ロンメル将軍


ロンメル将軍は指揮官能力、兵学思想家、おまけに文筆家としての才能にまで恵まれているという優秀な指揮官でした。彼の出世の始まりが、彼の書いた「歩兵の攻撃」と言う著作が大変優れていて、ヒットラーの目にとまったためと言う話を見ても判ります。
(第一次世界大戦は、中尉として参戦しその経験から論文を書きました)

ロンメル将軍は第七機甲師団長になる前は熱心な「歩兵論者」でしたがポーランドの成功を見てあっさり転向し、僅か3ヶ月で電撃戦法をマスターしています。

フルネームは、エルウィン・ヨハネス・オイゲン ロンメル
1891年11月15日、ウルム近郊のウエステンブルグで生まれました。子供のころは、蒼白で、病気がちな少年でした。父親はアーレンの中学の校長で代々数学者の家系、母親はフォンルッツ地方の名士(元市長)の娘
兄、カール、陸軍の偵察パイロット
弟、ゲルハルト、オペラ歌手
妹、ヘレーネ

1906年
彼はメカニック技術、航空技術者になりたがっていたらしく14歳で、グライダー作りに熱中し、ちゃんと飛行可能な物を友人と作りあげたそうです。

1910年7月19日
軍隊に志願、ダンヒチのドイツ帝国陸軍士官学校に入校。第百二十四ヴェルテンブルク歩兵連隊に少尉として任官
(砲兵隊、工兵隊への志願は落ちたそうです(-_-;)...)
士官学校での評価は、「しっかりしていて、意志頑強、きちょうめん、時間厳守、良心的、信義に熱く、責任感が強い、非常に熱心」
やり手って感じです。

1912年1月陸軍少尉に任官
ロンメルは初年兵の教育係を2年間勤めました。このころのロンメルは酒もたばこもほとんどやらず、生真面目に仕事に打ち込んだそうです。

WW1は、激戦のフランス戦線で2年以上...
この間に2回負傷したが、アルゴンヌの森の塹壕戦で功績を上げ第一級鉄十字勲章を授与されました。

1915年10月
ヴェルテンブルグ山岳兵大隊の中隊長に任命され
(新編成のため1年間訓練期間)
1916年
部隊はルーマニアに転用されロシア軍相手の戦闘になりました。
ロンメルの副官だったテオドル・ヴェルナーの回想
「...率先して先頭に立つ彼の積極的な行動、勇気および、めざましいほど果敢な行動によってすべての者が、驚くほど大きな影響を受けるようになりました。」
「彼は相手がどんな相手であるのか、そして、どのような行動に出てくるか判っていたようでした。彼の計画は敵の意表に出たもので、直感的かつ、本能的に心の中に浮かんでくる考えに基づいたものである場合が多く、その狙いが不明瞭なことは、ほとんどなかった。」
「困難な状況下においては必ず自ら先頭に立ち、われわれにその後について来るように要求しました。」
「部下は彼を敬愛し、彼と一緒であればどこまでもついて行くつもりでいました。」

この指揮ぶりは、すでに、機甲師団を引っぱっていくロンメルのイメージと重なります(^。^)...

1917年10月
北イタリア戦線で山岳陣地戦
イタリア旅団9000名を捕虜として捕らえたこの功績により彼はブルー・ル・メリット勲章を授与された。

北イタリア戦線で山岳陣地戦ドイツの地方ごとの兵のすさまじい先陣争いに度重なる功績も横取りされました(-_-;)...

コロヴラト・リッジ占領、バヴァリア出身部隊の隊長のシェルナー少尉に要点1114に一番乗りされて、勲章を横取りされた。
イタリア陣地の隙間を利用して、 敵陣の後方へ乗り込み敵を崩壊させたのはロンメルだっだにの(~_~メ)...

モンテ・マタイユール山頂占領...
海抜5400フィートの要衝一番乗りした将校にはブルー・ル・メリ−ト勲章を授与すると約束されていたがロンメルが一番乗りするとシュレージエン中隊の隊長シュニューバー中尉に功績は横取りされた...

怒ったロンメルは、自分の5個中隊を敵陣後方に誘導し、イタリア旅団9000名を捕虜として捕らえた。この功績により彼はやっとブルー・ル・メリット勲章を授与されました。
(堂々とこの勲章を付けて北アフリカへ行ったのがイタリア将校達に不快に思われ独伊協力して戦うって面で不利になったようです)


敗戦...
敗戦により軍は10万人に縮小されるが幸いロンメルは軍人として残りました。

1929年ドレスデン歩兵学校教官に任命される(中隊長養成のため少尉、中尉の教育にあたる)
彼の口癖、モットーは...
「私はまず彼らに先ず、生命の損失を少なくすることを教えたい」WW1で、貴重な兵を無駄に戦死させてしまった無神経な指揮官とは違った指揮官を育成したかった。

「血を流すより汗を流せ」

戦闘に最適な場所に壕を掘らせることがどんなに価値があるか教えたかった。

ホツダムの士官学校、校長に...

有名な「歩兵攻撃」を書き上げる。スイス陸軍のマニュアルにもなっています。

1938年10月ヒトラーのズデーテンランド進駐にヒトラー身辺警護責任者、総統護衛大隊の臨時指揮官として参加


1940年第七装甲師団指揮官に...




ロンメル将軍の解説、The Rommel Papersより

イタリア軍の敗北
最大の欠陥は、
「イタリア軍を構成している部隊の大部分が、自動車化されていない歩兵部隊であったことである。北アフリカの砂漠では、自動車化されていない部隊は、自動車化された部隊に対しては事実上何の値打ちも無い。というのは、敵はどのような陣地を攻撃する場合においても南方を迂回することにより、戦いを機動戦に持ち込むことができるからである。自動車化されていない部隊は現代軍に対する場合、概設陣地における防御に使えるだけであり、その場合においても、迂回機動する能力を持った敵と砂漠において相対するような作戦にあっては、ほとんど役にたたないのである。

機械化の全然出来ていないイタリア軍の敗因を正確に解説しています。戦前の機械化部隊戦闘原則は、地上戦というより海戦に似ていました。北アフリカの戦いはこの理論に丁度良く。砂漠の海を走る少数の機械化部隊を 海戦にたとえて使うと言うパターンになりました。機動力に劣るイタリア軍はイギリス軍に各個撃破されてしまいましたし...
イギリスの将軍達はロンメルに比べると考え方が歩兵戦闘向きでした。


砂漠戦の原則
リデルハートは、この部分は兵学思想としても傑作であると太鼓判を押しています。
彼の口述筆記を見て
(一見猪突猛進型と思われた彼がいかに深い洞察力を持っていたのか。)
(いかに緻密な計算に基づいて行われたものだったかを知って驚いたそうです。)

敵を包囲し、引き続きこれを撃滅することを直接の作戦目的にすることはほとんど無く、そのねらいは間接的なものにすぎないことが多い...
完全に機械化された部隊というものは、その指揮系統が崩壊しないかぎり、地形がその機動に適しているかぎり、応急の陣地よりなる包囲網など随意に突破しうる力を持っているからである。機械化のおかげで、包囲された指揮官は、包囲環の内適当な地点に対して不意にその戦力を集中発揮してこれを突破しうるのである。このことは砂漠の戦闘においてたびたび実証されたのであった。

包囲した敵を撃滅できるのは以下の場合で、良くあるのが1,2の場合。
1、敵が機械化されていないか、燃料欠乏、機械化されていない部隊を抱えていて身動きが取れない場合。
2、指揮官が無能な場合、一部の部隊を救うため部隊を犠牲にする場合。
3、指揮系統が崩壊して混乱状態になった場合。

これ以外の場合、戦力削減の戦闘によって敵を消耗させ戦闘力を失わせなければ包囲撃滅は不可能である。

戦力削減の戦闘
機械化部隊の戦闘でのあらゆる計画の直接のねらいは、敵の物的戦力の減殺と指揮組織および団結力の破壊でなければならない。

戦術的には機動力を最高度に発揮させなければならず以下の注意点があります。

機甲部隊は軍の中核でそれ以外は補助部隊にすぎない。
敵の機甲部隊に対しては戦車撃滅部隊を使ってできる限り戦力を削減することに努め、味方の機甲部隊は敵に最後の一撃を与えるために使用するものである。
(これは榴弾の撃てない初期のイギリス戦車には非常に有効でした。)
(対戦車砲に対しては接近して機銃射撃するしかできなかった(-_-;)...)

偵察の結果に迅速に対応して部隊を指揮しなければならない。
対応のスピードが戦闘の勝敗は決める。

補給路について、
自軍の補給路を確保し敵の補給を撹乱するためにあらゆる努力をしなければならない...
機甲戦の大前提
機械化部隊は、大量の燃料、弾薬、その他の補給品が無ければ動くことも戦うこともできない。補給路を守ることは重要なので敵の補給地区に突進すれば敵の戦闘を中止させることもできる。

決定的な要因は、部隊の戦力を集中しすることと迅速な機動力を保つことで部隊に分散の兆しがある場合はただちに再編成しなければならない。
(地域的、時間的に集中することが重要...)

敵の指揮官に不安を与え、行動を鈍らせるために各種の欺瞞的手段を採用するべきである。
奇襲(敵に対応するための時間を与えない)のためには、作戦の秘匿が一番重要...

敵に決定的な打撃を与え指揮組織が崩壊したら、敵の主力を蹂躪して撃滅しその効果を拡大しなければならない。この場合迅速な行動が一番大事である。
(敵に立て直す時間を与えてはならない。)
(そのためには、追撃部隊の編成と、補給体制の確立が必要。)
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注意
砂漠戦の原則は、ロンメル将軍自身も言っていますが
The Rommel Papers
「北アフリカの砂漠は、戦争の前に論理的に研究され訓練されていた車両化、および機甲化部隊の戦闘の原則を十分適応することができ、しかもこれを発展させることができた唯一の戦場であった」
砂漠戦専用でその後のヨーロッパ大陸の殴り合いの戦場には適応できないです...


ロンメルの対パルチザン戦の考え方は...
彼ら(イギリス軍コマンド部隊)は何度もアラブを煽動して、我が軍にあたらせようとしたが、ほとんど成功しなかった。なんといってもパルチザン戦ほど厄介な、物は無いからである。またパルチザン戦が起きたときには、人質に対して報復を行わないことである。なぜならば、報復は復讐心をかきたて、その不正規部隊を強化させるのに役立つだけだからである。事件が発生した場合、無実の住民に対し報復せずに何にもしないでおいた方がよい。報復手段をとればその地域一帯の全住民を刺激するだけであり、犠牲者は殉教者にされて、かえって抵抗を激化させるだけである。イタリア軍の指揮官も私に同意見であったので、たまたまアラブによる襲撃があっても大抵これを見逃しておいた。

暗いアルディンヌや東部戦線に比べると北アフリカの住民対策は雲泥の差があります。

エルアラメインの戦いの教訓
われわれはこの戦いから貴重な教訓を得た。これは今後のすべての作戦に反映させ、将来の戦争遂行全体に生かすべき教訓であった。その教訓とは、地上戦闘はそれが作戦たると戦闘たるとを問わず、もし敵が強大な空軍をもって制空権を握り、その重爆撃機の大編隊をもって、損害をかえりみることなく攻撃を加えることができる状態にあるならば、非常な制約を受けるということである...

この経験からロンメルはノルマンディーの戦いでは上陸地点に機甲師団をあらかじめ配置して24時間が勝負と考えていました。司令部案の敵をいったん上陸させてから機動防御で迎え撃つでは、機甲部隊の機動は不可能でしかも橋頭堡が膨大な量の戦車や対戦車砲で固められてしまって手後れになると読んでいました。


The Rommel Papers
ロンメル将軍自身が口述筆記させた大量の生文章
将軍は、戦争が終わったらこの記録を基に兵学書を書くつもりだったので客観的な軍事的教訓をメインに書かれていて

良くありがちな自己を正当化しようとする脚色や宣伝の多い将軍連中の自伝や回顧録などとはまったく違った(~_~メ)...
生の一次資料

プルー・ル・メリート勲章
この勲章を授与されたのはグェルナー・ウーデット、フォン・リヒトフォーフェンなどの伝説の人物...

以上明るいロンメル将軍伝説


ダーク版、ロンメル将軍伝記は...

参謀将校の妬み
陸軍大学出身でなくアドルフ・ヒットラーに気に入られて出世し映画スターなみにもてはやされたロンメルは怨まれていました...

シュゲーリン将軍「彼自身が犯した過ちから多くのことを学んだ。」
ルントシュテット将軍「せいぜい優秀な師団長というところだ。それ以上の人物ではない。」
リンテレン将軍「ロンメルは偉大な戦略家ではなかった。そのような点については参謀教育を受けていない。そしてそのことが彼にとって不利になった。」

ロンメルの劇的な写真は彼がカメラマンの一団を連れて歩いていたからでこういう宣伝スタイルが他の将軍達から「軍人らしくない恥ずべき行いだ」と嫌われた...
(この結果、将軍達の妬みからロンメルは、ヒトラー暗殺未遂事件の共犯として陥れられた...)
(特別軍事法廷の判士5人の中にはロンメルに侮辱された、キルヒハイム将軍(最初のトブルク攻撃に失敗した)とロンメルの宣伝が大嫌いなグーデリアン将軍が入っていた...)

ロンメルの方も陸軍大学出の参謀将校が大嫌いでした...
「彼らは、大理石のようだ。」「表面はすべすべしていて中は腹黒い。」とか、クラウゼヴィッツの戦争論も参謀将校が引用するので嫌いでした。彼はナポレオンの方が好きだったようです(^。^)...


ロンメルの参謀長、シュパイデル将軍の陰謀
戦後、ヒットラー暗殺の陰謀グループだったと証明された人たちだけが、ナチに反対した信頼できる人物としてドイツでは出世しました...

シュパイデル将軍は自身の出世のためにロンメルの陰謀荷担を出版した本で証拠も無いのにでっち上げた...
良く言われる、ロンメルが連合軍の上陸地点をノルマンディーだと看破した話も彼のでっち上げです...
結果、シュパイデル将軍は、ドイツ国軍の司令官になりNATOで最高の将軍の一人になりました...




資料、その他...
「狐の足跡」ロンメル将軍の実像、デヴィット・アーヴィング
「ロンメル戦記」、リデルハート編、ロンメル元帥口述タイプ
「ロンメル戦車軍団」、ケネス・マルクセイ
「砂漠のキツネ」、パウル・カレル
「戦力なき戦い」、ハンス・シュパイデル
「彼らは来た」、パウル・カレル

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