重層的、重層的といわれると、いままでディレイニーの小説のそういった部分を楽しんできたはずのぼくでも、そもそもこれほどに意味を重層的にする必要がなぜあるのだろうと疑問を抱いてしまう。花田清輝の『復興期の精神』みたいに検閲に引っかかるのを避けるためなどの理由があるわけでもないし。
 しかし、SF的な道具立てを象徴的に使おうとするなら、内容が重層的な意味あいをもってくるのは必然的名事で、もしそうなら、SF的道具立てで深い内容を書こうとしている作家が必ず向かっていく方向性なのかもしれない。ディックの小説だって、重層的な意味をもっているとはいえるのだ。しかし、ディレイニーには精緻なぶんだけ、ディックのように直接的には訴えてこなくて、しかし心の奥でくすぶってくるものがある。ぎゃくにいえば、このくすぶりつづけていて容易には説明がつかないところがディレイニーの魅力といえるのかもしれない。効果的であるためには結末は曖昧でなくてはならないと、ディレイニーは文中に挟み込んだ文章のなかでもいっている。
 いままで単純にディレイニーが好きだったが、みょうにいろいろと考えさせられてしまった作品だった。


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  吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』(講談社ブルーバックス)


 もともと数学的考え方というのはけっこう好きだったし興味もあったのだけど、しち面倒くさい計算が大の苦手だったもんで、数学をあまりきちんと勉強しようという気にはならなかった。
 その後、個人的に、もうちょっと数学を知りたいな……と思った事はあったんだけど、専門的な本は難しすぎたし、シロウトにもわかるように書いてある本は、あまりにもシロウトにもわかるように、難しい過程は省略して、答えだけ書いてあるような感じの本が多いもんで、たいがいこういったものはいくら難しくても過程が面白いのであって、答えだけ書かれても面白くもなかったし、わかったような気にもならなかった。
 そんなわけでふと読んだこの本は、シロウトにもわかるように、しかしシッカリと過程も書いてあって、ぼくのような人間には最適の本だった。数式は出てるのだけど、数式を使った数学的な説明は全部読み飛ばしてもわかるように書かれてあって、まず本文を読んで考え方を理解した上で、数式を使った説明のほうも興味がある人はお読みください……という感じだ。だいいちにこういった書き方がすごく心地よかった。
 題名のとおり、ゲーデルを中心に扱った本なのだけど、この本は、なぜゲーデルがそのような問題に取り組んだのか、その流れを遡る形で、カントール、ヒルベルト、ゲーデルという三人を扱う内容になっている。たしかにゲーデルという名前は哲学やらいろいろな方面からキャッチャーな名前で、ぼくもその名にひかれてこの本を手にとったのだけど、いままでゲーデルの話をきいてもあまりよくわかった気にならなかったのは、ゲーデルがどんな流れの中で出てきたのか知らずに、ゲーデルだけの話を聞いていたから……という部分があったので、このような流れをおった書き方はとてもわかりやすくて、うれしい。
 けれど実は、ぼくがこの本を読んでいちばん面白かったのは、ゲーデルについて理解できたという点ではなく、このように流れを追って書かれると、数学というのが一つのフィクションであり、小説やらマンガと同じようなストーリーなのだという事が、何の理屈でもなしに実感として感じられてくるという点だった。
 そして、数学のストーリー・テラーというべきこの三人の数学者のなかで、なんだかカントールという人がすごく魅力的に見えてくる。いままで、無限を一つの単位として扱った人……というくらいの知識しかなかったけど、こうして読んでみると、なんだか破天荒におもしろいストーリーを作る人だったようだ。
 無限個の部屋のあるホテルが満員の時、新しい客が来たら、どうやったら泊まれる……なんていう例え話なんか、もしかしたら数学をちゃんと勉強した人は誰でも知ってるような話なのかもしれないけど、おもしろかった。
 ゲーデル抜きで、このカントールの部分を読むだけでも、けっこう面白くて有意義な本だとおもう。


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