バルバロッサ作戦の敗因は...
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ロシアを救った最大のものは、その近代的な発展ではなくその遅れでした。 もし、ソヴィエトの道路が西欧諸国と同じ様に良かったらソ連は、一瞬の内 に占領されてしまったはずです。 もし、ドイツ軍が「無限軌道」の補給部隊を持っていれば秋の訪れるずっと前に ロシアの中心部を制圧していたでしょう。.
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フォン・クルーゲ軍の参謀長 ブルメントリット将軍の話し
「戦車が活動するには最悪の国だ。広漠たる処女林、果てしない沼地、恐るべき悪路。 橋は戦車の荷重に耐えない。抵抗は増々執拗になってくる。ロシア軍はその前線を 地雷で防ぎはじめた。はじめから道路が少ないのだから、道を閉ざすことは容易 なのである。」
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「我々は出くわすものに片っ端から面食らった。なぜなら地図と事実が一致していた ことは一つもないのだ。これらの地図では、主たる道路らしきものは赤い線で書かれて おり、一見かなりたくさんあるように見えたが、実際そこえ行ってみると、ただの砂の わだちにすぎなかった。ドイツの情報機関の情報は、ソ連領ポーランドについては かなり正確であったが、本来のロシア領内へ入ると、非常に間違っていた。」
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「こういう国には戦車が向かないのは言うまでもないが、それに随伴していく輸送 になるともっとひどい。燃料、補給、および戦車の必要とする補給部隊などのほとんど すべては車輌に頼るのであるが、それは、道路を離れては動けないし、またその砂が 泥に変わってしまったらさらに動けない。1、2時間の雨で機甲師団は立ち往生する。 やがて日が出て地面が乾きはじめるまで、延々百マイルにも達する戦車と輸送車輌の 大部隊とが、長蛇の如く立ち往生する光景というものは、全く凄いものだった。」.
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基本的な計画は、ロシアの大部隊を広大な迂回運度によって包囲することでした。 しかし、ウクライナの黒土は10分の雨で泥濘になり、それが乾くまで、あらゆる 運動はストップします。薄い包囲の網は、突然の豪雨で締まりが遅れ逃げられてし まいました。.
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ルントシュテッドは、ドニエプル河の西において決着をつけなければならない と言っていました。しかし、開戦から1ヶ月後の7月末、3度目の大規模な包囲が、 スモレンスクの周囲で一層大きな環を描いて行われましたが。 「50万のロシア軍が包囲されたかに見えた。約6マイルの輪が作り出したワナは、 ほとんど閉められていた。しかしロシア軍は3たびその大部分が離脱することに成功 した。このきわどい失敗がヒトラーをして、そこで停止すべきかどうかと言う問題に 直面させたのである。我々はすでに400マイル以上、ロシア国内に入っていた。 けれどもモスクワは、さらに200マイル以上向こうにあった。」.
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「ナチスドイツ軍の内幕 B・H・リデル・ハート著 岡本訳」より.
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T34が機動力を誇ったのも納得ができます。ただ必要だっただけ(-.-)。 満タンで450キロ走るのも、この上に歩兵が1ヶ月分の食料背負って、装甲車 代わりにするのもそれしか未開地で戦争する方法がなかっただけ(゚.゚)?.
未開の国を攻めるのは大変(-_-;)..

中国戦線の例ですが...
降雨時には道路は泥河となり車両は通行困難に...
戦車は40cm程度の深さの泥沼までは走れて車両の救援に使えるのですが、
それを超えると、底板がつかえて亀の子状態になり...
キャタピラが空転して道路を破壊するので他の部隊に嫌われたそうです...
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(ロシアで軍の移動と補給物資の輸送に使われたのは鉄道でした...)
(鉄道で部隊を前線へ急送し...)
(貨車から直接補給する方法が使われ、ドイツ軍に前線を破られたり負けたりしても...)
(補給基地が無いので安全という怪しい戦法でした。)
(突破や包囲して敵の補給線を切ったり中枢を叩いて混乱させるという電撃戦が通用しなくなりました。)
(「ソ連の後方には何も無い」)
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古代からこういった交通路の整備状況が遠征に影響した例は多く、アレキサンダー大王の遠征も ペルシアの進歩した国内交通路のおかげで素早い征服ができたとか....
ペルシャ国内を過ぎるととたんに補給が難しくなり、インドや中央アジアへの遠征は中止されました もし大王が早死にしなくてもこれ以上の遠征は難しかったでしょう....
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