ノモンハン...2
1.23師団の渡河攻撃
2.日本戦車隊の攻撃
3.夜襲...
4.ノモンハン大砲撃戦
23師団の渡河攻撃
攻撃軍の編成表
渡河攻撃部隊、小林恒一少将
歩兵71連隊(岡本大佐)、
歩兵72連隊(酒井大佐)、
歩兵26連隊(須見大佐)、
野砲兵第13連隊第3大隊(伊勢大佐)、
独立野砲第1連隊(宮尾大佐)
工兵第23連隊(斎藤中佐)
渡河護衛隊(井置中佐)
第23捜索隊、歩兵64連隊第10中隊。
予備部隊
歩兵第64連隊第3大隊。
日本軍が偵察で判ったことは...
ソ連軍はハルハ河東岸に3重の陣地を引いた。
ハルハ河に架かる橋は水中橋だったため発見できなかった。
(水面下30cmのところに建造するため発見しにくく、)
(砲撃でもなかなか壊せない)
飛行偵察すると活動しているトラックや装甲車両は確認できたものだけで
850〜1000両。
作戦では外蒙古領内のハルハ河に橋を架け戦車隊と自動車歩兵で西岸に周りこみ
敵を包囲攻撃する計画でした。
しかし、増水で川幅、水深ともに広がり予想は50mだったが80m〜100m
拡大、架橋用の資材が不足し戦車の通れるような橋は架けられなくなってしまい
作戦は歩兵部隊が渡河、戦車隊は東岸で陣地を攻撃することになりまいた。
(実はこの架橋用資材は工兵部隊が訓練用に使っていたしろもので)
(中国戦線で使っていたような本格的なものではありませんでした。)
6月29日
敵軍が前夜から撤退し始めたという奇妙な情報が入り
これは、タカ派関東軍参謀のでっち上げ?
(タムスク空襲の効果があるうちに部隊に早急に攻撃させようとした)
分析担当者が敵の地上行動を誤解した...?
結果、貧弱な満足に装備も渡せない橋を使って作戦を展開するはめになりました。
(戦車隊も敵は撤退していると言う誤った情報から)
(堅固な対戦車陣地への正面突撃を強制されて大損害を)
(だしてしまうことになります。)
幸運なことに7月2日に72連隊の出した斥候部隊が迷子
になり渉河地点とはぜんぜん別の河岸でソ連軍と戦闘、全滅
しそうになりました。このためソ連軍は日本の渉河地点を誤解
して、15km離れた場所と予想してしまいました。
7月2日深夜〜7月3日未明
工兵部隊が迷子になったため(タギ湖をハルハ河と誤認)
漕渡は予定では午前零時の予定が3時15分の開始
2個大隊と速射砲中隊、連隊砲は午前4時半ごろ終了
この間敵の攻撃は無く損害は舟艇が架橋ロープに絡まって
転覆した1隻だけでした。
架橋作業は午前3時ごろ開始、午前6時40分完成
しかし、71連隊の第3大隊が橋を渡り終えたのが午前9時
野砲が渡ったのが9時10分
歩兵72連隊、
歩兵26連隊、の第一大隊が渡り終えころに正午になった。
(トラックは1台づつ装備をすべて降ろしてから2.5mの橋を踏み外さないように)
(とろとろ走り、野砲は分解して、馬も外し人力で運ばれ...)
(脆い橋を修理するため渡河作業はたびたび中断した。)
先行した連隊はボートで深夜に渉河しました。
速射砲はそのまま、歩兵砲は分解して運ばれ...
歩兵部隊は、西の砲兵隊が居そうな大地と
南の大地に向けて進撃を開始...
午前11時、
浜田少佐は...
敵の無数の戦車・装甲車が地平線に群がっているのを見て数えた
500両まで数えたところで呆れてやめてしまった。
1000両近くいそうだった。
(ちょっと大げさに見えるこの数字は遠目でトラックなどの支援車両も数えた)
(ためらしいです。日本軍と違ってソ連軍は完全に自動車化されていました)
(ソ連軍の戦力7月2日、12500人装甲車266両、戦車186両)
(戦車と装甲車は分けていないので総数452両、支援車両は戦車の数より)
(多くなるので1000両を軽く突破しますただしハルハ河の東に展開した部隊も)
(あるので実数は不明...)
日本軍大部隊の移動はすでにソ連軍にばれていて
7月1日夜、ソ連増援部隊はタムスクから発進
命令は「日本軍に対し側面攻撃を実施せよ」でした。
第11戦車旅団、第7機械化旅団、
第24自動車化歩兵連隊
この部隊が予定を変更して渡河部隊に襲いかかりました。
この頃になると日本軍渡河部隊は各所でソ連軍装甲部隊と遭遇します。
ある部隊では、いきなり100両近い装甲車両に襲われて部隊はちりじりになってしまったり...
(車両は四散し驚いた馬が砲を引きながらどこかへ走って行ってしまった。)
日本軍の対戦車砲は700mぐらいまで近づかないと効果が無く
数も少なかったので貫通力の無い大隊砲や機関銃しかないと
判ると命中精度を上げるため接近してきた。
「ノモンハン全戦史」によると...
渡河した37mm対戦車砲は30門を越えていたそうです。
ソ連軍は、支援の歩兵部隊無しに戦車、装甲車を突撃させたため
大損害を出したと結論を出しています。
(しかし、1分に9発〜12発撃てる対戦車砲の砲弾の用意が足りなかったため)
(弾切れになってしまいました。)
戦車が肉薄してくると...
至近距離まで接近し火炎瓶や爆雷を投げつけるか戦車に飛び乗って手榴弾を投げ込む
太平洋戦争で特攻と有名になった「肉薄攻撃」戦になりました...
しかも歩兵が接近してもソ連戦車は歩兵を相手にせず野砲や対戦車砲を射撃し続けたため
ソ連戦車が砲塔を回すと日本兵をかならず振り落とせた。
手榴弾ではハッチを壊すことが出来なかった。
覗き窓に銃剣を突き刺した。
とか、かなり混乱した状況が色々な戦記ものにかかれています。
モトロフカクテル火炎瓶の効果...
日本軍では、スペイン内戦での火炎瓶の効果を聞いて実験したのですが。
ディーゼルエンジンの戦車でしかも止まっている状態で実験したため効果
が出ず...火炎瓶は役に立たないと言うことになっていました。
しかし、対戦車火器の不足を恐れた須見大佐が1200本のサイダービンを調達
(使い方は、中に1/3ほど砂をつめガソリンを入れて小銃清掃用の木綿の切れ端で)
(ふたをし、芯に火をつけてから投げつける。)
(しかし、風の強い草原ではなかなか火がつけられなかった。)
ソ連戦車のエンジンは夏の日差しと長距離を走り続けていたために加熱気味で
火炎瓶を投げつける(火をつけなくても)とすぐに燃え出した。
肉薄攻撃で多数の戦車が炎上するとソ連軍は動揺し
「日本軍は何か新兵器を使っていると恐れて、接近してこなくなった。」
しかし、これで歩兵は撃たれるだけで何もすることが無くなってしまった。
この攻撃で280両近くのソ連装甲車両が燃えました。
(第26連隊だけで83輌撃破(重複あり実際には70輌程度...))
「まるで、八幡工業地帯のようだと言われるような惨状になり...」
「草原は真っ黒な煙をあげて燃える残骸でいっぱいになりました」
(この部分だけを使って日本軍活躍物の戦前小説が良く書かれています。)
しかし、午後になっても日本軍歩兵部隊はまだ200両以上の装甲車両に包囲された
ままでした。
この部分の数字はクックス・教授のノモンハンのままです...
情報開示以前のノモンハンのソ連装甲車両の数は本によって相当開きがあります。
、本、、、、、、、、、 作者、、、 戦車損害
ノモンハン、、、、、、 クックス・教授 280両
「ノモンハン全戦史」
ノモンハン、、、、、 辻正信、 100両
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火炎瓶は1200本用意されたが初日でほとんど使い切ってしまい。
砲類も弾を撃ち尽くすか破壊されてしまって、渡河作戦を敢行した日本軍ははだか
どうぜんになってしまいました。
敵の第一波を撃破したものの前面に密集している敵を撃退することができず
歩兵部隊の前進は主に戦車からの集中砲撃で多数の死傷者を出し前進できなくなって
しまった。
この時一番南下した部隊は渡河地点から3.5kmの地点でした。
部隊は砲兵の支援射撃を頼むために伝令を渡河地点まで走らせたのですが
結局一発の支援も飛んできませんでした。
(ノモンハン戦域全体でソ連軍の妨害が激しく無線はほとんど繋がりませんでした)
(そのため、部隊に1度命令すると変更は困難で作戦の柔軟性などと言うものは皆無でした)
(各部隊間の伝令も迷子になりやすく、トラックや自動車での移動は狙い撃ちされました。)
撤退...
司令部も渡河したのですが混乱の中、師団本部もソ連戦車に追い回され
酷いありさまになってしまいました。
(将軍の乗用車の10メートル後ろを装甲車両15台がぞろぞろ追跡しているのを)
(野砲中隊の草葉大尉は目撃した...)
(目測700メートル先で行なわれている高速の追跡光景を見て、彼は、自分の隊の)
(野砲が将軍を殺すか、それとも敵の先頭追跡車を破壊できるかわからなかった。)
(大尉は考える暇も無く”目をつぶって”随時に撃てと命じた...)
(一発目か二発目が敵戦車にあたり、戦車は燃え出した。日本兵の中から「万歳」の)
(叫びが沸き起こった。「何というスリルだ」草葉大尉は呟いた...)
戦記の中には、この事件や会議の様子を伝える話などから
師団長が怯えて撤退したのだと言うものも在りました...
しかし、戦略的には、この撤退は正しかったと思われます。
(補給が無くなり敵に包囲されたった一本の橋に頼る状況では...)
第七師団から派遣された新見大佐はこの渡河作戦は、最初から無謀な作戦だから
進撃するなと第七師団の上氏から言われていたそうです...
渡河地点の橋もソ連部隊に攻撃を受け続けているためついに撤退(転進)して
ハルハ河東岸に安岡部隊とともに東岸のソ連軍橋頭堡を攻撃することになりました。
撤退...
ソ連側の記録によると
...やっと敵の抵抗はくじかれ、日本軍は渡河点へ退却しはじめた。しかし、渡河点は敵
工兵が我が軍の戦車の突進を恐れ破壊してしまった。日本の将兵たちは完全装備のまま水中に
飛び込み、文字どおり戦車兵たちの目の前で溺れ死んだ。
(装備を手放すとどんな状況でも拾いに戻らされる可能性があったので完全武装のまま溺れ死んで
しまったんでしょう(~_~メ)...)
(この日のハルハ河はかなりの濁流でかなり泳ぎ達者でなければ渡れないほどでした)
(日本軍には疲労根疲した状態で濁流を渡河した部隊が小銃を捨ててしまったのを怒った上官が)
(無理に拾いに行かせ百数十人溺れ死んだと言う実例があります。(-_-;)...)
この当たりの橋の話も本によって相当違います...
創作〜ノモンハン、辻正信、
橋をソ連戦車が渡り出し中ほどまで渡った所で爆破したとか書いてある
(戦車の渡れない橋をソ連戦車が渡っている)
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兵が退却して来るのを長い間待ったとか書いてある...
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攻撃してきたソ連部隊は...
第11戦車旅団、第7機械化旅団、戦車装甲車などそれぞれ150両装備
外蒙古第15連隊
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自動車
ソ連機械化旅団の装備装甲車両は...
大隊ごとにBT戦車25輌、装甲車37輌
偵察大隊は...
装甲車5輌、水陸両用車18台
自動車化歩兵三個中隊
BA6型装甲車一個中隊16両、SU76自走砲一個中隊四門
工兵一個中隊、一個偵察小隊、装甲車5両装備
外蒙弟6騎兵師団
装甲車18、75mm以上の火砲8門、
2.日本戦車隊の攻撃
ハルハ河東岸
渡河作戦と同時に行われた日本軍戦車隊の攻撃
攻撃軍の編成表
ハルハ河東岸攻撃部隊
安岡支隊(安岡中将)
戦車第3連隊(中戦車主力)吉丸大佐
戦車第4連隊(軽戦車主力)玉田大佐
歩兵第64連隊(第3大隊欠)山県大佐
歩兵第28連隊第2大隊
野砲兵第13連隊第2大隊
工兵第24連隊
軽戦車装備の第4連隊の方が活躍してるのは軽戦車の装甲の薄い弱点を熟知していた
ため無理な作戦をとらずに迂回、奇襲、などの工夫をしたためです。
しかし、第三連隊が壊滅してしまったためソ連装甲部隊の攻撃をまともに受けて
損害が続出ついに撤退することになりました。
対称的に第三連隊が壊滅した理由は、無理な攻撃命令もありますが
中国戦線で常に勝利し続けたことが慢心となって堅固な対戦車陣地に
正面攻撃をかけてしまったためです(-_-;)...
戦車と歩兵の協力は...
戦車隊の方が協力しようともしなかったそうです。
(戦車隊のエリート意識が中国戦線の経験でゆがめられ)
(行き過ぎたものになっていたのが原因だそうです...)
編成
第三連隊、吉丸清武大佐、378名
第一中隊(1両)、第一小隊(3両)、第二小隊(3両)、第三小隊(3両)、第四小隊(3両)
第二中隊、1両)、第一小隊(3両)、第二小隊(3両)、第三小隊(3両)、第四小隊(3両)
すべて八九式乙戦車、
その外に九七式中戦車4両、九四式軽装甲車7両、九七式軽装甲車4両
第四連隊、玉田美郎大佐、
第一中隊(1両)、第一小隊(3両)、第二小隊(3両)、第三小隊(3両)
第二中隊(1両)、第一小隊(3両)、第二小隊(3両)、第三小隊(3両)
第三中隊(1両)、第一小隊(3両)、第二小隊(3両)、第三小隊(3両)
予備中隊(5両)
すべて九五式軽戦車
第四中隊、第一小隊、第二小隊、第三小隊、八九式(甲)8両
その外
94式軽装甲車3両
総数で7:1の劣勢でした。
最初の損害、
ソ連軍装甲部隊はかなり内陸まで進出してきていました。
行軍中の日本軍戦車部隊はソ連軍装甲部隊と遭遇...
(BT戦車8〜9両、装甲車3両、対戦車砲2門)
エンジン冷却中で部隊が分散していたため手近に軽戦車2個小隊しか
居なかったのでこれに攻撃を命令...
敵はすぐ撃退したのですが
軽戦車1両が敵の対戦車砲の射撃を受けて炎上
日本軍はこのときはじめてソ連軍の対戦車砲の優秀なことに気づきました。
(「発射速度も速く、射撃も正確無比だった。」玉田大佐談...)
7月2日夕方
第三連隊戦闘開始
午後8時ごろ、
敵の外郭陣地を踏みにじる。さらに前進すると...
敵は三方から反撃を開始
しかもソ連軍装甲部隊が次々に河を渡って援軍にきたので次第に不利に...
9時過ぎ
暗くなりだしたので攻撃を中止して再集結
(再集結=戦車は砲弾、燃料の補給のため暗くなると後方拠点に下がることに)
(なってます。)
7月2日、第四戦車連隊(軽戦車)
この日、第四連隊(軽戦車)は、迷子になり進撃路が東にそれてしまいました。
戦車の夜襲...
この無謀な作戦は、大成功を収めて(味方もほとんど損害無く)しまいました。
装甲の薄い軽戦車を使ってどうすれば戦えるか考えた苦肉の策でした。
(この話もノモンハンの数少ない活躍した話なので日本軍活躍物の戦前小説になってます。)
午後11時作戦開始
各中隊は30m間隔、各戦車間は6m間隔、
視界は10m〜20m、雲のため月明かり無し、
午後零時過ぎ、雨が降り出す(雷鳴を伴う豪雨)
このため敵は接近に気づかず奇襲に成功
稲妻がたえず敵陣地を照らしたので行動は容易でした。
突撃、敵陣地めざして突撃
敵は機関銃、対戦車砲、大砲を使って撃ち返すが近すぎて大砲の砲弾は
戦車を飛び越してしまう。
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午前二時...
ハルハ河とホルステン河の合流地点近くの敵砲兵陣地まで進撃して踏み潰してます。
戦果は、10センチカノン、四門、12センチ榴弾砲、四門、75ミリ野砲、四門
敵は戦車に対する肉薄攻撃を全然行いませんでした。
機関銃、対戦車砲の射撃は激しく、被弾して燃えだした車両は繰り返し撃たれました。
午前三時、空が白みだしたので後退...
歩兵を連れてこなかったため、占領地の確保ができずに撤退しています
戦術的には成功ですが作戦的には失敗です...
その後、戦車の夜襲が宣伝されて失敗しやすい夜戦を一般的戦法にしてしまったのも
失敗です...
7月3日
第三戦車連隊(中戦車)
補給に手間取り攻撃開始が遅れる。
河向こうの日本軍歩兵部隊が数百両の装甲車両に襲われる姿がはっきり見える...
午後零時15分
無謀な白昼攻撃開始...
一応歩兵との共同攻撃でしたが、
強力な射撃で歩兵はすぐ動けなくなってしまいました。
ピアノ線
二メートルほどの輪のかたまり
この当時の砲や戦車砲の命中率はかなり低く1000mを超えると20%も有りませんでした。
そのため射撃方法は着弾個所を見て修正していくのが基本でした。
そのため動いているものに命中させるのは至難の技でした。
しかし、止まっていれば遠距離でも砲撃に修正を加えていけばいずれ当ります。
そのためピアノ線に絡まって止まった戦車は格好の標的になりました。
八十九式中戦車10両(内4両完全喪失)、97式中戦車(1両完全喪失)、
軽装甲車7両、(2両完全喪失)
完全喪失はピアノ線にからまれて動けなくなったなった所をめちゃめちゃに撃たれたので修理不能...
人員損害
2日戦死、将校5名、兵22名、負傷2名、
3日戦死、将校6名、兵9名、負傷将校1名、兵10名
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7月3日
第四連隊は、
弾薬が不足してきて午後には各戦車の保有弾薬数が5発にまで減りました。
玉田大佐はこっそり打ちのめされた第三連隊から手に入れなければならなかった。
[この戦車戦ですが詳しく分析して見るとなかなか興味深いです。
初戦のロシア戦法にこてんぱんにやられる所から
敵の戦法を盗み必死に防戦に努めながら消耗していくところまで...]
数の上での劣勢と技術面での欠陥を補うため第四連隊が力を注いだのは、天然の地形を利用
して車体を敵の砲撃から遮蔽したり、適地を選んで隠蔽式砲塔射撃を行ったり、薄暮時に行動
することで敵の敵の射程上の優位を減殺することでした。
玉田大佐話、ソ連軍戦闘能力評価...
ソ連軍の戦術で目だったのは集団攻撃と戦車、砲兵の組み合わせでした。
例えば彼らは、我々の戦車を対戦車砲や戦車の待ち伏せ場所におびき寄せる
ために装甲車をおとりとして使用した。また彼らは速射砲の位置を巧みに変えた。
敵は平原での戦闘をきわめて慎重に検討し、準備していた...
ソ連戦闘方式にカギは砲撃力でした。
対戦車防御の主な担い手は1500m以上の有効射程を持つ牽引車付き対戦車砲と戦車
でした。
歩兵は手榴弾を投げたが突撃してくることは無く。
戦車も陣地の濾過じゅうりん攻撃はしなかった。
敵の狙撃兵は700〜800m離れていても優秀でした。
対して日本軍の狙撃兵は装備している照準鏡が1/3で距離300mに近づかなければ
発射しなかった。
ソ連軍の砲火は、時間的にも空間的にも集中して行なわれなかったが、弾薬量は豊富で、
不発弾もほとんどなかった。
日本軍の戦車部隊は歩兵、歩兵を伴っていなかったので、ソ連軍の弾着観測場所はその
妨害を受けず、大半は彼らの歩兵の前線に進出でき、しかも観測員は電話で発射の指揮や
急遽目標を変更することができた。
しかし、全般的に見てソ連軍の砲撃は盲目的で、しかも定期的に朝、昼、晩と毎日ほぼ同じ時刻に
行なわれた...
損害率問題...
ディーゼルエンジンのおかげで損害率が下がったというのは多分間違い...
まず火炎瓶攻撃で燃えたソ連戦車と砲撃で穴だらけにされた日本戦車は
同じ比べかたをしてはいけない...
同じような状態は、中東戦争のセンチュリオンとT55の戦いでも起っていて
ソ連の砲弾はAPFSDSで貫通力が有りすぎて砲塔の前面装甲板を貫通した後面
装甲板も貫通して抜けていってしまってかえって損害が減った...
戦車の中で跳ね回って乗員や弾薬に当たって、損害を増やすエネルギー弾に威力が在りすぎて
二枚の装甲を貫通して何処かへいってしまった(-_-;)...
もう少し威力の劣る2ポンド砲(AP弾)と装甲厚25mmの97式中戦車の場合は
3発も当たると炎上して廃車になった...
つまり装甲が薄すぎてかえって損害が減ったためというのが正解...
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ソ連の45mm砲に対抗するには最低50mm装甲(垂直換算)がなければ
役にたたなかった...
この戦い参加した両軍とも装甲が薄く防御力が無かった...
ドイツ軍戦車は30mmの装甲厚でポーランド、フランス戦を始めたが
失敗に気づき30m+30mの前面装甲板にすぐ強化している...
ソ連はT34系を製作したが日本は25mmのままだった...
(BT系列はドイツチェコの37mm砲装備の軽戦車に簡単に葬られている)
ノモンハン追加資料、対戦車兵器
93式戦車地雷
重量1.45kg、(炸薬0.89kg)17cmラ5cm円盤型
1934年〜1943年まで62万個生産
草原は砂地で柔らかいため地雷が潜りこんてしまい
爆発しなかった。キャタピラと転輪の間に挟む必要があった。
(止まっている戦車には効果なし。)
95式破甲りゅうだん弾薬筒
破甲りゅうだんは中・重砲の要塞破壊用でした。
要塞、装甲車両兼用として開発
コンクリート、装甲を貫通後に遅延しんかんで爆発
36年9月制定
二重焼き入れした鋼製弾体、裂薬460g、信管287g
貫通力は改造38式野砲では初速525m
3000mで20mmの装甲板貫通
30mmでも内面が剥離して相当の効果あり...
38式野砲、改造38式野砲、41式騎砲、95式野砲
は共通弾薬
弾頭のみは、41式山砲、94式山砲、90式野砲
に使用可能
この砲弾はあまり使われなかった?
陸軍省兵器局
革新的な戦術や新しい装備を採用するのに恐ろしく緩慢で
兵器が迅速に改善されたことは一度もなかった。
兵器局のグズぶりの一例
ノモンハンで苦戦したピアノ線を日本軍でも使用するよう
具申したが、結局採用されなかった。
夜襲...
渡河作戦が失敗し、戦車隊が撤退してしまった後
23師団に残された作戦は歩兵による夜襲しかありませんでした。
ソ連陣地は完全に完成していなかったものや歩兵が少ない陣地が多かった
ため次々に占領されていきました。
しかし、この無茶な作戦は大量の死傷者を出し各部隊の戦力は急速に低下していきました。
(どの部隊も30%以上の死傷者を出しました。)
(普通軍隊は50%の損害をだすと壊滅扱いです。(-_-;)...)
(あまりの損害にチチハルでは26連隊は全滅したと言う噂が広まりました。)
ノモンハンの緯度では、この時期日暮れは午後9時、日の出は午前3時でした。
この短い時間に夜襲を強行し...
夜明け前にはスコップで塹壕を掘って(ソ連の重砲の攻撃をしのぐため)隠れました。
不可思議な白兵第一主義
日露戦争...
参謀本部で戦史が編纂されることになったときに...
「日本兵は戦争において実はあまり精神力が強くない特性を持っている。しかし、このことを
戦史にはっきり残すことは弊害がある。ゆえに戦史はきれいごとのみしるし、精神力の強かった
面を強調し、その事を将来軍隊教育にあたって強く要求することが肝要である。」
と言うことで日露戦記には真実は書かれませんでした...
河に向かって下っている防御しにくい斜面で...
「昼は地獄、夜は天国」
浜田少佐の話...
「こんな状況で戦うのは馬鹿げたことでした。」「歩兵銃はなんの役にたったでしょうか。」
「我々のたよりになったのはたこつぼを掘るスコップだけでした。」
両軍ともすさまじい損害を出しながら昼はソ連機械化部隊、夜は日本軍歩兵の夜襲、と
攻守変えながら戦いつづけました...
ソ連軍の5つの橋は破壊され遺棄死体少なくとも1700、捕虜40、破壊した戦車装甲車400
捕獲した装甲車両15、捕獲した砲11、機関銃30、トラック40台。
広い戦線に対して防御陣地の数は少なく容易に進入できた。
ソ連軍は夜に失った地域を昼に獲り返したが、彼らは常に前の日より一歩退ったところまでしか
前進できなかった。
この成功していた夜襲は、次の作戦「砲兵部隊により敵をせん滅する」
という作戦のため進撃停止になりました。
(日本軍の砲兵隊の射程が短いためこのまま進撃すると敵が砲兵陣地を下げてしまい)
(届かなくなってしまうため(-_-;)...)
日本軍歩兵連隊の指揮官の中には命令を無視して前進するものもいました
彼は事件終了後このことをとがめられて退役させられました。
(前線指揮官に罪をかぶせて落とし入れるためのあら捜し...)
ノモンハン大砲撃戦
弾薬の不足、
この総攻撃に割り当てられた弾薬は関東軍全砲兵の備蓄の70%
と推定されるが、たった2日の戦闘で割り当て総量の2/3を消費
してしまった。
備蓄された砲弾は
10センチ加濃砲、4800発(50〜60発)
15センチ加濃砲砲、900発(30〜40発)
15センチ榴弾砲、4000発(40発)
括弧中は基数、1門あたり必要な砲弾数
この作戦に必要な基数は5基数
弾種類、通常弾、榴散弾、(徹甲弾は無し)
日本砲兵は加濃砲では5000ないし6000m、榴弾砲では4000mないし5000m
以上の射程で砲撃訓練をしたことがまったく無かった。
対砲兵作戦で必要な膨大な砲弾を使う訓練などしたことも無かった...
モンゴル平原では空気は澄んでいて視界を遮るものは無く肉眼で
10000m先の人間の頭が見え距離計測器を使えば25000mまで
はっきり見えた。
日本軍火砲
38式野砲、(口径75mm)、、、、、、、射程8350m、24門
38式十二榴弾砲(口径120mm)、、、射程5650m、12門
90式野砲(口径75mm)、、、、、、、、射程14000m、8門
96式十五榴弾砲(口径149.1mm)、、射程11900m、16門
92式十加濃砲(口径105mm)、、、射程18200m、16門
89式十五加濃砲(口径149.1mm)、射程18100m、6門
(100mm以上、15000m以上の射程だと22門)
(しかし、92式十加濃砲は次々に故障したので)
(実質10門程度...)
大量の砲弾を使っての射撃は戦闘中に予期しない技術的欠陥を
次々と発生させました。
(砲の反動が予想以上に強くて砲架が壊れる)
(砲身が加熱して砲弾がつかえる)
(爆発事故)
90式野砲は...
シュナイダー社技術を導入してこれまでの単肉砲身から自緊法というひずみを
利用した復肉砲身で弾性限界が高く薄く軽く作ることができると言う新方法で
したが技術不足で...
焼蝕現象(熱や衝撃による砲尾や旋条(ライフル)損傷)が...
(命中精度に関係する砲弾の回転が失われ、酷い時には砲弾の転倒現象まで起る)
2000発程度で発生して、し3000発前後で転倒現象でお終いになり...
師団砲兵の主力火砲に使用するための耐久性が無く...
こんな大砲撃戦に使えるようなものではありませんでした...
(砲弾の威力も少なく砲撃戦に使うには威力不足)
(90式野砲と95式野砲の論争)
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92式十加濃砲は、主脚の強度不足で最大仰角をかけて
連射すると主脚が折れる欠陥を暴露...
次々に使用不能になった...
15榴弾砲は、つねに最大射程距離での射撃をしなければならず
発射装薬4包、最大仰角?装薬不足になった。
加熱の危険とこの新型砲が主力なのに射程不足だった。
解説必要?
37mm対戦車砲への執着の謎、
国軍史上最大の駄作57mm対戦車砲、
飛行機も落とせず戦車も射てない野戦高射砲
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ソ連砲
76mm野砲(1927)、、、、、射程9300m
76mm山砲(1926)、、、、、射程10700m
107mmカノン(1910)、、、、射程17500m
122mmカノン(1931)、、、、射程20800m
150mmカノン、、、、、、、、射程30000m
122mm榴弾砲(1938)、、、射程11800m
152mm榴弾砲(1937)、、、射程16000〜17000m
203mm榴弾砲(1931)、、、射程18000m
ハルハ河西岸コマツ台地完全隠蔽陣地
152mm榴弾砲、26門
15cmカノンカノン、12門
122mm榴弾砲、16門
100mmカノン砲、24門
76.2mmカノン砲、12門
合計76門(100mm以上、15000m以上の射程だと48門)
戦場全体を見下ろす台地の上の完全隠蔽陣地
(姿はおろか発射光すら見えない防護陣地)
(日本軍が大砲戦用に準備したのは発射光の漏れる部分隠蔽陣地)
東岸のソ連軍
狙撃1旅団と1連隊、、戦車1旅団
外もう騎兵1師団、、装甲1旅団
合計で170門(口径45mm以上の砲)
飛行第15戦隊の航空偵察担当者は重砲部隊の戦闘ぶりに腹を立てていた...
空中から偵察していたある砲兵将校は日本軍の砲撃があまりに
不ぞろいでまとまりがないのにうんざりして、重砲兵部隊長に無線
で「そんなへたな砲撃止めてしまえ」と怒鳴った
(この時期制空権をソ連軍に獲られ日本軍観測機3機が撃墜)
(されている。航空隊の協力はほんの2,3回しかできなかった。)
Xデイ、23日
午前6時30分射撃開始
(敵砲兵部隊の位置を探るための誘致射撃)
午前7時30分効力射準備射撃
(砲の閃光によって暴露した目標へ...)
午前8時全力射撃開始
3時間の集中射撃
一時敵の砲撃が沈黙
しかし、11時ごろ
嵐のような報復砲撃を開始した。
(敵の砲は破壊された訳ではなく驚いて砲兵が逃げ出したり)
(危険な位置の砲を移動したりしていたため射撃が一時中断)
(しただけらしい。)
小松原将軍は
射程距離不足から射撃出来ない敵陣地が多数あり
アウトレンジされているため。
砲兵陣地を前進させることを要請...
これは数週間かけて作った隠蔽砲兵陣地を無駄にしてしまい
敵の応射を呼び前進した急造の砲兵陣地は大被害を出すことに
なってしまいました。
(無知な司令官の命令を聞き自分の点数を稼ぐために貴重な
部下を犠牲にした...)第一砲兵群、畑少将談
24日になっても日本軍歩兵は衰えを知らぬ
敵の重砲 の射撃を受けほとんど前進できなかった。
24日の損害
野砲3、90式野砲1、十五榴1、十加8、高射砲2
92式十加のう砲の損害は設計不良...
7月23日〜25日の砲撃戦で敵火砲の32%破壊18%を沈黙
日本軍の観測による。
ソ連側の資料によると反撃砲火を避けるため陣地により射撃を
一時中断したとあるので戦果はもっと少ないようです。
砲撃戦による敵のせん滅と言いながら射撃した弾の数は...
日本軍砲兵1万発に対しソ連軍砲兵は3万発でした。
日本軍砲兵将校の回想...
ソ連軍の方がはるかに数多くの優秀な重砲を装備し弾薬の補給も贅沢で、
陣地を効果的に機敏に移動する能力を備えていた。(おとり陣地、予備陣地)
しかも、要所要所に事前に小塚や旗をたてて事前に距離を測定していた。
そのためこの地域が巨大なソ連軍の射撃演習地と化していた。
(歩兵の奪取したソ連軍陣地までの距離はすでに正確に測定)
(されていて歩兵は猛烈な反撃砲火を浴びた。)
29日には弾薬の不足は決定的になってしまい
割り当ては野砲、15発、90式野砲、5発、重砲、15発
でした。
92式10センチ加濃砲
日本軍の中で18200mの射程を誇る
ソ連長距離砲に対抗できる長距離砲
しかし、最大仰角で連射すると主脚が折れる欠陥を暴露...
日本陸軍には、
実線を想定した徹底的な実験をせずに新兵器を生産し、
欠陥が明らかになってもなかなか直さず、
現地部隊による自主的改造は絶対に禁止するという
不可思議な習性がありました...
日本軍歩兵部隊の夜襲...
戦車隊は引き上げ、砲兵隊の弾薬も尽きてしまい万策つきた
23師団長に残された手段はふたたび夜襲でした...
しかし、前回と違い強固に守備固めされた陣地はなかなか落ちず
日本軍歩兵部隊はついに力尽きてしまいました。
防御陣地の構築
砲撃戦の失敗により作戦が停滞してしまい
ハルハ河東岸のソ連軍陣地をせん滅することはとうとうできませんでした。
仕方なく作戦を変更し現在の占領地域に堅固な防御陣地を築いて守備する
ことになりました。
しかし、日本軍の陣地は低地でハルハ河西岸のソ連軍砲兵陣地から丸見えで
つねに妨害砲撃を受けました。
陣地は、地形を考えたものではなく、戦闘の成り行きで決まっただけで
各部隊間の提携も満足にできないものだった。
沼崎中佐は戦線のやや後方の地形的に有利な部分に陣地を構築するように
意見具申したが、小松崎師団長、岡本参謀長は苦戦して獲得した土地は
1インチたりとも敵に譲るまい考えているらしく現在の戦線にそって拠点
を建築することを主張した...
結果出来上がった陣地はきわめて弱体なものになってしまった。
「守備兵力は1個師団+アルファしかないのに30キロもある前線を
守るのは不可能でした。(普通一個師団の防御正面は7〜8kmでした。)
結局、部隊間の間が開きすぎて、すきまから敵の進入されて
各個に包囲されてしまう可能性を作りました。」
この地域の砂土では15センチクラスの砲弾が命中しても
耐えられるように壕を建築するには少なくとも4〜5mの厚さが必要だったが
1mの厚さの壕しか作られなかった。
急遽コンクリートブロックの製造をさせたが間に合わなかった。
補給問題、武器か越冬装備か
モンゴル平原は急速に寒冷化し冬に向かうのでもし紛争が長期化すると
越冬準備をしなければならず、貧弱な補給状態を考えると今から準備しないと
間に合わない。ソ連軍は冬に突入する前に決戦を挑んでくる可能性があるため
(6月、7月のみが氷点下以下にならない月で8月1日には朝霜で草が枯れだした。)
浜田大佐の話
私は自分の任務にがっかりし、それに悩みました。
現地の地勢を検討し、また我が軍の資材の乏しさに気付いたとき、
気落ちしてしまいました。両軍の戦力を観察してみて、私は直感で、
こうした条件では我々の総攻撃は危ないものだなと、思いました。
関東軍参謀は事あるごとに「今度は圧倒的は火力を使用する」とぶって
いましたが、それにもかかわらず弾薬の割り当てがわずかだったことに、
とりわけ私は失望しました。...
砲兵隊その後
兵器弾薬の不足については、ノモンハンで深刻な不足に悩まされて
砲兵部隊にあってすら、不足は「運命なせる業(わざ)」として受け
とめるべきで、弾薬をもっと送れと頼むのは精神のたるみを示す
ものといった考え方が蔓延していた。そこで日本軍の砲兵将校たち
は弾薬補給要請を差しひかえ、その結果畑少将が回想している
ように、「まるで絵に書いた餅」のように、火砲は弾薬なしに並べら
れたままであった。「不必要に弾薬を配給することによって砲兵
部隊をなまくらにしてしまうのではないかという、めめしく、つまらない
心配種があった。」と、畑少将は皮肉たっぷりに回想している。
8月攻勢、攻勢移転へ
前半部分.
あらすじは...国境線は...現地の地勢ノモンハン周辺簡易地図
紛争の拡大理由、初戦、両軍の補給能力比較る、タムスク独断空襲...
後半部分.
8月攻勢(ジューコフの傑作...).無意味な攻勢移転
教訓と研究.
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