REGULAR CONCERT #13 曲目解説
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19世紀初頭当時、西欧において音楽は既に芸術作品の域に達し、華やかな展開をみせていました。一方、ロシアでは音楽といえばロシア正教の典礼曲や民謡、吟遊歌手の語りの旋律といった段階でした。M.I.グリンカ(1804〜57)は西欧諸国の歴訪により様々な音楽的刺激を受け、それをロシアに根ざした音楽と融合させた名曲を生み出しました。グリンカが「ロシア音楽の祖」と評される所以です。彼の音楽に衝撃を受けて音楽家を志したチャイコフスキーも「もし、私たちが音楽の殿堂の中にグリンカの場所を探すとしたら〜彼の力強い創作の才能にふさわしく〜音楽のもっとも偉大な代表者たちと同じ列になるだろう」と評しています。今年はグリンカ生誕200年にあたります。 (文責:02期Violin 芥川 晴嗣)
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グリンカの登場以後、チャイコフスキーらにより芸術作品へと発展したロシア音楽は、20世紀に入るとI・ストラヴィンスキー(1882〜1971)により西欧音楽から自立して前衛芸術の域に達します。 (文責:02期Violin 芥川 晴嗣)
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「今度の交響曲にはプログラムがあるが、それは誰も知ることができないものであって、想像できる人には想像させよう。このプログラムはまったく主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた」 ―――1893年2月 チャイコフスキーが甥ダヴィドに宛てた手紙より この作品はロシアの作曲家チャイコフスキーの最後の交響曲として知られています。というのも、チャイコフスキーはこの曲の初演(1893年10月28日)からわずか9日後(1893年11月6日)に亡くなったのです。 以下、初演前後からその死までの様子です。 [1893年9月] 曲を完成させる。 [10月19日] 「今ほど、幸福で健康な感じがしている時はかつてなかった」―――友人カシキンとの会話より [10月28日] チャイコフスキー自身の指揮により初演。演奏は上手くいったが、喝采が長引いたためチャイコフスキーはもう一度舞台へ出てあいさつをしなければならなかった。 [10月29日] チャイコフスキーは聴衆がこの曲を理解していると思えなかったため、曲名をつけることにした。そこで弟モデストに相談すると、はじめモデストは「悲劇的(tragic)」を提案したが、チャイコフスキーはこれに反対した。その後モデストは「悲愴(pathetique)」を思いつき提案すると、チャイコフスキーはこれをすぐ楽譜に書き込んだ。 [11月1日] 料理店で会食をしながら生水を飲む。友人はコレラが流行していたためこれを止めたが、チャイコフスキーは平気で飲む。 [11月2日] 具合が悪くなり寝込む。 [11月6日] 午前3時に死亡する。 死亡についてはコレラに罹って死んだとされていますが、自殺説もあるようです。しかし、この作品に関する限り、そのような詮索に重大な意味があるとは思われません。むしろ、10月19日の発言が事実ならば、そちらの方が重要に思われます。なぜこのような曲を書いた後「今ほど幸福な感じがしている時はない」と思うのでしょうか。そしてこれは「私の一生で一番よい作」を書きあげた充実感とは無縁であることに注意しなければならないと思います。 第1楽章 Adagio-Allegro non troppo 第2楽章 Allegro con grazia 第3楽章 Allegro molto vivace 第4楽章 Adagio lamentoso (文責:03期Contrabass 吉川 亮太)
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