ノモンハン...3
1.8月攻勢(ジューコフの傑作...)
2.無意味な攻勢移転
3.関東軍主力の派遣と停戦
8月攻勢
ソ連軍の隠蔽工作
攻撃の規模が大きく長期の事前準備が必要なため隠蔽工作は重要でした。
「ソ連軍兵士への防御上の注意」と言うビラが何千枚となく印刷された。
(日本軍の手に渡るように仕組まれた。)
強力な拡声器が持ち込まれ、戦車のエンジン音や工事音(ハンマー音)を毎日流した。
装甲部隊は夜間のみ移動するため、毎日夜間同じ時間に爆撃機編隊を飛ばした。
日本軍が装甲車の騒音に馴れてしまうように総攻撃の10日から12日前から
マフラーを外したトラック(戦車?)を走り回らせた。
ソ連軍は8月攻勢のための補給物資の集積を
火砲弾薬1万8000t、爆薬等6500t、固形燃料7500t
食料品4000t、その他4000t
総計5万5000tを運び込んだ。
前回の火炎ビン攻撃の被害に驚いたソ連軍は戦車のエンジンを
ディーゼルに替え重要な部分は網でおおわれ、車体は不燃性の
合成塗料で塗装されてた。
8月攻勢時の対戦車白兵戦...
主な方法は、手榴弾を数個縛った物を戦車に飛び乗って戦車砲や機関銃に結び付ける...
(数人で連携してやると誰かがとりつけました。)
炸裂すると砲は照準が狂って役にたたなくなり、銃身は曲がって使用不能になった。
戦車自体が燃え上がってしまう場合もあった。
(手榴弾も無い場合はえんぴで銃身を叩いた。少しでも狂うと操作不能になる)
(必死でやるので結構つぶせたそうです(゚o゚)...)
敵も戦車同士、連携して機銃射撃してきたり、のぼっても中から拳銃で撃たれたり
ふいに砲塔を廻されて振り落とされたり、
(その後キャタピラに轢かれるか機銃に撃たれます。)
結果、敵は戦法を変え300m以内には近づいてこなくなりました。
「まともな対戦車火器も無くこんな戦法を続けると戦死者が続出して
あっという間に部隊の戦力がなくなります。」(-_-;)...
ソ連軍は、日本の防御網の弱いところは側面と機動力のある予備を持たない
ことだと分析しました。(優秀な装甲部隊や自動車化部隊が無い)
後方や二次的な戦区から部隊を急速に移動することができない。
ソ連戦車はキャタピラを外して車輪走行して攻撃基点に集まった...
日本軍の野戦情報部隊はソ連軍の無線傍受でその発信位置を知り師団、旅団などの
移動情報を得ていたが、8月始めごろわざとかなりの情報を流した後...
8月中ごろには激変し、8月17日、18日にはほとんどゼロになった。
秦彦少将ハルピン特務機関長は、
ソ連軍が8月攻勢に備えて3,4個狙撃兵旅団と戦車800〜1000輌を集中している
という情報を手に入れたが...
司令部はソ連軍の圧倒的な8月攻勢になんの備えもしなかった。
情報参謀鈴木中佐の話
「たとえあの数字が正しくても日本は中国との戦争で見動きがとれず、とても東京が弱体な
関東軍を増強できるような情勢ではありませんでした。あの推定の数字は対策を講じるには
あまりにも大きすぎました。厳しい現実には目をつぶって、そのことは口にするな、そうす
れば問題はどこかに消え失せるだろう、それが我々の態度でした。どうせ何もできないのな
ら、情報を”もてあそんだ”ところで仕方ないじゃありませんか。」
情報の収集者と利用者の間には、相も変わらぬずれが存在していた。
日本陸軍航空隊の戦闘機中隊長を勤めたある将校の記憶によると、
ベテランの某偵察機隊長が「膨大な数の」敵戦車を視認したことを
上級司令部に報告したところ、司令部は報告書を受け取ろうとし
なかった...(大げさで信憑性が無いと思われた...)
(7月終わりにはこの地区に2000両の車両が展開していた。)
(航空カメラ操作が未熟で肉眼観察に頼りすぎた...)
(上空から肉眼で静止している戦車や兵を識別するのは大変でした)
(軽爆撃機の編隊長の話では、命令書に地図の上に線を引いて
(「何番何番を攻撃せよ」と書かれていても上空からだとさっぱり)
(判別できなかった、川などからだいたいの敵味方の位置は推測して)
(爆撃した...これは、命令を出す指揮官が一度も現地を飛んだことも)
(無く命令の出し方が解らなかったためだといわれています(T_T)...)
このあたりも違っているので修正...2000.02.27
軽爆撃機の編隊長の話
司令部の参謀が司偵で行方不明になってから偵察を止めてしまって
盲作戦になってしまったそうです...
軽爆撃機隊で心配して
上空から見た敵状を毎日詳しく戦闘要報に書いて提出したが
誰も見なかったらしい(-_-;)...
タムスク爆撃の時に町外れに4キロ四方の機械化部隊の集団の集積場所が
二箇所もあるのを発見した...
50kg爆弾を6個落としたがどこに落ちても命中するので狙う必要も無かった
(-_-;)...
前線では両軍とも塹壕を掘って地面の下に潜ってしまうので場所が判らなくなる。
いつも砲撃されて砂煙が上がってるのが友軍の陣地らしい(T_T)...
戦車に対する爆撃は草原をただ走っているだけなら簡単なのですが
ソ連軍は前線では戦車を戦車壕を掘って埋めてしまい砲台として使うので
爆撃してもあまり効果がなかったそうです...
逆に8月20日の大攻勢で無数の戦車が突撃してくるといくら爆撃しても敵の
数が多すぎて効果がなかったそうです(-_-;)...
8月20日
総攻撃は8月20日に開始されることになっていた
(独ソ不可侵条約締結が8月23日)
(ポーランド侵攻が一週間後)
20日は日曜日で日本軍司令部では将校や将軍がみな休みを取るので
この日をジューコフは選んだ...
8月攻勢(23師団壊滅)
午前5時45分砲兵部隊が砲撃開始同時に爆撃機150機、戦闘機100機が
前線はもちろん後方予備部隊に対しても猛爆を開始
(戦闘機50機は日本軍陣地に対して繰り返し機銃掃射を浴びせた...)
午前8時15分ソ連軍砲兵部隊はすべての砲を技術的可能性の極限まで使って
集中砲撃を開始した。
午前8時30分再度ソ連軍機空襲
午前9時歩兵装甲部隊攻撃開始...
日本軍の砲兵部隊は応射もできず
通信、観測所、火砲の砲列は壊滅してしまいました...
ソ連軍の砲撃パターンは短時間に集中砲火を浴びせる日本軍方式と違い
多数の砲弾を使って何時間にもわたって絶え間無く射撃し続けるもので
10時間も続くことがありました。
上村少佐は正午ごろ連絡を取るために3人の伝令を出したが全員200mも
前進する前にソ連軍の砲火でやられてしまった...
フイ高地(井置捜索隊の勇戦...)
主戦場から10kmも離れた場所にある最北の日本軍守備陣地
ここを守っていたのはわずか800名の戦力低下した部隊でした
(捜索隊(騎兵2個中隊、工兵1個中隊、速射砲4門、重機関銃数丁、山砲4門、))
(と第26連隊から派遣された歩兵2個中隊)
小松原師団長はこの弱体な部隊を補強しようとしていたのですが余裕が無くそのまま
ソ連軍の一個狙撃連隊と二個装甲旅団に包囲されてしまいました。
(北方から日本軍を包囲する予定の主力部隊です。)
8月20日最初の砲撃開始から数十門のソ連軍火砲に砲撃され続けた
「黒雲が高地一帯を覆い、視界はわずか2〜3mしかなかった。」
「地獄の銅羅」のように反響しながら落下する砲弾の数は毎秒
3発でした、破片の飛散する音には、「はらわたをえぐられる」
ような感じがし...。兵は次々に倒れ、兵器は破壊され、壕は壊れ、
守備陣地はまるでハチの巣のように穴だらけになってしまいました。
ある砲兵中隊長の話...
玉井軍医大尉の業務日誌によると
20日
...砲撃と数日前の豪雨により壕破壊され、収容辛苦筆舌につくし
難し。一分間200発の猛砲撃下にありては、壕外に出て患者を収容し
得ず、また交通壕に担送不能にして、応急措置は受傷地点において行い、
薄暮以後患者を後送す。
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21日、22日になっても激戦は続き日本軍を包囲せん滅するという
ジューコフの作戦に狂いが出てきました。
(この間ソ連軍の北方包囲部隊の指揮官はジューコフに戦術を批判されて解任されています。)
(一部の部隊を陣地攻略に当て主力は日本軍の包囲を完成)
(させるために進撃を続けるのが正当な作戦でした。)
最後は第六戦車旅団から1個戦車大隊、予備兵力の空艇旅団まで投入して
総攻撃しました。
2日間の激戦ですでに、部隊は水も食料も弾薬も無くなり、野砲、歩兵砲、
速射砲、機関銃までが敵の砲撃で粉砕されてゆきました。
100両以上の敵戦車が陣地を包囲し徹底的に砲撃し...
23日には守備陣地の半分は制圧されてしまました。
小銃、銃剣、手榴弾だけで白兵戦になり、両軍は壕から壕へと
すさまじい白兵戦をくりひろげました。
24日には部隊本部も危うくなりました。
このころには死傷者の数は極限に達しある中隊では生存者が4〜5人
しかいなくなってしまい...
生存者は火炎放射や戦車の至近距離での攻撃を恐れて発砲すらしなく
なってしまいました。
部下の将校たちに高地を維持しようとしても絶望的で意味がないもって
せいぜい半日である、しばし高地を去り水、食料、弾薬の補給を受け兵力
と装備を補充し再奪還を...と言われ責任感から井置隊長は拳銃自決を試みたが
(師団命令では最後の一兵まで陣地を死守することが求められていた。)
連隊中隊長に止められ、ついに撤退を決意しました。
25日午前2時離脱を開始5日間の戦闘で食料も水も無く、疲労して消耗しつくした兵は...
大部分の者は前を行く者のベルトをつかんで歩き、まどろめるときにまどろんだ...
「ベルトから手を放すと、隊列から置き去りにされ、あとは死が待つだけでした」...
ある兵士の回想敵の虚をついたため生存者たちは脱出に成功しました。
しかし、
井置中佐は、後退の責任を取らされて自決を強要され自決してしまいました。
(日本軍では、無意味に全滅や自決をすることを賛美する風潮が蔓延していたので...)
フイ高地はノモンハン一の激戦地になったので、
もし、ロシアやアメリカ軍ならここまで戦った井置中佐は勲章を貰えたでしょう...
日本の守備陣地の制圧方法
ジューコフによる高地に設けられた日本陣地への正面攻撃は、すべて失敗している...
結局ひとつひとつの陣地を包囲孤立化させてひとつずつ非常な犠牲を払いながらせん滅した。
1.各種砲の正確な射撃
152mm砲も含めあらゆる口径の砲を持ち出し至近距離から直接照準で猛砲撃を加えた...
2.戦車が前進して至近距離から徹底的な榴弾攻撃
(対戦車火力が無くなると火炎放射戦車を出動させ塹壕や待避壕を焼いた)
3.歩兵の白兵戦(といってもソ連兵の場合は手榴弾投擲が主)
(最後は塹壕の中で手榴弾が転がらない位置に身を潜め危ないものは掴んで投げ返しながら)
(耐えたとかこの当りの話はすさまじいものばかりです。)
速射砲はもっとも必要な時に役にたたなかった
有効射程外(1000m〜1200m有効距離は700m以内)
より誘い撃ちされてしまい、いったん射撃するとその位置が露見してしまい
徹底的に射程外から砲撃されほとんど破壊されてしまった。
94式対戦車砲(37mm)は...
貫通力
射程 25 100 250 500 750 1000 1500m
AP−HE 44 40 36 31 26 21
「戦車を確実に仕留めるには...射程800m以内で撃つこと」
「戦車を狙い打つ場合、直角に当たれば鉄板をぶち抜けますが、
少しでも曲がるとだめです。確実に倒すには、焦らず、戦車が射程
距離に入るのを待たねばなりません。」
静かなノモンハンより
少しでも曲がるとだめの意味は、砲弾の規格が貫通力では無く
爆発力を大きくするように設計されているため
傾斜装甲板に対する貫通では角度が増すほど貫通しても弾頭が
破壊され易くなるという法則に引っ掛かって爆発してしまう
ためらしい...
(破壊曲線を表にすると大体30度ぐらいで別の曲線にずれていく)
(正確に傾斜装甲に対する貫通力を出すには二つの状態の貫通力)
(曲線を計算する必要がある...)
敵の戦車は、渡河作戦の時はT26とBT5(装甲13mm)だと思うのですが
ディーゼルエンジンのソ連戦車はBT7m?なので物が違ってきます..
「どうも家の資料が古いのでBT7の装甲は23mm?13mmと二つあるので
はっきりしません...」
強化されていれば大体合いそうですがもし違っていた場合は...
「日本の火砲のデーターは諸外国に合わせるために水増しされている」
という話を採用しなければならなくなります(T_T)...
各陣地の間が広すぎソ連歩兵に簡単に後方まで浸透された。
予備部隊は一掃され、多くの支援砲兵陣地は占領されてしまいました。
ノモンハン当時の日本軍歩兵部隊の質は...
戦記作家の五味川順平さんの話
自分が1945年8月に満州でソ連軍とわずか三時間戦っただけで、中隊
158人中で、彼のほかに兵三人しか生き残らなかったという悲惨な体験から
考えて、その6年前のノモンハンにおける日本兵の頑強さと善戦ぶりに感嘆して
いる。彼によれば1939年当時の兵ははるかに強く、「私が(終戦末期に)戦った
時と全然質が違いますよ」といっている。
(しかし、考えると当時の戦車の45mm榴弾と1945年のソ連軍主装備のT34/85の85mm榴弾)
(では威力が全然違い技術的な進歩の影響が多かったような気がします。)
戦闘を見ていて気付くことは、ほとんどの部隊が水、食料弾薬が尽きてにっちも
さっちもいかなくなり最後は突撃して壊滅してしまう...
日中30度をこえる灼熱の炎天下で一滴の水も無く数日戦わさせられれば
どんな兵士も戦闘不能になってしまいます。
普段から現地徴発にたよっているので何も無い荒野で包囲された場合のこと
まで考えが及ばなかったらしい...
(補給は毎日来るトラックに頼っていた...)
8月20日〜21日の日本軍配置
攻勢部隊(794、752、780高地)
右翼部隊、小林少将、 歩兵72連隊、歩兵71連隊第一大隊
左翼部隊、森田少将、 歩兵26連隊(第一大隊欠)、歩兵28連隊(第二大隊欠)
左翼支隊、四ッ谷大佐、独立守備歩兵第六大隊
砲兵団、 畑少将、独立野砲一連隊、野重第一連隊第二大隊、野重第七連隊第一大隊...
守備部隊
ホルステン河北岸
フイ高地、、井置中佐、23師団捜索隊
731高地、山県大佐、歩兵26連隊第一大隊
733高地、山県大佐、歩兵64連隊
733高地、野砲兵13連隊第三大隊
755高地、野砲兵第13連隊第三大隊、野重第一連隊第一大隊、野重第七連隊第二大隊...
注意...
このころにはもう消耗が激しくて編成表通りの兵力は在りません良くて半減、
悪いと名前だけになっています。
無意味な攻勢移転
22日午後第六軍司令部は攻勢移転の命令、
2個旅団による包囲攻撃、(24日明け方攻撃予定)を命じました。
3倍以上の敵に戦力も疲弊し補給も火力の増強もないのに攻撃をしかける...
しかもその兵力を崩壊しかかった前線から転出する...
支援砲兵は敵戦車のうろつく草原を夜間移動して陣地返する...
とても無茶な命令でした。
小松原師団長は初めは嫌がったのですが上級司令部の命令に逆らえず
後方の予備部隊と併せて攻撃に転じることになりました。
「最近の秘密指定解除によってソ連軍の死傷者数も公表されて
います。戦死6831人、行方不明1143人、戦傷15251人、
戦病701人、モンゴル軍の死傷者を加えると24492人」
圧倒的な戦力なのにこれだけの犠牲が出たのは日本軍が頑強に抵抗したせいでした。
修正...
日本軍同様、歩兵で強固な陣地に吶喊(とっかん)攻撃をかけたため...
独ソ戦物にも「ウラー」と言う掛け声をかけて突撃するソ連歩兵の戦法は良く出て来る
(部隊は少数の機関銃で大量出血になりよく作戦失敗してる...)
2000.1225...
「(ジューコフの作戦には無理に攻勢をかける傾向がある)
(兵の血で進撃する。この損害はジューコフのせいでもあります)
ノモンハンで勝利したにもかかわらずソ連軍の意気は上がらなかったようです。
砲兵などの支援部隊を予備兵力で守りもっと強固に守ったらもっと違う結果になったかもしれません。
(包囲されて補給が無くなってしまってるので兵糧攻めにされるとダメですが」)
ソ連軍研究の権威ハリソン・ソールズベリー
7月、8月の作戦では人員の損失はまったく考慮に入っていなかった。
ソ連軍の公式資料では甚大な死傷者を出した責任によるジューコフの不人気ぶりがあげつらわれ...
ノモンハン戦役後にソ連部隊が意気消沈してたといううわさがあります...
「ジューコフは兵士の人命を惜しむような戦闘を実施したことは一度も無かった。
ジューコフは、生命の犠牲の上にたってこそ軍事目標が達成できると信じていた。」
(両軍とも歩兵で、堅固な陣地に攻撃を掛けて、大被害を出しています...)
(近接支援のできる重装甲の火力支援戦車(独だと突撃砲?)が必要でしたが)
(戦車は両軍とも装甲が薄すぎてこの任務は不可能でした...)
(15mmも25mmも薄すぎて紙と同じでした。最低5cmは必要です(-_-;)...)
(ソ連側は日本の対戦車火器が尽きると実行したが45mmの榴弾は威力不足だった...)
(同時期に...)
(ドイツ軍がマジノ線攻撃用に試作した重装甲戦車は8cmの装甲がありました...)
(歩兵支援戦車VK1801、装甲前面80mm、側後面50mm、上下面25mm1939.1109計画開始)
(歩兵支援用の三号突撃砲、設計当初から5cmの前面装甲があった...)
2000.1209...
準備に手間取り攻撃は24日の午前
(連絡の不備、輸送用トラックの数不足、移動をうろついてるソ連戦車に妨害されるなど)
日も高くなってから事前の偵察や砲撃、援護の爆撃も無しに白昼正面攻撃をかけることに
なってしまいました。
歩兵72連隊にある少尉によると...
彼の所属する部隊の正面は数キロにわたってなだらかな丘陵地帯が広がり
(こんな所を行進したら射的の的...)
少尉は大隊長小倉少佐になにか話さねばと感じ「大隊長殿、生意気なようですが、このままやったら
全滅ですよ」と話すと、「俺もそう思う」「上の方でどう考えているかわからん」と答えたそうです。
対するソ連軍は、隠蔽陣地を築いて待ち構え、後方の見えなくなる丘陵の頂点部分に陣地を敷き...
接近戦になると戦車を盾にして攻撃を続けました。
とどめは、火炎ビンの効かなくなった戦車でこれに突撃されて大被害を出しました。
(火炎放射戦車も混じってました。)
日本軍歩兵はめった打ちにされてしまいほとんど前進できずに壊滅してしまいました。
(部隊の損耗率は50%〜70%)
攻勢部隊右翼の司令官、小林少将は戦車砲弾の破片で負傷して倒れている所を
敗走してくる歩兵に踏まれて泥だらけになり...
(部下の一人が気づいて必死に引きずってこなければ戦死してしまうところでした。)
歩兵第72連隊の生存している将校は全員野戦病院に運ばれてしまい
(まるでハエのようにばたばた倒れた)
(小松原師団長はいつも「小林さえ大丈夫なら我が軍は安泰だ」と言っていたので)
(報告を受けた司令部内は...)
おまけに夕方23師団司令部は友軍爆撃機に誤爆されて指揮系統はぼろぼろになりました。
第6軍の参謀長、藤本少将は戦況に狼狽して、「報告のために軍司令部へ帰る」と言って逃げて
しまいました。
関東軍主力の派遣と停戦
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研究部分へ進む(教訓とその後)
前半部分.
あらすじは...国境線は...現地の地勢ノモンハン周辺簡易地図
紛争の拡大理由、初戦、両軍の補給能力比較る、タムスク独断空襲...
中盤部分.
23師団の渡河攻撃、.日本戦車隊の攻撃.夜襲...ノモンハン大砲撃戦
教訓と研究.(工事中)
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