音楽パン

 九十年代の初め、パスコがベートーヴェンの『田園』を聞かせたパンを注文生産していた時期がある。パン生地を熟成させるのに通常よりもはるかに長い七十二時間かけ、その間、音楽を流すのだ。マイルドで香ばしく、コクもあり、風味豊かな美味しいパンができたという。ただ、手間をかけた分だけ値段も高いため、贈答用などに使われたらしい。イメージもよく、話題性があったのだろう。

 でも、なぜ『田園』なのだろうか。

 この興味ある現象を《タンパク質の音楽》の観点から説明したのが、ステルンナイメール博士である。

 パンの主な材料は小麦粉と水とパン酵母だが、材料が同じであれば、おいしいパンを作るカギは酵母が握っている。それだからパン生地を熟成させるとき、酵母の中にあって発酵で重要な役割を果たすアルコール・デヒドロゲナーゼ(ADH)という酵素(=タンパク質)の働きを音楽でうまく促進してやればよい。用いるのはもちろん、ADHのアミノ酸配列を解読したメロディである。

 実際に《音楽パン》と音楽をまったく聞かせない普通のパンを作り、味の違いがわかるかどうかブラインドテストで調べることになった。その参加者として、三十人ほどが集まった。結果は予想通り。音楽パンのほうが断然好まれたのだ。

 さて『田園』に戻ると、下の楽譜に示したように、ADHの働きを促進するメロディの一部が第一楽章に含まれていることがわかる。これこそが、『田園』で美味しいパンができた理由なのである。

 しかしパン作りに関する限り、ADHのメロディと『田園』には注目すべき大きな違いがある。効率がまったく違うのだ。ADHの音楽を聞かせたのは一時間半。ごく普通の熟成時間である。『田園』の七十二時間とは五十倍近い差がある。

 それというのも、ADHのメロディのほうは曲全体がパン作りに有効であるのに対し、『田園』はほんの一部だけが有効なメロディになっているからだ。それでも、単なる思いつきで他の有名なクラシックなどを選ぶなら、効果が出るまでに一ヶ月以上かかるはずである。そうした有効さの程度は、メロディに含まれる情報量の計算からわかるのだ。

 近い将来、発酵や醸造の過程を含む食品作りにおいてタンパク質の音楽が利用されるようになれば、たいした手間もかけずに今まで以上においしいパンが食べられたり、味のよいビールやワイン、日本酒が飲めるようになったり、味噌、醤油の品質が向上したりするようになるはずだ。そうやって食生活が豊かになることを期待したいものである。