不思議な投稿が二本、本誌のバーチャル編集部に届けられた。

 いずれもかつて本誌が特集した、ヴァーリトゥードと最強論議を巡る特集「最強論の憂鬱」に対して、自説を
開陳したものである。一本はその特集でも健筆を振るってくれたノリリン氏の新しい原稿で、文化人類学的見地か
ら神事としての格闘技の発達を語り、プロレス=究極の格闘技という自説に援用する壮大な宗教・格闘技論。
 
 もう一本は、謎の筆者”格・評論家Ω”氏による、NHBの正当性を擁護する一見オーソドックスな論文である。
しかし、その内容は良く読むと、格闘技の直接性・実践性からVTを擁護する主張を、カリカチュアしたようなニ
ュアンスが感じられる。恐らくこれを書いた筆者は、この文章全体を反語表現のように機能させることを望んでい
るのかも知れない。また、文体にもわざと読みにくくしているような、奇妙な生硬さがある。まるで、”下手な”
文体をわざわざ模写をして、原著の拙さを揶揄するようなわざとらしさがある。多分、原著者は堅苦しく退屈な文
章しか書けない人なのであろう。なぜ”格・評論家Ω”氏が、そんな奇妙なパロディをやらねばならないのかは不
明だが。

 この二本の奇妙な共鳴関係にある。
 
 同日、同時刻に編集部当てに届けられていること。テーマが通底していることは仕方ないにしても、”偶然”別
々の筆者が同時多発的に執筆を進めていたはずにもかかわらず、文中には相互の主張に対する言及があり、呼応し
た、まるで”暗黙の了解”のように美しいコールアンドレスポンス関係の論理展開が、そこここに散見される。
 これを、見事なシンクロ二シティと考えてあの世のユング博士をよろこばせるべきか、それとも超常現象と認定
して精神病院に自主入院を申し出るべきかはかなり議論の別れるところである。が、まあここは一つ、新春という
とで、「見て見ぬふり」という日本の伝統芸能を駆使して、同時掲載に踏みきることにした。

 「一人××なのは見え見え」とか「メールのアドレスを見りゃ判るだろう」とかいう乱暴な意見は一切無視する。
気持ちは判るが、この際そんなものは、ジョー樋口のカウント2・9のようにセーフにしてしまう事にした。なん
でだって? うるさいな、理由?  正月だから!(笑)ちゃんと新春特別寄稿って書いてあるだろ。いいんだよ。
カラーひよこだって、透視カメラだって、正月のうちはオッケーなんだからさ。 
                                           (無頼庵)

貴兄のHPの特集”最強論の憂鬱”を読ましていただいた。

しかし、掲載されておるのは貴兄の序論、中途半端な上村氏の論文、女々しく不愉快・不可解なノリリンの論文のみで、VTをめぐる最強論の論を尽くしているとはとても言えぬ。「ヴァーリ・トゥードに代表される”なんでもあり”の格闘技こそ、最高であり、最強であり、真の格闘技である」という明快な主張が何故取り上げられないのだ。その様な主張が編集的に誌面から取り除かれたのでないのならば、主張を十分に繰り広げられるVTの宣教師が不足しているのではないか。そこで、小生が拙文を貴誌に投稿する次第である。

新春特別対論! 「最強論の憂鬱」ふたたび・part1

最強の格闘技とその影法師達

格・評論家Ω

元始、格闘技は戦いであった。人間というのは同族を殺す動物である。互いに争い、力を競い、強いものがより多くの子孫を残してきた。また種のためにも強い者が沢山の子孫を残さねばならぬ。強い者の強さの裏づけになる戦い。それを勝ち抜く技術がまとめられたものが格闘技である。元始の格闘が文明化の及ばない生存・子孫繁栄のための戦い、強者を選抜するための戦いであったとすれば、格闘技の原型ともいうべき元始の格闘技は今の明文化されたルールを持つ文明化された格闘技とは異なった物であったろう。

今の文明化された格闘技にとって、ルールというのは安全に試合を行うための一種の事前談合である。しかし、生存のための戦いを行うに当たってその様なことがあり得るであろうか?当然、元始の格闘技はその様な細かいルールの制限のない物であったはずである。それは今までは失われた究極の格闘技であったはずだ。

対して、今の文明化された格闘技はどうであろう。空手は殴る蹴る突く。しかし、投げる、押さえる、極める、絞めるを禁ずる。柔道は投げる押さえる極める絞める。しかし、殴る蹴るを禁ずる。サンボは首を絞めるのを禁ずる。殴る蹴る投げる極める絞めるを許す総合格闘技においても、安全性の美名のもと禁じ手は多い。プロレス系総合格闘技などはルールの複雑さを自慢する有りさまだ。パンクラスやリングスのことだ。

今の文明化された格闘技は多くを禁じ、可能な技のうち一部のみの使用を許すのである。つまり究極の格闘技から、幾つかの要素を抜き出して組み合わせただけの物達が今や格闘技の名をせん称(私のマシンでは変換できなかった。bryann 君、変換してくれ給え)しているのである。いってみれば今の格闘技など、およそ究極の格闘技分解された因数の組み合わせにすぎない。究極の格闘技を実体とするとその影法師のような存在でしかない。

しかし、究極の格闘技の復活が不可能な以上、本能的に最強をめざす格闘家達が最も制限の少ないその最大の因数であるVTの旗の元に集まるのは当然のことである。そして、その最も危険な究極の格闘技に近いVTに参加することが出来るかどうかが、真の格闘家であるかどうかのリトマス試験紙ともなる。であるから、真の格闘家はVTに参加するかどうかできまり、最強の格闘家はその中から選ばれるのが当然だ。究極の格闘技に一番近いVTに当然の権利として”最強の”格闘技の名を贈ると、今の格闘技界をめぐる状態は、最強の格闘技とその影法師達の最終戦争であるということが明らかとなる。

一方観る側はどうであろう。何故格闘技を興奮して観る者(ファン)が存在するのか。強者への憧憬か?それはあるであろう。しかし、なぜ強い者に憧れねばならないのか。私はそれを還元して以下の命題を得た。

「格闘技の興奮は、それが味あわせてくれる死の予感と戦慄から来る」

究極の格闘技は本来子孫を含めた命のやり取りであった。戦い破れた方は、死ぬか不具になるか、運が良くても子孫を残せない。究極の格闘技をみた者、我々の祖先は死の予感と戦慄を感じたであろう。同時にそれは強者の持つ性的な魅力の裏付けでもある。我々に潜む強者への憧憬死の予感と戦慄は裏表の関係で不可避的に結びついている。これが格闘技の魅力の本質である。

そうである以上、最終的な相手の破壊に至らない技は単なる見せ技、孔雀が羽を広げるようなディスプレイにすぎない。ボクシングはただ殴るだけという殆ど格闘技とも言えない単純な見せ物だが、時折死の戦慄をかいま見せる壮絶なKOシーンがあるため命脈を保っている。死の戦慄は他にもK-1のKOシーンや、絞め技のある格闘技で目を剥いて泡を噴きながら首絞めに耐える選手の姿などからも漂ってくる。

投げて勝ちとか、効く効かないに関係なく手数の多い方が勝ちとか、ロープ・エスケープの少ない方が勝ちとかというのでは全くもって死の戦慄からはほど遠い。その様な実際の戦いからほど遠いパラメーターで勝負を決するようでは、影法師の格闘技達は真の興奮をファンに与えることが出来ない。やがて優れた格闘技の登場によって淘汰されてしまうのである。

今の所、究極の格闘技の最大の因数であると思われるVTではどうであろう。わずかな制限しかない危険なルールの元で、相手の戦闘能力を奪うことのみに専心して繰り出される技と男達から湧き出てくる死の予感と戦慄がVTを最もスペクタクルな格闘技たらしめている。究極の格闘技の最も近似した姿であり、その本来の魅力を引き継ぐVTが世間の耳目を集めるのは必然である。

しかし、VTも単に因数のうち最大、影法師のうち最高であるにすぎない。当然問題がある。

一つには目潰し・金的・噛みつき・頭突きのことである。噛みつきは大きな問題ではない。単に試合前に充分口内を消毒した上、認めればいいのである。レフェリーがいる以上ハイキックや顔面パンチ程危険ではない。ただ野蛮に見えるだけの問題である。金的、目潰しは特殊なプロテクターを着けた上で認めれば問題はない。目には視野を遮らないゴーグルを付け、それを充分強く触られた場合はマジックで黒く塗りつぶして視野を奪った上で試合を続行すればよい。金的の場合は事前に各選手の金的に打撃を加え、どれくらい耐えられるかを計算した上、ファールカップ着用を義務づける。金的に打撃が加わるごとにコンピューターで解析して、ある程度以上の打撃を受けた側の選手は負けか、あるいは蛯の形で金的を押さえ飛び跳ねながら相手と戦うことを義務づける。頭突き?確かに危険だが、危険が怖いならあやとりでもしていればいい。マウントの状態で手を押さえあって、そのまま最大の武器である頭を使わないなどと言うことがはたして許されるべきであろうか?

これらの改善で、攻撃上の制限が減りさらに一歩一歩究極の格闘技に近づける。特に前述の目潰しの導入は重要である。目潰しがあるかないかで、タックルの間合いやスタイルが変わってくると思われるからである。目潰しが有りの場合、自分の目を守る手段を考えながらタックルをせねばならない。タックルの時は自分の顔が相手に近い上、自分の手を防御に使えない状態だからである。具体的には相手の体に自分の顔面を密着させて、目を守りながらタックルするような手段が必要になってくると思うが、今普段に行われている方法・形とは大いに異なる。おそらく、これにより打撃系の選手に道が開けてくるようになる。勿論、実際にプロテクター無しの目潰し・金的蹴りが行えた方が各人の勇気まで試すことが出来るので素晴らしいが、今の世の中では不可能であろう。

見逃されがちであるが闘場の大きさも問題がある。充分大きくないと合気道のように走り回る格闘技には不利であろう。

もう一つの問題は、武器を使わず、一対一という格闘がどこが実戦的かという批判である。武器を使うかどうかというのは大きな問題ではない。ばかげた問題である。武器を持てばもはや格闘技とは言えない。畳敷きの闘場で柔術・忍術の高段者が畳返しを使った場合、凶器とするかどうかと言うのは熟慮を要する問題であるが・・・(なぜなら、投げというのは相手を闘場にたたきつける技。それが有りならば理論的には闘場を相手にたたきつけるのも等価であり、認められても不思議はない。)

しかし、一対一というのは熟慮が必要である。なぜなら、最強の男(女権主義者のために人間と書いてもいい)を決めるために一対一で戦っていれば、AにBが勝ち、BにCがかったが、AとCが戦うとAが勝ってしまったということが起こりうるからである。大体、一対一と誰が決めたのだ?一対一、XXvsXXなどというのは愚かな興行主義の生んだまやかしの形式にすぎない。だから大きめの闘場を用意し、バトルロイヤルの形式で一斉に戦うVT戦が、例え実験的にせよ、どうしても必要であると私は考える。

いま現実に行われているVT戦は所詮興行にすぎない。VTまたは上述の改善を施したVTが興行としてではなく、真の格闘技で真の最強をめざす真のファイター達の命がけの究極の格闘技として行われる日は近い。

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