そしてその時でさえも、その攻撃は、いわば探りを入れるというような性質のもので あった。その大きな1つは、第一軍所属のハインリッキの第12軍団によって、ザ− ルブルッッケンの南、プットリンゲン付近の狭い地域で行われた襲撃であり、もう 1つの方はそこから100マイルばかり南の方の第7軍の戦線で、ライン河をコル マ−ルの付近で渡ったところで行われた。
ハインリッキは私に向かって、マジノ線を12時間で突破したと話した。けれども さらに議論をしているうちに、この突破は、防御がすでに弱体化して、フランス軍 が撤退しはじめた後になって行われたものであることを認めた。
「14日に私の軍は、激戦の後に2ヶ所を突破した。
15日にも攻撃を続けるように命じられていたが、
夜中になってフランス軍の守備隊が退却せよという命令を受けていることが分かった。
そこで我々の翌日の作戦は、襲撃と言うより結局追撃戦になってしまったのである。」
戦史や自伝などでは自分に都合の悪いことは書かなかったり省略してしまう良い例ですね。
こういうことは良くあるので、その戦いに参加した両方の戦史を参考にすると良く判ります
ドイツ機甲師団は、マジノ線を避けて、アルデンヌの森を突破していった。
言い換えるとドイツ機甲師団にはマジノ線を突破する力は無かった。
しかも、マジノ線の存在によってドイツの攻勢軸は狭くなり、
実際の、ドイツ軍の行動パターンは十分予想できる狭いものになっていた...
フランスの崩壊の原因は、マジノ線に代表されるハードウエアー的なものではなくて
フランス軍が、機動戦を無視したというソフトウエアー的な理由にある。
突破してきたグーデリアンの部隊を側面攻撃して分断する絶好の出撃チャンスなのに
戦車部隊を分散して歩兵部隊にトーチカの変わりとしてばらまいてしまい
攻撃を辞めてしまう指揮官
機動戦のスピードを理解できず...
のんびり整備中の状態の部隊がドイツ戦車の大集団に奇襲されてしまう指揮官
などを見ると、当時のフランス戦車部隊の指揮官が保守的で機動戦に無知なことが
解ります。
機動戦を理解していたドゴールの戦車部隊の活躍を見れば...
当時のフランス軍の戦車部隊でも十分にドイツ機甲師団と戦えていたことは明白でした。