独ソ戦後期ヒットラー死守命令の弊害
この話を読むと可能性のカケラもない日本と違ってドイツ軍には東部戦線で勝利する 可能性があったのではないかと思ってしまうのですが(-_-;)...

ナチスドイツ軍の内幕 B・H・リデル・ハ−ト著 岡本訳」より

まずその前に命令系統の非効率な面と
ヒトラーと将軍達の関係について良くまとまってるところです。。。
ヒトラーのムリな命令を聞かなければならなかった背景です。

この体制には奇妙な副産物があった。組織と秩序の好きなドイツ人は、他の国民 以上にものを文章に書きたがるという傾向があるが、さらにこの戦争ではかつて ないほどに{書類}が製造された。昔の軍隊では、現場の指揮官に行動の自由を 与えるために命令は簡潔に書いたものである。ところが今度の戦争ではやり方が 変わった。というのは心理的な自由は始めから非常に制限されていたからだ。 そこではすべての指揮官は、処罰されないためには、あらゆる行動、あらゆる予想 しうる事態が、すべてあらかじめ規制されていなければならなかった。そうなると 自然に命令は分量が多く、かつ長くなる。我々の受けてきた訓練とは逆である。しかも その文章は、延々誇張した言葉使いとか、いつも最上級の言葉を使う善い方などは、 すべて昔流の含蓄ある簡潔さとか、切り詰めた言葉使いというルールに反するので ある。だからこちらの命令はいつも宣伝調のスタイルで、かつ「扇動的」でなければ ならなかった。総統とO・K・Wの命令の多くは、もしその作戦が失敗した時、それは総統 の意志を正しく伝えなかったからであるという責任を免れるために、さらに一語一語下級 の命令に書き換えられていったのである」

「ナチ体制下のドイツの強制状態はロシアのそれと同じくらい悪かった。私はしばしば その証拠を見た。たとえば戦闘の極めて初期の段階に、 スモレンスクで逮捕した二人のロシアの上級将校を尋問したが、彼らは自分達の やっているその作戦についてはまったく不賛成であったけど、ただその命令通りに実施 するか、そうでなければ処刑されるかどちらかであった。人々が自由に話ができるのは、 こうした捕虜の状況においてだけであった...

ある日の総統を囲む内輪だけの集まりで.。 「総統は、自分がいかにスターリンをうらやましく思うかという話をした。スターリンは、 言うことを聞かぬ将軍達を自分以上に手厳しく処置することができるというのだ。 さらにかれは赤軍の粛清について言及し、いかに自分がボルシェビストをうらやましく 思うか、彼らは自分達のイデオロギーを完全に体得した軍隊と将軍とを持っており、 まるで一人の人間のように無条件に働いているのに対して、ドイツの将軍達と 参謀本部は、ナチの狂信的な思想をちっとも共にしていないと言ってこぼしたのである。 ...」

モスクワ前面からの撤退について...
将軍たちはヒトラーに向かって、冬期の防衛線を確保するために 思い切って大幅に後退するべきことを進言した。軍は冬の厳しい 戦闘の準備をしていないという点を指摘したのだが、しかし、ヒトラー は聞こうとはしなかった。「軍は一歩も退いてはならぬ各自その現在 位置で戦う べし」と。この決定は一見壊滅を招くように見えたけれど、 その後事態は彼の命令が正しかったことを再度証明した。

フォン・ティペルスキルヒ将軍の話
「前線の防衛は、1914年〜18年の時より遥かに堅固であった。 ロシア軍は我々の戦線を突破しようとして何度も失敗した。彼らは 遠く我々の側面へも迂回したけれども、その有利な形を完全に 成功させるだけの技量も補給もなかったのである。 我々は鉄道と道路の集合地点であるいくつかの町に終結し、 そこをハリネズミ型の要塞に固め上げーこれはヒトラーのアイディア だったがーそれを固守することに成功した。事態はそのようにして 救われたのである。 多くの将軍達は、当時はそうは思わなかったが、今なってはヒトラー のこの決定が当時の事態としては最善であったと考えている。 「これは彼の大きな一つの手柄であった。」と、ティッペルシスキルヒ は言うのである。「あの重大な危機に直面した時、軍隊はナポレオン のモスクワ敗退について聞かされていたことを重い浮かべながら、 その影の下で生きていた。もしひとたび退却をはじめたならば、おそ らく恐慌的な壊走状態になっただろう。」...
ただルントシュテット将軍はこれについても手厳しい。 「最初にこの危機を招来したのは、ヒトラーの頑固な抵抗命令 だったのである。もし彼が適時に後退を許していたなら、そもそも こういう危機は発生しなかったろう。」

結果ヒトラーはますます将軍達の言うことを聞かなくなり 41年の冬には巧くいった「死守命令」の連発でドイツ軍の 柔軟な機動性で弾力性のある防御戦を張るといったことも できなくなり...
ドイツ軍は各地で無理な地形で無駄に防御戦を強いられ、 消耗していきました。

ヒトラーの話...追加
42年の作戦計画中に
「諜報機関の情報によれば、月に600台から700台の戦車が ウラル山脈またはそのあたりの工場から送られてきているという ことであったが、ハルダーがそれを話すとヒトラーは卓を叩いて、 「そんなことはあり得ない」と言った。彼は自分が信じたくない事は 信じようとしなかった。

リデルハートのインタビュー...
私が多くの将軍に尋ねたことは、 「スターリングラード以後でも、もしうまくやれば敗北が避けられたと思うのか。」 ということであった。
ルントシュテットはそれに答えて、 「避けられたと思う。もし前線の司令官達が、 いつでも適当と思う時に後退することができたならば、ということである。
ところが実際には、もう至るところで、いつまでも無理な抵抗をやらされた。」
彼は1941年に東部戦線を去ったのだから、その後の事態を、割合客観的に見ることができた。 その上、彼は性格的にも楽観主義者ではなかったし、 さらに、両戦線で共に上級指揮官をやたことがあるという特別な経験からしても、 彼の大局的な意見は拝聴に値する。
同じ質問を最後まで東部戦線に残っていた将軍達にした時には、 彼らの返事はもっとはっきりしていた。 ドイツ軍が弾力的な防御戦をやりさえすれば、 ロシアの攻撃力は消耗してしまったろうと言うのである。 −もし、そうすることが許されるならば−と。...

戦史研究&戦車戦へ戻る