ロンメルアフリカ軍団の補給




ロンメルは名将ではなく補給面から見ると全然だめ将軍でした。

補給戦より
ヒットラーはロンメルを十分に助けなかったという、しばしば聞かれる説は正しくない。ロンメルは北アフリカで維持できる最大数の部隊を与えられたし、それ以上の兵数を与えられた。その結果1942年8月末になっても、彼の情報将校が推計したところによると、アフリカ装甲軍は戦車と重砲の数において、イギリス軍を上回っていた。
これらの部隊を維持するために、ロンメルは同じ規模と重要性を持つ他のドイツ軍団よりも、比較にならないほど多くの(補給用)トラックを与えられていた。(ロシア戦線に参加する師団の10倍の規模、約140師団/2万台、3師団弱/2千台)
もしも、アフリカ内陸での補給線確保が、これまで述べた原因の結果としてまったく不可能だったとしたら、ロンメル自身が大部分その責任を負うべきだった。彼は次のように悟ったが、その時はすでに遅すぎた。

「軍隊が戦闘の緊張に耐えるためには、まず第一に不可欠の条件として武器、石油、弾薬を十分に貯えることである。実際のところ射ち合いが始まる前に、戦闘はへいたん将校によって行われ決定されるのである。いかなる勇敢な兵士といえども銃なしでは何事もできない。だが機動戦においては、車両とそれを動かす石油が十分になければ、銃も弾薬も大して役に立たない。保守修繕も、敵のそれに対して量的にも質的にも同等でなければならない。」

ドイツ国防軍が一部しか自動化されず、本当に強力な自動車産業によって助けられていなかった以上、また政治的事情のためにイタリア軍という無用の重荷を負わなければならなかった以上、あるいはリビアの港湾能力が低く運搬距離が遠かった以上、ロンメルの戦術的天才をもってしても、枢軸国軍の中東進撃を補給する問題は解決不可能だったことは明らかだ。
このような状況の下では、北アフリカでは限られた地域を守るために部隊を送るのだというヒットラーの最初の決定は正しかった。そして、ロンメルが再三にわたってヒットラーの命令に挑戦し、基地からの適当な距離を超えて進撃を試みたことは誤りであって、決して黙認すべきことではなかったであろう。

Supplyng War
Martin Van Creveld(マーチン・ヴァン・クレヴェルト)
1977年ケンブリッジ大学出版部
英エコノミスト誌の書評欄で、戦争の真実をついた研究書として激賞を浴びる...

北アフリカの地形
砂漠では、すべての物資を運ばなければならなかった。食料、弾薬、ガソリンはもちろん水まで...

ロンメルが派遣された時枢軸側の主な補給地点は、トリポリでした、東部戦線のポーランドからモスクワまでは600マイルだがトリポリからアレキサンドリアまでは1200マイルありその間には1本の海岸道路があるだけで、内陸の砂漠の道は車両が酷く損耗したのでむやみに使えなかった。常に頭上に徘徊する航空機からは絶好の標的になりました。


一個師団が一日必要な補給量は350t、 300マイル運ぶとすると2tトラック30両からなる輸送部隊が39個必要(1170両)片道1000マイルの砂漠走行は、激しい車両の消耗を起こし車両の35%は常に故障していた。

トリポリには補給物資が山積みされ全然運べないという状況になりました。
一般に良く言われる輸送船の沈没による補給不足という状態は起こらなかった。
ただアフリカ内部の輸送の困難さが前線の補給不足を作りました。

「ロンメルのアフリカ上陸初期の攻勢でさえトリポリからエルアゲイラのイギリス軍を攻撃するための補給品を輸送するためにトラックではなく危険を冒して舟艇で補給品を運んでいます。」

補給戦より
1942年の夏と秋のロンメルの敗北はイタリアから燃料が来なかったからであるとか、極めて重要なタンカーが思いもかけず大量に沈められたからであるとたびたび主張されてきたけれども、実際のところ根拠はない。1942年9月2日から10月23日までに沈められた船のリストを詳細に調べると、合計23隻のうちタンカーはたったの2隻だった。実際にロンメルが7月〜10月に受け取った燃料の月平均は、2月〜6月の平穏な時に受領していたものより若干多かった...

北アフリカの港湾能力


トリポリ、一ヶ月平均4万5000tの荷揚げができた。

ベンガジ、一日2700tの処理ができたが英空軍の射程内で空襲を受け、700〜800tの荷上しかできず一ヶ月に1万5000tの荷上げしかできなかった。

イタリア軍はトリポリ、ベンガジ、以外の荷上げを拒否した。

トブルク港の能力が非常に小さくイギリス空軍(エジプト基地から)の攻撃に絶望的なまでに身をさらしていた。(トブルクはイタリア海軍の墓場と言われた。)論理的には一日1500tのにあげができたが実際には600tぐらいだった。

バルヂィア、メルサマトルーフはさらに小さく攻撃にもろかった。

北アフリカの港湾の能力は、トーマ将軍(参謀将校)の指摘の通りドイツ、イタリア両軍では不足で、イタリア軍を引き揚げさせて、ドイツ装甲師団4個で一気に戦うしか勝つ見込みは無かった...

ロンメルが成功して、戦線が伸びると、補給物資を輸送するだけで燃料の30%〜50%が失われるという状態が起こり,補給不足から撤退し、今度は、イギリスが補給線の重みに耐えられずにロンメルに再度やられて撤退するという情けないシーソーゲームを繰り返したのが、北アフリカ戦線の実態です...
(複線の鉄道と比べると180マイルを越えると鉄道の方が効率が良く・・・トラックの負けになる。この時代の車両の燃費は悪く(道路の悪さも原因・・・)、現代の宅急便トラック輸送などとは比べちゃいけない。)

(イギリス軍が自軍の補給物資を焼き払うのを忘れなければ距離の遠さによる補給困難からアレキサンドリアを占領される可能性は皆無だった...エルアラメインへの進撃は博打でしかなく案の定、補給が尽きて止まってしまった。一度止まってしまうとトリポリ、いやトブルクからでさえ補給物資を輸送するのは困難だった。ロンメル戦記を見るとエルアラメインで停止しているドイツ軍の燃料備蓄はどんどん減っていってジリ貧になっていった、8単位ー>3単位ー>部隊の入れ替えにも苦しむほど不足し・・・)

ロンメルは2000台(6000トン)の輸送能力を持つトラックを手に入れたが、これは破格の待遇で問題になった。(ロシア戦線に参加する師団の10倍の規模)

ロンメルは、実際に戦った後に補給能力が足らないことに気づき、8000台(2万4000トン)の輸送能力の増強を求めたが・・・

これは、バルバロッサ作戦の各方面軍(北方中央南方の三つ)の補給部隊、各(約6000〜7000台)2万0000トン弱より多かったため拒否された。(合計約2万台、6万トン弱の重輸送部隊、しかし開戦3週間で30%消耗し1万4000台に減少した。)

(注、重輸送部隊のトラックはオペルの3tトラックがメインなので台数と輸送t数の関係はトラック台数×3=輸送t数)

たった3個師団(しかも縮小編成)のドイツ軍のために10倍編成の補給用トラックとガソリン、補充用や給物資を考えると・・・
(注、バルバロッサ作戦は約140個師団、フィンランドなどを含めると約150個師団)
こんな作戦は全部中止して、防御だけにして東部戦線に補給部隊を回した方がきっと良かったでしょう...
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