分析用基本式を使って...


「零戦」の戦歴を使って分析用基本式の使い方の解説を作って見ました...
本来空中戦から発見されたこの方程式を説明するにはこの方法が良いようです。

分析用基本式

空中戦用の使い方2000.0924

たとえば、一番有名な「ゼロ戦」を例にとって計算すると...
はじめての戦闘は重慶(中国奥地)「ゼロ戦」13機対「イ−15、16」
27機、日本側の奇襲、戦闘時間は30分...
結果は、ゼロ戦損害0、中国機損害22、+逃亡3、空中衝突2、

残念ながら、計算するとNaNを出して止まります...
計算システムが両軍の損害比を使って計算するシステムなため、損害ゼロだと
戦闘力差(攻撃側からみた交換比)は無限大になって止まってしまうからです...

試しに日本機を損害1として計算すると...
攻撃軍数m =13、守備軍数n =27
戦闘期間day=1(今回必要なのは比率なので、この数値はなんでも良い)
 戦闘終了時の攻撃軍数m=12、 戦闘終了時の守備軍数n=5

攻撃側からみた交換比(b/a)=E=28.16倍

ゼロ戦と「イ−15、16」の戦闘力は28倍以上ということになります。

同様に開戦当初の戦闘記録は...
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開戦当初の戦闘力差は...
ゼロ戦一機は、連合軍機2機〜5機に匹敵すると言われているので

P40やF2Fとの戦力差や4倍〜25倍ということになります。

奇襲された場合や高度の有利不利も数値の中に含まれてしまうので変動値が大きくなりますが...

両軍の出撃機数と撃墜機数さえ判れば個後の戦闘機の戦闘力差を計算できるので便利です...

「初期は連合軍側の戦法による差が大きい...
日本機に格闘戦を挑んだ連合軍機はほとんど壊滅しています...
イギリス軍に特にこの傾向が強く損害を補充するためにバトルオブブリテンで活躍した
スピットファイヤー部隊まで投入しましたが簡単にゼロ戦に落とされてしまってます...
(英独の戦いは...
(英空軍=旋回性能を生かした巴戦主体、
(独空軍=エンジンパワーや高速性能を生かした縦方向の運動主体&一撃離脱
(軽業的な巴戦主体の日本機にドイツ空軍に対抗したのと同じ戦法で挑んだため

逆に機数が少ないため一撃離脱の戦法を選んだフライングタイガースは生き残っています...」

戦法は...
たとえば「ゼロ戦の真実」から数値を採って

ラエからポートモレスビーの航空基地の戦闘機30機を攻撃する話から数値を...
ゼロ戦27機で連日空襲、
初日
ゼロ戦27機損害無し(翌日の故障1機を損害に編入)
連合軍30機損害10機
攻撃側からみた交換比(b/a)=E=9.43倍

二日め
ゼロ戦26機損害無し(便宜上1機を損害に編入して計算)
連合軍20機損害13機
攻撃側からみた交換比(b/a)=E=5.88倍以上

三日め
ゼロ戦17機(損害1機)
連合軍10機損害5機
攻撃側からみた交換比(b/a)=E=2.27倍

敵を見事壊滅ですが段々交換比が下がってくるのが判ります...
奇襲効果が無くなった?
それとも敵もゼロに対する対策法ができたか?
生き残ったものほど技量があった?


日本軍の優勢期は意外に短くて...
パールハーバーの1941年12月8日からミッドウエー1942年6月5日までの
半年間しか有りませんでした...(ガダルカナルは1942年8月)

中期は、
ベテランパイロットとゼロ戦の高い空戦能力を当てにして少数で多数を撃つという
法則に逆らった戦闘を多用したため両者の戦闘力(交換比)が接近してくると
急速に損害が増えて崩壊を早めてしまいました...

(ゼロの利点(低速での鋭い旋回)欠点(高速旋回不良と防御不足)がばれて)
(二機で組んで高速旋回主体で攻撃とか一撃離脱(レーダー誘導で有利な位置に移動してからの))
(などの対抗手段が普及した...)

米軍は次々新型機を投入するのですが...
日本は「新型エンジン」がみんな失敗でゼロ戦を大戦末期まで主力で使います...
(原因は技術不足なのに無理に細長い空冷エンジンを作ろうとしたため...)

ゼロ戦は柔な構造で防弾力不足を改良できなかったというのは間違いで...
新型機より防弾板を挟んで各部を簡単に補強しエンジンを付け替えるほうが簡単で
速く生産できます...

防弾板を米軍機より厚い物を付けて重くしてしまいエンジンがそのままだったことが
致命傷になりました。
(自慢の空戦性能も落ち、航続距離もF6F以下になってしまいました)

パイロットの消耗は始めからベテラン層が薄かったためで...
(戦艦より航空機を奨励した源田実中佐でしたが)
(「戦闘機無用論」は行き過ぎで、)補足、「零戦の真実」P325~P326
(1937年から1939年までパイロットの数が1/3に減らされ)
(訓練、養成もおざなりになり...)
(パイロットの予備が無く一度負けるとボロボロと敗退してしまいました...)
あわてて、人数をいくら集めても新米パイロットばかりで
全然挽回できませんでした...


ガダルカナルの闘いは、
初期は、
無理して遠距離の敵地上空で戦ったためゼロ戦は15分しか上空にとどまることができず。
(後期は、滑走路が三つもある一大基地に拡張されて300機以上の勢力になった)
襲撃情報は敵に筒抜けだったため、敵機は、不利なら上空退避、有利なら奇襲攻撃を
選択でき、優秀なパイロットの墓場になっていきました...
笹井少佐、27機撃墜、8月26日戦死
太田飛曹長、34機撃墜、10月21日戦死
羽藤二飛曹、19機撃墜、9月13日戦死
吉村三飛曹、14機撃墜、10月25日戦死

半年後には、日米の戦闘機損害率は1:5になって逆転しています...


末期のゼロ戦は優秀な搭乗員も空戦性能の優位も無くなってしまいます...

たとえば硫黄島上空...

サイパン上陸支援の制空権確保のための硫黄島(1944年6月15日)
攻撃側、
F6F、60機、損失2機、
防御側、
零戦、37機、未帰還28機、翌日戦闘可能3機

攻撃側からみた交換比(b/a)=E=5.76倍

ゼロ戦の神通力も無くなってF6Fの17%程度の戦闘力しかありません。
(F6Fは、1943年8月31日登場)

ざっとですが...
零戦の戦闘指数の変遷が簡単に計算できることがだいたい判ります...

リヒトフォーヘン(第一次世界大戦)や第二次世界大戦のヨーロッパの空戦の
データーなど投入して計算してみると面白そうです...
2000.0927

米公刊史より、日米撃墜機数
開戦から1942年末まで、日本機(858)米軍機(266)3.2:1
1943年、日本機(1239)米軍機(233)5.3:1
1944年、日本機(4024)米軍機(261)15.5:1
1945年、日本機(3161)米軍機(146)21.6:1

比率を見ると後期は、パイロットの技量が落ち過ぎて
もはや空戦というより、カモ撃ちのような状態だと判ります...


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