ロシア軍の戦術は...
大粛正以前は、トハチェフスキ−など軍事理論に精通した将軍、将校が多数いたのですが 粛正で、ソ連軍はぼろぼろになってしまいました。 そのため、有効な機動戦が行なえず(中間の将校の不足が致命的でした) 数を頼りにしたごり押しが主な戦術となりました

B・H・リデルハ−トのドイツ将軍達へのインタビュ−から そのソ連軍の戦術を抜いてみましょう。

ドイツ北方方面守備(第四軍)を担当したハインリッキの話しから (ロシア北部戦線1943年10月から12月) 彼は、かつて私の書いた、近代の傾向についての文章をくり返して読んだと述べた後、 「私は自分の経験からして、戦術的な分野で言えば、防御は常に攻撃より有利である という貴下の意見に100%賛成である。もちろんこの問題は貴下も言われている が如く、面積と力の比率に関係してくる。私の経験から幾つかの事例をあげれば、おそ らく貴下にも興味があるのではないかと思う。

1 「私がスモレンスクから撤退した後、ロシア軍はオルシアの20キロメ−トル手前まで 迫ってきた。こちらは、そこで僅かに1本の塹壕線を大急ぎで作り上げて、それに よって第四軍は彼らの防止に成功した。その年の秋は、10月から12月にかけて、 我々はそこでロシア軍の強襲を何度か迎えた。連続5回の攻撃があった。私は直線距離 にして約150キロの所を、自分の軍の中の10個師団で守っていたが、戦線の凹凸を 考慮に入れると200キロにもなったと思う。第四軍には予備兵力は1つも無く、 すでに大きな損害を受けて弱っていた。ただ砲兵だけは、健全で、これが決定的な頼み であった。」

2 「ロシア軍の主攻目標は、大きな鉄道集合点であるオルシアに向けられた。これが陥 ちたら、レニングラ−ド=キエフ間の南北の鉄道連絡を断ち切ることになる。この目的 で以って、敵は街道をまたがる20キロの正面に向かって攻撃を集中してきた。最初の 攻撃では、20から22個師団を投入し、第二回目は30個師団、そして次の三回は ほぼ36個師団を投入してきた。一部は最初からの部隊もあったが、その大部分はその たび毎の新手であった。」

3 「この攻撃に対して、20キロ正面を防御するのに私は僅かに3個師団半を使って、 そして残り6個師団半でその他の非常に広い範囲を守っていた。そしてその攻撃は全部 食い止めることに成功した。この5度の攻撃は、それぞれ5日または6日続いたけれど も、一番危ないのは3日目か4日目で、それがすぎたら下火になる。ロシア軍は、大が かりな機械化部隊で突破してくるということはしなかった。こちらが大きな割れ目を 作らなかったからである。攻撃は50台ぐらいの歩兵協力用の戦車も連れてやってくる が、これらはいつも撃退した。」

4 「ロシア軍は、通常、日に三回やってきた。最初は午前9時頃で、猛烈な援護射撃の後 である。2度目は10時と11時の間で、3度目は2時と3時の間であった。それは もう時計のように正確であった!ロシア軍は、我々が防御砲火で停止させない限り、 前進をやめるということはない。というのは、彼らは後方にいる指揮官と、人民委員に 強制されて駆り出されているのだ。そして、逃げ出そうとするものに対していつでも 発砲するのである。ロシアの歩兵は練度は低かったが、猛烈に攻撃してきた。」

5 「この時の防御の成功した理由は3つあると思う。 第一に、私はロシア軍の攻撃正面の、割合狭いところへ、人員を重点的に配備した。 第2に、危険な地域へ、380門の強力な砲を重点的に配置した。 これを軍司令部で1人の指揮官が統括し、その20キロメ−トルの戦線の、どこでも 必要な場所へ火力を集中できるようにした。ロシアの攻撃は、1000近くの砲で支援 されていたけれども、この火力はそれほど集中していなかった。 第三に、ドイツの損害は、各師団、1日戦闘あたり1個大隊ぐらいであったが、それは 軍の他の正面から引き抜いて補充した。私は敵の攻撃が始まる前には、いつもその地区 の師団の背後に1個大隊づつ、合計3個の予備大隊を用意しておくことにしていた。 ...」

1945年3月オ−デ−ル河 ...彼がすでに述べたところの防御的手法を、より一層発展させたと彼は語った。 1 「ロシア軍が攻撃のために集結しつつあることが分かると、私は夜の間に第一線の 兵を、通常2キロメ−トルぐらい後ろへ下げることにした。そのために敵の攻撃は 見事にカラ振りになり、次にやってくる第二段目の攻撃が弾みを失ってぐっと弱まる。 もちろんこれが成功するには、相手の攻撃の日取りを知らなければならない。だが、 それには私は偵察を使って、捕虜を捕まえることに努めた。ロシア軍の攻撃が しぼんでくると、私はこの第二線を前進基地としてがっちり守り、一方、攻撃を 受けない部分の戦線では、再び元のところへ戻して、最初の線を回復するように したのである。このやり方は、オ−ディル河の戦闘では非常にうまく成功した。ただ 遺憾なことに、すでにそこまで守りにくい地形で無理な防御を強行してきたため、無駄 な損害が嵩んでおり、味方の戦力が落ちていた。」

「私がこのやり方で自分の計画を立てることができた時には、この3年間の防御戦闘 で一度も負けたことはない。また私は、味方の予備兵力への援助を請うというような 願いを、上級司令部へしたことがないことを誇りとしていた。このような防御戦では、 自走砲が一番役に立つことを私は知った。」

「私の経験に徴して、攻撃には3倍の優勢がいるという貴下の結論は、実数を上回って いるのではなくて、むしろ下回っていると思うのである。私の意見では、非常に巧みに 防御された正面を攻めて成功するには6倍から7倍の兵力を必要とすると言いたい。 しばし、私の軍隊は12対1、あるいは18対1の劣勢で防御してきたことがある。」

ナチスドイツ軍の内幕 B・H・リデル・ハ−ト著 岡本訳」より

砲兵については、1平方メ−トル当たり何門とか集中投入される話しがよく載って いたのですがこれでは何の役にもたちませんね(-_-;)...


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