ブログ〜ワーグナーについて1







■とつぜんワーグナーを聴きはじめたこと


 ぼくはときどき妙なものに急にハマるというのが行動パターンのようで、少し前からきゅうに、なんの脈絡もなく、ワーグナーを聴きはじめてしまいました。
 ぼくはもともとクラシックはあまり聴かない人間です。音楽ファンではあるけど、よく聴く音楽はジャズとかロック、ブラック・ミュージックなど、広い意味でのポピュラー・ミュージックです。クラシックはたまに聴く程度で、それでもいろんなものを広く浅くは聴いてはいました。でも、オペラというものには決して近寄ろうとしてこなかったのです。
 なんだかオペラ歌手、というかクラシック系の歌手のあの歌いかたに違和感があるんです。だからオペラは、たぶん一生縁がない世界なんじゃないかって思ってました。
 だから、オペラばかり作曲していたワーグナーは、いままでけっこう広く浅くは聴いていたなかで、まったく手を触れてこなかった部分なんです。といっても、映画でよく使われるんで、音楽自体は部分的には耳に入ってはいたんですが。「ワルキューレの騎行」とか「ニュールンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲とかは鼻歌でうたえるし……。でも、その程度でした。
 けれど、なぜかいきなりワーグナーが聴きたくなってしまったんです。
 なんで? と聞かれても、自分でもそんなにはっきりとはわからないんですけど、でも、自分なりにその理由をかんがえてみると、たぶん、ワーグナーって、あのへんの極みみたいな気がするわけですよ。ロマン派っていうんですか? 例えば、ベルリオーズとかその前のウェーバーとか、さらにその前のモーツアルトの『魔笛』とかって、ワーグナーに流れ込んでいくような気がする。それから、ブルックナーとかマーラーとか、おそらくリヒャルト・シュトラウスとかシェーンベルクあたりまで、ワーグナーから流れ出てきたような気がする。
 小説の世界でいえば、あの時代のロマン派の文学ですね、ノヴァーリスの『青い花』とかゲーテの『ファウスト』とか、ホフマンとか、ポーとか。あるいは同時代のゴシック文学とか。
 なんていうか、そのへんのいろいろなものが濁流となってワーグナーに流れ込んでいってる気がしてきて、でも、その極みみたいな部分をいままでぜんぜん味わってこなかったな、スッポリと抜けて空白になっているな、みたいな気がしてきて、やっぱり、これは聴いてみなきゃいけないなって気になったような、そんなような感じです。

 だけど、ワーグナーはオペラなわけで、オペラなんて聴いたことないし、どうやって聴けばいいものなのか、いろいろ困惑しながら聴きはじめたわけです。
 そのへんの困惑を、いったい読んで参考にしてくれる人がいるのかどうかわかりませんが、少し書いてみようと思います。
 以下、続きます。


2006.1.30



 
■全曲版か管弦楽曲集か


 さて、いきなりワーグナーを聴こうと思ったんですが、けっこう困りました。このへんの困惑と、そのなかでぼくが思ったことを書いてみようと思います。

 普通のミュージシャンであれば、聴こうと思ったらその人のCDを入手して聴けばいい。それだけです。いきなりライブに行くほど豊富にカネがあるわけじゃないですから、それが普通の方法でしょう。
 けれどワーグナーのようなオペラ作家の場合、全曲版を聴くべきか適当にチョイスされた「管弦楽曲集」みたいなものから入るべきか迷うわけです。
 ワーグナーの場合、代表作とされているオペラは全曲版で買えばたいてい4枚組くらいいきます。『ニーベルングの指輪』の4部作セットなら十数枚組です。とうぜん高価です。初めて聴く段階で、まだ本当に好きになるかどうかもわからないので、そこまで投資したくないのが本音です。
 そこへいくと「管弦楽曲集」とか「ハイライト集」みたいなのは手頃な1枚もので、中古屋で安いのを探せばかなり手頃な価格で入手できます。けれど、なんだかホンモノではない気もします。だって、もともとオペラとして書かれたものの一部分だけを集めて聴いてるわけですから。
 そんなとき思いついたのが(普段クラシックは聴かないので、かなり遅れて気がつくわけですが)クラシックのCDなら図書館で貸してるんじゃないかということです。
 行ってみたらありました。代表作の全曲版が一応ひととおり揃っていました。
 そこで、とりあえず全曲版は図書館にあるやつを借りて聴いてみることにして、そこにないもので聴きたいものがあったら買ったり、中古などで探してみるという方針でいくことにしました。

 そうしていろいろ聴いてみて、いまのところ自分で出た結論は、ワーグナーを聴くのに「管弦楽曲集」から入るのは、あまり良いとはいえないじゃないかということです。
 この「管弦楽曲集」というのは、いろんなオペラの序曲とかハイライト部分が集められていて、手頃に入手しやすく聴きやすくもあるんですが、けっきょく思うことは序曲はつまりそのオペラの序曲であり、ハイライトはそのオペラのハイライトであって、独立して聴くものではないということです。
 つまり序曲とはそのオペラの導入部であって、とうぜんそのオペラの内容と繋がっているので、それがどんなオペラなのかわからないと何を描こうとしているのかもわからないわけです。ハイライトも同様で、たしかに盛り上がりの部分ではあるのですが、その盛り上がっていく過程を理解せずに、いちばん盛り上がった部分だけを切り取って聴いたって、いったいなんでこんなに激情しているんだ、みたいなことになります。
 例えば映画で名シーンってありますが、いろんな映画の名シーンだけを集めて編集すれば素晴らしい映画が出来上がるのかといえば、そんなわけはないですね。名シーンっていうのは、そのシーンに至る過程があってこその名シーンなんで、もちろんそのシーンだけでもかなりの力はあるにしても、そこだけ切り離して鑑賞するのはやっぱり違うわけです。
 思うにこの「管弦楽曲集」のいちばんいい聴きかたは、まずそれぞれの全曲版を聴いて、それぞれのオペラを理解したうえで聴くことだと思います。そうであれば、それぞれの指揮者、オーケストラによる解釈や色の違いがありますから、それぞれの違いを味わうことができます。
 ハイライト集も、まず全曲版で聴いて知っているオペラの別の指揮者・オーケストラの録音を聴いてみたいけど、全曲じゃなくてもいいと思うときや、今日は4時間も聴きとおすのはつらいからダイジェスト版で聴きたいというときに役立ちます。
 たぶんこの「管弦楽曲集」や「ハイライト集」って、入門者向けにみえて、実は上級者向きのものなんじゃないでしょうか。入門者でも、ワーグナーの音楽とはだいたいこんな感じというのを理解するのにはいいかもしれませんが、それで気に入ったらたぶん早めに全曲版に手を出したほうがよいように思いました。

 さて、ぼくはそんなふうに聴いてみるうちに、とくに『トリスタンとイゾルデ』と『パルジファル』の音楽を聴いてワーグナーへハマってしまいました。前にも書きましたが、「ワルキューレの騎行」とか「ニュールンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲なんかは前にも聴いて鼻歌でも歌えるくらいでしたが、それでは特にワーグナーには強い興味を持たなかったわけです。たぶん今回聴いてみたときに『トリスタンとイゾルデ』と『パルジファル』の音楽に出会わなければ、こんなふうにハマることもなかったと思います。
 ということでワーグナーの「全曲版」を聴きはじめたわけですが、しかしこのオペラの「全曲版」というのも、いままでオペラなんて聴いたことのない人間にはかなり違和感のある、聴きかたのわからないものでした。


2006.1.31



 
■オペラの全曲版への挑戦


 さて、この全曲版を聴くというのが、たいへんでした。そもそもこっちはオペラなんて聴いたことがないもんだから、どうやって聴いたらいいのかわからないわけです。
 オペラってどうやって聴いたらいいんでしょう。
 ぼくは音楽を、洋楽のロックなどでも歌詞カードを見ながら聴いたことなんてありません。歌詞が聴きとれなかったとしても気にしません。音楽として楽しめればいいわけだし、歌詞カードをじっと見ながら聴くなんて、なんか音楽の楽しみかたとして違うような気がするのです。音楽は音楽として聴いて、歌詞が知りたきゃ後で見ればいい、というやりかたで聴いてきました。
 というわけで最初はオペラも音楽とわりきって歌詞など問題にせず、音楽として聴いてみました。
 けれど、これがけっこうツラいわけです。CDで売ってるといってもオペラは音楽ではなく、やはり音楽と演劇が融合されたもののようで、演劇の部分もわからないとわからない、音楽だけ聴いていても、それがどういう場面の音楽かわからないとキツいな、と思い直しました。(でも、個人的には音楽の比重のほうが重いものだと思ってますけど)
 けれど何時間もずっと歌詞を見ながら聴くというのも、なんだか気乗りがしません。
 そこで最初は、あらすじだけ最初に把握しておいて、だいたいこういう場面なんだということを理解した上で、個々の歌詞は気にせずに聴くことにしてみました。(もう一つの大きな理由としては歌詞カードを入手するには割高な国内盤を入手するか、CDとは別に売っているオペラの台本等を買わなきゃならないわけで、割安にすませたいという気持ちもありました。「あらすじ」くらいならネットとかいろんな所で紹介されてるんで)
 でも、この「あらすじ」も役に立たないことも多いことがわかりました。つまり、こっちはその曲がどういう場面、どういう状況を表現したいのかが知りたいわけですから、全体のストーリーがわかってもだめなわけです。
 希望としては「あらすじ」ではなく、各場面について、それがどういう場所で舞台上に誰がいるのかを説明し、歌やセリフの大意(登場人物のあいだでどんなやりとりが展開されているのか)を示してくれる、という感じにオペラの概要を書いてくれているものがあれば、歌詞など読まずにそれだけ読んで音楽に集中して楽しみたいのですが、そういうのは見つかりません。(いちばん近いのは音楽の友社から出てる「スタンダード・オペラ鑑賞ブック」というシリーズ(『ドイツ・オペラ』(下)がワーグナー集になってるやつです)の「オペラティック・ハイライツ」という部分で、こんな書き方でストーリー等も説明してくれているのがあるといいんですが)
 そんなこんなで、けっきょく歌詞の訳は必要だ、という結論にたどりつきました。

 おそらく一番いいのは、最初にDVDなど字幕付きのも見て、それぞれの場面がどんな場面なのか思い浮かべられるようにしておくことのような気がします。
 けれど、放送しているものを運良く見られればいいのですが、DVDを買うとなると値段は、安いものでは定価で三千円を切るものもあるようですが、高いものになると一万円以上の値段がつきます。ぼくはべつに映像を楽しみたいわけではなく、一度見てだいたいどんな内容なのかがわかれば、後は音楽だけで楽しみたいほうなんで、それだけのために買うかというと、ちょっと考えてしまうところがあります。
 どっかでいろんなオペラのDVDをレンタルしていれば便利なんですが、いまの日本の状況ではあまりなさそうな気がするんですが。
 今年の一月に入ってからBSでベルリオーズの『トロイ人』やらモーツアルトの諸作など放送していたので見ましたが、字幕のありがたさは理解したものの、やはり一度で全シーンをおぼえるのは不可能なんで、CDを聴く場合はいまどんな場面なのか知りたくなったら、すぐに参照できる訳が手元にあったほうが便利な気がします。
 無駄な抵抗せずに、最初は国内盤か書店でオペラの台本を買ったほうがよさそうです。
 それに、いったん入手してしまえば、同じオペラを別の演奏で聴こうというときには、こんどは歌詞カード無しのやつでもよくなるわけです。


2006.2.1



 
■オペラの演出


 いままでまったく興味がなかったワーグナーのオペラをいきなり聴き始めたところ、今年に入ってからBSでベルリオーズの『トロイ人』やモーツアルトの数作のオペラを放送したので観ました。やはり字幕というのはありがたいもので、ブックレットを見ながら、いまはどこの部分なのかを気にしながら聴くこともなく、しぜんに音楽を楽しみストーリーを理解することができます。ぼくは音楽は映像抜きで、音だけで楽しみたいほうなのですが、やはりオペラを鑑賞するには、少なくとも最初の一回は映像(字幕)付きのほうがいいなと思いました。
 しかし、そこで気になったのは演出についてでした。どうも現在のオペラの演出は原作の卜書きを無視して現代的に解釈する方法が幅をきかせているようです。つまり、過去の話なのに、歌手(役者)は現代人の服を着て登場するわけです。
 まず、感じたのは違和感でした。例えば『トロイ人』のように誰もが知っているトロイ戦争を舞台にした話で、しかし役者が現代人の服を着て登場し、戦士は現代の軍隊の迷彩服の軍服を着て登場することには、正直かなり違和感がありました。『ドン・ジョヴァンニ』で主人公が現在のジゴロみたいな服装で登場するのは、わりと違和感が無いのですが、セリフのなかで主人公は「騎士」だと呼ばれているわけで、なんだかヘンなかんじもします。
 でも、考えてみれば、原作を違う舞台におきかえること自体は、それはそれで問題はないことのような気がします。例えばシェイクスピアの『マクベス』の映画化で優れた作品は何かと問われれば、舞台を日本の戦国時代に置き換えた黒澤明の『蜘蛛巣城』は、オーソン・ウェルズの『マクベス』と並んでほとんどベストの作品でしょう。
 しかし、同じシェイクスピアでも『恋の骨折り損』を現代に置き換えてしまったケネス・ブラナーの作品などは正直がっかりしました。というのは高山宏の本でフランセス・イエイツがこの『恋の骨折り損』を扱った文章があると読んだので、なんとなくそのへんを期待して歴史的興味をもって観てしまったからです。
 作品を舞台を置き換えて演出することは、演出家がその作品のどこに力点を置いたかが重要になり、つまり演出家の視点が観客に試されることになるとおもいます。そして演出家が力点をおいた部分以外の、その作品の歴史的背景・細部は失われてしまいます。つまり作品はその演出家の作品として生まれかわるわけで、それはもともとの作品そのものを鑑賞したいという向きからすれば歓迎されざることなのですが、その演出家の作品を観るという観点からすれば否定できないものでもあると思います。例えば先の『恋の骨折り損』の例でいえば、ぼくは歴史的興味でこの作品を見たいのであれば、やはり映画なんかではなくシェイクスピアが書いた戯曲そのものを読むべきであったのであり、映画を観るのであれば、それはケネス・ブラナーの作品として観るべきだったわけです。
 では、原作どおりのオペラ、原作どおりのシェイクスピアは舞台ではもう観られないのかという不満は残るのですが、考えてみればどう頑張っても現代の人間が演出する以上、原作そのものの完璧な再現というのは不可能であるとも思うし、それでもできるかぎり原作に近いかたちのでの演出というのも、たぶん探せばあるんだろうとも思います。
 実はぼくは歴史好きのため、小説や演劇・オペラなども歴史への興味の部分で鑑賞している面があるので、できれば原作に近いかたちのでの演出を望みたいのですが、それでも現代的解釈を評価してしまうのは、たぶん何となく短歌というものを書きはじめてしまったからのようです。
 短歌を書きはじめてから、とりあえず他人のものを読みはじめたのですが、何とこのジャンル、いまだに文語で書いている人がすごく多いのですね。もちろん万葉集の歌がそんな言葉で書かれているのは時代からみて当たり前ですが、現代の人間が現代人の感情を描くのに文語を使うというのは、ちょうど現代を舞台にしたテレビドラマで、チョンマゲを結った若いサラリーマンと、十二単を着たOLが恋愛するのを見せられているようで、違和感があるのです。現代人が現代のことを描くなら、自分が普段使っている言葉で書くのが基本だと思うわけです。しかし、なんでいまだに文語なんて使われているのでしょうか。
 例えば歌舞伎ってありますが、あれは江戸時代には当時としては最先端の現代風俗を描いた現代劇だったようで、衣装も言葉使いも当時としては「現代的」だったようです。それをそのままの形で保存したため、現在では伝統芸能・貴重な歴史の遺物というものになっています。もちろん江戸時代にあった歌舞伎という芝居を保存・継承するだけならそれでいいのですが、現代劇であった歌舞伎を精神的に保存するなら、歌舞伎によって「現代」を描きつづけるべきではないかという考え方も一方にも成り立つ気がします。例えば歌舞伎のある部分を継承しながらも、スーツを着たサラリーマンやロック少年が登場する歌舞伎もあるべきではないかということです。
 ある芸術形式が、たんなる伝統芸能になるのか、あるいはその時代の生命を受けて生きつづけるのものになるのかは、そのへんのところに理由がありそうな気がします。つまり、形だけを同じにしておけばいいのか。精神的な部分を継承しながらも、現代における表現を生み出そうとするのかということです。
 彼らはオペラを現代を生きさせようとしているのだと思います。時代が変われば着ている服も言葉使いも変わるのはあたりまえです。違う時代において同じ精神を描くなら、それは新しい衣装や意匠で描かなければならない。当時において「現代的」だった舞台を現代で見せるなら、当時は現代的だったが現在は古風な衣装を着せるのではなく、現代の「現代的」な衣装を着せるべき……という考え方は、やはり間違いとはいえないと思います。もちろん、その一方で、その時代に生まれた歴史的な産物としてのその作品を鑑賞するため、なるべく手を加えずその時代の姿のままで鑑賞したいという考え方も、もう一方にはあってしかるべきだと思いますが。
 と、考えても『トロイ人』のように最初から歴史ものとして作られた作品を現代人の衣装で演じるのはどうか、という気はしますが。


2006.2.2



 
■オペラとサントラ


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 図書館でワーグナーのCDを借りはじめてから、ワーグナーだけでなく、他の作曲家のオペラのCDもちょこちょこ借りてみました。いままでオペラというものをまったく聴いてこなかったもんで、オペラとはどういうものなのかを覗いてみたかったのです。
 と、ぼくが見たところでは、オペラというのは、目指している目標として主に二つの方向があるようにみえました。
 一つは「演劇+歌」という方法です。つまり、演劇のなかで、各役者(歌手)の見せ場として歌(アリアというそうですが)が用意されているというものです。この場合、それぞれのアリアが完成度の高い作品になっているほうがいいわけで、事実アリアはオペラから独立して歌われることもあるそうです。これは映画でいえば昔の、例えばフレッド・アステアらが活躍していた頃のミュージカル映画における歌と近いかんじでしょうか。
 もう一つは「演劇を音楽によって演出していく」という方法です。つまり、オーケストラは歌の伴奏をするというのではなく、演劇全体の各場面の劇的演出効果を担当し、音楽によって演出された演劇、あるいは、ストーリー付きの音楽を目指すものです。この場合、歌は独立した完成度を目指すものではなく、その音楽の全体の流れのなかで役者のセリフが歌化していくという感じです。この場合、音楽は映画でいうサウンドトラックの役割に近いわけです。
 もちろんこの二つの方向は、実際には明確に分かれているわけではなく、たいていの場合この両方の方法が共存しているのですが、オペラをいくつか聴いてみると、作曲家の作風の違いといったもの以上に、目指しているもの自体がだいぶ違うんじゃないかと思うところがあります。
 ワーグナーは圧倒的に後者の「演劇を音楽によって演出していく」要素の強いタイプのオペラ作家ではないかと思います。

 ということで、ワーグナーのようなタイプのオペラのCDを聴いていると、映画のサントラのCDを聴いているのと似た種類のたのしみがあるように思います。(映画で使われたヒット曲のオムニバスになっているものではなく、様々なシーンで作られた効果音楽のスコアが収録されているCDのほうです)
 映画のサントラっていうのも独自のファンがいるジャンルで、映画そのものとは別物としての価値をもってるようです。つまり映画はつまらなくてもサントラは名作っていうのもあり、映画ではなくサントラのファンという人もいます。
 サントラの場合は、セリフなど「劇」の部分の音声は入らず音楽部分だけが編集されて収録されるわけですが、そのセリフ部分も歌として収録すると、ワーグナーのようなタイプのオペラのCDと似てくるんじゃないかという気がするわけです。

 ここでちょっと話は本題からそれますが、ぼくも映画のサントラをいろいろ聴いてみたことがありますが、サントラのおもしろさっていうのは映画のおもしろさとはちょっとポイントが違う気がしておもしろかったです。
 たとえば、異境というか、日常生活とは違う世界を舞台とした映画のサントラって、おもしろいものが多いのです。作曲家がその別世界をなんとか音で表現しようとするので、オリジナリティのあるものが生まれることが多いのですね。例えばマイケル・クライトン原作の『コンゴ』なんて映画は、映画としてはまったくつまらないものでしたが、ジェリー・ゴールドスミスが作ったサントラはかなりのものだと思いました。ジャングルの奥地を舞台とした話なんで、音楽によって未踏のジャングルの奥深くを表現しているわけです。
 SFとか、歴史ものもおもしろいのが多いですね。SFではヴァンゲリスが作った『ブレードランナー』のサントラなんて、サントラとしても有名なものだし、同じリドリー・スコット監督作品でいえば、海洋ものの『白い嵐』なども良かったです。これも海という舞台が音楽で表現されているからです。(ちなみに『白い嵐』は映画のほうも傑作です)
 そういう目でワーグナーのオペラを見てみると、やはり別世界を描いたものが多いのです。たとえば『トリスタンとイゾルデ』は船の上から劇が始まるわけですが、この前奏曲はまさに波のうねりとともに感情がうねっていくような感覚が見事に表現されています。同じ水でも『ラインの黄金』はライン川の水中から話がはじまるわけですが、ここでは川の水中、陽光が頭上で波をキラキラ輝かせながら陽し込んでいるような雰囲気が表現されています。
 逆にいえば映画のサントラのファンがワーグナーを聴いても、けっこうおもしろいんじゃないでしょうか。実際ワーグナーは映画ではかなり使われていて、「ワルキューレの騎行」なんて空襲シーンのテーマソングみたいになっていますが、もともと同じような要素があるような気がします。というより、ワーグナー以後の劇音楽がワーグナーからあまりにも強く影響されているということなんでしょうが。
 シェイクスピアの戯曲を読むと、当時の照明や舞台装置が一切なかった劇場で、登場人物のセリフだけでその場所や時刻、情景や、時には嵐の中の船の揺れまでもを表現しようとしている迫力を感じますが、ワーグナーの音楽も、ある意味、特撮などなかった時代の舞台の上で、特撮のような効果を音楽だけで表現しようとしていたようにも聴こえます。「ワルキューレの騎行」も、天馬に乗って空を駆ける女戦士という、絶対に舞台では描けないことを、音楽でもって表現しようとしたところで、あれだけの表現力を得たのかもしれません。
 まえに読んだ夏目房之介の手塚治虫についての本のなかで、手塚治虫のマンガの絵に一番表現力があったのは、アニメがやりたいのだけれど出来なくて、アニメ的な表現をむりやりマンガのなかでやろうとしていた時期だ、というようなことを読んだおぼえがあります。
 ひょっとすると、あるジャンルの表現がとくに強い表現力をもつのは、そのジャンルでは表現できない筈のことを、無理やりにでもそのジャンルで表現しようとしたときなのかもしれません。



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 さて、ワーグナーがそんな影響を与えているとすれば、そのワーグナーと映画音楽とをつなぐ役割をしていたのは、おそらくコーンゴルドではないかという気がしてきました。
 映画ファンでない方に説明させてもらえば、コーンゴルドはクラシック系の作曲家ですが第二次大戦中に戦火を逃れてハリウッドへわたり、映画音楽の仕事をした人です。おそらく映画音楽にもっとも強い影響を与えた人といっていいでしょう。
 ぼくは映画ファンですが、映画ファンの習性から、いままでコーンゴルドの映画音楽には堪能しながも、クラシック系の作曲家としてのコーンゴルドの作品はまったく聴いてきませんでした。
 でも、ふとそんなことを思って調べてみると、この人は若い頃マーラーに激賞されて神童と騒がれた人で、『死の都』というオペラが代表作としてあげてありました。これはローデンバックの『死都ブリュージュ』をオペラ化したものだそうです。(ドイツ語圏で活躍してたんで「コルンゴルド」と表記されてました)
 ぼくはたぶんワーグナーからブルックナー、マーラーへと続く影響関係があるのではないかと思っています。そのマーラーから激賞されてたり、オペラを作ってたりするところをみると、この人もひょっとするとその流れの人なのかもしれません。
 『死の都』はワーグナー作品ではおなじみのルネ・コロが歌っているCDが出ているらしいので、聴いてみなきゃいけないなという気になりました。


2006.2.3-4



 
■ウェーバー『魔弾の射手』


 ワーグナーを聴くついでに、他のオペラもちょこちょこ聴いてみました。オペラというものを聴いたことがないもんで、他の作曲家のも聴いてみたほうが、その人との比較でワーグナーの個性もよくわかると思ったのです。
 ところでロマン派、とくにロマン派文学からの強い影響を受けたロマン派の音楽というと、ウェーバーの『魔弾の射手』あたりを起点として、ベルリオーズ、ワーグナーと続く流れがあるように感じます。
 そのウェーバーの『魔弾の射手』も聴いてみたのですが、これがワーグナー以前のオペラの姿を知る上でも、ワーグナーの『さまよえるオランダ人』あたりへの影響を知る上でも、そして作品自体もかなりおもしろかったです。この『魔弾の射手』は発表当時もヨーロッパ中で大人気になり、一時はウェーバーの人気はベートーヴェンをしのぐほどであったと書いてありましたが、なるほどと思いました。エンターテイメントとしても良くできているし、音楽としても素晴らしく、かつ当時は斬新だったとおもわれる部分が随所に見られます。
 そんなわけで、ちょっと寄り道してウェーバーの『魔弾の射手』について書いてみます。

 この『魔弾の射手』はドイツ・オペラの出発点みたいな国民的人気のある作品と書かれていることが多いです。もともとオペラのメッカはイタリアであり、イタリア以外の国で書かれた場合でも、イタリア語で歌われる場合が多いのですね。
 それがドイツ語で歌われるオペラの嚆矢としてはモーツアルトの『後宮からの誘拐』や『魔笛』、ベートーヴェンの『フェデリオ』が既にあったわけですが、これらはすべてドイツを舞台にしてはいなく、それが『魔弾の射手』が最初にドイツ人の作曲家がドイツ語でドイツを舞台にして作られたオペラというので、そのような扱いを受けていると書いてありました。
 しかし実際に『魔弾の射手』を聴いてみると、そんな理屈よりもドイツ人の民族的な生活感に根ざしていることが、そのような国民的人気の理由ではないかと思いました。このオペラの舞台となる森のなかに開けた村というのは、ドイツ人にとって「魂の故郷」といいたくなるような、心の原風景でしょう。
 まず序曲(これも有名なものですが)が終わると、舞台は森の中の村で、明日の射撃大会をひかえた予備大会の場面になります。そこで農夫たちが合唱するわけですが、明るいのですね。ワーグナーの後に聴くと、とくに底抜けの明るさを感じます。農夫たちがスランプで射撃がほとんど当たらない主人公をからかっている歌をうたうのですが、歌詞のなかに「へっへっへ……」なんて笑い声が入ってたりして、少しも陰険でなく、明るく嘲笑します。このへん、プリューゲルの描く農村の風景のような健康的で猥雑な明るさを感じます。
 そして第三幕には今度は農夫ではなく有名な「狩人の合唱」があります。これも明るく元気な歌であり、つまりこの劇は田舎の森の中の村に住む農夫や狩人たち、つまりは労働者たちの明るく健康的な生活風景が基調としてあります。もちろん、スランプの主人公が悩んで嘆く部分などもあるわけですが、それらもすべて森の中の村の日常生活のなかに戻っていきます。ビールを乾杯しながらうたう歌とか、そういった方向へ行きます。
 それに対してあるのが、有名な「狼谷」ですね。
 阿部勤也の本を読むと、中世のドイツ人の世界観というのは村の中と森とに分けられていたそうです。つまり、村のなかは人間の住む場所であり、人間の論理が通じる場所である。対して深い森の奥というのは、人間の論理が通じる場所ではなく、村とは別の論理がある世界だとおもわれていたというのです。だから、森の奥ではどんな超自然的な事がおきてもおかしくはなく、例えば「ヘンゼルとグレーテル」のように森の奥へ行くと魔女が棲むお菓子の家があっても、少しも不思議とは思わない……というのが、古い民話などからわかる中世のドイツ人の世界観だったようです。そしてその森の支配者だとかんがえられていたのが狼だということで、「狼男」の伝説というのも、このへんに理由があるそうです。
 この『魔弾の射手』の世界も、はっきりと村のなかと、狼谷とに分かれているわけですね。この「狼谷」という名称そのものが上記のような意味をおもわせます。つまり、村は人間の世界であり、農夫や狩人の明るい合唱に満ちています。それに対するのが狼谷であり、そこは人間の論理が通じる場所ではなく、主人公はそこに「魔弾」という超自然的なアイテムを入手するために訪れるわけです。
 ということで、狼谷では音楽がまったくかわります。オーケストラが不安をかきたてるような響きで鳴りわたります。
 本によれば、そもそも『魔弾の射手』はオペラとしてはオーケストラの比重がそれまでのオペラよりも大きいことで斬新だったようですね。ぼくはこれ以前のオペラをそんなに聴いてないんで実感としてはわかりませんが。
 オーケストラによる標題音楽はベルリオーズの幻想交響曲が嚆矢ということになっているようですが、この狼谷の場面はオペラの一部とはいえ、それに先がけるオーケストラによる標題音楽の最初期の試みであり、音楽の内容からいっても、おそらく当時もっとも斬新だった音楽でしょう。そして、この前後の明るい村の情景との対比がまたいいわけですね。おそらく当時の観客はこの狼谷の場面にきたら手に汗を握って主人公を見守ったはずです。
 この狼谷のシーンは音楽そのものもおもしろいのですが、それと同時におもしろいと思ったのはオペラというものの形式がここと他の部分とが違うということです。
 つまり、これ以外のシーンでは普通にセリフの入る芝居があり、そのセリフの一部が歌(アリア)となって、セリフ〜アリア〜セリフ〜アリア〜……というかんじで進んでいきます。つまり普通の演劇の一部に、歌手(役者)の見せ場として歌が入るという形式で、この頃のオペラとはこういうものだったんでしょう。
 ところが狼谷のシーンではオーケストラが登場人物の心理の演出や特殊効果を担うようにずっと鳴りつづけ、歌手(役者)は歌らしい歌をうたわなくなります。つまりここでは音楽は歌手(役者)の見せ場ではなく、シーン全体の演出・特殊効果の役割をしています。つまり、オペラが「音楽+演劇」という形式だとすると、それをどうやってプラスするのか、そのプラスのしかたが違う形式が、一つのオペラ作品のなかにシーンによって並列してあるわけですね。
 ワーグナーの場合、『さまよえるオランダ人』の時点ですでに普通のセリフはなく、音楽の演出・特殊効果の役割はぐっと広がっている気がします。つまり狼谷のほうの方法論を中心としての統一がはかられてきている気がします。
 そんなふうに『魔弾の射手』を聴くことで、ワーグナーの当時の新しさというのも理解できました。もっともウェーバーとワーグナーの間に活躍したオペラ作家の作品をぼくは聴いていないので、それがワーグナーが開発した新しさだったのかどうかわからない部分もあるのですが。(『魔弾の射手』の初演は1821年、『さまよえるオランダ人』の作曲は1841年となり、20年の開きがあります)


2006.2.5



 
■ワーグナー『さまよえるオランダ人』


 ワーグナーのオペラに一言づつ現時点で感じたことのコメントをつけていってみます。といってもまだまだ聴き込みは浅いのでご了承を。
 現在一般的によく上演されるワーグナーのオペラのうちでは、『さまよえるオランダ人』は最初期の作品となります。とはいえ、これ以前にもワーグナーは『妖精』『恋愛禁制』『リエンツィ』と3つのオペラを作曲しています。通常これらは無視されてますが、はたして無視していいものかわかりません。とくに『リエンツィ』は当時かなりの評判を呼んだワーグナーの出世作だそうで、ぼくは管弦楽曲集で序曲だけ聴きましたが、かなりいい曲です。
 ではなぜ初期の3作品が無視されるかというと、ルードヴィッヒ二世の全面的な援助を受けてバイロイト祝祭劇場が完成し、ワーグナーが好きなように自作を上演できるようになったときに、ワーグナー自身がこの初期の3作品を演目から外したからだそうです。つまりワーグナー自身が切ったわけですね。
 でも、たいていの場合、作者自身の自己評価とファンや評論家の評価というのは食い違うのが普通です。それを考えると、やはりワーグナーをちゃんと聴こうと思ったら、この初期の3作品も聴くのがスジのような気もします。
 とはいえ、こっちはほんの初心者で、そこまで手がまわらないもので、やはりこの3作品は、いまのところ後の課題にしとこうとおもいます。
 で、結局『さまよえるオランダ人』からいくことにします。

 テーマとなっている「さまよえるオランダ人」の伝説は当時は一般的にけっこう知られていた伝説だったようです。作中でもゼンダは最初から「さまよえるオランダ人」に憧れている少女みたいに描かれていて、最初からこの伝説は作中の世界でも自明なことだという設定になっています。主人公はその伝説のオランダ人が自分のことだということを隠すわけですが。
 思うにこのオランダ人の伝説はマチューリンのゴシック小説『放浪者メルモス』(1820) と似ている気がします。こういうタイプの伝説って当時のヨーロッパで人気のあったものなのかもしれません。
 また、前にここに書いたウェーバーの『魔弾の射手』を聴くと、『さまよえるオランダ人』がこれからだいぶ影響を受けていることがわかります。『魔弾の射手』にあった、村(人間の論理が通用する場所)と、狼谷(人間の論理が通用しない場所)という対比がこの作品の世界観にもあります。この作品内で人間の世界はゼンダたちのいる部屋や水夫たちが酒を飲んでいる港ですね。『魔弾の射手』に「狩人の合唱」があったように、このオペラでも第三幕に「水夫の合唱」があります。対して人間の論理が通用しない世界は海ですね。
 でも、『魔弾の射手』が主人公が人間の世界から人間の論理が通用しない世界へと「魔弾」を取りに行く話だったのとはちょうど逆に、この作品は人間の論理の通用しない世界のほうから人間の世界へと侵入してくる話になっています。いわば人間の論理の通用しない世界のほうが主になっているかんじです。そのため、人間の世界が主になっている『魔弾の射手』に比べて、より不安感がかきたてられる内容になっています。
 さらにいえば、『魔弾の射手』は日常世界から始まって、非日常のアイテムが登場した後、日常世界へ戻っていって終わる話となっています。これは『ドラえもん』なんかと同じで、つまり物語の開始と終わりが同じ世界……、つまり非日常のアイテムによって破壊された日常が回復することでストーリーが終わるストーリー構造になっています。『ドラえもん』だけでなく『水戸黄門』とか、長続きしているシリーズものはだいたいこんな構成のものが多いのですが、とても安定感のある構成といえます。つまり主人公も観客も「日常生活」というものの正しさを何の不安感も抱かず信じている構造です。
 対して『さまよえるオランダ人』はストーリーの終わりには、もう始めの時点の日常には戻りません。一回きりの、くり返しのきかない物語ですね。よりドラマティックな展開であり、登場人物も観客も物語の開始時点での日常というものを、かならずしも信じていない感覚をかんじさせます。そもそもゼンタは最初から日常の内にいても非日常である「オランダ人」にあこがれている少女として登場してきます。
 全体として、明るい日常生活が基調となっていた『魔弾の射手』に比べ、『さまよえるオランダ人』はより非日常の世界への傾倒が大きくなっています。このへんにロマン派趣味の深まりを感じるのは間違ってはいないでしょう。
 そして、そのように非日常の要素が強くなり、よりドラマティックになったストーリーを支え演出するために、音楽の劇的効果がはるかに大きな役割を担っているのを感じます。つまり『魔弾の射手』でいえば狼谷のシーンのような音楽が特殊効果を担っている要素がぐっと広がってきたかんじです。第二幕の途中で狼谷に行く『魔弾の射手』と違って、いきなり序曲から嵐の海を思わせる音楽で、一気に非日常の世界につれていかれます。つまり狼谷のシーンがオペラ全体を呑み込んでしまったような感じです。
 とはいえ、ワーグナーでもこの『さまよえるオランダ人』あたりだとまだ昔ながらのオペラの形式、独立したアリアが並べられて作品を構成するやり方が残っています。ダーラントがオランダ人を紹介するときのアリアなどがそれですね。
 しかし、『魔弾の射手』では当たり前だったこのアリアという手法が、あきらかに違和感を感じさせるものになっています。全体のドラマティックな流れのなかで、独立したアリアが入ってくると、たとえそのアリアがそのキャラの性格や感情をきちんと表しているものであっても違和感がでてくるわけです。
 おそらくワーグナー自身もその違和感を感じたことで、これまでの手法をやめて、後のワーグナー独自の手法を切り開いていったのでしょう。


2006.1.21



 
■ワーグナー『タンホイザー』


 このオペラのストーリーを楽しむには少し予備知識が必要かもしれません。そう思ったのは、ヴェーヌスベルクから帰ってきた主人公がみんなにどこへ行っていたかを聞かれ、それを答えないでごまかす場面を「浮気をしてきたことをごまかしている男のような心境」などと説明している文章を読んだからです。もちろんこれは違います。
 このオペラの舞台は中世ということで、ミンネジンガーなど出てくるのだから、おそらく十二世紀以後のいつかなんでしょうが、この頃はキリスト教の修道院の力が非常に強かった頃で、異教、あるいはキリスト教であっても異端を信仰しているのがバレた場合には殺されるのが普通です。本人が殺されるだけで済めばいいほうで、家族一同、女子供まで皆殺しにされてもおかしくない時代だったと知ってください。じっさい「あいつは異端を信仰している」と疑いをかけられただけで、証拠もなしにガンガン殺されました。これは魔女裁判と同じです。
 こんな時代にヴェーヌス……つまり異教の神ですね……のもとで暮らしていたなどと知られたら、まず殺されます。黙っているか嘘でごまかすのが当たり前です。
 これがわからないと、この後の歌合戦の場面でのサスペンスが理解できません。
 この場面では主人公の対戦相手の歌手はキリスト教的な「愛」について歌うわけです。
 いわゆる恋愛というものは十二世紀のヨーロッパで生まれたものですが、これはもともとはセックスをともなわない精神的な愛の意味でした。キリスト教は基本的に快楽は罪悪だとかんがえますから、セックスは子孫を作るためだけに行うことが正しいとし、夫婦のあいだで子供を作るためだけにするのが神の教えだったわけです。「愛」とは「神の愛」にたいして、人間にもそのような崇高な愛があるのではないかという考えから生まれた概念で、性欲や快楽を求める行為であってはいけないわけです。だから、いわゆる騎士とお姫さまの愛というのは、セックスをともなわない不倫です。(お姫さまの夫(セックスする相手)は別にいるので、愛しあう騎士と姫が結婚することなないのです)
 つまり、主人公の対戦相手はそんなキリスト教的な愛を歌う。それに対して主人公は、そんなのはちゃんちゃらおかしいと、快楽的な性愛をふくめた意味での「愛」を歌ってしまうわけですね。しかし当時としてはこれは神の教えに反する異教的な考えです。つまり主人公は殺されたくないためにヴェーヌスベルクにいたことを隠していたはずが、歌っているうちにだんだんガマンできなくなって、ついアブナいことを歌ってしまった……というシーンなのです。
 そして歌合戦が進んでいくうちに、ついに主人公が我慢できずにヴェーヌス賛歌を歌ってしまいます。つまりこれは自分が異教の徒だと告白したのと同じであり、主人公が殺されることを意味します。だから一同大騒ぎになったわけです。これで放っておけば主人公はなぶり殺しにされたかもしれませんが、ヒロインが必死で助けに入って赦しを請い、そこでヒロインに免じて、ローマ巡礼をすれば、つまり主人公がキリスト教徒として生まれかわり、ローマ法王に赦しを受けたなら命ばかりは助けてやろうという案がでてくるわけです。
 ここのところがわからないと、このストーリーの意味はわからないのではないでしょうか。

 この『タンホイザー』にはドレスデン版とパリ版があります。ドレスデン版が初演に近いかたちであり、パリ版は『トリスタンとイゾルデ』を作曲した後あたりに、大幅な加筆を行った版だそうです。とすると加筆されたパリ版のほうが上かというとそう簡単でもないようで、意見が分かれるところのようです。
 というのも、加筆した部分が『トリスタンとイゾルデ』以後のワーグナー独特の作風になっているもので、もとの部分からあきらかに浮いているわけですね。これは普通に聴いていてわかるほどです。それに、加筆したのがヴェーヌスベルクのシーンだけだったもので、このシーンが必要以上に長く充実してしまい、ストーリー上のバランスが悪くなったという意見も多いようです。
 個人的にはワーグナーのオペラのなかではいまのところ『トリスタンとイゾルデ』と『パルジファル』がとくに好きなもので、トリスタン風の音楽が聴けるパリ版のほうが、浮いていて調和がなかろうが、ストーリー上のバランスがわるかろうが、好きです。
 『トリスタンとイゾルデ』を聴いてからさかのぼってこれを聴いたので、最初のうちは加筆部分ばかりが素晴らしく、他の部分はつまらなく感じました。聴いているうちに、モトの部分もこれはこれで良いと感じるようになりましたが。


2006.2.7



 
■ロマン派


 まえにも書いたんですが、ワーグナーにはロマン派の極みみたいなところがあると思います。そしてワーグナーは演劇と音楽の融合であるオペラという形式を選んだこと、そしてオペラの台本も自分き書いたことでもわかるとおり、文学にも造詣が深く、当時のロマン派の文学からも強い影響を受けた人だと思います。
 当時のドイツのロマン派の文学というのをちょっとみてみることにします。
 ノヴァーリスの絶筆『青い花』が刊行されたのが1802年、ゲーテの『ファウスト』の第一部の刊行が1808年、第ニ部が1833年。ワーグナーは1813年の生まれなので、二十歳のときに『ファウスト』の第二部が刊行されたことになります。
 ホフマンの小説は『黄金の壺』が1814年、『悪魔の美酒』が15〜16年、『ブランビラ王女』が21年となります。
 詳しくは知りませんが、このロマン派文学はイギリスを中心としたゴシック文学とも同時代的な現象のような気がします。
 ゴシック文学は1764年のウォルポール『オトラント城奇譚』に始まり、翻訳されてフランス等にも強く影響を与えたといわれるM・G・ルイスの『マンク』が1796年、ゴシック文学の黄金時代の最後を飾る傑作といわれるマチューリンの『放浪者メルモス』が1820年となります。前にも書きましたがワーグナーの『さまよえるオランダ人』のストーリーは、この『放浪者メルモス』と内容的な共通性を感じます。
 1813年に生まれたワーグナーは、1809年生まれのエドガー・A・ポーの四歳年下にあたり、だいたいこの二人は同時代人となります。

 このようなロマン派の文学の濃厚な匂いを、最初に大がかりに音楽に持ち込んできたのは、しかしワーグナーではなくて、たぶんワーグナーより10歳年上のフランス人、ベルリオーズだったように思えてきました。
 もっと遡ればウェーバーとかいますが、大がかりに、半ば病的なまでに持ち込んでいったという意味ではベルリオーズだったように思えてきました。というか、少し調べてみると、なんだかこのベルリオーズという人もヘンな人で、おもしろくなってきました。
 ということで、ちょっとワーグナーを離れてベルリオーズを聴き直したりしてます。


2006.2.10



 
■ベルリオーズ


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 というわけで、ベルリオーズについて、少し書いてみたいと思います。
 たいていの人はベルリオーズといえば、おそらく『幻想交響曲』しか聴いたことがないと思います。というか、ぼくが最近までそうだったというだけですかね。けれど、この『幻想交響曲』だけはやけに有名で、たいがいクラシックの入門間近のときに聴いてしまうんで、なんとなく「こういうものか」みたいな気分で聴いてしまうのですが(というか、ぼくはそうだったのですが)、かんがえてみるとこれはかなりヘンな作品です。
 そしてそのヘンな部分がベルリオーズの他の作品へとつながっていくのですが、まずはこの『幻想交響曲』を見直してみたいと思います。

 さて『幻想交響曲』。どこがヘンかというと、まず題名がヘンですね。『幻想交響曲』……。ふつうなら『交響曲第何番』となるところですね。『運命』とか『英雄』みたいにサブタイトルが付いている交響曲も多いですが、これはリスナーのほうが言いやすく覚えやすいのでそうしているのが実状なようです。音楽っていうのはつまり単なる音のつらなりですから、歌詞のない音楽はタイトルは番号でいいわけです。同じく歌詞のない音楽であるジャズでも、タイトルのつけかたはきわめていい加減なものが多いです。区別がつけさえすればいいといわんばかりに。
 けれどいきなり『幻想交響曲』なわけです。『交響曲第1番「幻想」』ですらなく『幻想交響曲』。
 ところでベルリオーズには他に2曲、交響曲と分類されている曲があるんですが、タイトルはそれぞれ『イタリアのハロルド』と『ロミオとジュリエット』です。ふつう交響曲のタイトルじゃないですよね。
 それから『幻想交響曲』は楽章が5つあります。
 このことの意味が、ぼくはクラシック入門者だった頃はわかりませんでした(いまでも充分入門者ですが)。楽章なんていくつでもいいじゃないかって思ってたわけです。けれど、そうでもないわけですね。
 西洋文明って数学的な構築性を理想とするところがあるんです。だから音楽も建築と似てくるわけす。例えばベートーヴェンの第五交響曲は全四楽章のうえ、一つの楽章が「提示部」「展開部」「再現部」「コーダ」ときっちり25%づつに分かれているそうで、そういうやりかたが西洋的です。
 例えば本をつくる場合も西洋的な手法では目次にみょうに凝るわけです。つまり、だらだらと書いて、それぞれまとまりがいい所で分けて、小見出しをつければいいわけじゃない。内容が「全体」〜「大きな区分け」〜「それに含まれる小さな区分け」というふうにキチンと分類構成されて、目次を見ただけで本全体の構成・構築性がわかるような書き方を理想とすることろがあります。
 つまり、全5楽章の交響曲を作るというのは、五角形の家をつくるようなもので、やっぱりかなりヘンなのです。


 
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 ベルリオーズは『幻想交響曲』だけがやたら有名で、後の作品は知名度がぐっと落ちます。なぜでしょうか。一発屋なのか、というと、別に他の作品もつまらないわけではなく、評価はされているようです。
 多くの人がベルリオーズの『幻想交響曲』以外の作品について指摘するのは、ムラが多いということです。つまり、一曲のなかにすごくいい部分と、つまらない部分が同居している。だから、傑作だと推しにくい。ということです。
 そんなふうにムラができてしまうというのは、ふつう作者に構成力がない証拠です。構成力のある人は、構成だけでもある程度聴かせてしまうことができるのです。構成力なしにその場の霊感のようなものに頼っていると、いいインスピレーションが浮かんだ部分とそうでない部分でムラができます。ベルリオーズもそうなのでしょう。
 ただし、ベルリオーズの場合、構成力のなさを欠点といってしまうことにも問題のような気がします。構成力がない以前に、構成しようとする意志そのものが希薄なかんじがするのです。それはたぶん、ロマン派の考え方のなかにあるものではないでしょうか。
 どうもロマン派の考え方というのは、西洋が伝統的に理想としてきた数学的構築性に反するもののような気がします。それがとくに顕著に出ているのは、イギリスの庭園だと思います。
 伝統的な西洋の庭園というのは、ベルサイユ宮殿の庭園がいい例で、つまり上空から見おろすと幾何学的な図形になっているような、統一感のある建築的な美しさをねらったものです。
 ところがこの時代イギリスに流行りだした庭園は、だらだらと曲がる遊歩道があって、それにそって歩いていくと次々に新しい風景が開けていくような、それも一つの庭のなかにイタリア風の廃墟や中国風の塔などを配置して、歩いてるだけでさまざまな世界・風景を見られるようにつくられたものです。当然全体としての統一感はまったくなく、構成的な美しさもありません。当時イギリスで流行ったゴシック文学にもそれと同じ趣味があり、総じて構成はわるいのです。
 『幻想交響曲』の全5楽章、それも、自殺を図ってアヘンを大量に飲んだ主人公が見る幻想を外枠とし、第2楽章は舞踏会、第3楽章は田園風景、第4楽章は死刑台への行進、第5楽章は地獄での「ヴァルプルギスの夜の夢」、と次々に風景が変わっていくという作りは、このイギリス風庭園と同じ発想だと思います。つまり美しい構築性ではなく、遊歩道にそってだらだら歩いていると次々に新しい絵が見えてくるかんじを目指してるんじゃないでしょうか。
 このような方法は『幻想交響曲』にかぎりません。『幻想交響曲』はベルリオーズが27歳の時に書いた出世作なわけですが、これ以後、ベルリオーズのこのような傾向はむしろ強化されていくようです。だから、いい部分とつまらない部分が同居しているムラがある作品になっていき、ベートーヴェンみたいな建築的な美しさを賛美する人たちから見れば、あまり傑作として推せない作品になっていくわけですね。
 明日へ続きます。


 
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 『幻想交響曲』の後、ベルリオーズがどんな作品を作ったのか、調べたかぎりで主だったものを書き出してみます。


  幻想交響曲          1830   交響曲
  イタリアのハロルド      1834   交響曲
  レクイエム          1837   宗教音楽
  ベンヴェヌート・チェリーニ  1838   オペラ
  ロミオとジュリエット     1839   劇的交響曲
  ファウストの劫罰       1846   劇的物語
  テ・デウム          1849   宗教音楽
  キリストの幼時        1854   オラトリオ
  トロイ人           1858   オペラ
  ベアトリスとベネディクト   1862   オペレッタ


 書いていて迷ったのはジャンルをどうするかです。いちおう調べて書いてあったとおりに書いておきましたが、『ロミオとジュリエット』と『ファウストの劫罰』と『キリストの幼時』は同一ジャンルとみてもいいと思います。オーケストラに歌唱が加わった、ストーリー性のある標題音楽で、どれもCD1枚にはおさまりきらない大作です。
 たぶん、この人はオペラ作家になりたかったんじゃないでしょうか。統一感のある大伽藍を構築するよりは、変化に富んだストーリー性のある絵を描いていくことに興味あった人ですから。『イタリアのハロルド』はバイロンの長編詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』を下敷きにした、やはりストーリー性のある交響曲ですが、多分こういう方向を目指すなら交響曲よりオペラのほうが形式的に合っている気がします。
 それに当時のフランスはオペラが最も人気のあった音楽のジャンルであり、作曲家はオペラを書くのが人気・収入を得るうえで最も効率がよかったようです。
 けれど、オペラの第一作となる『ベンヴェヌート・チェリーニ』が興行的に大失敗したらしく、あるいはそれで人生が狂ってしまった人なのかもしれません。その後はオペラ的な演劇性・ストーリー性と歌唱と、『幻想交響曲』で大成功をおさめたオーケストレーションを混ぜあわせたような、なんともジャンル分けのしずらい音楽を書きつづけたわけです。
 そして再度オペラに挑戦した『トロイ人』は上演に4時間かかる大作ですが、生前に全幕が上演されることはなかったそうです。
 4時間かかる大作オペラという点でいうわけではありませんが、たぶん彼はワーグナーみたいなことをやりたかったんじゃないでしょうか。つまり、ベルリオーズのようなロマン派趣味が濃厚な人が理想とする音楽を追求していくと、ワーグナーの「楽劇」のような所にたどり着くということではないかと思います。

 さて、その『トロイ人』を今年に入ってからBSで放映していたので観たのですが、ちょっと複雑な印象を抱きました。
 この一作だけで判断するのもなんなのですが、どうもこの人は微妙なところでオペラの適性がなかった人なのかもしれないと思ったのです。
 この「トロイ人」はヴェルギリウスの「アエネーイス」に題材を取ってベルリオーズ自身が台本を書いたものだそうですが、ベルリオーズがそれだけ賭けた大作だけあって音楽的には魅力的な部分もあるのですが、なんだかオペラとしての魅力が薄い気がしたのです。
 いったいオペラというものは、いくら個々は優れた音楽であっても、それがただ並べられているだけではダメでしょう。緩急の差をつけたり、劇的な転換をみせたり、クライマックスを盛り上げるように演出していくドラマティックな構成がなければ、数時間聴かされていると飽きますよ。つまり音楽によるストーリーテリングみたいなものが必要だと思うのです。
 しかしどうも、このオペラはそんなストーリーテリングに欠ける気がするのです。ベルリオーズ自身が台本も書いているので、よけいそう感じるのかもしれません。つまり、シーンとシーンがただ並列にならんでいる感じで、キャラクターの思いが絡まりながら劇的に盛り上がっていくかんじが薄い。そして、そこにつけられた音楽も、そのシーンの情景を描いた音楽としては良い気はするのですが、ストーリーの全体の流れや劇的な盛り上がりを丹念に演出していく感じが薄い気がするのです。
 使い古された感のある「ベルリオーズは音楽による画家である」という言葉が、やっぱり的を射ているのかなという気がしました。この人はある場面、ある情景の標題音楽を作るのは得意でも、音楽によってストーリーを語ることには興味がなかった人なのかもしれないという気がしました。
 このへんに、微妙なところですが、ベルリオーズとワーグナーのオペラというものに対する資質の差があるのかもしれないと思いました。
 それにこのオペラが書かれたのは1858年とありますが、ワーグナーでいえば『ローエングリン』(1848年) の上演は観ていたろうし、翌1859年には『トリスタンとイゾルデ』が書かれていることを思うと、この『トロイ人』の音楽はもう一昔前の作品のように聴こえますね。たとえば和音など、『トリスタンとイゾルデ』のあの幻惑的なまでに繊細で複雑な和音に比べて、あまりにも単純すぎる気がするんです。同時代の作品という気がしません。音楽にけっこう古典的な健康な安定感がかんじられます。ベルリオーズのロマン派趣味からすれば、それはそんなに歓迎されざることのような気がするんですが。
 ベルリオーズはワーグナーと10歳しか違わないわけですが、一時代前の作曲家というかんじがしてしまうのはぼくだけなんでしょうか。


2006.2.11-13






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