バルバロッサ作戦と補給


バルバロッサ作戦と補給

モデル雑誌や戦記物などの華々しいイメージと違い。
1941年にロシア征服のために出発したドイツ国防軍の実態は資源が
乏しく貧しい軍隊でした...
(燃料備蓄量も満足に無く、砲弾の備蓄も危険なほど少なかった。)

鉄道輸送とトラック輸送
1939年の輸送力比較は複線鉄道1本の輸送能力と同じだけトラックで輸送
しようとすると1600台も必要になりました。
コスト計算(燃料、予備部品、など)をすると200マイル以上の距離では
鉄道のほうが有利でした。
(トラック輸送は戦術面では有利だが戦略には限界がある)

自動車は第三帝国のシンボルでした...
(ナチのパレード写真、はなやかな無数のパレード)
(ニュースフィルムなどで見られる高官を乗せた車の行列や)
(戦車、装甲車、自動車部隊など)
ヒットラーは行政上の細部に全く興味を持たず、長期計画を遂行
する忍耐も持ちあわせていなかったため
ドイツの自動車産業は再軍備の始まったドイツ軍を自動車化する
には全く能力不足でした...

WW2開戦直前には103師団の内、16個師団だけが、
自動車化され残りの部隊は徒歩移動でした。
(それでも各歩兵師団ごとに900両近い自動車(作戦用)を)
(装備していました。しかし、補給物資は1200台の)
(馬車で運ばれ、歩兵はWW1ほど徒歩前進できませんでした。)

第2次大戦中、完全に自動車化された軍隊を持つことができた
のはアメリカ合衆国だけでした。


バルバロッサ作戦の備蓄は...
まず作戦に使われてた兵力は350万人(ナポレオンの5倍)
この巨大な集団が600マイルから900マイル先の目標に向かって前進し
補給を受けなければならない
しかも、道路は少なく、鉄道は軌間をドイツの標準軌間に変えなけ
れば使えない...
しかもドイツ軍の燃料備蓄量はガソリン3ヶ月、ディーゼル1ヶ月
分しかありませんでした。
鹵獲燃料を使おうとしてもロシア軍の燃料はオクタン価が低く使えませんで
した。しかもロシア軍は補給品の集積地点を作らず鉄道貨車から直接補給し
たので捕獲品は少なかったようです。

結果OKHの計画はロシア軍を国境線から300マイル以内で
(スモレンスク)包囲殲滅して勝利するという安易なものでした
その後はひと休みして鉄道が整備されて補給拠点を作ってから
前進する計画でした。

自動車補給部隊の輸送力は6万トン
300マイルの往復に6日、ドイツの全師団数144個なので、
60000トン÷6日÷144師団=約70トン
(一個師団当たの平均供給量)

しかし、自動車化された部隊や装甲師団に対する補給は
一日300トン必要なので...
300マイル進撃した地点では、33個師団にしか補給できない。

この見積もりは作者がかなり楽観的な仮定と言っていたもので
最初の包囲計画地点に到達する前に補給困難になることは
初めから解っていた...
OKHは、道路の不足から後方の歩兵部隊と輸送部隊の同時使用
は混雑している道路の状態を壊滅的な混乱に陥れることは確実な
ため補給部隊を各装甲師団に分散し各師団430トンの燃料に
4,500トンの燃料トラック、補給品トラックなどを追加し...
装甲師団に5,600マイルの走破能力を持たせました。
(戦闘消費を加えると大体1/2にするのが普通なので)
(これで300マイル前進できる...)

初期の突破のための機動力はこうして陸軍の大部分から自動車
を取り上げることで無理矢理達成されました(-_-;)...

トラック輸送部隊の受難
驚くべき道路事情
(悪路のため燃料消費量が30%も悪化した。)
(100km分の燃料で70kmしか走れなかった)
(OKHはロシアの道路は数が少なく、しかも悪路であることは承知していた
が、幹線の砂利道路の路面が作戦3日目ですでに悪化し始めた(崩れだした)
ことに驚いた。)
この悪路と前進する戦車隊によって撃滅されなかった敵の小部隊の行動に
よって輸送部隊のトラックの損失は19日目で25%、26日目には33%に
達した。

トラック部隊の装備車両が占領地(フランスなど)の捕獲車両が
大量に混じっていたため補給品、消耗品の種類が膨大な量に
なりちょっとした故障が治せずに急速にトラックの台数が減った

悪路は当初予定していたトレーラーの使用をはばみそれだけで40%も輸送
力を減少させた

11月の道路の凍結は泥に車軸までのめり込んだ車両の救出を困難にし
多くの車両が修復できないほどの損傷を受けた

鉄道輸送の危機
機甲部隊の進撃する道路と鉄道の路線の進路が違っていたため路線上の敵の
掃討ができず鉄道修理部隊は新たに敵掃討が必要になり大損害を出した...

鉄道修理部隊は冷遇されていたため数も少なく自動車の割り当ても少なかった。

ロシアの鉄道はいいかげんな作りで本格的な使用に耐えるようにするには
かなりの手間がかかりドイツ式軌間に変更してもレールの重量も軽く枕木も
1/3しかないため大型機関車を走らせることができず旧式車両を使わなけ
ればならなかった。

捕獲した機関車は軌間変更が不可能なため使えず、フィンランドに譲渡された
ロシア製の石炭はガソリンを添加しなければ使えなかったし給水施設も機関車
のサイズの違いから設置間隔が大きすぎた
(大半は信号や通信施設と同じく破壊されていた。)

鉄道輸送の混乱...
7月初めには合計300マイルが修理され、ドイツ式軌間に変更
されてていたが前線はさらに数百マイル先でした...
前線へはロシアの鹵獲貨車を利用して輸送されたのですが
ロシア軌間からドイツ軌間への変換ポイント基地での
ドイツ貨車からソ連の貨車への積み替えがてまどり
規定の3時間でできず12時間から80時間もかかり
壊滅的な混雑を発生させ、列車が消えて無くなる?
という異常事態が多発し...
補給組織は崩壊寸前になった...
(列車は一日34両の予定が半分も到着しなかった...)
混乱の様子...
第4戦車軍司令官のヘブナーは補給部隊を怠惰であり
柔軟性に欠けると非難し、自分の部隊に割り当てられた
列車は第16、18軍に「ハイジャック」されたと主張した...

補給局長ゲルゲは列車からの荷降ろしが遅れている
ことを指摘して自分には責任が無いと逃げた...

論争は陸軍を越えてさらに発展し各軍相互の問題にまで...
(空軍は合意した数字以上に大きな鉄道貨車を占拠し)
(機関銃で武装した将校を列車に乗り込ませていた)

消えた列車は...
こうして各部隊、方面軍、空、陸軍の間で勝手に
ハイジャックしあったためでした。

寒気が最悪の影響を与えたには鉄道に対してでした。
ドイツ製機関車はソ連の寒気に耐えられるように作られて
おらず(ほとんどは軽い旧式機関車)給水パイプの7、80%
が凍結して破裂した...
そのため11月初めから1ヶ月近く一両も到着せず
モスクワ攻撃部隊は筆舌に尽くしがたいほど
重大な物資不足になった...
(これがモスクワ攻撃失敗の真の理由の一つ?...)


北方面軍の進撃(電撃戦の実際?)
日付でドイツ軍の進撃の様子を追って見ると今までのイメージが
ガラガラと崩れます...レニングラードまで500マイル

6月22日午前3時5分、進撃開始
6月24日、燃料が足りなくなり空中輸送でかろうじて補う
6月26日、ドビナ川に到着するも燃料が尽きて全軍停止
(5日で200マイル前進)
前進補給基地が設置されるまで補給切れで停止...
7月4日、重輸送部隊を集中して進撃開始
7月10日、200マイル前進してルーガで補給切れで停止...
レニングラードまであと80マイルに迫るも森林地帯が広がり
戦車での攻撃は不利、歩兵部隊は数百マイル後方...
前進補給基地の設置に1ヶ月近くかかり
8月8日攻撃開始...
しかし、レニングラードの防衛の準備は終わっていた...
9月11日、豪雨のため道路は泥沼になり
ヒットラーはレニングラード地域が戦車に向かないのを認めて
引き揚げを命じ戦車軍はモスクワへ...

どうも装甲師団はちょっと走っては補給切れになって
止まってしまっているようで8月まで活動してるのは12日間だけ
(この12日間で400マイル前進している)
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モスクワの早期占領はできたか?
ヒットラーのキエフ救援命令の影響は?
補給戦より
兵站状況悪化のために、八月末には中央集団軍によるモスクワ
進撃ができなくなっていたことは疑う余地がない。
せいぜい第14、第17の装甲師団、自動車化師団、歩兵師団から
なる一部隊をこの目的のために使えたかもしれない。だが1941年
9月の時点でさえ、これでモスクワ市の防衛を突き破るのに十分
だったかどうかは非常に疑問である。さらに、モスクワ攻略がウク
ライナ地方以上に機動戦には不向きであったために、第2戦車軍
に補給できたかどうかは疑わしい。OKHがグーデリアン軍のキエフ
派遣を中止させていたら、彼の指揮下の戦車はそれほど消耗する
ことなく、それによって第2軍は補充をスピードアップできたであろう
だが中央集団軍の主力部隊は事情に大きな変化はなかったであ
ろう。補給物資は別の鉄道で運ばれていたからである。
しかし、この鉄道の稼動率はあまりに低く、9月26日になっても
中央集団軍の貯蔵燃料は実際に減り続けていた。
それゆえモスクワよりもウクライナを優先すると言うヒットラーの
決断によって生じた遅延は、普通に推定されている6週間よりも
はるかに短い。もし在ったとしても、遅延はせいぜい1週間ないし
2週間にとどまっただけである。


参謀本部案、一路モスクワ進撃作戦は実行できたか?
補給戦より
モスクワ攻撃のために基地設定に際して経験した困難からみて、
時折行なわれている議論も同様に成り立たない。その議論とは、
ヒットラーは指揮下の軍隊を3つの異なった軸に分散しないで、
モスクワ攻撃だけに集中すべきであったというものである。
しかしながら兵站状況から見て、このような解決策は不可能で
ある。なぜなら利用可能な道路と鉄道線が少なかったために、
モスクワ攻撃軍に補給ができなかったであろうからである。
後で起こったように、10月初めに攻撃のために70個師団を
集結したことによって、特に鉄道と燃料補給に非常に重大な困難
が生じた。だからその2倍の規模に当たる軍隊のために前進基地
を作れるはずはなかった。


野戦憲兵の数が著しく少なかったため、道路交通の管理は
いつもひどく、時々かなりの摩擦を招いた。特に作戦開始時
と、モスクワ戦で数少ない道路を目指して競争が壊滅的酷さ
に達した時が著しかった。


以下文章ジャンク未整理

ソ連軍の移動、補給も鉄道を使うものが主で未整備な道路を
軍団の移動補給に使うのは無理だった。
(工場のウラル撤退も自軍への補給もすべて鉄道を使っている)
もし、ソ連の占領が可能だとしたらそれは機械的に鉄道にそって
進撃するしか方法はなかった。

300マイル以上進撃するには鉄道の早急な復旧と
新しい補給物資の集積が必要だったが鉄道部隊は実戦部隊より冷遇
されていたのと指揮系統の分裂でなかなか進まなかった。

初戦の敗北は良く、ロシアの冬やヒットラーの介入により
モスクワ占領が遅れたせいだと言われていましたが。
(実際には冬装備は十分な量があったが鉄道危機から)
(戦闘用補給品より優先して運ぶことができなかった)

実態は鉄道輸送の失敗とトラックなどの不足で補給が続かず
重要な場面で動けなかったというのが最大の原因でした。

筆者は
「兵站総監の日記を詳細に調べると、各師団の戦史担当者が
とかく隠しがちだったことが明らかになってくる。」
と言っています。

グーデリアンの第2軍団を例にすると

このように、補給面からロシア奥地への進撃は

なんかこの本読むと兵站将校のほうがえらそうです...
将軍が無茶な作戦を実行しそうになると
眼鏡かけて紙束かかえた兵站将校が走ってきて
「将軍いけません、その作戦は実行不可能です」
とか言って強権発動したりして...

一番印象に残ったのは
ロンメルのOKHでの評判で
「あの気違い」とか言われていたとか...

この戦争は兵站術以外の原因で敗れた。
その原因の中には疑問のある戦略、ぐらぐらしていた
統帥機構、乏しい資源のいわれなき分散が数えられる

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