ブログ〜ワーグナーについて2







■ワーグナー『ローエングリン』


 本などでみると、ワーグナーのこれまでの3作、『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』は習作とはいわないまでも、ワーグナーが自己の個性を完全に完成させる前の作品で、次の『トリスタンとイゾルデ』以後(作曲順でいえば『ラインの黄金』以後)がワーグナーの絶頂期の作品群とされています。
 それも間違いとは思いませんが、当時(19世紀)のワーグナー作品の人気の点でいえば、むしろ『タンホイザー』とこの『ローエングリン』あたりが最も人気があった作品だそうです。
 とくにこの『ローエングリン』は熱狂的なファンも多く、ワーグナーの最大のパトロンだったルードヴィッヒ2世もこれが一番好きで、主人公のコスプレなどをして楽しんでいたそうです。そのへんは現在の秋葉原あたりのオタクとやってることは同じですが、さらにノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)なんて名前の城まで作り、それが現在もドイツの最大の観光地の一つになっているなどと聞くと、やはり同じオタクでもスケールが大きいオタクですね。
 ヴィスコンティの『ルードヴィッヒ』に、洞窟のなかに湖があり、そこに白鳥が泳いでいて、その白鳥が舟を引いている……という場面がありましたが、あのときは何のことかわからずに、でも印象には残っていたんですが、あれも実際にルードヴィッヒが造ったもので、洞窟は『タンホイザー』のヴェーヌスブルクを模したもので、湖に泳ぐ白鳥と舟はとうぜんこの『ローエングリン』を模した、いわば大型のフィギュアのようなものだったんだと、ワーグナーを聴きだして初めて理解しました。『ルードヴィッヒ』もまた観返したくなってきました。

 この『ローエングリン』は序曲がいいですね。神秘的な静けさの向こうから何かがやってくるような、どこか崇高さを感じさせる響きがあります。
 けれど、ワーグナー作品のなかではめずらしく、序曲から第一幕の冒頭へはスムーズに流れていかないんですね。もっと初期の『さまよえるオランダ人』でも序曲の海の嵐の感じがそのまま第一幕の冒頭へとつながって、一気に劇中の場面に引きずりこまれる効果を出していたのに、この作品では第一幕が始まるとあきらかに音楽が変化して違う情景を描き出してしまいます。
 言うまでもなく、序曲は白鳥の騎士・ローエングリンの登場のシーンの音楽が基調になっているわけです。ここを序曲にも使いたかった気持ちはすごくわかるいい雰囲気の音楽ですが、どうなんでしょう、音楽の流れを大事にするワーグナーとしてはかなり悩んだような気もするんですが。
 それにしても「白鳥の騎士」というのはすごいですね。日本の少女マンガでは「白馬の王子様」というのがありますが、「白鳥の騎士」ははるかにそれを凌駕している気がします。そもそも「白馬の王子様」なんているわけない日本の少女にとっては、この程度でも充分にロマンティックな理想像になるのだけど、本物の「白馬の王子様」なんて近所にいてもおかしくない当時のヨーロッパの人々にとっては、「白馬の王子様」程度ではロマンティックな理想像にはなりえないからなのかもしれません。
 やっぱ、こういうのはへんにリアリティがあっちゃ、いけないんでしょうね。


2006.2.17



 
■ワーグナー『ニーベルングの指輪』


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 ワーグナーの『ローエングリン』の次の作品は何かというと、初演の順でいけば『トリスタンとイゾルデ』、作曲順(完成させた順)でいえば『ラインの黄金』、台本を書いた順でいえば『神々の黄昏』となります。
 ワーグナーは『ローエングリン』の後に『ニーベルングの指輪』にとりかかり、この『ニーベルングの指輪』は台本は後から順に、つまり『神々の黄昏』、『ジークフリート』、『ヴァルキューレ』、『ラインの黄金』の順に書かれ、作曲は最初から順に、『ラインの黄金』、『ヴァルキューレ』と書かれ、そして『ジークフリート』の二幕の途中まで書かれたときに中断されて『トリスタンとイゾルデ』と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が書かれ、その後で再開されて『ジークフリート』の残りと『神々の黄昏』が作曲されたというのは有名な話のようです。
 ワーグナーの作品を順に並べる場合、一般的には初演順で『トリスタンとイゾルデ』とするのが普通で、『ラインの黄金』や『神々の黄昏』は四部作まとめて『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の後の作品という順で書かれているのが普通のようです。が、初演の順というのはあまり意味がないような気がします。
 例えば小説を読む場合、一人の作家をきちんと読もうとするなら、その全作品を書いた順に読むのがいちばん良い読みかたなわけですが、それは書いた順に読むことによって、その作家がどのように自分の手法やテーマを深めていったか、ある作品を書くことによって、そこから何を得、何を考えて次の作品に生かしていったかなどを読みとることができるからだと思います。
 それを思うとやはり、作った順でみていくのが一番の気がします。実際、台本でみていったときには『ローエングリン』の後には『神々の黄昏』が書かれたとみたほうがわかるし、作曲の順でいけば、やはり『ヴァルキューレ』は『トリスタンとイゾルデ』より前の作品だと実感できます。

 まず台本のストーリーをみた場合、『ローエングリン』と『神々の黄昏』とは、ちょっとスチュエーションが似てる気がするのです。かたや遠くから白鳥の騎士がやってくる話であり、かたや遠くから英雄ジークフリートがやってくる話です。その後の展開は大きく違うわけですが、共通する物語構造があるのです。
 そう思うと、『タンホイザー』だって遠い場所からタンホイザーが帰ってくる話であり、『さまよえるオランダ人』だって遠くの海からオランダ人がやってくる話です。
 つまり台本作家としてのワーグナーは『神々の黄昏』まで、遠くからある特殊な人物(伝説の英雄や白鳥の騎士など、ヒーロー的人物)がやってくる話ばかり書いていたことになります。なにかそういうストーリーがワーグナーの心情にフィットするものがあったのでしょう。
 そしてジークフリードのそれ以前を描いた『ジークフリート』で初めてそのパターンから脱するわけですね。そして『指輪』以後の作品もそういうパターンの話ではなくなります。
 また、『指輪』を後から順にみていくと、台本作家としてのワーグナーのファンタジックな想像力の翼がぐんぐん広がっていっているのが感じられます。『神々の黄昏』ではまだ英雄が訪れた場所での人間たちの心理ドラマが中心で、非現実的な要素は背景としてある感じです。それが『ジークフリード』になると英雄と竜との対決など大がかりなスペクタクル感のあるシーンが登場し、『ワルキューレ』では天馬に乗った美女が空を駆けだし、『ラインの黄金』にいたってはついに全編が異世界の話となり、人間界の話は登場しなくなります。
 そして、このあたりが台本作家としてのワーグナーのロマン派的なファンタジックな創造性のピークだったようです。これ以後の作品はこんなふうにファンタジックな内容ではなくなり、より現実的になっていきます。
 音楽的にいうと、やはりぼくは『トリスタンとイゾルデ』がワーグナーにとっての大きな転換点だったように思うのです。『トリスタンとイゾルデ』以前の『ワルキューレ』は、『ローエングリン』から続く単純なわかりやすさがある音楽で、その単純な和音とわりにポップなメロディがこの作品の人気の理由ではないかと思います。それが『ジークフリート』の、とくに三幕めあたりから『神々の黄昏』となると、これは『トリスタンとイゾルデ』以後の音楽だな、という気がするのです。


 
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 『ニーベルングの指輪』を作り上げるのにワーグナーは26年かけたそうです。『ローエングリン』の次作としてとりかかり、しかし、あまりに壮大な作品のために完成しても上演することができないと断念し、中断して『トリスタンとイゾルデ』と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を作り上げ、結局、ルードヴィッヒ二世の全面的なバックアップを受けることによって構想どおりに完成、上演のために専用の劇場(バイロイト祝祭劇場)を建ててもらって上演したわけです。(ルードヴィッヒ二世はルキノ・ヴィスコンティの映画『ルードヴィッヒ』で描かれている人ですね)
 さて、ワーグナーが完成に26年をかけ、上演には専用の劇場を建てられたというこの『ニーベルングの指輪』という作品への厚い扱われかたは、どこに由来しているのでしょうか。

 さて、ドイツには13世紀に成立した叙事詩『ニーベルンゲンの歌』がありますが、『ニーベルングの指輪』はこれが元ネタではありません。『ニーベルングの指輪』の素材として使われたのは『エッダ』です。しかし、ストーリー的には『ニーベルングの指輪』は『ニーベルンゲンの歌』と重なるような部分があり、そもそも『エッダ』と『ニーベルンゲンの歌』には重なるような部分があるのです。
 ちょっとややこしいのですが、石川栄作の『「ニーベルングの歌」を読む』(講談社学術文庫)をぱらぱらと拾い読んだかぎりのことを説明しておきます。
 もともと、このストーリーの元となったジーグフリードの婚礼と死の話は、五世紀ごろのゲルマン民族の大移動の頃にはもうあった伝承だそうです。その伝承が、他の伝承と繋ぎ合わされたり、さまざまに変化した後、13世紀頃のドイツで、当時の騎士道物語的な趣味によってふくらまされて叙事詩として成立したのが『ニーベルンゲンの歌』だそうです。
 一方、『エッダ』というのは「北欧神話」と言われるとおり、アイスランドに伝わっている神話・伝承を集めたものですが、アイスランドまで移動してきたゲルマン民族に伝わっている伝承の一つとして、このジークフリードの伝承もあるようです。もっとも名前は「ジークフリード」ではなかったりするようですが。
 さて、ではワーグナーはなぜドイツに伝わる『ニーベルンゲンの歌』ではなく、『エッダ』のほうを素材としたんでしょうか。
 たぶん『ニーベルンゲンの歌』と『エッダ』の一番の違いは、神話の部分ではないかと思います。
 『ニーベルンゲンの歌』は成立当時の騎士道趣味によってジークフリードの英雄性がかなり強められているそうですが、つまりは「英雄伝説」であって「神話」ではないのです。
 一方、『エッダ』はそもそもワーグナーらドイツ圏の文化の産物ではないのですが、実はこれはゲルマン民族(アングロ・サクソンまで含めても)に残っているほぼ唯一の神話なわけですね。
 ゲルマン民族の大移動で彼らがヨーロッパ全域に移住してきた後、しかしそこにキリスト教が入りこみ、早くからキリスト教化されていた地域はもともとのゲルマン民族の文化は破壊されて神話も残らなかったわけです。「ニーベルングの歌」のモトになった伝承は神とは関係のない話だったので、かろうじて残ったのかもしれません。
 そして遅れてキリスト教化された北欧にのみ、かろうじて神話が残されました。それが『ニーベルングの指輪』の題材となった『エッダ』なわけです。(ところで、余談ですが、ぼくは「北欧神話」と聞いていままでなんとなくフィンランドとかノルウェーとか、あのへんを想像していたのですが、アイスランドとは、それどころじゃなくて、そうとう北ですね)
 このへん、日本には『古事記』のような自分の民族の神話が残っているので、ぼくら日本人はそれが当たり前のように考えがちなのですが、世界的に見てみると自分の民族の神話が書物として残っている民族というのは、そう多いわけでもないようですね。
 大航海時代に入るとゲルマン民族は世界中の民族の文化を破壊し、虐殺・征服を繰り返しながらキリスト教を布教していくわけですが、ゲルマン民族自体もキリスト教によって半ば文化を破壊されているわけです。

 ワーグナーが、わずかに残された自分の民族の神話を題材として(正確にいうと、ドイツあたりのゲルマン民族と、北欧のゲルマン民族を同じ民族といってしまっていいのかわかりませんが)、26年の時間をかけてこれほどの大規模なオペラを作り上げるというのは、たぶんキリスト教文化に対し、自分の民族のもともとの文化を高く掲げようとするワーグナーの意志があったような気がしてきます。
 『ニーベルングの指輪』の第四部のタイトルは「神々の黄昏」です。この「神々」という言葉、日本は「八百万の神々の国」なんで、日本人はふつうに受け止めますが、キリスト教徒にとっては神は唯一であり絶対なものなので、「神々」と複数形で書かれただけで異教の香りを感じたはずです。
 そして、前にも書きましたが中世以来ヨーロッパでは異教を信仰している者は、バレたら処刑されるのが普通です。同じキリスト教でも異端を信仰していれば虐殺された社会ですから。ワーグナーの時代にはさすがにそんなことはないでしょうが、それでもキリスト教の影響は相当強かったはずです。
 当時のヨーロッパの人々はこの『ニーベルングの指輪』に、危険な香りを感じたかもしれません。


2006.2.19-21



 
■ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』


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 ワーグナーの先駆者については書いたので、こんどは後継者について書いてみます。
 ワーグナーの後継者って誰なんでしょう。たしかにワーグナーが音楽界全体に強い影響を与えたことはわかるんですが、直接の後継者というと、誰なんでしょう。
 ドイツ語圏でワーグナーへの強い敬意を表明している直接の後継者というと、ブルックナーとか、『ヘンゼルとグレーテル』のフンパーディンクとかになるんでしょうか。でもヘンな感じもしていたのです。なんで交響曲ばかり作曲してオペラを書かなかったブルックナーや、メルヘンのオペラ一曲で名を残しているフンパーディンクくらいしかいないのか。もっとワーグナー型のオペラを次々と書いたような後継者らしい後継者がいてもよさそうな気がしたのです。しかしオペラを次々に書いた人というと、ぐっと下ってリヒャルト・シュトラウスを待たないと出てきません。
 と思って本をみていると、たしかにワーグナー以後、ワーグナーのような大作オペラを書く人が次々と出てきたのだけれど、どれもワーグナーのデキの悪い亜流以上のものではなく、それらのオペラは現在までにすべて忘れられたんだそうです。その反動としてメルヘンを題材にした小型のオペラが流行ったそうで、その代表作でかろうじて残っているのが『ヘンゼルとグレーテル』だとか。
 ……そう聞くとなんとなく分かったような気もします。つまり、ワーグナーの足跡があまりに大きすぎて、同じことをやろうとした人はすべて消えてしまい、オペラではなく交響曲という方法をとったブルックナーとかが、結局いちばん大物の後継者みたいなかんじで名を残しているということでしょうか。
 つまり、影響を受けるというのはどういうことなのかというと、たんにその先駆者と似たものを作ろうとしているだけでは亜流・マネでしかなく、影響を受けつつ、それを自己のなかで消化して、その先駆者とは別の自分の方法を見出すことこそ、いい意味で「影響を受ける」ということなのではないでしょうか。
 そう考えてみると、ワーグナーの後継者として、ドビュッシーの名が浮かんできました。
 実はさいきん『ペレアスとメリザンド』を聴いたのですが、これが予想以上にすごく良かったのです。それにワーグナーの影響を感じました。もちろんやっていることはワーグナーとはまったく別です。ドビュッシーの自己の方法につらぬかれています。でも、それと同時にこれは『トリスタンとイゾルデ』や『パルジファル』の延長線上にあるオペラという感じがします。とくに『トリスタンとイゾルデ』と共通性がありますね。
 実際、しらべてみるとドビュッシーは若い頃ワグネリアンで、バイロイト詣でも二年連続で行っているとか。『ペレアスとメリザンド』の作曲中もつねに『トリスタンとイゾルデ』や『パルジファル』を念頭におき、それと似ないように、同じ音楽ではなく、その先の音楽を生み出すことを心がけながら作曲していたんだそうです。
 たんに個人的な趣味・嗜好で、ワーグナー以外のオペラでどれが好きかと聞かれたら、いまのところこの『ペレアスとメリザンド』にまず最初に指を折ることになりそうです。全体を包む神秘的で崇高なかんじが、ワーグナーとも共通する雰囲気もあって好きです。
 ぼくが聴いたのはデュトワ指揮のやつですが、他の演奏も聴いてみたくなってきました。

 この『ペレアスとメリザンド』はメーテルリンクが原作で、メーテルリンクといえばとうぜん『青い鳥』の作者として有名なわけですが、これはその『青い鳥』で大成功するだいぶ前の作品のようです。しかし、この演劇はよほどロマン派の作曲家たちのインスピレーションを刺激するもののようで、このドビュッシーのオペラの他にも、若い日のシェーンベルクやシベリウスも同じ題材で曲を書いています。
 このうちシェーンベルクのものは聴きました。『浄夜』と一緒に入っているカラヤン指揮の演奏のCDが中古屋で売ってたもんで。
 シェーンベルクというと例の十二音技法とか前衛的で小難しい音楽を作る人という印象があったんですが、このへんの初期作品を聴いてロマン派の人だったんだなと眼を開かれた思いがしました。(いまごろ気づくなって人も多いでしょうが、なにしろ初心者なもんで……)
 このあたりのシェーンベルクの初期作品はやたらに美しく、個人的には後の十二音技法などの作品より良く思えます。(後期の作品が理解できてないだけだろうという、当然の指摘もされるでしょうが)
 しかしこのシェーンベルクもやがて『モーゼとアーロン』というオペラを書き、しかもそのシェーンベルクの弟子のアルバン・ベルクも『ヴォツェック』『ルル』というオペラを書いているわけで、このへんも広い意味でワーグナーからの流れが続いている気がします。

 話をドビュッシーに戻すと、ドビュッシーはこのメーテルリンクを真っ先に取り上げただけでなく、ボードレールやヴェルレーヌなど象徴派の詩人を歌曲にとりあげたり、かなり文学的な素養もあった人のようです。
 ドビュッシーという人はそんなに長生きしなかった人なのですが、晩年にはポーの『アッシャー家の崩壊』のオペラ化を計画し、未完に終わったそうですね。これはぜひとも完成させてほしかったです。でも、完成したところまでのCDも出ているそうなんで、聴いてみたいです。


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 『ペレアスとメリザンド』を聴いてから、またドビュッシーに興味をもちまして、オペラ以外のCDも買ってきて聴いてみました。
 聴いていて思ったことは、ドビュッシーという人は、新しい音楽を創造しようとしたというよりは、むしろ従来の音楽ではないものを音によって表現しようとした人なのではないか、つまり、苦心して「音楽っぽくない音楽」を書こうとした人なのではないかということです。
 つまりは「音楽家」というより「反-音楽家」というのがドビュッシーが目指したところなのではないか、と感じたわけです。
 ドビュッシーはよくラヴェルと並んで語られるわけですが、この二人はだいぶ違ったタイプの音楽家ですね。ラヴェルはドビュッシーから影響を受けていますが、伝統的な音楽家であって、「反-音楽」は目指してないでしょう。むしろドビュッシーがしたことを伝統的な音楽の流れのなかに戻そうとしているとも思えます。
 そして、ドビュッシーが作りだした「反-音楽」もまた、けっきょくは演奏家の一レパートリーになり、「牧神の午後への前奏曲」も多くのロマン派の名曲と並んでオーケストラが演奏する曲目の一つへと回収されていきます。アンセルメの演奏はそれを感じさせるものでした。
 そうして「反-音楽」をめざしたドビュッシーもまた「音楽史」の1ページへと回収されていくわけです。それを皮肉というのか、あるいはそういうものを「歴史」と呼ぶのかもしれません。
 でも、そんなふうに「反-音楽」ということを思っていると、ドビュッシー以外にもシェーンベルクやアルバン・ベルク、ストラヴィンスキーなど、必死になって「音楽っぽくない音楽」を書こうとした「反-音楽家」たちの系列というのも見えてきた気がします。
 そしてそれ以前にも、例えばワーグナーが「交響曲」や「協奏曲」などを書かず、オペラだけを、しかもそれまでとは違ったオペラだけを書こうとしたのも「反-音楽」の姿勢だったのかもしれないし、ベルリオーズが何だかわからない物語的交響曲を書き続けたのも「反-音楽」の姿勢だったのかもしれません。
 つまりは音楽史というのは、その時点での「音楽っぽい音楽」を否定しつづける人々が作りだした「反-音楽」の歴史という面ももっているような気がします。



2006.2.26, 3.12



 
■バイロイト祝祭管弦楽団


 ワーグナーを聴きはじめて初めて知ったのは「バイロイト祝祭管弦楽団」というオーケストラです。これはワーグナーを聴きはじめるまでは知らなかったです。
 タネをあかせば、これはルードヴィッヒ二世がワーグナー作品を上演するためだけにつくった劇場、「バイロイト祝祭劇場」のオーケストラだそうです。ワーグナー作品しか演奏しないので、ワーグナーを聴くまで知らなかったのも道理です。
 ワーグナーの死後もこの劇場でのワーグナー作品の上演は(戦争によって中止を余儀なくされた時期を除けば)つづいていて、毎年フェスティバルの期間に数作品まとめて上演されるのだそうで、ワーグナー・ファンがこれを観にバイロイトに出かけることを「バイロイト詣で」などと呼ぶそうです。
 さて、この「バイロイト祝祭管弦楽団」はしかし劇場に常駐しているわけではなく、それぞれ世界じゅうの別々の一流オーケストラの団員である演奏者が、ワーグナー作品を演奏したいがために集まってきて、フェスティバルの期間だけ編成されるオーケストラなんだそうです。というと臨時編成のようにも思えますが、基本的には毎年メンバーは変わらず、辞めるメンバーがでたときだけ新しいメンバーが補充されることになってるのだそうで、そのため、順番待ちをしている演奏者も多くいるそうです。つまり演奏はある程度のレベルの統一性を維持しているし、メンバー全員が世界じゅうからワーグナーを演奏したいがために集まってきた演奏者なわけで、ワーグナーの演奏にかけては専門家……という印象があります。
 しかし、それぞれが個々のオーケストラのメンバーであるため、そう長い期間本職に穴を開けてもいられないようで、フェスティバルの期間だけ、リハーサル期間と本番の演奏をしたらそれで解散となるようです。つまりこのオーケストラによるスタジオ録音はないようで、バイロイト祝祭管弦楽団による録音はすべてバイロイト祝祭劇場におけるライヴ録音となります。
 しかしこのバイロイト祝祭劇場における録音はライヴ録音とはいってもかなり音質のいいものが多いです。それに、それぞれ劇場は劇場ごとに違う音の響きがあるそうですが、特にバイロイト祝祭劇場は特別な響きかたをする劇場だそうです。客席からオーケストラが見えない構造を含め、劇場内の音響もワーグナーがこだわって設計したのだそうです。そのため、バイロイト祝祭劇場におけるライヴ録音は、ワーグナーが望んだ音にもっとも近い音の録音ということになるのかもしれません。
 だいたいワーグナーのCDで名盤とされているものは、指揮者は誰であれこのバイロイト祝祭管弦楽団によるライヴ録音か、別のオーケストラによるスタジオ録音というのが多い気がします。上記の理由から、スタジオ録音をしようとしたら別のオーケストラを使う必要があるわけですね。





 
■ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』


 ぼくが今回みょうにワーグナーにハマってしまったのは、この『トリスタンとイゾルデ』と『パルシファル』を聴いたからです。といっても、両方ともおそらく映画に使われていたのを前にも聴いていたのかもしれませんが(ヴィスコンティなんて使ってそうですね)、今回初めて意識して聴いてみてハマってしまったわけです。
 いままではワーグナーといえば「ワルキューレの騎行」とか「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲のような鼻歌でうたいたくなるようなタイプの音楽の人と思っていて、じじつ鼻歌でうたっていたりしてたのですが、この『トリスタンとイゾルデ』は鼻歌タイプの音楽とは違いますね。
 いってみれば、あまりメロディアスでないわけです。最初に印象づけられるのは精妙な和音の魅惑的な響きであり、その和音がゆっくりと移りかわっていく感じです。まるで大河の水がゆっくりと流れていくように、ゆっくりとまきこまれながら流されていく気分です。
 序奏が終わって劇部分がはじまると、けっこう激しい、あるいは急な動きもみせるのですが、ストーリーを外側から盛り上げていくといよりは、登場人物の内面を描きだしていく音楽のような雰囲気があります。総じて、あまりわかりやすいメロディをかんじません。
 本などを見たところによると、この音楽の不思議な魅力の秘密は、半音をつかった音階にあるようです。
 ところで、ぼくはギター演奏を趣味としてます。好きなようにメロディやアドリブを弾いて楽しんでいるだけなんですが。
 ふだんはジャズなどを聴いているので、そっち系の曲などを弾いているのですが、セロニアス・モンクの曲を弾いてみたとき、ほとんどスケールを無視したメロディであることに気づいて、こんなのアリかよ……とおもったことがあります。
 そう思ってから、アドリブで弾いているとき、スケール(ドレミファソラシド)では弾いてはいけないはずの音を弾いてみても、それはそれでいい感じになるのに気づきました。でも、そのときはスケールを意識しながら、ちょっとだけ弾くのがポイントで、そうしないととんでもないフレーズになってしまいます。
 そのとんでもない方向にあえて挑戦したのがフリージャズということになるのでしょう。
 よく知りませんが、この『トリスタンとイゾルデ』の音階というのも、おそらくそういう、調性を意識しながらも、使ってはいけないはずの半音を少し使用したものではないでしょうか。調性を意識せずにすべての半音を使っていくと、つまりは調性の破壊になり、無調の音楽、つまりはシェーンベルク以後のようになるはずですから。
 ということは、ジャズでいえば、モードジャズなどにあたるのでしょうか。まあ、こういう比べかたというのは意味がないのかもしれませんが。
 でも、ぼくが思うのは、こういったばあい、調整を破壊したシェーンベルクやオーネット・コールマンの先進性のみを高くみて、そこまでに至らないこの『トリスタンとイゾルデ』の音階というのをそこに至るまでの途中過程のようにみるのは間違いじゃないかということです。
 もちろん、完全に破壊してその先を目指す創造性というのもあるのですが、完全に破壊せずに少し綻びさせる、その位置にとどまることの創造性というのもあると思うわけです。

 クラシックでは一つの曲をいろんな演奏で聴く楽しみというのがあるわけですが、ぼくもこの作品は気にいったので何種類もの演奏を聴き比べてみました。
 いろいろ聴いてみておもうことは、それぞれの演奏にそれぞれの個性があり、良い面が違うので、いちがいにこれがベストとはいえないということです。
 けれども、そのなかで、まず最初にこのオペラを聴きたいという人にどれが良いかと聞かれれば、ぼくはフルトヴェングラー盤とカルロス・クライバー盤が双璧で、有名なベーム盤はセカンド・チョイスにするべきかと思いました。
 録音が新しいクライバー盤から説明すると、この演奏はかなり女性的で繊細な情緒がある気がします。繊細で複雑な和音が、そよ風を受けてしかし大きく揺れ動くような、心のざわめきをそのまま表しているような繊細で美しい感情の揺れ動きが魅力的な演奏です。録音もよく、とくに弦楽器の絹のような美しく、感情の襞のハッとするような表情をとらえていると思います。
 そして、たぶんこの『トリスタンとイゾルデ』はワーグナーのなかでも最も女性的で繊細な曲ではないかと思うので、その特徴を、聴いたなかでいちばん良く出しているのはこの演奏ではないかと思うからです。
 カルロス・クライバーという人は『トリスタンとイゾルデ』以外のワーグナーのオペラは指揮していないのですが、この人はレパートリーが非常に狭くて、ほんとうに自分に合った曲、得意な曲しか演奏しなかったそうですが、『トリスタンとイゾルデ』は、全ワーグナー作品のなかでこれこそ自分が演奏すべきオペラだと選び抜いたものだったのでしょう。録音も1980〜82年とあるので、時間をかけて丁寧につくったアルバムだということがうかがえます。
 対して、1952年のフルトヴェングラー盤は男性的でありながら官能的な演奏ですね。
 ぼくは管弦楽曲集などを聴いたところでは、フルトヴェングラーとワーグナーの相性はかならずしも良くないとおもっていました。ワーグナーが川でいえば大河のような、あらゆる濁りを巻き込みながらゆっくり流れていく音楽とイメージしているのですが、フルトヴェングラーはそれを激流のような音楽として演奏してしまう気がするからです。
 でも、この演奏はスタジオ録音のせいか、あまりそのフルトヴェングラーの激しい部分が出てなくて、ワーグナー向きの部分が特に良く出た演奏のような気がします。
 録音は古くてモノラルですが、かなり良いです。ジャズを聴いていると思うのですが、50年代に入ってLPの時代になった以後は、録音の良し悪しの差は年代が古い新しいより録音技師の腕のほうが大きい気がします。
 さて、このフルトヴェングラー盤と並んで名盤とされているのがベーム指揮の66年のバイロイト録音ですが、これは良い演奏には違いないのですが、この曲本来の魅力を充分に描いたというよりは、この曲から新しい魅力を引きだした個性的な解釈による演奏という気がします。
 ぼくの印象でいえば、この『トリスタンとイゾルデ』という曲はメロディアスというよりは和音の響きのなかに身を浸すように聴き、その和音が流れていくのを聴くのが快感なのです。が、誰もがいうようにベームはテンポをかなり早くとるわけです。とすると、和音の響きに身を浸すというよりは、やはりメロディのほうが聴こえてくるのです。
 それに誰もが指摘する官能性の欠如ですね。それがこの作品の最大の特徴だと思うので、最大の特徴を生かしていない演奏というのは、ちょっと違うものという気がします。
 といっても、これはこれで良くて、こういう『トリスタンとイゾルデ』もあっていいと思うのですが、やはりワーグナーの意図というのは上記のクライバーやフルヴェンの演奏のほうにあったんじゃないのかなと思うところはあります。
 いわば『トリスタンとイゾルデ』のアナザー・サイドを聴くアルバムという気がします。


2006.6.19



 
■ワーグナー『ニュールンベルクのマイスタージンガー』


 作曲の順番からいくと、『ヴァルキューレ』の後、『ジークフリード』が途中まで書かれて、続いて『トリスタンとイゾルデ』、そしてこの『ニュールンベルクのマイスタージンガー』が作曲されています。
 どうもワーグナーの作曲家としての一生をみていくと、この『ヴァルキューレ』から『ニュールンベルクのマイスタージンガー』あたりの時代というのが最もクリエイティヴな時期だったんじゃないかという気がします。つまり、『ヴァルキューレ』と『ジークフリード』、そしてこの作品と並べると、すべて作風が違うわけです。それも作風が徐々に変化していったのではなく、あきらかに意識的に、一作ごとに内容に合わせて作風を変えた音楽を作曲している気がします。どれも4時間を超える大作であることを考えれば、これは大変なことだと思います。
 小説家で例えれば、大長編を続けざまに、一作ごとに文体を変えて発表しているようなものです。
 つまり、曲の感じなんていうのはクセみたいなものがあるので、かなり意識的に違うものを作ろうと思いながら作曲していかないと、こんなふうに違った音楽にはならないと思うのです。それでこれだけの大曲を作っているわけですから……。
 まさにワーグナーの芸の幅をかんじます。

 それで、この作品の作風というと、むしろ『トリスタンとイゾルデ』以前の作風にちかい、わかりやすいというか、鼻歌でも歌いやすいような音楽になっています。それは内容にもあっているのですが、そうだとしても、なんだか奇妙な感じがします。
 というのは、『トリスタンとイゾルデ』はあきらかにワーグナーにとってマイルストーン的な作品であり、これまでの音楽の枠を破った作品だったと思うのです。となると、その枠を破った先の可能性を探りたくなるのが、クリエイターというものの本性のような気がします。
 実際、この後に書かれた『ジークフリード』の後半や『神々の黄昏』、『タンホイザー』の書き足し部分などを聴くと、いかにも『トリスタンとイゾルデ』以後の音楽という気がするのです。
 大作『ニーベルングの指輪』が途中から『トリスタンとイゾルデ』以後の作風になったり、『タンホイザー』が書き足し部分だけが『トリスタンとイゾルデ』以後の作風になるのは、あきらかに全体の調和を欠くことにはなるのですが、気持ちとしてはこちらのほうが理解できます。
 つまり、新しい魅惑的な問題が目の前に提出され、それにとりかかってしまうと、以前の一度解いてしまった問題には戻ることはできないわけです。クリエイターというのはそういうものでしょう。
 しかし、この『ニュールンベルクのマイスタージンガー』はあきらかに、むしろ『トリスタンとイゾルデ』の前の作風に近いわけです。
 なんでこうなったのでしょう。
 正直いうと、この『ニュールンベルクのマイスタージンガー』というオペラは、音楽としてはわかりやすいのですが、ワーグナーを聴くという観点からいうとかなり難解な作品だと思います。というか、いまのところぼくには答えが出ていません。
 ひとつ考えられるのは、これは『トリスタンとイゾルデ』とは別の方向に、これまでの音楽の枠をやぶった試みがなされた作品ではないかということです。つまり、和声的には『トリスタンとイゾルデ』以前に戻っているけれども、別の新しい試みがあり、ワーグナーはそっちの試みに夢中になったために、和声的にはあえて『トリスタンとイゾルデ』以前に戻ったんじゃないかということです。
 そんな気持ちで、ワーグナーがこの作品で何をしようとしたのか探ろうとして本などを読んでいると、それは対位法ではないかという意見にぶつかったのですが、どうなんでしょうね?
 ぼくはどうもこれまでそれほど対位法というものを意識して音楽を聴いてこなかったようで、この作品の対位法がどうかといわれても、どうもピンときません。そうなのかもしれませんが、けっきょく今のところぼくにはわかりません。
 ということで、この作品については保留ということにしておきます。


2006.6.25



 
■ワーグナー『パルシファル』


 さて、ワーグナー作品への一言コメントも最後の作品になりました。

 『ニーベルングの指輪』四部作の台本を書き上げた後、ワーグナーは作曲にとりかかりましたが、書き上げたところで上演できる見込みがまったくないところから、上演できそうな作品を書こうということになり、『ニーベルングの指輪』の作曲を途中でやめて、『トリスタンとイゾルデ』と『ニュールンベルクのマイスタージンガー』を書き上げました。ということで、この二つの作品は結果としてはどちらもかなりの大作となりましたが、最初の心づもりでは小規模な作品のつもりで書き始められたもののようです。台本の内容的にも『トリスタンとイゾルデ』はラヴ・ストーリー、『……マイスタージンガー』はコメディと、神話的な大作『ニーベルングの指輪』に比べれば、かなりスケールの小さい、毛色のちがったものとなっています。
 ということで、『ニーベルングの指輪』以後の、劇作家ワーグナーとしての本気の部分が見られるのは、この『パルシファル』ではないかと思います。
 中断されていた『ニーベルングの指輪』の作曲が再開されたのは、ワーグナーがルードヴィッヒ二世の全面的な支援を受けることになり、わざわざ『ニーベルングの指輪』の上演用の劇場(バイロイト祝祭劇場)を建ててもらうという理想的な環境で上演できる見込みがたったからです。このバイロイト祝祭劇場はワーグナー自身が音響効果などを考えて、それを実現するように設計されたわけですが、『ニーベルングの指輪』の完成時点では劇場のほうはまだ完成していなく、そのためこの『パルシファル』はワーグナーが理想とした音を実現したバイロイト祝祭劇場が完成した後、そのバイロイト祝祭劇場での演奏を想定して書かれた唯一の作品ということになります。

 個人的にはこの『パルシファル』は音楽的にいって、『トリスタンとイゾルデ』と並んで最も好きな作品です。というか、聴きはじめた最初にこれを聴いたので、それが今回ワーグナーにハマったきっかけとなった作品です。
 ストーリー的にも非常に興味をひかれる作品ですね。『ニーベルングの指輪』以後のワーグナーが自身の本気の部分を注入した作品だけあって、わかりやすい小品のつもりで書いた『トリスタンとイゾルデ』や『……マイスタージンガー』とは対照的に、象徴劇的で意味深い内容になっています。ひとことで言えば、何がなんだかわからないわけです。
 といってもストーリー展開自体はかなり単純なんですが、その単純なストーリーが何を言いたいのかわからないわけですね。見ていってみることにします。

 タイトルの「パルシファル」は登場人物の名前で、多分英語読みして「パーシヴァル」といったほうがピンとくる人が多いでしょう。アーサー王伝説の登場人物の一人です。ぼくはアーサー王伝説にはそれほど詳しくないのですが、見習い騎士だったときに聖杯を目撃した騎士の名だと思います。
 さて、これは聖杯にまつわる話で、深い森のなか背後に聖杯城がみえる……というシーンではじまるのですが、この作品における聖杯の意味というのもよくわかりません。
 もともと聖杯というのはアーサー王伝説に登場するアイテムであり、キリスト教とは本来は関係ありません。アーサー王伝説とともに有名になるに従って、キリスト教の伝説のなかに後づけで組み入れられたんですね。だから、キリスト教における聖杯とは何かというと、最後の晩餐で使った杯だの、磔刑になったイエスの血を受け止めた杯だの、その両方だのと諸説出てきて一定しません。後づけで無理やりキリスト教伝説のなかに組み入れようとしたからそうなったのでしょう。その点、聖槍(ロンギヌスの槍)とは違います。
(ちなみに、キリストにまつわるトンデモ本をネタ元にした『ダビンチ・コード』で、レオナルドが聖杯が描かなかったのは何故かというのは、あんな珍説よりも、そもそもイエスの頭に光輪を描くことも拒否した無神論者のレオナルドなのだから、もともと存在しない聖杯なんか描かなかったと考えるほうがよほど理にかなっています)
 さて、いったいワーグナーはアーサー王伝説とキリスト教伝説のどちらを主に念頭においてこの作品を書いたのでしょうか。この作品のなかでは聖杯にいちおうキリスト教伝説のアイテムとしての説明も加えられているのですが、それにしてはこの作品における聖杯は何の役に立つのかわかりません。つまり、キリスト教伝説からすると、聖杯で汲んだ水をかけるとあらゆる傷が癒えるとか、水を飲むと永遠の命が与えられるとか、特殊な能力があって、だからこそ伝説の杯なのですが、この作品中では聖杯を持っている王は、聖槍によって負わされた傷がいつまでも癒えることなく、絶えず血を流しつづけ、弱っていっている……という設定になっているわけです。つまり、聖杯というのが何の役にも立たないものになっています。
 ちなみにアーサー王伝説でのほうでの聖杯はというと、こちらでは聖杯探究というのが主なテーマであって、聖杯そのものがどんな価値をもつものかはやくわからないような描かれかたがされてるんじゃないかと思います(ちょっとぼくはアーサー王伝説は詳しくないんで、よくわかりませんが)。
 そしてこの作品では、血を流しつづけ衰えつづける王を救うのは、その聖杯でも聖槍でもなく、「聖なる愚者」だということになっています。キリスト教的にいえば重要なアイテムであるはずの聖杯や聖槍は何の役に立つのかわからず、そもそも「聖なる愚者」っていうのは何だという話になります。
 そして、その「聖なる愚者」として登場するのがアーサー王伝説の登場人物であるパーシヴァル=パルシファルなわけですが、アーサー王伝説においては騎士であったはずの彼は、過去の記憶を全て忘れ去った狩人として登場します。
 ……思うのですが、『ニーベルングの指輪』においてはワーグナーはいろいろ手直しをしているにしても神話をもとにしたストーリーを書いていたのだとおもいます。しかしこの作品では、神話・伝説に登場する人物やアイテムを使用としても、それが神話・伝説のなかでもっていた意味・キャラクターはいったん消去して、そこにワーグナー自身による象徴的な意味あいを担わせてストーリーをつくっている気がするのです。そこのところの象徴性が難解な気がするのです。

 とはいえ、この作品はなにより音楽が魅力的です。北欧の深くて暗い森の奥から響いてくるような、厳かでいて神秘的な、まるで別世界に誘われるような響きです。森に聖性を感じていたというゲルマン民族の感性をかんじます。和音にしても、メロディにしても、いかにも『トリスタンとイゾルデ』以後の音楽という感じで、ワーグナーの最高到達点なのかもしれません。
 ストーリーの意味についてはさておいて、とりあえずは別世界に旅するような気分で聴いていたい音楽だと思います。
 定評のあるクナッパーツブッシュ盤など、バイロイト祝祭劇場でのライヴ録音盤を聴くと、ワーグナーが理想とした音というのがどういうものだったのかわかる気がします。深い闇の奥から響いてくるような音ですね。


2006.7.11


☆『パルシファル』のストーリーの象徴性のもっとも単純な解釈は、

    傷が癒えず衰えていく王 = ワーグナー自身
    その王を救う聖なる愚者 = ルードヴィッヒ二世

 というものですが、はたしてそこまで単純に解釈していいものかどうか……。


06.8.25




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