日本機械化部隊...


大正14年5月1日
千葉県歩兵学校内、「教導隊戦車隊」創設
ルノーFT型5両、ホイペットA型3両
福岡久留米にもホイペットA装備の中隊
「第一戦車隊」編成

初期の戦車
陸軍は外国から色々な戦車を買い付けましたが
ほとんどが中古品で弾痕の残っている物もあったようです。
(フランスの戦車に多かったようです)

最初がイギリス製、
マークW型戦車(28.45t、6km/h,57mm砲×2、装甲12〜6mm)
ホイペットA型戦車(14.2t、13km/h、7.7mm機銃×4、14〜5mm)、
フランス製、ルノーFT型戦車
(6.6t、8km/h、37mm砲またはMG×1、装甲22〜6mm)
あまりにもノロイので操縦手が外で歩きながらたばこを吸い
(ガソリンエンジンなので火気厳禁でした...)
曲がり角に来るとひょいと飛び乗って操作レバーを引いて
向きを変えるという曲芸?ができました。

最初の日本戦車隊は満州に投入されました。
フランス製ルノーFT(6t)、とルノーNC(8.5t)を
久留米の第一戦車隊、千葉の歩兵兵学校教導戦車隊
からかき集めて編成されました。
戦車を戦車隊として運用する思想はまるで無く
各師団にばらばらに配属され歩兵の戦闘支援に使われました。
その後、鉄道の無い北部中国戦線に対応するため
(これまでの満州での戦闘は鉄道中心におこなれました。)
数個歩兵師団を自動車化し(この時期の日本歩兵はみんな(日露
戦争時と同じく)重い器材を担いで徒歩で移動していました。)
ついでに、戦車も集結させて運用することになりました。
編成は、89式中戦車11両、(1小隊3両)、92式装甲車2両
その他、偵察、修理器材、補給品などを輸送するための車両
11台です。
初戦は前線に付くまでに故障車が続出して前線にたどり着いた
のは89式1両、92式装甲自動車2台だけでした。
この時は敵が臆病だったのでなんとか進出できました。
その他にも逃げる敵を追撃して全弾撃ち尽くすまで蹂躙したり
敵には戦車も対戦車砲もなかったので(-_-;)...
大活躍しました。
(この後中国軍は道路に百数十個所も障害物を置いて)
(必死に装甲車や戦車の移動を妨害しています。)

こういう戦果は日本軍のためにならず
攻撃のみの軍隊という特徴を増長し慎重派のまともな指揮官
を臆病者呼ばわりして忌避する傾向が強くでました。

まあとにかくその結果...
日本軍初の機械化部隊誕生しました。
昭和9年3月17日に満州で編成された独立混成第一旅団です。
戦車2個大隊、独立野砲兵1個大隊、独立工兵第一中隊、
独立歩兵第一連隊、
しかし、
独立機械化部隊三代目の酒井兵団長が東条司令部と意見対立
(戦車の用法を知らない無茶な命令が原因)
(このあたりから中国軍に対戦車砲が装備されだし
機械化部隊の将校の死傷者が増えています。
作戦地も山地で機械化部隊の運用には不利な地形でした。)

その後...
「機械化部隊は、実戦の役に立たない」という
関東軍首脳部の正式見解とかいうのが出て...
昭和13年9月旅団は解体され各兵課に吸収されました。

酒井師団長は東条中将が中央で勢力を増してきた
昭和15年1月更迭されています...
(酒井師団長は、弟一次世界大戦の時の観戦武官で
フランスに4年間駐在し西部戦線の実態をつぶさに
体験した人でその他にも欧州出張の多い異色の軍人
でした。)

ノモンハンでは残った戦車部隊だけて投入されたので
各兵科の連係がぜんぜん取れずに苦労しています。

(東条将軍が戦車派の将校を弾圧する話は日本の戦車関係の書籍を)
(見ると良くでてきます。(-_-;)...)

ここで戦車の生産力から分析してみましょう。
日本初の国産戦車は...
昭和1年、1925年、戦車の国産計画
陸軍省は始めは国産は不可能と判断欧米に調査団を派遣
しかし、各国とも新式の戦車を売ろうとせずやむえず
国産方針に大阪砲兵工廠で試作
1927年3月完成
1927年6月、富士狩野で試作車試験

日本戦車の生産台数
満州事変1931年9月18日
1931年、10台、八九式中戦車(ガソリン)
1932年、20台、九二式重装甲車(騎兵偵察車)
国産戦車の生産増えずやむなくルノーNC輸入
1933年、110台、
1934年、160台、八九式中戦車(ディーゼル)
                          九四式軽装甲車(弾薬運搬車)
1935年、400台、九五式軽戦車
1936年、360台、
日中戦争1937年7月7日
1937年、330台、九七式軽装甲車(偵察用)
1938年、295台、九八式軽戦車
1939年、345台
1940年、735台
太平洋戦争1941年12月8日
1941年、1190台
1942年、1290台、九七式中戦車改、九八式軽戦車(100)
1943年、780台、
1944年、295台、二式軽戦車(30)、三式中戦車(60)
1945年、130台、
試作、
五式軽戦車(1両)、四式中戦車(2〜6両)、5式中戦車
不明、三式、四式軽戦車(100)

1式587両、3式60両、4式、 2〜6両、砲戦車、71両
戦後米軍に引渡された物、1325両
満州などでソ連に引渡された物、369両

国産戦車の生産を始めてからわずか14年で太平洋戦争に突入した
ことになります。

騎兵の機械化
満州事変以降(1932年)
騎兵部隊に自動貨車、装甲自動車、装甲車(豆戦車)
を追加して装甲車隊を編成し強化し始めた。
1937年になると新設師団付属の騎兵中隊を捜索大隊
として、騎兵中隊1、装甲車中隊1(豆戦車)の編成に
して強化しました。
しかし、装備車両は、機銃装備、薄い装甲の92式、94式
だったため本格的な戦闘には耐えられませんでした。

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