美味の決め手はパンのミミ

─ 酵母のお気に入りはベートーヴェンの『田園』!? ─

 3年ほど前のこと、新聞に、「うどんにはヴィヴァルディの『四季』、ベートーヴェンの『田園』は食パンに」という記事が載りました(朝日新聞1993年7月23日)。クラシック音楽でなぜか原料の熟成が活発になり、おいしい食品ができるというのです。残念ながら、この記事ではその理由は明らかにされておらず、「人間が、音楽によってリラックスできるように、酵素や酵母菌も、クラシック音楽を聞くと、その働きが活発になるらしい」といった程度の説明しか与えられていませんでした。
 この興味ある現象を解明したのが、フランスの物理学者ステルンナイメール博士です。記事中の特にパンについて、博士は、「『田園』を聞かせるのは確かに意味がある。だがそれ以上に適切なメロディーがある」と語っています。その根拠は、博士の発見したタンパク質の音楽にあります。
 タンパク質の音楽には、そのタンパク質の合成を盛んにするメロディと、逆にそれを抑えるメロディの2つがあることを思い起こしてください。例えば食品作りにおいて、原料の発酵や醸造の工程がある場合には、使用する酵母に含まれる酵素(その本体はタンパク質です)の音楽を聞かせることによって、その酵素の働きを活発にしたり、抑えたりできるのです。その結果、食品の味に影響が現われることになります。

特製メロディでパン酵母は元気百倍。

 パンの主な材料は小麦粉と水とパン酵母ですが、材料が同じであれば、おいしいパンができるかどうかのカギは酵母が握っています。そこで、パン生地を熟成させるとき、酵母の中にあって発酵で重要な役割を果たすアルコール・デヒドロゲナーゼ(ADH)という酵素の働きを、この酵素の音楽でうまく促進してやると、おいしいパンを作ることができます。
 実際、“音楽パン”と音楽をまったく聞かせない普通のパンで味がどれほど違うかブラインドテストをしてみたところ、音楽パンのほうが断然好まれることがわかりました。
 ところで、『田園』でおいしいパンができる理由ですが、ステルンナイメール博士は、「ADHの働きを活発にするメロディの一部が、『田園』の第1楽章のテーマに含まれているからだ」と分析しています。ですからパンにとっては、『田園』の全体は不要で、第1楽章があれば十分なのです。
 でも、パン酵母に尋ねることができるなら、きっと、「『田園』もいいけれど、ADHのメロディのほうが気持ちよくて好き!」と声を揃えて言うことでしょう。

タンパク質の“音薬”で食生活が豊かになる。

 タンパク質の音楽とクラシックをはじめとする既存の音楽の違いは、端的に言えば、特効薬と食べ物の違いに相当します。つまり、タンパク質の音楽は、そのメロディ全部が有効成分であるのに対し、既存の音楽は、有効な部分を含むことがあるといった違いです。ですから、タンパク質の音楽を象徴的に“音薬”と表現してもよいでしょう。ただ、あらゆる特効薬と同様、取り扱いには十分な注意が必要です。
 パン作りに『田園』がよいことがわかるまで、試行錯誤でいろいろな曲が試されたに違いありません。ステルンナイメール博士によると、「無作為に選んだ音楽を聞かせる場合には、効果が出るまでに少なくとも1か月以上かかる」とのことです。つまり、ある程度短い時間で効果を出すには、聞かせる音楽は何でもよいというわけにはいかないのです。
 とにかくタンパク質の音楽が優れているのは、目指す効果を出すのに使うべきメロディーが理論的に導き出せ、しかもクラシックなどの音楽を使う場合よりもはるかに早く同じ効果をもたらすことができる点です。例えばパンの場合ですが、新聞記事には、「焼き上げる前にイースト菌を72時間熟成させ、その間に『田園』を聞かせる。熟成時間には通常の十数倍かけた」と書かれています。一方、酵素がうまく働くようにするためにADHの音楽を聞かせた時間は1時間30分ですから、効率は約50倍にもなっています。
 近い将来、タンパク質の音楽を利用することによって、今まで以上においしいパンが食べられたり、味のよいビールやワイン、日本酒が飲めるようになったり、味噌、醤油の品質が向上したりして食生活が豊かになることを期待したいものです。