SEINAN GAKUIN OB ORCHESTRA
REGULAR CONCERT #15

曲目解説

 

序曲「レオノーレ」第3番
ベートーヴェン 作曲

 

《楽聖》と呼ばれる大作曲家ベートーヴェンですが、オペラ作品はただ1つ、《フィデリオ》しか残していません。この作品は、〜無実の罪を着せられ獄につながれている夫フロレスタンを救うため、その妻が男装して《フィデリオ》と名乗り牢獄に乗り込み、見事夫を助け出す〜という夫婦の愛を描いたものであり、主人公である妻の本当の名が《レオノーレ》なのです。

生涯を通して恋愛に恵まれず女性への憧れを抱き続けたベートーヴェンにとって、このレオノーレは、夫を心から慕う情愛深さと苦難に立ち向かう勇敢さを兼ね備えた、まさに理想の女性像でした。それゆえか作曲・推敲にも相当の熱の入れようだったようで、今日上演される形になるまで幾度となく大がかりな改定が加えられました。序曲についても例外ではなく、再演のたびに作曲がなされたため、結局合計4曲の序曲が誕生しました。

本日演奏する序曲第3番は、年代順でいうと4曲中で2番目に作曲されたものと言われています。ちなみに1番目は現在の第2番、3番目は今日ほとんど演奏されない第1番。8年ほどの年代の差を作曲された《フィデリオ》序曲が4番目で、現在のオペラ上演に際して序曲として採用されるのはこの《フィデリオ》序曲です。

作曲家のファースト・インスピレーションから生まれたものでもなく、本来の序曲としての役目をも果たしていない第3番。しかし、オペラ全体ののないように合致した構成で壮大・かつ劇的に仕上げられたこの音楽は、他の3曲よりもオペラの進行・場面の情景を彷彿とさせるだけでなく、その音楽単体としても十分に鑑賞するに値する普遍の芸術価値を備えているからこそ、今日も好んで採り上げられるのでしょう。

曲はソナタ形式で、序奏部は重々しい弦楽器により夫フロレスタンの苦悩が描写され、クラリネット、ファゴットによってアリア《人生の春の日に》の一節が光を射します。アレグロの提示部は、ヴァイオリン、チェロが弱音から第1主題を示し次第に盛り上がり、その後にヴァイオリン、フルートが《人生の春の日に》が基となった第2主題を奏します

展開部では激しさと悲劇的な要素が増しますが、遠くから味方の大臣の到着を知らせるトランペットが聞こえ、再び希望を抱かせる再現部へ。コーダは輝かしい勝利を一気呵成に描き、オーケストラの醍醐味を満喫できる大団円を迎えます。

 

(文責:95期Violoncello 伴 徹哉)

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交響詩「魔法使いの弟子」
デュカス 作曲

 

ポール・デュカス〜《デュカ》と読まれることもありますが、同一人物です〜は、1865年にフランス・パリに生まれ、パリ音楽院に学んで後には同院教授を務め、1935年に同地で死去した、生粋のパリっ子作曲家です。

彼は、自分の作品に対して妥協を許さない厳格な完璧主義者でした。1911年のバレエ音楽《ラ・ペリ》を最後に目立った作曲活動を行わず、1920年代に入りそれまでの作品の大半を破棄してしまいます。結果、今日まで残されているのは十数曲ほどといわれていますが、そんな彼の代表作として名高いのが、この《魔法使いの弟子》です。

ゲーテのバラードを音楽によって描写したこの作品に、作曲家自らは《交響的スケルツォ》という副題をつけています。ウォルト・ディズニーの音楽アニメ映画《ファンタジア》で使用されたことも有名で、ミッキーマウスが弟子に扮したアニメ映像とデュカスの音楽の持つ描写力と見事に融合されています。

あらすじを音楽の進行に合わせて紹介します。

(1)魔法使いの弟子が師匠の留守中に、与えられた水汲みの仕事をサボるためにホウキに覚えたての呪文をかけ、自分の代わりにバケツで水を運ばせます。
⇒序奏の弦楽器の弱音が神秘的な雰囲気を醸し出し、木管により魔法使いの主題旋律が表されます。静寂を破るトランペットの音は、弟子が呪文をかける様子を思い起こさせます。休止の後、ホウキが徐々に動き出し水汲みを始めるさまを、ファゴットが主題旋律をユーモラスに奏でることで表現していきます。

(2)はじめは快調! しかし、桶が一杯になった後もホウキは水を運び続け、あたりはビチャビチャに。呪文の解き方を知らない弟子は、困ってしまってとうとうホウキを折ってしまいます。
⇒主題旋律が形を変えつつさまざまな楽器に受け持たれていき、次第に緊迫の度合いを増していきます。その後トランペットが、弟子が必死でホウキを止める呪文を唱える様子を表しますが、オーケストラの押し寄せるような音響の波に飲み込まれてしまいます。その果ての打撃音(?)で弟子はホウキをたたき折り、しばしの静寂が訪れます。

(3)ホウキは折られてもなお魔法の力によって動き出し水汲みをやめようとはしません。水があふれかえったそのとき、師匠がお帰りになりビックリ! すぐに呪文を唱えて水は治まっていきます。
⇒不気味な低音楽器の足音とともに、ファゴットが再び動き出すホウキを表します。せっせと水を運ぶホウキ、焦る弟子、あふれかえる水の様子を巧みなオーケストレーションで表現し、助けを求める弟子の悲鳴をオーボエ、コルネット、ヴィオラがあげます。
危機一髪のところで金管楽器の力強い総奏にのり師匠が登場。水が引き、騒ぎは治まります。…静かだけどどこか気まずい雰囲気が流れ、最後のジャジャジャジャン!で、弟子はキツ〜いお仕置きをうけるのでした。

 

(文責:95期Violoncello 伴 徹哉)

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交響曲第2番 ニ長調 作品73
ブラームス 作曲

 

もじゃもじゃのヒゲ。悩むようにひそめられた眉。思索が刻まれた皺。

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)がようやく初めての交響曲を完成したのは1876年、着手から実に20年前後が経過していました。
ちょうど、生まれた子どもが成人するのと同じだけの時間。
この第一番で、産みの苦しみと育てる喜びを感じたのでしょう。

彼が敬愛した、楽聖ベートーヴェン。

憧れの存在を、「超える」 そう漠然とした決意を抱いたとき、
目の前の壁は一層高さを増します。

「まだ、だ」何度も、何度も推敲して
ようやく書き上げた第一番。

彼が憧れてやまなかったベートーヴェンの第九番を凌ぐほど、という意味で、ベートーヴェンの第十番、とも評された渾身の作です。

今宵お届け致します第二交響曲は、そんな第一番の成功に自信を得た彼が、翌1877年の夏〜秋に一息に書き上げたものです。

いや、しかし、いくらなんでも、最初の交響曲に20余年を費やした男が、たった3〜4ヶ月で2曲目を書くでしょうか?

これには異説があり、第一番と同時進行的に書き溜めたスケッチが存在した、とも言われています。

もともと彼には「大学祝典序曲」(1879)と「悲劇的序曲」(1880)のように、相反する性格の作品を並行して作曲したがる癖がありました。

光と影、ポジティブとネガティブ。そんな二面性を楽しんで書くというよりは、 二つを同時に書いていなければ、そちらの世界へ引き込まれてしまう。
ブラームスはそれを予感していて、自ら光と影を意識することで、心の中立を保とうとしていたかのように感じます。

そう考えてみると、この第二交響曲も、重々しい第一番を書いている最中にスケッチされたものではないか、と見るのが自然でしょう。

音楽は朗々としてのびやかで、それでいて彼独特の哀愁を帯びた味わい深いものとなっています。

手探りの思索の中で、窓の外の緑に心をさまよわせ、彼が求めた木漏れ日。緩やかな大地の揺らぎ。

そこには彼が切り取った、美しい風景のスケッチがあります。

冒頭に低弦が提示する「ニ−嬰ハ−ニ」というモチーフは、そのまま全曲を支配する「基本動機」となります。

第一番のそれよりもさらに執拗に登場し、全曲を統一する、うねり。
あたかもそれが、自然の秩序であるかのような、音の呼吸。

楽器編成では、第一交響曲でベートーヴェンに倣って終楽章に登場させたコントラファゴットは使用されず、逆に彼の交響曲では唯一テューバが使われています。

人付き合いが下手な男、ブラームス。
作曲を行っていた部屋の窓から、嫌いな人が見えると裏の森に逃げ込んだそうです。
その窓枠は額になり、風景は一枚の絵になり。
画家でなかった彼の筆からは、絵ではなく音楽が生まれました。

恋愛が下手な男。
師匠の妻、クララ・シューマンとは気が遠くなるほど長い間「友だち以上、恋人未満」を続けたブラームス。
流れる日々、その時々でお互いに恋する人はあっても、二人の絆は揺るぎないものでした。

クララが年老いて、頑固になっていってもその愛情は変わらず、静かな愛を交わしつづけたということです。

雄々しく、決然として、それでいて優しく細やか。
そんな雰囲気を漂わせるこの曲は、彼の憧れのかたちだったのかもしれません。
そう考えると、第一交響曲の完成に時間がかかったのも、単に彼が優柔不断だったから?という気もしてくるのです。

初演は1877年12月30日、ハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルによって行われましたが、かわいらしいロンド形式の第3楽章が大変好評で、アンコールとして再度演奏したというエピソードが残されています。

(文責:86期Contrabass 中島 博之)
specially edited by Bammy

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