ノモンハン...4


1.前線部隊の指揮官は、
2.教訓とその後



前線部隊の指揮官は、




教訓とその後

第23師団の死傷者は12230人、79%でした。控え目な数字で実際はもっと多いらしい...
軍隊は50%の損害を受けると壊滅とされますが...
日露戦争の奉天会戦が28%、太平洋戦争のガダルカナル会戦が34%
前年の張鼓峯(ちょうこほう)事件の歩兵部隊の死傷者は24.7%

各連隊別は...(第六軍軍医部が製作したもの)
歩兵第71連隊、93.5%
歩兵第72連隊、78.5%
歩兵第64連隊、69%
野砲兵第13連隊、50%
第7師団
歩兵第26連隊、91.4%
歩兵第28連隊、72.8%
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現在使われている数値は、数値には欠陥があり、文章は不完全で混乱している部分がある...

ジューコフの報告
ソ連側が計算した日本軍の損害は、52000人〜55000人戦死者は25000人と推定した...

在奏天米国領事のつかんだ情報によると日本軍の損害は戦病死を除き30000人(39/11)

原田男爵、35000人〜36000人を失ったと閣僚から聞いたと書き留めた。

陸軍省の10月初めの公式発表、死傷者戦病者合わせて18000人

本当の日本軍の損害は、3万人以上になるのは間違いない...
ソ連の情報開示前の数値は採用できないとしても米国領事のつかんだ数値や国内で閣僚から漏れて来た数値は採用してもかまわないと思います...

追加、
一個師団プラスアルファーの部隊にしては兵力損失が大きい訳は...

つまり、大砲の数で負け戦車の数で負け、補給力で負け...
手当は、旧来からある方法を使った。
歩兵の大量補強をした...

しかし、陣地を構築する資材も乏しく、狭い塹壕に密集して配置されてしまい。
ソ連軍の砲撃を浴びて見る見る無駄に消耗してしまった。


クラウゼヴィッツも戦争論で死傷者数や兵数は歪められることが多いと書いている。

「勝利の総括的概念...死傷者の数に関する彼我の報告は、いずれも正確ではない、正直な発表は極めて稀であり、大方の場合故意に事実が歪められている。...敵側が闘争を放棄するということだけが我が方の勝利を示す唯一の証拠なのである。」

小戦力側は、その事実だけで精神的に大きな打撃を受けるが通常兵力の見積もりは不確実で真相を知らないまま戦うことが多い...
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ソ連の情報開示資料から、ソ連軍の死傷者数は、1万3243人〜2万3926人

資料1:1939年5月〜8月のソビエト第一軍負傷者リスト(32113-477)
死傷者合計1万5268人

資料2:戦闘における第一軍の損害調査報告書(33987-1207-53~54)
五月19日〜8月30日の損害
戦死2413、負傷者1万0020人、行方不明810人、総損耗数1万3243人

資料3:戦死7974人、負傷1万5952人、全損失2万3926人

両者の対比から、日本軍の方が少ない損害だったと馬鹿なことを強弁するより、当時の日本政府の発表が敗戦を隠すために半分程度にされていたと考えるほうが自然だ...
(注、死傷者数ではなくて、死者数で比べた場合日本は太平洋戦争の玉砕に似た状況)

日露どちらも人命を重視しない体制なため、攻撃時には第一次世界大戦と同様な歩兵の突撃を行った。
その結果が両者の死傷者の多さで、第二次世界大戦が始まるとアメリカ、ドイツの観察で日露双方ともこの旧式の戦法を多用したことが報告されている。
(注意点として、この方法が無知な好戦的な兵法を好むといったものから出たのでは無くて、戦力の95%が死傷しても5%が目標に到達して占領に成功すれば良しとする考え方だった。しかし、こういった計算が成り立たなくなるほど近代火力はUPしてしまった。)
(この方法は兵隊を大量に使い捨てにできる国でなくてはできない。)
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ノモンハン事件研究委員会の実態
委員会の先入観、
日中戦争とノモンハン事件同じ日本軍同じ装備であるのに何故これほどの差が出たのか
戦闘部隊の指揮能力が不十分であったのが原因に違いない
(赤軍と日本軍の装備の差を軽視したため委員会は問題の本質を見失った。)
表向きはノモンハン事件から戦訓を得ると言うことっだったが実態は査問委員会だった。

三嶋大佐(野戦重砲兵第一連隊長)は委員会を批判し長時間の率直な意見具申をしたが...
委員の歩兵高級将校はくどくど大和魂のことばかり言い続け...
三嶋大佐はまもなく内地の野砲兵学校へ追いやられてしまいました

一般兵の場合は
「軍法会議にかけられる恐れがあるので敗戦のことは話すな」
と諭され恐怖で縮みあがった

結局、

「戦闘精神」の強化に主眼をおき...
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第一委員会報告
三嶋大佐の証言追加...
戦術訓練において直面した大きな欠点は、将校、それも陸大出身者ですら、
ドイツ陸軍の「メッケル戦術」しか教えられていなかったという事実であった。
つまり、プロシア陸軍のヤコフ・メッケル少佐が日本日本陸軍の指導に来日した
明治時代以来、敵をどの程度打破できるかについて、具体的な分析はなにひとつ
なされなかった。
日本陸軍のどの段階にあっても、友軍の損耗率や部隊の交代時点といった問題が、
方法論的に注目されたことはなかった。
メッケルは敵の脆弱な部分を攻撃する必要性を強調していたが、
敵にまさる火力を集中することによって脆弱な部分をつくり出すことは、
指揮官の判断にゆだねられていた。
この戦法は、ノモンハンでは試みられなかった。
そのかわり、机上では一見すばらしく見える巨大な部隊運動が考案されたが、
惨禍の積み重ねに終わっただけであった。
このような部隊運動が実施に移せるのは、地形が有利なとき、友軍の火砲が
長距離支援射撃をできるとき、そして機械化と自動車化の双方が整備されて
いるときである...
*「ノモンハンの夏」で何故か省略されていた砲兵隊将校、三嶋大佐の証言
の中の日本軍の兵法の欠陥を論じた部分...


8月攻勢を予想される情報は情報2課に届いていたが...
日本軍は情報を無視したわけで無かったが、その先入観に
合致するよう現実を歪曲する傾向があり、それに反する証拠
は受け入れることができなかったか、もしくは受け入れようとも
しなかった。

日本軍は敵の能力を知らなかったし知ろうともしなかった。

満州事変、日中戦争と陸軍は3流以下の軍隊との戦争で慢心し
2流以下の自軍を「我が軍は無敵」と誤った考えに完全に染まった

ノモンハンの事件を何故生かせなかったのか
一番肝心な防御側有利という原則はこれまでの教育方針を
100%覆すものなので採用できなかった。
白兵突撃は近代戦では愚考以外のなにものでも無い
(日本の戦記物の著者の中には)
(我が軍と違い敵は臆病で突撃してこないとか自慢して)
(書いてあるものが多くこの点がいまだに理解されていない)
(始めだけ強くて後は全然だめとか...)
(こんな無茶な攻撃をすれば戦力が無くなるのは)
(あたりまえ)

陸軍教育の基本は攻撃精神、勇気などで
防御とか撤退とかは弱さの現れとして忌み嫌われた。
(ノモンハンで兵に防御陣地の構築を命じると士気が)
(とても落ちました...)

軍はノモンハンからかえった下士官は、内地へ帰すな、という暗黙の指示を
部隊に与えていた。それで、第七師団のノモンハン帰りの下士官達は、みな
関東軍のさまざまな部署に転属になった。...
ノモンハンの事情を知る下級幹部に対しては、軍はどこまでも監視の目を
ゆるめず、事あるごとにその者を、遠方の危地へ追いやろうと意図している
金鶏の与えられている功績者に対してさえこうした、一種の「処分」がつき
まとった...
「静かなノモンハン」より

指揮官が無能で
どんな無茶な命令を受けても最後まで忠実に実行して全滅
した。

日本では検閲であいまいにされ、疑惑と不安を呼んだだけ
軍はノモンハン事件の隠蔽、と歪曲工作に勤めたので

大きな県立図書館クラスの蔵書には1940年台発行の
日本軍勝利ノモンハン物が多数ストックされてます。


(無能な指揮官を揃えてしまうシステム)

劣悪な装備の中国軍との戦いが誤った認識と慢心を育てた...
日本陸軍の攻撃主義とは上海に、ドイツの軍事顧問が劣悪な 中国軍を指導し縦深陣地を建造しただけで 大損害を出してしまうお粗末なものでした。
しかし、上層部では慎重な指揮官や人命の損失を押さえようとする 指揮官を嫌って左遷や配置変えしたので、
(これは真面目な研究をしてきた指揮官を排除することになりました)
ますます攻勢一点張りの駄目指揮官をそろえてしまう結果になりました。
日中戦争の膨大な戦死者は中国軍やゲリラが強かった 訳ではなく上層部指揮官のこのような実態が最大の原因でした...
陸軍
上層部の風潮では出世コースから外れて 実戦部隊の指揮官になることを左遷と呼びました。 つまり、連隊長クラスには優秀な人材がそろっていた 司馬遼太郎話 辻政信は... 自分がやったくせに「ノモンハン」という小説まがいの読み物まで書いた。しかも 読んでみると、驚くことに、あれだけノモンハンでは戦車にやられたのに戦車の知識 がじつに乏しい。近代国家の高級軍人で、しかも統帥権という魔法の杖をもっている 人間が戦車の知識がまったくないんですよ... 30代そこそこ、しかも幼年学校からずっと軍人教育ばかり受けていて、世間という ものを全く知らない。だから国際社会なんてむろん知らないです。まして、人間の尊厳 ということなど考えたこともない、そういう教育だけ受けてきた人間が魔法の杖を持つ ことを許された。これはとんでもない制度でしたね。だからノモンハンの事件が起った のでもありますが。 本当の意味での愛国心をこの人たちはもっていたでしょうか。高文とか陸大とか高級 官僚養成コースを出た人は、自分の階級が上がること以外考えていなかったのではないか と思われるフシがあるんですが... ソ連軍は往年のソ連軍にあらず日露戦争の時のソ連軍と思っては大変なことになる... というようなことをもし発言すると、絶対出世できなかった。うっかり言えば少将どまり になってしまう。だから口をつぐんだんですね。ぼくは、なぜ日本軍がそんなことになって しまったのかということを知るために、当時要職にいた人を何人も尋ね歩いたことがあり ます。会うたびに不愉快になりました... 対談 ノモンハン一兵卒と将校・下士官、司馬遼太郎/伊藤桂一より BT戦車の対抗馬、97式中戦車(改)47mm砲装備は... 戦車マガジン1980年6月より 1941年の関特演の時に戦車は古い89式から97式に入れかえられたが 47mm対戦車砲装備のものは一両もこなかった... 太平洋戦争が始まった時にあった47mm砲装備の戦車は実験用に制作された 二台だけで一両は千葉戦車学校、もう一両は満州の四平戦車学校にありました。 結局フィリピンでM3スチアート戦車にぜんぜんかなわず (勝ち戦にもかかわらず戦車隊に相当な損害を出し...) 急遽47mm砲装備の戦車中隊を送ることが決まり (つまり、新戦車試作から二年以上たつのに) (開戦時に南方には一両の47mm砲戦車も無かった) 命令を受けてから2ヶ月かけて三菱重工で作られました 各国で戦車の所有や用法を巡って、歩兵vs騎兵の争いはありましたが ドイツの電撃戦後には解消して主力戦車の開発生産に取り組んでいる。 1942年初めまで一両も量産ラインに乗らなかったのは異常... 57mm砲装備車は歩兵支援戦車で歩兵部隊の支配下ですが 47mm対戦車砲装備戦車は独立した存在になってしまい 歩兵部隊の指揮下を離れてしまうため 歩兵科将校に生産妨害されて作れなかった... モンゴルの平原でソ連戦車に敗れてから二年半... 一番の戦訓は、組織の柔軟性の無さ... 硬直した予算編成、兵科派閥、 (なにかどこかで見たような...(-_-;)...) 2000.5.3... モンゴル側から見ると... 日本とソ連の狭間に置かれたモンゴルは、ノモンハン事件のラストで 日本軍が占領した土地、、、を失いソ連もヨーロッパ方面の戦争が始まり 交渉を急ぐ必要から現状支配地域が国境線とされ... 現在も中国との国境もそのままになった モンゴルの目から見るとロシアは援助すると言いながら モンゴルの土地を削ってしまう協定を結んだ... # # # ノモンハン関係の書籍紹介 「ノモンハンの夏」 一番新しい本かな? 良くまとまってるので一般的入門書には良いでしょう... 「私評ノモンハン」 ノモンハンの事後処理の当たった参謀の書いた物で 国境線問題と、井置中佐問題の部分はみごとです... しかし、技術的なデーターなどは書かれた年代が古いためか 資料不足で、結論や流れは正しいのですが、多少説得力に欠けます。 「静かなノモンハン」 一兵士の目から見たノモンハン事件を克明に書いた物で 鈴木上等兵、第七師団、堀田大隊、(攻勢移転の援軍) 、行き先も何も知らされず戦場に投入され気が付くと戦車と 、白兵戦でばたばたと回りの兵隊が死んでいく戦場だった... 小野寺衛生兵伍長、26連隊(須見部隊)第一大隊(生田大隊)8月5日〜 衛生兵なら戦死せずに済むと志願したのに補充としてノモンハンに投入されて しまい、ソ連軍の大攻勢から最後の少数の生き残りで包囲を突破して逃げて 来るまで(-_-;)地獄ようなはなしです... 鳥居少尉、速射砲、安岡支隊→28連隊、7月1日〜停戦まで、 9月15日の停戦の知らせを聞きながら、一発の弾薬も無い 速射砲隊の隊長になってしまった憤る場面が印象的でした。 対戦車戦闘の話も良く出てくるので参考になります。 少佐の回想の中の 「ああみんな死んでしまったなあ」 「実に、みんな死んでしまった。みんな死んでしまったから、ここは 今のように静かなのだ」 これが、本の題名(「静かなノモンハン」)になっています。 (注、司馬先生は速射砲の話を多少怪しいと感じていたようです...) 2000.1127... の3人の話です。 # # #
前半部分.
あらすじは...国境線は...現地の地勢ノモンハン周辺簡易地図
紛争の拡大理由、初戦、両軍の補給能力比較る、タムスク独断空襲...
中盤部分.
23師団の渡河攻撃、.日本戦車隊の攻撃.夜襲...ノモンハン大砲撃戦
後半部分.
8月攻勢(ジューコフの傑作...).無意味な攻勢移転

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