杉山淳制作のホームページがトッ散らかり過ぎ!!

ということでプロフィールだけでもまとめます。

1956年1月23日

静岡県清水市(現在静岡市)三保の日本軽金属清水工場社宅の木造アパート内にて生まれる。

両親共働き。

この出生に際して父親「繁」は母親「君子」の勤める三保郵便局局長と生まれてくる子供が男子か女子かで負けた方が酒を奢る賭けをした。この結果、男子誕生に賭けた繁が見事勝ったのだが、嬉しさのあまり賭けの事は忘れてしまい、局長とともにその日は全て繁のおごりで酒盛りが行われたと言う。

1959年1月

相生保育園事前入園。

3歳の誕生日と同時に相生保育園に、正式な入園式前に入園してしまった。なぜかというと、共働きをしていた両親は出産後間もなく私を近所に住んでいた、母方の祖母「きくえ」に預けたのだが、祖母が近所から引っ越してしまったためである。保育園での保育が終わると、首から下げた「くまさん」のお財布に入った5円で保育園の近くの「白浜」バス停から郵便局のある「本村」バス停まで一人でバスに乗って帰った。そのころ道を走る自動車は全て車種名が言えた。

1959年4月

相生保育園の正式な入園式。

この時に自分がまた年少組に入るということで、友達と離れる悲しさのあまり、泣きまくった。ちなみに3年保育の場合の組の名前は、年少から「梅組」「桜組」「松組」という。1年保育の組は「竹組」である。

1962年3月

相生保育園卒園。

卒園式の時には園児代表として「別れの言葉」を一人で語った。書いたものは一切読まず、全て暗記した。この頃から暗譜の才能が芽生えたのか?

1962年4月

三保小学校入学。(現在、静岡市立三保第一小学校)

どんな顔なのか忘れてしまったが(名前さえも)隣に座った女の子を好きになった。惚れっぽさもこのころからか。

1963年頃

肥満児になる。直接の原因かどうか解らないが、扁桃腺除去手術をしたとたんに太りだした。それまでは痩せっぽちだったのだが…これから30年あまりデブの生活がつづくことになる。

1964年

東京オリンピック開催。開会式は家のテレビで見た。聖火点灯のとき後ろにあったカメラのようなものが その後ずっと気になっている。

小学生時代

ダブルインカムという言葉は未だ無かったが「共稼ぎ」「鍵っ子」「肥満児」という時代の最先端の言葉を地でいっていた。忘れ物も多かった。習字の道具は毎週忘れまい週家まで走って取りに帰っていた。社会科の白地図もついに1年間学校に持っていく事は無かった。

忘れ物をしないように、学校の机の中は教科書で溢れかえっていたが、それでも忘物大将。

給食は大好きだった。当時の人間はみんなあのアルマイトの容器に入った「脱脂粉乳」が嫌だったと言うが、私は好きだったぞ。食べるのは、デブにありがちで、無茶苦茶早かった。学校中の誰よりも早く食べ終わり、一人校庭で遊ぶのが好きだった。

幼少期の思い出のテレビ番組

「恐怖のミイラ男」「月光仮面」「鉄人28号」(実写版)「お笑い三人組」「ジェスチャー」「危険信号」「少年ケニア」「ライフルマン」「ララミー牧場」「隠密剣士」「プロレス」「ディズニーワールド」「ブーフーウー(お母さんと一緒)」「シャボン玉ホリデー」「忍者部隊月光」「赤穂浪士」「おはなはん」「夢で逢いましょう」「暗やみ五段」「狼少年ケン」「風のフジ丸」「鉄腕アトム」「8マン」「少年ジェッター」「光速エスパー」「ウルトラQ」「クイズグランプリ」「ベルトクイズQ&Q」「ルーシーショー」「コンバット」「ナポレオンソロ」「トムとジェリー」「ひょっこりひょうたん島」「ふるさとの歌まつり」

ううむ年代錯綜!

音楽との出会い

幼い頃から、歌謡曲などの音楽は好きだった。

保育園時代は「YAMAHAのオルガン教室(ピアノじゃないよ)に入りたい!!」と親にせがんだが、「あんなもの(!!)女の子のやるものだ」とあっさり却下。

カトリック系の保育園だったから聖歌はよく歌わされた。因に「もろびとこぞりて」の「しゅはきませり」の意味がやっと分かったのは中学生になってからのことである。「アーメン」のあとに「ラーメンソーメン」と付け加えていた不届きものは私である。

小学生の頃は器楽は好きだった。一年生の時に「カエルの歌の階名を書いてきなさい」と担任に言われたが、全く何のことやらチンプンカンプン。母親の勤めていた郵便局の電報配達の職員(昔はこんなこともやっていたのだよ郵便局)にギターで弾いてもらったが、その彼も、後から考えてみれば、全く音楽の素養がなかったらしくカエルの歌にさえならなかった。階名など別世界の言語だった。まあそれでもハーモニカやスペリオパイプ(昔はリコーダーとはいっていなかった)を学校帰りに適当にピーヒャラやりながら帰っていたものだった。

小学校4年生の時に全校朝会で「スケーターズワルツ」を演奏することになった。どういう経緯か忘れたが、私は「すず」のパートになった。左手に鈴を持ち、その左手を右手で叩くという作業は単純でつまらなかったが「ああ、合奏に参加している」と小さな喜びを感じた。

小学校5年になったある昼休みのこと校内放送で「クラブ活動に入っていない5年生児童は渡り廊下に集まりなさい」とアナウンスされた。何の疑いもなくのこのこと渡り廊下に出かけた私は、有無をいわされずに「鼓笛隊」に入部させられた。その年から転任してきた「中村先生」は器楽合奏では清水地区では厳しくて有名な先生だったようだ。毎日が戦々恐々な部活動の日が続く。デブな私はシンバル!!重くてたたく箇所の少ない楽器だった。当時の花形楽器はなんといっても大太鼓。先輩の6年生の人はかっこ良く見えた。同級生の川口君はうらやましかった。(川口君は後に中学ではUフォニアム、そして高校ではコントラバス。そしてなんと東大に入りオーケストラに所属、その後音楽家と結婚したという噂あり。また川口君の兄は中学ではTUBAを担当しており彼からファーストレッスンを後に受けることになるのである)

シンバル奏者としてデビューしたのであるが、基本的に「いや」だった。ユニフォームなどは当時はないから体操服で演奏をするのであるが、重くて持っていられないので短パンのゴムの部分に楽器の先端を引っ掛けて支えていた。パレードを仮病を使って休んだこともある。

 

肩書き

上野の森ブラス テューバ奏者

SOPROS BRASILテューバ奏者

(ううむ暇人の極致)