計算論的神経科学


計算論的神経科学とは、脳と同じ方法で機能を実現できる計算機のプログラムあるいは人工的な機械を作れる程度に、脳の機能を深く本質的に理解することを目指すアプローチと定義されます。(川人光男:脳の計算理論、産業図書1996)

平たく言えば、伝統的な医学生理学のアプローチが、解剖や生理などハードウエアからボトムアップ式に脳を理解しようとしているのに対し、脳の入出力や行っている計算から、それを可能にしている仕組みを解明することによって脳を理解しようという、トップダウン的な方法論といえます。
例えば、コンピュータをばらばらにして顕微鏡やテスタで調べることによってハードウエアの理解はできても、OSやソフトウエアまでは理解できないのと同じです。

これらの方法論はどちらか一方が重要というわけではなく、両者を同時進行させることによって、本当の脳の理解が可能になるといえます。ただ、計算論的神経科学はこれまでの医学の伝統的な方法とは異なるため、医学の世界で十分に理解されているとはいえないこと残念なことです。しかし、運動制御を例にとりますと、解剖学や生理学的知見を包括しながら制御や学習の本質に迫る理論等が計算論の立場から提案され、盛んに議論されています。このことを医学者や臨床家としても知っておく必要があるのではないでしょうか?


以下に、運動の最適軌道を生成する評価関数についての議論のあらましを述べます。(詳しくは推薦書籍をご覧下さい)
<運動制御>のページでも述べました通り、最適な運動軌道の解は一意ではありません。つまり、どんな軌道を通ることも可能なのに、実際にはある1つの最適な軌道が選択されているわけです。この場合の「軌道」とは、どの座標を通ったかという「軌跡」だけでなく、速度や加速度といった時間の要素も含んでいます。つまり、最適軌道はほぼ直線の軌跡を通るだけでなく、1つだけピークをもつベル型の速度波形をしているという特徴をもっていることがわかっています。

それでは、どのようなモデルが正しく最適な軌道を予測できるのでしょうか?
Flash&Hoganは躍度最小モデルという最適化の理論を提案しました。躍度というのは加速度の微分で、英語ではjerkといいます。最適軌道はこの躍度が最小になるように計画されているというのです。この理論は、実験データとよく一致しており、人間が行っているなめらかな運動を理論的に表わすことに成功したように見えました。
ところが、Uno & Kawato(宇野、川人)は異論を唱えました。腕には重さ、慣性があり、それにトルクが加わって運動が発現するわけですから、躍度最小モデルのようなキネマティックなモデルでは不十分で、ダイナミックな面を含めて考えたモデルであるべきだというわけです。それがトルク変化最小モデルです。トルク変化最小モデルは、各関節のトルクの変化の2乗の総和の運動時間分の積分値が最小になるように、軌道が計画されているという理論で、経由点を通る運動、外力がかかる運動などで、躍度最小モデルより実験データをよく予測することができました。
その後宇野らは、筋骨格系が関節トルクを直接モニターすることはできないことから、筋張力変化最小モデルを提案しています。さらにKawatoらは、なめらかさの拘束条件が末梢より中枢にある方が自然ではないかということなどの理由から、運動指令変化最小モデルへと理論を拡張しています。

ごくごく簡単に軌道生成の計算理論を述べましたが、それを実現する神経回路の研究、小脳の運動学習の研究、感覚運動統合の双方向性理論、基底核での強化学習理論など、リハビリ医学からみても魅力ある理論が多くあります。(つづく)

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