飯塚浩二「北緯七十九度」 を読む

飯塚浩二 (1906-1970) 東京本郷の生まれ。東京帝国大学経済学部を卒業。フランス留学のあと、東京大学東洋文化研究所教授などを歴任。学位は京都大学。理学部の地理学教室とは一定の距離を置きながら、自然科学的な機械論的景観論を批判、社会科学としての地理学を主張した。日本のマルクス主義経済地理学に大きな影響を与えた。達意の文章で比較文化論も展開し、地理学関係者のみならず、広く大衆に読まれた。

本の内容

'33 年夏、飯塚浩二が フーコー (Foucauld) 号 (排水量 16,000 トン) の北洋遊覧の船客として、Iceland, Svalbard 等を訪れたときの紀行文です。
その途中、19th July (Wed) に Longyearbyen に上陸しています。
昼食後に上陸してから 17時過ぎに出港するまでの短い滞在の記録ですが、街の中を歩き、炭坑の中に入り、坑夫の食堂で話をするなど、充実した半日だったようです。
当時は Longyear City としか呼ばれていなかったようで、観光で訪れる分には、Advent Bay が目的地で、その湾内に街があるので上陸した、という印象です。他の寄港地に比べて書き方もあっさりしているように思われます。景色が目的の船旅なのに、大した眺めではなかったからでしょうが、地質の観察はさすが。('26 に Longyear City → Longyearbyen と改名されたことになっているが)。
台地の一端だが、「たゞ暗い土色にくすんだ何の愛想もない景色で」(p. 105, l. 5)、船客の興味も景色ではなく空模様のみだったようです。 Longyear City の人口 600, 全島の人口の半分が生活 (p. 105, l 13)、と記されているが、General Information … によっても、'34 〜 '35 には人口 550 と載っている。

街並み

map 1933map 2002
1933 年推定地図2002 年地図
ロングイヤ・シティの本部は此處 (青山 注 : 桟橋) から一本道を少しく上つた所に東向きの谷壁の麓を占めて南北の方向に建ち並んだ四十棟足らずの小聚落である。其の中に郵便局が一棟、繪葉書などは此處で賣つてゐる。それから坑夫の共同食堂が一棟。何れも何の装飾もない木造である。」(p. 106, l. 8)
1935
その様子は、この写真のとおりだったに違いありません。(注 : 写真は '35年。unis のもの。上記 1933 年推定地図の「写真A」のように撮影されたと推測されます。)
第2坑口へ川の丸木橋を渡っていったようなので、街並みは今の museum くらいまでしかなかったと考えられます。ちなみに、もっと川の上流にある Sverdrupbyen が開かれたのは これから 4年後の '37。

第2坑口

July '33 当時に採炭していた坑口は 2a ただ一つです。だから、飯塚が中に入った炭坑はこれだったに違いありません。 「灣の東岸の山腹にも炭坑が開発されてゐるとみえて、黒いバケツが默々として動いて行くのが認められる。」(p. 106, l. 5) 川を「丸木橋」で渡った (p. 107, l. 15) , 「蕪雑な河原を横切って向ひ側の谷壁の高所に開口した炭坑へ通じてゐる。」(p. 106, l. 16) との記述と合致します。
当時は、「坑夫達の職場往復用に、麓から坑口までの約二○○米の間は、氷蝕谷の谷壁らしく急峻な昇り途にケーブルカーが設備してある」(p. 107, l. 1) とあることから、ケーブルカーがあったにちがいありません。 「此のケーブルカーによる上昇の數分間に刻々展開して行く眺望は仲々優秀な物であった。」(p. 107, l. 11) というのは、そのとおりだったでしょう。
Longyearbyen の炭層は山腹を入口として水平になっているのが特徴なので、「坑道は入口から水平に掘りひろげられてあつた。炭鉱内を案内されるのは」(p. 108, l. 2) もそのとおりでしょう。
ちなみに、Barentsburg は炭層が斜めになっているので、海底に掘り進まなければならない不利があります。

ロープウェー

「積み出しの工程は十分に機械化されて居り、山腹にある坑口と棧橋との間は高架の鐵索によつて直接に連結されてゐる。高壓送電線の支柱そのまゝの櫓が無雑作に山腹を横切つて數粁にわたつて立ち並んでゐる間を、送炭用の頑固なバケツが絶え間なく運轉してゐる。」(p. 106, l. 2), 第2坑口から「黒いバケツが默々として動いて行く」という、積み出し桟橋へのロープウェーは、今はそれと分かるものは残ってません。
2a 坑口は、LIA の奥にあったようです。
第2炭坑は 2a 坑口の他に、2b 坑口もあり、その坑口と、そこから港へのロープウェーの支柱の列は、現在も残っており、写真B の位置から、第2坑口を見上げると、支柱が一列に並んでいます。
2b坑口からのロープウェー支柱
from valleyfrom valley
谷底から見上げる。支柱がどの程度大きいかは、基部に立つ筆者と比べてくださいやや横から見上げる。右上が坑口
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坑夫の給与

飯塚は「もう相當な年配らしい立派な顔立ちをした坑夫」と話をしている。
「此處での勞働は 8h/日, 労賃は日給 3.8kr (1年前に渡って來たばかりだから廉い方)」とある。
「何年も働く者は少なく、此んな邊境へは誰も皆金を溜めに來ているだけのことで、纏つた金が身につき次第くにへ歸るのだ」そうだ。
最近の事情ははっきりしない点もあるが、このような事情は古今大きくは変わっていないと思われます。
General Information "Mine 1a" によれば、'06 〜 '16 では、労働 10h/日, 労賃 6kr/h、労働者のほとんどはノルウェー人の由。
労働時間は短くなっているが、労賃はかなり安くなっています。
'29 には世界恐慌があって、労働者が流れ込んできた、というのと関係あるかもしれませんが、わかりません

食堂給仕の娘

炭鉱内に入った後に、「町へ戻って坑夫達の食堂へ入つてみた」(p.109, l. 1)。昭和初年頃の東大の学生第一食堂に面影がよく似ている、と書かれている。東大食堂のコーヒーは「雑布水を沸かしたやうなの」だったそうだが、ここの坑夫食堂のは、「ちゃんと味も香もあるコーヒーを持つて來て呉れた」そうだ。
それはとにかく、「給仕の若い娘さん達」は飯塚の観察に依れば、「健やかな、スカンヂナヴィア的な、正にこれツォルン描く所の女性である」(p. 109, l. 3)。
また、坑夫食堂の男の話として、「此の食堂に働いてゐる娘達は孤兒院から連れて來たのだ。」(p. 110, l. 1)。 General Information "Longyearbyen" によれば、「'29 には女性 4人が mess-hall attendants として雇われ、わずか後に12人増えた」ことになっています。 当時、Longyearbyen 在住の女性は冬季に交通途絶する前に妊娠検査を受けなくてはならず、その検査を拒否したり、陽性であったりしたら、本土へ強制送還された由。

Barentsburg

翌 20th July 朝には Barentsburg に停泊した状態で目覚めたようだけれども、船上から見た街の様子が極めて短く記述されているのみで、上陸記はありません。
本文中には、Barentsburg ではなく、Green Harbour と記載されています。
記録に依れば、Barentsburg と改名されたのが、'21 〜 '26。
Trust Arktikgol がオランダから 権利を買ったのが 25th July, '32 なので、 飯塚訪問当時は、ソ連の町になったばかりだったと思われます。

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Last Modified : 18th July, 2011