「この事件を「国盗物語」みたいにまとめたら...
無能な総司令官と参謀、無茶な命令で次々に壊滅していく部隊、
敵の弾を本物と味方の弾をおもちゃと呼ぶほど旧式の日本軍兵器
りっぱに戦っても最後に責任を擦り付けられて自決を強要される実線部隊の指揮官...
事件の隠蔽工作と 生かせなかった教訓...
さながら地獄絵そのままの恐ろしい小説になってしまいそうで
ご本人は、「これを書いたら死んじゃうよ」と言っていたのですが良く判ります。」
ノモンハンの戦いが世界情勢から止まってしまったのは日本にとってはとても
不幸なことっだったのではないかと思うのです...
あのまま関東軍が暴走して数個師団同士の激戦を繰り広げれば
多分、あの8月の大損害以上のすさまじい敗北(数個師団壊滅)をして...
ヨーロッパで列強が悟ったように攻勢第一主義をあきらめるのではないか?
太平洋戦争であんなぶざまな姿をさらすことは無かったのではないか?
あらすじは... 日ソ両軍は1936年あたりからハルハ川両岸で小競り合いを繰り返していました。 始めは嫌がらせ程度だったのが39年春ごろから急速に両軍の規模が拡大し 総力戦一歩手前までいったのがこのノモンハンの戦いです。 しかし、日本軍は、ソ連正規軍を外蒙古軍とあなどって戦いに望んだので 敵兵力を過小評価して大敗北し、 (ジューコフの8月攻勢完全に包囲せん滅された) 慌てて関東軍主力を投入しましたが世界情勢が独ソ不可侵条約、ポーランド戦争 第二次世界大戦勃発などで双方ともこれいじょう国境戦争を続けることは許されず 負けっぱなしで停戦になりました。 まず、争いになった国境線は... 一般的な書籍は... ---------------------------------------------- 清朝時代にわざと国境線を不明確にした節がある。 元々満州西方の国境地帯は不毛な草原で延々と同じ地形が続き... 現在位置を確かめるのさえ困難な土地だった。 ハルハと言う言葉は蒙古語で「境」とか「国の守り」の意味 満州国の東、北の国境線はかなりはっきり決まっていたが 西でははっきりしていなかった満州国(日本?)が力をつけるまで 明確にしないほうが都合がよかった... 事変以前のさまざまな古地図や文献などを見ると二通りの境界線地図があり 結局国境線は定まっていなかったと言うことらしい。 日本軍はハルハ河が国境線であると主張 ソ連側はハルハ河から東20〜30km地点だと主張 ハルハ河の西側は不毛の高地で何も無い 東側は低地で冬は越冬地に夏は牧草地になる。 (西側は東側より50m程度高く東側はハルハ河河畔に) (接近するほど遮蔽物が無くなり)防御しにくくなった) ---------------------------------------------- (不明に書いてあるものが大半) (自国に不利な表現は書かないということらしいです...) 私評ノモンハンによると... ---------------------------------------------- 地図の違いは、シベリア出兵の時に捕獲した地図が (ロシア参謀本部作成の8万4千分の1地図) ハルハ河に国境線が引いてあり、関東軍はこの地図を元に地図の修正をしました。 (それ以前の地図はソ連の主張のとおりだったそうです(-_-;)...) (権威ある満州鉄道の地図も同じです...) 何故、ソ連参謀本部がハルハ河を国境とする地図を作ったかというと... ネルチンスク条約で山地河川を国境とする場合は、山頂河川を国境としただけで、 細部の国境線を「足」で確かめていなかったからだそうです。 (ひまが無くてロシア参謀本部が適当に作ったものを見て関東軍は) (地図を修正したということらしいです...(-_-;)...) この国境線は当初は、清朝がロシアの北進を妨げるために置いた守備隊の ハルハ族(草原の民)とバルガ族(森林の民)の警備線(1732年)が元で 遊牧民の放牧地になっていたハルハ河東地域はハルハ族の警備地域でした。 モンゴル人民共和国が独立するとそのまま国境となりノモンハン事件当時の 満人(バルガ族)もこれを知っていました。 ---------------------------------------------- 私評ノモンハンより (ノモンハンの事後処理にあたった参謀の書いたもの) (こちらが正解のようです(-_-;)...) 現地の地勢 ノモンハンの地名は... ラマ僧の役名だそうで最高位がフクトク(活仏)、次がノモンハンです... 清朝時代の貴人の墓のある所からです... ○○湖と名前が付いているのは塩湖で、淡水湖は○○水と言う名前が付いていて います。 戦場になった地域は草原でも下地はみんな砂地で散兵壕を掘るのは簡単でした その代わり崩れ易い欠点があり材料で補強する必要があったのですが現地には 木材が在りませんでした。 (ソ連軍は材料車を随行させていたのですぐに築城、鉄条網の敷設ができました。) 夏のモンゴル平原では強力な蚊や蝿が飛び回っていました。 ジューコフも日本軍の携帯蚊帳をうらやましがっていました。 「静かなノモンハン」に蝿の話が... このあたりの描写がリアルでとっても嫌です... ノモンハンの蝿 静かなノモンハンより 赤い縞のあるとっても大きな蝿で、死者が出ると、口と目の隅にたちまち卵を 産みつけます。ふつうの銀蝿ですと、卵からウジになるのに3日かかるのですが、 ここのノモンハンの蝿は、10分もたたないうちにウジになります。 奇術としか思えないほどの速さです。ウジはみるまに死体の上を這い回って、 軟らかな部分から蝕みはじめます。 これは死者のみではなく、負傷者に対しても同じです。 新見大佐談... 「”高地”という言葉を聞けば貴方は山か少なくとも丘を想像すること でしょう。しかし、ノモンハンではそれは直径3キロほどのこんもり盛り 上がったパンケーキ状の場所のことなのです。そこはまるで砂浜のようで、 線香のように細い雑草が乾ききった表土を覆っていました。」 「ノモンハン」よりアルビン・D・クック教授、 関東軍の地図専門家は... 「私は兵要地誌の専門家であり、地図作成班長でしたので、地図を片手に この地域の上空をゆっくりと飛行したことが良くありました。私でさえ、 ”本当の”国境線なるものを確かめることはできませんでした。もちろん 徒歩で現地に立つ一般の兵士にはどこが国境なのか。 わかるはずがありません」 「ノモンハン」よりアルビン・D・クック教授、 ノモンハン周辺、簡易地図 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ \ ・731 \ ・721フイ高地 \ マンズテ湖 \タヤ湖 \ \ハルハ河 \ ・739 ウズル水 ハラ大地 A ┃ パインツァガイン ┃ ・672 ・737 ホオルステイ湖・758 ノモンハン ┃ キルデゲイ湖 ・752 ┃ 日の丸高地 ┃ ・673 ・731 イリンギン湖 ・742 北渡 ┃ ・755 ・757 ┃ ・733 バル西高地 ・738 コマツ台地 ┃ 三ツボサ高地 河又 菊形高地 ・747 ホルステン河 (合流点)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃ ・753 \ クイ高地 ・749 ┃ ・691 ・742 Aニゲーソリモト / ノロ高地 中ノ島 ・758 ・757 ┃ ボサ山 ・754 ・747 ┃ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 紛争の拡大理由 その1 1937年のモンゴル反共産主義組織の決起の失敗 結果政府高官14人が粛清され軍将校、政府機関、有力ラマ僧など 数百人が犠牲になり首都の監獄は政治犯1万人ですし詰めになった。 その後も親ソ派と民族主義者の主導権争いが絶えず 親ソ派のチョイバルサンがソ連の力を借りる口実として ノモンハンの国境紛争を利用した... 外蒙古では、スラブ系ロシア人の保護者に対する反感が強く。 日本の力を借りてソ連の圧力から抜け出そうと考えるが強かった のですが日本の外蒙古に対する関心は低かったようです。 実務的な配慮がお粗末で専門の担当官すら殆どいない状態でした... 満州国内の蒙古問題への対応も誤っていました。 ウォルター・コラーツ 満州国の日本軍当局者は、蒙古問題の対応を全く誤った。 第二次世界大戦中の...ソ連西部国境地帯の人々に対するナチス・ドイツの 場合と同じように、日本軍当局者も蒙古の人々の心理や物の見方を、ほとんど 理解しようとしなかった。 イギリス特派員1938年初頭の報道... 「内蒙古の約80%は、日本の軍政下にとどまるよりは外蒙古との統合を望んで いる」と報道した。 その2 強行派、辻政信作戦参謀が起案した「国境紛争処理要綱」 ソ連蔑視の観念が強かった辻参謀が作ったため ソ連軍を見くびり好戦的な姿勢が強く、国境紛争は小戦と思いこんで書かれていた 問題点は、 「ソ軍の不法越境に対しては周到なる準備のもと、徹底的にこれをこらしめ、ソ軍を おそれせしめ、その野望を初動において封殺撃破す」 (好戦的な姿勢が強い) 「一時的にソ連領に進入し、またソ兵を満領内に誘致滞留せしめることを得...」 (前線司令官の裁量で越境を認めている) 「国境線明瞭ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を 認定し...」 (不明確な国境線の場合は紛争を誘発する...) 国境侵犯が起きた場合の現地師団長の権限で攻撃することを認め(命じですね(-_-;)) 事態の収拾政治的判断は上級司令部が処理するので安心して戦闘せよ その場合一時的にソ連領への進入も認める... 中国戦線が鎮静化して満州・ソ連問題がクローズアップされてきた。 面倒な事態を引き起こすための煽動... 私評ノモンハンによると... 1939年4月25日関東軍会議(「国境紛争処理要綱」発表時)... 植田軍司令官の言葉 「国境に進入して来るものがあれば、諸官は断固としてこれを撃退せられたい。」 第三軍多田中将 「お示し通りにやると、あるいは思わざる結果を起こすかもしれない。 ここはも少し考慮の余地を与えられたい」 植田軍司令官 「そんな心配はあなた方には無用である。それはこの植田が処理するから、第一線の 方々は何ら心配することなく、進入者を撃退せられたい」 作者は第一線の部隊には薬の効き過ぎで、この言葉は軽率だと評しています。 1937年のダンバ将軍反乱の後ソ連政府は、1936年の相互援助議定書に基づいて 外蒙古にソ連軍を大量に進駐させていました。 亡命外蒙古軍大佐ダンザン・ロダナの話 「私の考えでは、どの事件もソ連の鼻息をうかがっていたチョイバルサン一派が、その ご機嫌をとろうとして扇動したものです。通常、蒙古人は境界とか不動産とかいった ことに感心がきわめて薄く、その反対に、こうした問題に大きな興味を示す連中が ロシア人です。...しかし、ノモンハン国境紛争の場合は、自派勢力の拡大を狙った チョイバルサン一派がソ連の力を借りる口実として国境での争いを利用したというべき だと思います。」 1938年ごろから外蒙古側の放火など挑発事件が多発し 着々とハルハ河地域の兵力を増強していたのに... 関東軍は「国境紛争処理要綱」制定後、満軍を使って挑発行動を起こしたので あっと言う間に紛争が拡大しました(-_-;)... 「張鼓峯」の敵討ちをしようとするソ連と自派勢力拡張にソ連を利用しよう としたチョイバルサン... 国境紛争を利用して名を上げようとした関東軍高級将校達... どうも双方とも望んで国境戦争したようです... ノモンハン修正1999.11.11 クック教授の本の引用から始めた文章ですが教授の本のこの動機の部分は、 現在では不評で(教授が、日本側資料のみで作った部分なので偏りがある) 度重なる日本軍の圧力、停戦協定失敗とか ノモンハン以前の連続した状況が抜けている。。。 # # # 遠因は、シベリア出兵にまでさかのぼる。 「ここでの日本軍の意図は白ロシア支援では無くシベリア、極東の併合、 各国の数倍の軍隊を派遣した。 しかし、住民統治に失敗し、赤軍などに全然共感の無かった住民を 赤ロシア軍に走らせてゲリラ戦に巻き込まれ白ロシア支援すらしっぱいした...」 本当はきちんとまとめないといけないのですが時間が(~_~メ)... このメモ程度の文章も結構参照されてるようなので 注意書きとして入れときます... この地域の防衛は新設の23師団に任されていました。 この時期大量に師団を速成増強したため装備は貧弱で、野砲は他のどの師団も もう使っていない旧式の38式75ミリ野砲(1907年制式)、対戦車兵器も 不足していました。 5月12日 ハルハ河東岸で双方の国境守備隊による大規模な戦闘勃発 双方とも相手方を国境侵犯したと非難(これは双方の国境線認識が違うため) 「実態は、満軍を使って挑発を続けた日本軍に対して外蒙古側がノモンハンの 祭り(将軍廟で行われる伝統的な春の交易市)に向かおうとした外蒙古遊牧民 の護衛を増やし... それを満軍部隊が阻止したのが戦闘のきっかけ...5月11日」 (「衝突した兵力は」ハルハ河を渡った騎兵は30〜50騎にすぎなかった。) (渡河外蒙古騎兵700は誤り...) (軍首脳が強力な反撃を正当化するために誇張した。) 5月14日〜16日 23師団の小松原師団長は東捜索隊(機械化された騎兵隊)を送り外蒙古兵を ハルハ河西岸に追い払った... (この時支援の日本機はハルハ河西岸の哨所を爆撃) 本当は、小松原師団長は偵察のための偵察機を求めたのだが 数が無く中国、満州東北部で必要だったため、配属されたのは戦闘機部隊でした。 航続距離の無い戦闘機では偵察ができず(97式)しかも師団長は、そのことを 理解していなかったらしい... 5月17日 しかし、東捜索隊がハイラルに帰ると敵は再びハルハ河東岸に進出 して陣地構築を始めた 5月21日 小松原師団長は強力な機動部隊を派遣することを決定した 支隊長、山県武光大佐(800人) 歩兵第64連隊の本部および第2中隊 歩兵第64連隊第3大隊(4中隊、機関銃8、大隊砲2門) 歩兵第64連隊速射砲中隊(37mm砲4門) 歩兵第64連隊(75mm砲3門) 師団捜索隊(東中佐)(220人) 乗馬中隊(104名、軽機関銃6、てきだんとう6) 重装甲車中隊(13mm機関砲5、車搭載機関銃3、車搭軽載機関銃7、自動貨車12) 重装甲車の数は不明 師団自動車隊若干 満軍騎兵隊(450名) 臨時飛行隊(協力) どの指揮官も戦場で外蒙古、ソ連軍と戦ったことも無く 敵を見下していた。作戦の重要な部分は逃げる敵をどうやって 包囲して殲滅するかで、敵が反撃してくるとは誰も考えていなかった。 しかし、敵は、縦深陣地を築いて待ち構えていた。 ソ連、蒙古軍... 外蒙騎兵第六師団 、騎兵連隊2 、、(騎兵4中隊、機関銃1中隊、37mm対戦車砲1小隊(3門)) 、機械化大隊1、装甲自動車(7) 、騎砲兵中隊2、76mm砲(4)、総計8 、独立騎兵中隊1 戦車第11旅団ブイコフ狙撃機関銃大隊 、捜索大隊1 、狙撃中隊3 、対戦車砲中隊1、(45mm対戦車砲、14門) 、高射機関銃小隊1、(対空機関銃、3) 、他、自動車中隊1、工兵中隊1 車載狙撃第149連隊 、(兵員1600名) 5月25日〜27日大規模な空中戦発生 5月28日朝5時に奇襲攻撃開始 しかし、敵を包囲して殲滅する作戦を建てたため各部隊は 夜間ばらばらに攻撃開始地点に進撃し目標となる地形が無いため (ほとんどの高地は似たような形で地図を見てもほとんど現在位置は判らない) 迷子の部隊が続出する... 結果相互の連携が取れず、敵主力の正面(というより敵軍の真ん中) になってしまった 東支隊は集中攻撃を受けて全滅(東中佐戦死、死傷率63%) この%は迷子、補給、伝令などで外れた人数を加えたもので 陣地は敵装甲車両に蹂躙され日本兵は最後の1人まで突撃して 全滅しています。 この事件はひょっとすると歩兵科、騎兵科の間のあつれきの結果かもしれません。 東支隊が全滅するさま(最後の突撃...)は、近くの歩兵部隊からはっきり 双眼鏡で見えたらしく度重なる支援要請が無視されたり 後でこの当時の命令内容が書き換えられているという話があったりします(-_-;)... 私説ノモンハンより 山県大佐からの命令が矛盾する。 28日朝、「捜索隊は、河又から733高地に目標を変更せよ」 28日午後、「捜索隊は、依然前任務を続行せよ」 作者の友人の某大佐の発言として... 「山県大佐が虚偽の命令を作為したことはほぼ疑いが無いその他の戦場でも、 この種の命令は実際にあった」 残りの部隊もハルハ河西岸の10門以上の火砲の射撃と数十両の装甲車両に 圧されて転進してしまいました(76mm自走砲4台も使われています。) (転進、日本軍では撤退と言う言葉は使用を禁じられていました。) 旧式の山砲4門では全然役にたたず対戦車兵器の不足も致命的でした。 日本軍が後退するために呼んだトラックを増援と勘違いして ソ連軍はハルハ河の西岸に引き上げてしまったので それ以上の戦いは起らず双方とも引き上げていました... (総戦力では日本軍2000人に対してソ連軍1450人) 「書籍により人数に違いあり一時保留...(-_-;)...」 敵をあなどって包囲しようなどど思わなければこんなことにはならなかった かもしれません。 6月中旬 ソ連軍は100機以上の航空機を動員して空襲を開始。 ハルハ河西岸の台地とハルハ河に東から合流するホルステン河合流部分の台地に ソ連軍は野砲陣地を構築。満州軍国境警備隊がソ連戦車、装甲車などの激しい攻撃 を受けた... 6月19日 辻参謀の積極案「外蒙古に対する作戦考案」が用意された。 (内容は戦車2個連隊、歩兵2個師団、航空機180機を) (動員しソ連、蒙古軍をせん滅しその野望を粉砕するとなって) (いました。) 結局、侵犯事件の当事者の小松原師団長をないがしろにする 訳にはいかないと言う植田関東軍司令長官の命令で 23師団の小松原師団長に作戦を任せることに決まり 第7師団からかなりの部隊を派遣して(旧式な装備の23師団の補強) 機動部隊を編成し敵を包囲せん滅するという作戦になりました。 (また敵を過少評価して敵兵力についても過小に見積もっていました...) 7月初め... 参謀本部から第5師団を関東軍に転属させてはと打診... 北支那方面軍からはもし必要なら4個師団を派遣しても良い... など各方面からの援助の提案を 辻参謀は「関東軍に師団を送ることは無用である。...」 と断った。(自信過剰を示す話...) 第七師団から派遣された26連隊長、須見大佐(第七師団唯一のソ連情報専門家)は ソ連が大装甲兵力を保有しているのに連隊の兵器は重機関銃6丁、大隊砲6門、迫撃砲2門 しかなく、「装備は哀れなほど不充分で、重大な危険にさらされるのではないかと恐れた...」 (これが精鋭と言われた第七師団の実態(;_;)...) 23師団の兵器勤務隊長の近沢大佐は部隊が前線に向けて出発した日に拳銃自殺してしまった。 責任感の強い立派な軍人だった大佐は「改善しようにもどうにもならない”恐ろしいほどの ひどい兵器”に唖然とし...部隊と弾薬の移動問題で絶望感に捉えられてしまったのが原因 らしいです(-_-;)... ソ連狙撃兵師団の編成は... 人員2万弱、馬約7600 狙撃連隊3、歩兵連隊と同じ 、狙撃大隊3、 、、、狙撃中隊、3小隊(機関銃小隊1、機関銃2) 、、、機関銃中隊、3小隊、(機関銃4)、計12 、、、重火器中隊、45mm対戦車砲2、82mm迫撃砲2 、、、その他連絡小隊、化兵小隊、後方機関 、、騎兵小隊、人員約40、軽戦車若干 、、連隊砲中隊、3小隊、(76mm砲2)計6 、、防空小隊、3小隊、自動車載四連装機関銃3 、、対戦車中隊、3小隊、(45mm対戦車砲2)計6 、、工兵小隊、人員約45、重工兵渡河材料40m 、、連絡1中隊、有線、無線の小隊 、、化兵1小隊 、、その他、軍楽、修理、補給、衛生 、捜索大隊、又は騎兵中隊 、、車載歩兵中隊(機関銃2) 、、騎兵中隊、3小隊 、、装甲自動車中隊、3小隊、装甲車、計10 、、戦車中隊、3小隊、水陸両用共、計15 、、対戦車砲中隊、2小隊、計4門 、、単車中隊、 、、その他、無線、工兵、化兵、砲兵中隊を持つものあり 、軽砲兵連隊、3大隊、総計36門 、、(大隊は野砲2中隊、122mmりゅう弾1中隊、合計12門) 、155mmりゅう弾砲中隊、2大隊、総計24門 、、(大隊は3中隊、4門、計12門) 、、(1個大隊のみで軽砲兵連隊に配属される場合もある) 、高射砲中隊、3小隊、総計6門 、、(小隊は76mmまたは45mm高射砲、2門) 、高射期間銃中隊、2小隊、総計6門 、、(小隊は四連装高射機関銃3) 、工兵大隊、3中隊(1中隊のみの場合あり) 、、工兵中隊2、技術中隊、材料廠あり 、連絡大隊、3中隊 、、1中隊(無線、伝令、各1、)、2中隊(有線小隊) 、化兵中隊、3小隊 、、投射1小隊、撤毒1小隊 、戦車大隊、総計約55両 、、捜索1小隊、水陸両用数両 、、軽戦車3中隊、1中隊(15両)は3小隊(5両) 、、(その他、防空、工兵、連絡、化兵小隊) 、、戦車の内訳は、軽戦車45、水陸両用5、大隊本部軽戦車3、 、連絡飛行隊、偵察機3 、その他、修理、補給、衛生、 一般的な日本軍師団の編成は... # # # 攻撃軍の編成表 渡河攻撃部隊、小林恒一少将 歩兵71連隊(岡本大佐)、 歩兵72連隊(酒井大佐)、 歩兵26連隊(須見大佐)、 野砲兵第13連隊第3大隊(伊勢大佐)、 独立野砲第1連隊(宮尾大佐) 工兵第23連隊(斎藤中佐) 渡河護衛隊(井置中佐) 第23捜索隊、歩兵64連隊第10中隊。 予備部隊 歩兵第64連隊第3大隊。 ハルハ河東岸攻撃部隊 安岡支隊(安岡中将) 戦車第3連隊(中戦車主力)吉丸大佐 戦車第4連隊(軽戦車主力)玉田大佐 歩兵第64連隊(第3大隊欠)山県大佐 歩兵第28連隊第2大隊 野砲兵第13連隊第2大隊 工兵第24連隊 元々23師団には満州西域全体の防衛任務がありこの計画は満州西部の 主要都市、満州里、ハイラルなどをまるはだかにしにしてハルハ河へ 兵力集中すると言う危険な作戦でした。 6月27日 前線まで各歩兵部隊は36kgの背のうを背負って250kmの歩きました。 ハイラル市全域から徴発した自動車やトラックは砲や弾薬、補給品などの移動に 使われ歩兵の輸送には回せませんでした。 この時期のモンゴルの草原は、灼熱の地獄で水一滴無く、ほとんど休みもとらず に6日間歩き続けました。 トラックの数が足りず 戦車連隊の燃料、弾薬を運ぶのにも苦労し戦車連隊の作戦は著しく制限され 充分な機動戦は行えませんでした。 戦車隊が通ると舗装していない土の道路数キロはぐちゃぐちゃになり 補給部隊のトラックは立ち往生してしまった。工兵隊は必死に修理に勤めたが とうとう燃料が足りなくなって戦車隊まで止まってしまい戦場への投入が 遅れました。 (戦場になる予定のハルハ河沿岸地域は土質が砂土なため全然ぬかるまなかった。) (雨が砂丘地帯に降っても砂浜とおなじでコンクリートのように硬くなった。) 両軍の補給能力比較 日本軍がノモンハンに送ることのできたトラックは総数700台 実際はこの4倍〜5倍必要だった。 それに対しソ連軍は補給だけで4000両のトラックを使用していた。 (一説には1万台と言う話もある。)((-_-;)のべ一万?...2.5往復?) それ以外に各部隊には輸送用にトラックが大量に配備されてました。 (ソ連自動車化歩兵大隊はトラック100台と900名の歩兵で編成されています。) 日本軍は戦争になると民間の車両を転用して使っていましたが 満州全域には公用車を除くと9000台の自動車しかありませんでした。 (半数は軍の検査に合格しない。) (日本の軍用トラックは馬力不足で諸外国の軍用トラックにはかないませんでした) (不整地走行能力がとくに劣りました。) (軍用は6輪トラックを開発させたのですが欲張ってこれを戦場で兵員輸送車に使い) (補給用には徴発した四輪トラックを充てました。しかし、日本の民間トラックは貧弱で) (使い物になりませんでした。6輪トラックも戦場で使うには無理がありました。) (今と違って(-_-;)...) (「トヨタトラック」と言うと駄目トラックの代名詞になるほど馬鹿にされました。) (トラックは輸入車が一番という時代でした。) (豊田はけっきょく自社設計を諦めてシボレーのコピー製品を作りました。) (日産のトラックは最初から外国メーカーとの合作でした。) 日本の司令部では敵の兵站は鉄道の端末駅から750km あるので大部隊の展開は不可能だと信じていました... 自軍の貧相な兵站能力を尺度にソ連軍補給能力を判断して しまっていました。 注... 参照したものは、古い資料が多いのでソ連軍数値は情報開示前ものが多い 某雑誌のノ○ン○ンの連載は、一応開示後のデータ−を使っているが もったいないことに使い方が、壊れてる(-_-;)... 「「戦車」としか書かれていない小説と違って戦車雑誌は撃ち合いしてる戦車の 形式の違いや正確な射程距離まで書けるはずなのですが(-_-;)...」 一応クック教授の結論を追加しておきます。 「満州軍の兵站基盤には、重大な欠陥があり、(弾薬の補給、有機的な自動車化) 日本軍の思考方式は「トラック」(戦車も)については、数十台単位(徴発した車輛を 含んで)でしか考えられず... ソ連軍の数百、数千台単位のトラック運用は想像もできなかった。 2001.2.2 6月27日未明 関東軍によるタムスク(ソ連軍の後方補給終結地、航空基地)独断空襲... 大規模な敵後方拠点への越境攻撃は全面戦争の恐れがあるため禁止されていた。 日本軍航空隊の任務は敵を迎撃することしか許されなかった。 しかし、ヨーロッパ情勢が危うくなり、ソ連は極東で全面戦争に踏み切れない と判断し、大本営を騙して独断空襲した... (辻少佐が偽の電文を制作して独断空襲を決行した、第二飛行集団もこの電文を) (偽と知りながら乗ったようです。) 結果、かなりの戦果を上げましたが、大本営と関東軍の関係は悪化し 大本営は関東軍の暴走を抑えるため (関東軍が近く「何か恐ろしいこと」をやってのけるかもしれないと恐れた(-_-;)...) 天皇の「大命」を発して (地上戦闘行動は、ボイル湖以東の満州、外蒙古境界地域に限定する) (敵の根拠地に対する空中攻撃は禁止する。) 戦闘地域を制限した。 この後も両空軍の激戦は続くのですが優秀なパイロットをそろえ初めは優勢だった 陸軍航空隊もソ連軍が次々に新手を投入しだすと、次々に優秀なパイロットを 失い弱体化していきました。 この時、海軍航空隊は何をやっていたのかと言うと... 手助けをする気はぜんぜん無く陸軍がやられていくのを面白がって見物している だけでした。 (いつもの陸軍海軍のいがみ合いです。航空部隊については、陸軍が海軍より) (後から対抗して作ったため特にいがみ合いが激しかったようです。)