前回同様、Alaska 鉄道 (以下「ARR」と略す) の Anchorage 駅を見下ろす部屋になりました。夜中でも機関車の汽笛の音が聞こえてくるのも前回と同じ。おちおち眠っていられません。オレンジ色の街灯に照らし出されたその奥、駅舎の影になってよく見えませんが、すでに列車が駅に据え付けられているようです。
06:30 をかなり過ぎて、少しばかり明るくなったところを目を凝らしてみると、最後尾に vista dome 車を 繋げた 6 両編成くらいです ! な、なんだ、これは! せいぜい、ディーゼルカー 3 両くらいと思っていたのに!「へぇ〜」と驚いて、朝ご飯を興奮状態で食べ、荷物をまとめて駅へ出向くと、いつの間にすり変わったのか、DL 1 両に客車 2 両でした。
拍子抜けがしましたが、それでも、客車が 2 両も繋がっている、のは「そんなに客がいるのか」と驚きでした。
そんなに広いとはいえない駅舎の中は既に客がたくさんいました。改札口に対して整列しているとおぼしき列の後ろの方は左右に広がっていて、どこが列の後端かわかりません。しかも、皆、週 1 便の列車を目的に乗るのですから、荷物がたくさんです。単なる旅行客のスーツケース, 沿線住民の生活物資 …
係員が改札口で何やら大声を上げ、口を開けると、客が列車へ殺到しました。日本の新幹線の始発駅での自由席の乗車に似ている、と言えばわかりやすいでしょうか?
各自の大荷物は、やはり、入口での渋滞の元です。先頭の車両には専用のスーツケース置き場がデッキのところにありました (成田エクスプレスの荷物置き場に似ている) が、後部の車両では、座席の最後部 3列をが自然発生的に荷物置き場になりました。
どどど、と乗り込む時の勢いはすさまじくても、全員が座ってようやく座席の半分が埋まるくらいです。落ち着いてみれば、発車までにわずかですが時間があるので、写真を撮りに出掛けました。もっとも、写真撮影熱は私以外の (日本人) 乗客の方が遥かに上でした。
(17kbytes) 機関車のところまでいくと、前部のデッキに登って記念撮影をしようとする人の列です。
_________ _________ ________ | | | | | |_ ← Anchorage | 204 | | 205 | | DL 3009 | → Fairbanks |_________|_|_________|_|__________| ○ ○ ○ ○ ○○ ○○
ついで、2両の客車の検分です。
先頭の 205 は窓が連続窓 (60in × 36in) になっていて、視界もやや広く、車内灯は蛍光灯で明るい感じ、のより新しい車両です。車両の銘板を見落としましたが、後でもらった昨夏の新聞によると、車体長 85ft, 幅 10ft, 高さ 13ft 10in, 重さ 126,000 lbs, 78 席, New York のEnprotech Corp. 製だそうです。このパンフレットには Enprotech が伊藤忠アメリカと韓国の Daewoo 重工業との子会社であることや、材料の75% がアメリカ製であることまで書いてあります。
後方の 204 は これに対し、窓は各座席毎に小さい窓がひとつずつ、車内灯は電灯と、少々古めかしい接客設備です。諸元ははっきりしませんが、車体の大きさとしては 205 同等と思われ、車両後部の通路の上の妻板のところには GE の 81 年製という銘板が入っていました。座席はシート形状からフットレストに至るまで新幹線のグリーン車そっくりだけど、リクライニングシートの傾きは大きくできるし、シートピッチはかなり広い (測定できなかったが、普通に坐ると、足がフットレストに届かないくらい)。コーヒーの染み等で汚れていることの多い新幹線の 100系よりも清潔に感じられました。
0830 定時に発車。 鈍いくせに左右への揺れが激しいのは、去年の夏と同じ。
すぐに車掌がやってきて、切符の左半券をミシン目から切り取り、残った半券にもパチパチパチとパンチを入れました。
車掌はなかなかカッコイイ黒人で、これを私の前の座席の、ひときわ賑やかな農協風日本人おばさん団体が見過ごすはずがありません。意味不明の嬌声を上げ、取り囲んで一緒に写真を撮ろうとし、車掌の髭をいきなり掴み、自分たちが早速開いたおやつの梅干しを食べさせようとしたり、大騒ぎです。(「梅干しが美味しいか?」とおばさんが訊ねているのは分かったらしく、「No」と苦笑いしていました。)
ついで、白人の小さなかわいい女の子が 2回に分けて何やら配りに来ました。1回目のものは「ON BOARD」という A3 版の 16 ページの新聞、2回目は、21.5cm × 56.5 cm の表裏に印刷されたパンフレット。
新聞の方は 1996 年夏用の第 8 版、となっていて、昨夏の余りのようです。沿線案内, 歴史, 車両諸元等「鉄」道趣味者には欠かせない貴重な内容もあるし、広告とクイズもあります。
パンフレットには片面に大きな路線図, 他面に主な地点について Seward からの mile と簡単な説明が載っていました。
後方車両の方が、デッキから去り行く景色を眺める、という点では好都合です。連結部分の開口部には申し訳程度の柵があるだけで、がった〜んと来たら、簡単に柵を越えて振り落とされそうな気もしました。足元では雪が凍り付いて滑りやすいので、スリルが倍加されます。もっとも、手で揺り動かしたくらいでは、柵はびくともしませんでしたが。
0939 Knik River (MP 146.4) 。全面結氷しているのかと思っていたら、かなりの部分は融けていて、水が流れているようでした。
0946 Matanuska (MP 150.7)。右方へ Palmer への枝線が別れていきます (勿論、3角線配置になっていました)。貨物列車のためでしょうか、しっかり除雪されているようでした。この線の旅客列車に乗る機会は「Alaska State Fair」のときくらいのはずで、一体いつになったら乗ることになるのやら…
1007 Wasilla (MP 159.6)。夏にはボートや釣りに向いていそうな湖だったのが、一面の雪原になっていました。 線路の左手際には、 (13kbytes)「Iditarod の出発点」という大看板が立っています。犬橇レースは冬の Alaska では人気ですし、特に'97 年は Iditarod Trail Sled Dog Race の 25 周年に当たってもいたことから、盛り上がりも一層大きかったようです。Alaska Airlines の機内誌も「Alaska」という月刊誌 (州内どこへ行っても売っている) も「Iditarod 25周年」の特集を組んでいました。さらに、この犬橇レースはこの時点ではちょうどレース中で、「一番いいところ」だったのです。後のことになりますが、私が Anchorage に戻ってきた日、各新聞 (例えば、Anchorage Daily News)の一面は前日に Nome にゴールした首位の musher (Martin Buser, 3回目の優勝) と犬たちの写真で埋まっていました。
Wasilla を出ると、昨夏同様、列車の速度が上がり、古い機関車, 客車等が打ち捨てられているのと見間違うばかり (^^;) の Museum of Alaska Transportation and Industry の横を抜け、The Little Susitna River に沿って北上します。この付近は、雪原へ軽飛行機でやってきてのキャンプで人気があるようです。
1043。Willow (MP 185.7)。列車は moose が現われたため徐行。ついで、宿の前でフラッグストップ。人間×2, 犬×1, 荷物×2, 橇×1 を降ろします。
冬は列車 (旅客列車は 1便/週 でも、貨物は毎日走っている) と衝突する moose も多いようです。ARR では、申し込み順に、列車と衝突して死んだ moose を住民に引き渡してくれるそうですが、取りに行くための費用は申込者負担なので、ここが大変です。
Moose は雌でも 300 〜 400 kg, 雄なら700 〜800 kg はザラなわけで、どうやって持ち帰るか、が深刻な問題、というわけです。現地までチェーンソーを持って行って死体を適当な大きさに解体するしかありません。Hunting の際もどこで殺すと持ち運びやすいかを考えて、撃ち殺す必要があるようです。
自動車で moose と衝突したときは、州法では、moose は車の所有者に帰することになっているそうです。Moose が 1頭手に入れば、数カ月 〜 半年は獣肉を買わなくて済むそうですが、数百 kg もある動物とぶつかれば、車はペシャンコで、それくらいはしてもらわないと、金銭的に引き合わない、が実情のようです。
「Moose の肉を食べたか」と帰国後に質問されました。私はついに試してみる機会がありませんでした。Moose の肉は、game として捕獲したものを食べることは出来ても、商売として肉屋の店頭で売ることは禁止されています。それでも、moose の肉は地元の人にとっては御馳走のようです。尤も、日本人から見ると、脂身はなくパサパサしていて、ソーセージになって香辛料が利かせてあればとにかく、ステーキ等では癖があって馴染みにくい味だそうです。「お勧めはしないが、話のタネに食べるのなら…」が現地ガイドの一致したアドバイスでした。
さて、これから Susitna 川沿いに Mt. McKinley が望めるはずで (去年夏はそうだった)、後部デッキに陣取りました (車内から窓越しではなかなかうまく写りません)。好天ではあるのですが、上空には雲がかかり、遠くは薄く霞んでいて、悪いことに、ちょうどその雲の下に McKinley が入ってしまっています。左の 2峰、Mt. Foraker と Mt. Hunter ははっきり見えたのですが。列車後部デッキにはカメラ片手に McKinley を狙う人が多くたむろしていましたが、皆、Foraker や Hunter を指して、「あれが McKinley かなぁ」などとやっていました。車内では、件のカッコイイ車掌が、見えている山の解説をしてくれたそうですが、デッキまでは解説に来てくれませんでした ^_^;。残念ながら、今回は車窓から McKinley を望むことは、ついに出来ないままに終わりました。
1143 - 54。Talkeetna (MP 226.7)。乗客がホーム上に溢れていました。大きな荷物を持って乗り込んでくる人がたくさんいます。客室の中まで入ってこられないで、通路に座り込んでいる人も多いくらいです。
発車した列車の後を一台の snow mobile が追って来ます。それを後部デッキに出て見送り、励ましている婦人がいました。
「Your friend ?」
「My son, he is very nervous.」
彼女は「nervous」を強調しましたが、その意味は不明でした。何の理由で、母親だけが列車に乗っているのかも分からないままに終わりました。Snow mobile はずっと列車に付いてきました。一旦は大きく引き離しても、flag stop で乗客を降ろしていると、すぐに追い付いてくるのでした。一旦、客室内に引っ込んだ母親もその度に後部デッキまで出てきました。列車は頻繁に停車し、客を降ろしつつ北上を続けます。
1247。 (22kbytes) Curry (MP 248.5)。ARR 開通当初、機関車は Seward - Fairbanks 間 (470.3 miles) を無補給で走り抜けることが出来ず、ここで石炭、水の補給を余儀なくされました。そのため、開業後数年間は、旅客も Curry で一夜を過ごさなくてはならず、その旅客のためにちょっと豪華なホテルが 1923年に建てられたそうです。ホテルには、プール, テニスコート, 3ホールのゴルフコースまであったそうな! ホテルは、1930 年代は客で賑わいましたが、第二次世界大戦後は、McKinley Park Hotel との競争が激しくなり、鉄道も速くなって途中での補給が不要となったため衰退に向かい、1957 年には火事でみんな焼けてしまったとのことです。今は周囲に何もありません。これのどこにゴルフコースまであったのでしょう !? それにしても、この地名を聞くとカレーライスを食べたくなります。
1305。Sherman (MP 258.3)。右側の線路際に (16kbytes) 「CITY HALL」とある青い家が見え、3人が下車。去年夏に通ったときのガイドの説明では、「Home stay 受付中、現在の総人口 2人」とのことだったので、人口が増えたのかしら ?
Talkeetna - Harricane 間では鉄道が唯一の生活の足のため、家は線路近くに建っていることが多く、 (14kbytes) どこでも flag stop 可能です。運転時刻は何回 flag stop するかに左右されるそうです。確かに、3 〜 5分に 1回くらいの割合で客を降ろすために停車し、デッキに座り込んでいた客はいつの間にか無くなりました。
1315頃。Gold Creek (MP 263.3)。景気のいい名前だけれど、アングル 2本で支えられた、キロポストが少し大きいだけの駅名標と申し訳程度の小屋 (多分、駅舎ではない) があるだけ。線路を中心とする一定幅の除雪は行われていましたが、有効長の長くない交換設備 (待避線) は雪に埋もれていました。
1317。Susitna 川を渡る鉄橋 (MP 264) にかかりました。
列車に乗降するわけでもないのに、線路際に人がいて、列車に手を振っていました。何をしている人なんでしょうかね。キャンプでもなさそうだったし
1410。Harricane Gulch (MP 284.2)。 (12kbytes) 列車はスピードを落として橋にさしかかりました。前年夏に写真を撮れなかったので、今回は早くから後部デッキで待ち構え、見下ろして写真を撮りました。が、川の水面からの高さ 296ft の「高さ感」が全然涌きませんでした。ま、日本でも、高千穂橋梁の高さ 105m は木で覆われて高さのスリルはあまりありませんが。
それよりも、線路の継ぎ目が左右で交互になるように敷設されていることの方が興味深く思われました。
1510。Summit (MP 312.5)。(21kbytes)標高が高いために高い木が育たず、ただっ広く素寒貧な感じは一面雪の今回も紅葉の前回も同じです。この雪原の中で三脚立てて写真を撮っている人がいるのには驚きましたけど。
1620。 (21kbytes) Denali Park 駅 (MP 347.9) 通過。昨夏時には歯ブラシを逆さにしたくらいの人で溢れていましたが、今は数十cm の雪に覆われてひっそりしています。
1624。駅の先の踏切 (MP 348.4) で停車。踏切西側に Gray Line のバスが停まっていました。このバスの乗客が列車に乗ってきました。彼らの正体はやがて分かりました。
Nenana 川の谷をはさんだ対岸の山腹に去年 Denali で泊まったときの宿が見えるほか、ホテル群が 'ひっそりと' 佇んでいます。冬期休業のホテルというと、雪深い山奥にあるという日本での固定観念があるけれど、ここには雪はほとんどありません。
1645。Moody - Garner 間 (MP 354 付近)。東側の岩肌むき出しの崖に Dall sheep が 2群見えました。見える確率の高いポイントのようです。夏に Denali Park に入っていって「わ、moose が見えた、Dall sheep も見えた」と感激したけれど、鉄道からこうも易々と見えてしまうと、とても嬉しい反面、有難みが薄いような、変な感じ。冬なので、食べ物を求めて里の方に下りてきているのでしょうか。
1702。MP 358。東側の谷底に新しい工場のような建造物が現われました。「Clean Coal Power Plant」だそうです。さきほど、Denali から乗り込んできた一団のうちの一人が立ち上がり、「みなさ〜ん」という調子で説明を始めました。彼らは皆、手に手に印刷物を持っていて、頻りにそれに視線を落としています。その中のかわいい女の子が話しかけてきてくれたので、訊ねてみると、やはり「exercise of tour guide」という返事です。
「質問があったら何でも訊いてね」
「有難う」
うまい具合に、ここから Fairbanks まで、ガイド付きの旅行が出来ることになりました。ARR の名札を付けた社員が二人、いずれも若い女性でしたけれど、がこの卵たちの引率役のようです。
彼らガイドの卵の説明のおかげで、谷底の建造物も正体は判明しました。1995 年に連邦政府の予算で建設が始まった石炭火力発電所です。
この付近に州で唯一の採掘が続いている炭坑がありますが、ARR 貨物収入の 1 / 5 は石炭輸送によるものです。硫黄の少ない石炭だそうで (だからわざわざ 発電所を建てたのでしょうが)、Seward へ輸送された石炭は、韓国へ輸出されているそうです (Korea Electric Power Co. で使われています)。少し古い数字ですが、1985 年には 67万t が輸出され、そのために Seward へ 132 本の石炭列車が運行されました。私も去年夏に Windy 付近ですれ違いました。え〜と、67万t / 132 本 = 5,075 t/本 となって、積載量が 85 t / 両なら、石炭列車の平均長さは 59.7 両連結ですね。
1704。Healy (MP358.1)。石油を積んだタンク車の続く列車とすれ違い。DL 5 重連 + タンク車 55 両 + ? 2両。タンク車は 85t 積くらいの車両が最も多く見受けられました。また、DL の最後尾は 3013 号機で、去年夏に私が ARR に乗ったときの先頭機にこんなところで再会してしまいました。
1759。Clear (MP 392.9)。左窓に白くて低いドームが 3 つに煙突様のものが 1 つ建っているのが望まれます。「何かな」と思う間もなく、ガイドの卵が説明を始めてくれました。世界に 3 箇所しかない弾道弾ミサイル早期警戒基地のレーダーサイトだということです。Alaska はアメリカ - ロシア 間の最短距離の線の下にあるからですね。いかに top security かというに、基地職員は家族を連れてくることも禁止されているそうです。
面白いことに、地図を見ると、線路はこの基地部分を避けるように「コ」の字型に曲がって敷設されています。ちょうど、直線で結ぶことが出来るはずなのに。基地が出来てから線路をねじ曲げたのでしょうが、そんなにこの土地が好ましいかしら (わからなかった)。Alaska なんて土地はいくらでもあるし、この東側一帯の広大な土地はすべて軍の Fort Wainwright Millitary Reservation ですが。もうひとつ、レーダーサイトのある土地の地名が「Clear」というのも面白い気がします (missile を clear したいからかな)。
1820 くらい。MP 408.5。本線のこの地点から北極海沿岸の油田 Prudhoe Bay へ鉄道を延伸しようという計画があり、ルートの測量は油田の開発初期段階の 1969, 70 年に終わっているそうです。しかし、あんまりにも高い建設費のため、建設工事は全く行われていないそうです。
でも、Seward 発 Prudhoe Bay 行きの、太平洋と北極海を結ぶ豪華特急なんて夢をいくらでも膨らませることができます。Anchorage - Prudhoe Bay は Anchorage - Fairbanks の 2 倍強の距離と思われるので、27 時間くらいで走り抜けられないかな。現在、Seward - Anchorage の列車はものすごく遅いので、Seward - Prudhoe Bay 間を 36 時間くらいでしょうか。寝台車は必須ですね、どういう設備が必要かな?
列車に名前も付けないといけませんね。折角両洋を結ぶのですから、「Aurora」は却下です。今乗っている Anchorage - Fairbanks を結ぶ列車の名前は、ARR が国有鉄道だった当時から、「Aurora」のままらしく、私の切符にも「Aurora」号となっています。でも、阿川 弘之に「『AuRoRa』は『Alaska RailRoad』をひっかけたつもりで、つまらん洒落」と、イチャモンを付けられていますしね (「マッキンレー阿房列車」所収。この言葉に 開高 健は閉口したようです)。
でも、乗るのは、この列車同様、日本人ばかりかもしれないなぁ。
さて、車内をガイドの卵の英語が圧するようになって以来、私の前の席の賑やかだったおばさんは急に静かになってしまいました。居眠りしているわけではないようです。そこへ、ガイドの卵のひとり、中国系だと自己紹介していた小柄な女の子が話しかけていきました。彼女は日本語も上手だったのです。鎮火寸前の火事にガソリンをぶちまけるようなものでした。急にけたたましく甲高い笑い声が復活しました。
最初に話しかけてくれた女の子に「今度は northern light を見に来たんだ、前回は見られなかったからね」と言っておいたら、northern light の絵はがきを持ってきてくれました。女性は愛想がいいようですが、男の卵は誰も私に話しかけてきません。あとで、私が Mears Memorial Bridge の写真を撮るべく席を離れていた際、席に放置していた私の ARR ride guide を読んでいたから、興味は有ったんでしょうが (そうか、あのときに、「その ride guide は参考になったか?」と訊いてやればよかったのか ^^;)。
1825。Nenana (MP 411.7)。港の荷役のタグボートが見え、タンク車が側線に並んでいて、「大きな」町来たことがひしひしと感じられます。立派な道路橋の下をくぐって町中に入れば、ごちゃごちゃ古いバラック様の建物が線路際に見えただけでしたが。
それでも、ここは Nenana 川が Tanana 川に合流する交通の要衡で、鉄道の建設で発展の端緒を掴んだようです。「Nenana Ice Classic」なる川の結氷がいつ融けるかを当てる大規模かつ有名な賭の観測所もここです。
それはとにかく、ここは 1985 年 1 月 5 日には、州が ARR を連邦政府から買収したことを祝って 800 人が集まり、2,230 万ドルの小切手が州知事から連邦政府に送られた記念の地でもあります。
左前方に「お、こりゃ写真で見たことのある橋だぞ」という建造物が見えてきました。列車は大きく町中を迂回し、標高を稼ぎながら橋へ向かいます。
1836。Mears Memorial Bridge (MP 413.7)。1923 年 2 月に完成した橋で、これにより ARR が全通した、という重要な橋です。全長 702ft の橋は single span としては合衆国で最も長いもののうちのひとつで、今でも建設当時の姿を留めているそうです。西側に Harding 大統領が 1923 年 7 月 15 日に鉄道の完成を祝して打ち込んだ「金の犬釘」の碑があったはずなのですが、見落としました。
橋完成までは、夏は旅客と貨物は川を船で渡り、冬には凍った川の上に仮設線路を敷いたそうです。シベリア鉄道のバイカル湖の状況に似ています。そういえば、鉄道の道床は砂利より砂の方が凍土に強い、樺太では日本時代は砂利だったが現在は砂に改良されている、と斎藤雅男さんの著書で知りましたが、ARR の道床は、見る限りすべて砂利でした。
1838。左窓に bear が 3 匹見えたが、もはや列車は速度を落とすことなく突っ走ります。
1858。MP 430 付近。陽がすっかり沈んで、少し薄暗くなりました。自分の席でぼんやりするしかやることが無くなってきました。ガイドの卵もワイワイしていますが、解説の練習をする者が無くなりました。
やがて、MP が読みとれないくらいに暗くなると、今どの辺りを走っているかを引率の先生もガイドの卵も、窓に顔を押しつけて窺うようになりました。Ride guide によると、「Happy」とか「Ester (この名前に惹かれるのは流石、化学者の端くれ!?)」とか興味深い駅を通過しているのですが、それとは気付きませんでした。
1950 頃。Fairbanks 中心街に近づきつつあるらしく、建物や車の明かりが目立つようになってきました。車掌が「あと 15 分で Fairbanks に着きます。」という案内放送までしました。もっとも、「永らくの御乗車お疲れさまでした」とか「お出口は左側です」とかは言わないし、まして「乗り換えのご案内を致します」なんてあるわけがありません ^_^;
2005 頃。Fairbanks (MP 470.3) 到着。1 面 1 線で、ホームの先はすぐに行き止まり。駅舎の内部設備は明るくて近代的なようでしたが。操車場はこの旅客駅の手前にあって、列車は推進運転で操車場へ帰っていきます。宿に向かう車で回送列車を追い抜きました。 (11kbytes) (あ〜着いた着いた ^_^)
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