97式中戦車の解説

(写真はすべて新砲塔のハチ47mm戦車砲)
九七式中戦車/97式中戦車改
全長5.516/5.55(5.516)m 全幅2.33m 全高2.2/2.380m 
重量 自重14.3t 全備重量15t(改+0.5t)
超濠能力 2.5m 超堤能力 m   渡渉水深 1.0m
登坂能力30度 短斜面45度(60~100%)接地圧 0.64kg/cm2(改0.663kg/cm2)
回転半径信地および8.6m
乗員  4名  最大速度路上 38km 路外 19.2km
防御タイプ、中戦車、砲威力、中(2)、速度28.5cm(14.4cm)
武装    5.7cm砲L18.4_-15~+20、左右LR10、7.7mmMG*2
弾薬数      5.7cm砲(114発~)、MG34(4035発)
5.7cm砲L18.4(垂直装甲板に対する貫通力)
射程距離  25 100 250  500 750 1000 1250 1500
AP−HE 22  21  20  17   13  12   10
(AP-HEco  23  22  20  17   13  12   11)

九二式徹甲弾(AP-HE)、2.58kg、103g、400~420m/s、
榴弾(HE)2.36kg 355m/s、250g、最大射程6000m
(人馬有効殺傷半径15m)
装甲mm(装甲傾斜角度)可変javaScript
,          正面          側面           後面
砲塔     25(78~80)mm  25(78~80)mm     25(78~80)mm
車体上面 25(81,62)mm  20(L45)(R63)mm  20(25)mm
車体下面 25(,)mm       25(90)mm        25(65)mm
砲盾mm  上面10mm   底面8mm

装甲mm、三次元傾斜角度()上下方向、[]水平方向、可変javaScript
,          正面              側面           後面
砲塔     25(78~80)[R0]mm  25(78~80)[R90]mm  25(78~80)[180]mm
砲塔                      25(75)[104]mm     25(75)[144]mm
,                        (25(78)[-126]mm)
車体上面 左25(81)[-48]mm  20(左45)[-90]mm   20(25)[180]mm
車体上面   25(81)[R0]mm   20(右63)[90]mm    20(60?)[148]mm
車体上面 右25(62)[22]mm  (左25(81)[42]mm)
車体下面25(28.5,61.3,37.5)[0]mm 25(90)[90]mm 前期20(42,64.5,86,14)[180]mm
砲盾25mm  上面10mm   底面8mm                 後期20(65,R,16)[180]mm
「右左」は正面前から見て、Rは曲面装甲板、
車体上面、左25(81)[-48]mm、側面(左25(81)[42]mm)は同じ装甲板..

指揮戦車の砲塔
砲塔     25(76)mm  25(75)mm     25(76)mm
改(47mm)の砲塔
砲塔     25(75)mm  25(78~80)mm  25(90)mm

詳細データー

最低地上高 0.4cm 接地長 3.54m キャタピラ幅 33cm 轍距1.98m 
最大航続距離  路上 210km 未整地

機関    空冷V12気筒頭上弁頭部分離式
出力 標準150HP 最大170Hp 回転数 標準1500最大2000rpm
変速器   前進、後進
出力重量比 11.17PS/t(改10.81ps/t)
馬力荷重 86.92ps/t(改89.88kg/ps)
燃料容量 120右+120左+6予備リットル 潤滑油 45リットル
燃費 0.9~1.05km/リットル  運行時間 10h

昭和12年7月(1937年)正式装備決定 昭和13年(1938年)に部隊配備開始 2123輌生産(M4系列は49234両生産された。) 初戦、昭和14年(1939年)7月ノモンハン、4輌投入
ノモンハン
7月3日の戦闘で連隊長車はピアノ線網のため動けなくなった所を、狙撃され、 連隊長戦死、戦車は火災を起こして初犠牲となる。

「2時間の戦闘でT26軽戦車、BT7中戦車、BA10型装甲車は、45ミリL46.2。 日本軍は、57mmL18.5砲身が短く貫通力に乏しく。(たしか500mで17mm)T26の 25ミリBTの15ミリをなかなか貫通できない。ちょうど太平洋戦争末期になめた苦 しい思いを、昭和14年すでに経験していたのでした。だが関東軍はことさら敗戦 を隠そうとしたので技術的な改良は十分に行われませんでした。」

(米軍相手と違ってノモンハンでは...)
(BT5と言う装甲の薄いやられ役がいたので多少救われてますが(-_-;)...)

「この時の射撃戦の描写に我が軍の砲弾はよく滑った(しかもピンポン弾の様に)が敵の砲弾は弾道も 見えず(戦車の側面に、大傾斜角度で命中しても滑らなかった)良く貫通した...」
日本の徹甲榴弾は、貫通力が無く滑り落ちたのですが...
榴弾にもかかわらず爆発しなかったのは命中角度がきついと信管が作動しなくなるためのようです...

戦車砲弾...
滑る滑らない以前の問題で、高速弾のため、(ソ連の砲弾は徹甲榴弾APHEでしたが)
日本戦車の装甲は簡単に引き千切られてしまい、装甲と呼べるようなしろものではありませんでした...

ソ連の45mm砲に対抗するにはドイツが独ソ戦初期にやったように...
50mmか30mm+30mmの二枚重ねで60mmの装甲が必要でした...

ソ連の傾斜装甲に対抗するには、滑り止めには軟鉄キャップを付けるのが一般的ですが、
日本軍は最後まで(太平洋戦争のラストまで)この程度の対戦車砲弾すら
実線配備されなかったのでは...(-_-;)...
(APC程度で進んでたんだろうか...(-_-;)情けない...)
海軍にはAPC弾の技術が合ったですがいつもの陸海のいがみ合いから製造方法は教えて もらえなかったようです。

装甲板は...
苦労して曲面を多用して避弾経始をつけたのですがこの程度の傾斜は高速化した
徹甲弾には効かず、生産しにくいだけの無駄になってしまいました。

製作方法に重大な欠点が有ったため対機関銃用の10mm程度までの装甲は良かったのですが...
それ以上の厚さの装甲は全然駄目でした...

中炭素量(0.25%〜0.45%)の鋼鈑に表面浸炭、低温焼もどしを行なったため
焼き入れ後の膨張率が表面浸炭部分と内部で違い装甲内部に大きなひずみ力が残った
(出荷時から満身創痍で自爆寸前「陶器のように割れる」と表現されていた。)

戦略貴重元素ニッケルを3%〜4%含有させる決まりは、他の添加元素とのバランスを崩し
脆化を促進し装甲から粘りが失われた。

溶接によるの熱応力と水素の影響がとどめを刺し、溶接終了後に装甲の自爆が頻発した...
(内部のひずみ力に対抗できなくてかってに割れてしまう(1m近くの割れ))
などなど...
脆い材質でした...
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中国戦線ではドイツ製37mm砲に1000mの距離から撃たれても貫通された...
(中国軍はドイツ製の輸入品を多数使っていた...)
3.7cm KWK L/46.5、1000m90°=>28mm
(戦場で垂直に当てるのは無理なので垂直から30°傾斜したデーターを使うと)
1000m60°=>22mm
22mm÷25mm=88%、
しかし、九七式は曲面が多いのでもっと下の可能性が高い...
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この当時の砲撃戦は、命中率が低く何発も打ちながら砲弾を集めていくという射撃法 だったため遠距離でも静止しているものには命中しましたが動いている戦車に命中させのは 至難の技でした。
そのため、ピアノ線などに絡まって動けなくなった戦車は格好の標的でピアノ線が対戦車障害物 だと気がつかなかった初戦はこのパターンにはまって結構やられてしまいました。

日本戦車の損害は...
日本軍戦車総計73両、修復不能13両、
第3連隊=97式*1、乙戦車*5、
第4連隊=軽戦車4両、中戦車3両
帰還後修復11〜14両、現地修理17両、41〜44両(60%)が行動不能
追加、
ちょっと失敗しました、この資料は損害を低く見せるために使われてるようです。 実際には中戦車装備の第三連隊は全滅してます。最終日に予備や緊急修理した車両 をやっとそろえて反撃しています。戦車は貴重な兵器なので必死に回収した ようです。

戦果は...
戦車66両、装甲車20両、トラック20台、砲11門、対戦車砲6門、機関銃3門 捕獲、戦車4両、装甲車7両、トラック7台、砲7門、対戦車砲2門、機関銃数門
(この数字は多すぎるようなのでかなりの戦果が重複しているようです)

司令部はあまりの損害に驚いて戦車隊を撤退させてしまいましたが 数の劣勢と主力戦車の貫通力不足や初戦の無理な攻撃、新兵器?ピアノ線の損害などなど 不利な点は多かったのですが日本の戦車兵はけっこう善戦してると思います。 (装甲の薄い側面に回り込んだり、砲塔だけ丘の上に出して射撃したり(これは敵の真似)) この後、八月のジューコフの攻勢なのであまり誉められませんが...

ノモンハン追加資料...
日本戦車は弾薬の不足が酷く 弾薬を無駄使いしないように射程距離内のも目標にかぎって 射撃するように毎日注意をうけた。 (1日で搭載砲弾をすべて打ち尽くしてしまって 毎日補充が必要だった。) 燃料の不足も深刻で作戦行動も限定された。

工兵隊が懸けた架橋は訓練用の貧弱な物で戦車は渡れなかった。

ソ連機械化旅団は大隊ごとにBT25両、装甲車37両、 自動車化歩兵大隊はトラック100台と歩兵900名 偵察大隊は装甲車5台、水陸両用戦車18台 すべての部隊は支援の砲、対戦車砲を多数装備していた。

昭和17(1942年)年4月1式47mm砲制式化
初戦、昭和17年5月フィリピン侵攻作戦の最終段階、コレヒド−ル攻略戦。 実質的にはM2、M3系軽戦車に対抗するのが精一杯でした。
(これは試験的に作られた試作品本生産はかなり後...)
追加と訂正
ノモンハン後必死で軍需産業界は対戦車砲の開発に努めたらしいのですが どんな兵器でも開発から実戦投入、大量生産には3年かかります。
(たとえばT34はドイツ侵攻時にはすでに量産ラインに乗っていました) (アメリカの新型中戦車は開発期間を短縮するために現有のM2中戦車) (を流用し(不恰好なリー戦車もただ開発期間を短縮して75mm砲装備の戦車を 大量に戦場に送るためM4の生産が軌道に乗るまでのつなぎでした。)) (弟一次世界大戦後米軍が開発を始めた105mm野砲がちょうど弟二次世界大戦 に間に合ったなどと言う話もあります。)

時間的にBT7クラスに対抗する47mm砲を開発、装備するのが精一杯で他の大口径 対戦車砲の量産は間に合わなかったというのが正解みたいです。

砲は在ったと言う話をよく言い訳みたいに書いてある本がありますが...

機甲戦に対する認識不足から新しい砲塔を作って装備する時間も足りなかったようです
頭の硬い首脳部が気づいたときには手遅れでした...
(75mm砲装備の3式中戦車も60両程度しか作れなかった)

訂正
日本の戦車の後れは技術的な部分より人為的な部分が多かったようです

頭が硬いではなくて実際には戦が商売の軍人なのに「戦車を理解していなかった」 ということのようです(-_-;)...

歩兵課出身の高級将校達は...
戦車が単独で戦うことを嫌い対戦車能力の高い長砲身の砲を付けるのを妨害しました。
つまり戦闘能力より自分の派閥に(歩兵課)戦車隊を留めておくために妨害したその 結果、日本の戦車の性能を著しく下げました...
戦車開発者の話だと後で砲強化しなければならないのは解りきっていたので 大きな砲塔を載せることができるように車体上面を広く(砲塔リンクを拡大できるように) 設計しておいたそうです。
これが、イギリス戦車のようにお払い箱(クルセイダーやマチルダなど)にならずに 47mm砲(改、一式)、75mm砲(三式)の砲塔を付けられた理由ですが...
本格生産にはみんな遅すぎたようです。

ノモンハン4と重複
戦車マガジン1980年6月より
「1941年の関特演の時に戦車は古い89式から97式に入れかえられたが 47mm対戦車砲装備のものは一両もこなかった...」

「太平洋戦争が始まった時にあった47mm砲装備の戦車は実験用に制作された 二台だけで一両は千葉戦車学校、もう一両は満州の四平戦車学校にありました。」

結局フィリピンでスチアート軽戦車(M2A4?)にぜんぜんかなわず
(勝ち戦にもかかわらず戦車隊に相当な損害を出し...)
急遽47mm砲装備の戦車中隊を送ることが決まり
(つまり、新戦車試作から二年以上たつのに)
(開戦時に南方には一両の47mm砲戦車も無かった)
命令を受けてから2ヶ月かけて三菱重工で作られました

「それでも、工場の大変は努力で、2ヶ月位でできて、三月末であったが出征できた」
戦車マガ1980.6

各国で戦車の所有や用法を巡って、歩兵vs騎兵の争いはありましたが ドイツの電撃戦後には解消して主力戦車の開発生産に取り組んでいる。

1942年初めまで一両も量産ラインに乗らなかったのは異常...

57mm砲装備車は歩兵支援戦車で歩兵部隊の支配下ですが 47mm対戦車砲装備戦車は独立した存在になってしまい 歩兵部隊の指揮下を離れてしまうため 歩兵科将校に生産妨害されて作れなかった...
2000.5.3...

千葉下志津原、戦車兵操典普及教育
小林中佐
敵を知り味方を知れば百戦あやくからず。戦車対戦車の 戦闘は、彼我戦車の戦闘性能に最大の影響を受ける。
敵戦車はBTを我は97式を想定すると、敵は射程距離1500mで我を貫通 できるのに対し、我は彼の側面装甲を500mで貫通できるのみ。
そのときの命中率は3発につき一発、彼は1000m で我を良く二発に一発で命中するであろう。
BT戦車の戦場速度は97式の1.5倍。戦車の装備数から、常に敵の 1.5分の1以下で戦うことを常態とするであろう。
....この逆境でいかに勝利を獲得するか....

...要するに日本戦車は負けますよと、いうのに他ならないことは明白である。

戦車マガジン80年6月号「四式中戦車への長すぎた道」P64,65より
筆者は、これを機甲側のレジスタンスと説明...
戦車兵操典や戦車の構造要求などで中央の参謀本部や陸軍省 との論争に破れ不本意な決定を押し付けられていた...

ここのBT戦車はBT5ではなくて装甲の厚いBT7
89式より初速の早くなっている97式57mm砲の はずですが、戦車学校の説明では正面から貫通不能になっている
しかも、500mで(1/3)の命中率とはかなり低い BTの方は1000mで(50%)の命中率はボロの照準鏡と 言われている割にはかなり良い...

火器生産能力(月産数)
から見ると米国の一日の75mm戦車砲、生産量約100門
に対して日本の生産量は75mm戦車砲、月産二門(20年4月)
この時、47mm戦車砲55門、47mm対戦車砲60門、(月産)
量産に入るまでのタイムラグを考えれば39年7月から42年1月 までの停滞期間をもしぬければ同じ負けるにしてももっとましな 地上兵器で戦えた?...
2000.0507

資料2
1941年ドイツの電撃戦の成功の結果日本で戦車学校、騎兵学校などが統合され機甲本部 などがつくられました。そのとき各学校発行の月刊誌も統合され「機甲」と言う斬新な月刊誌 が誕生したのですが。その自由な発想、発言内容が陸軍大臣(彼は歩兵科出身でした。) の逆鱗に触れ発行から9ヶ月で休刊処分になっています。

57mm短砲身の戦車砲の性能は(徹甲弾と装甲と一部重複します。)

89式、97式両中戦車の主砲として採用されたこの砲の貫通力は 短砲身で初速が遅いため500mで17mm程度(もうちょっと悪い?BTの正面貫通不可弾丸砕ける?)でノモンハンでは装甲の薄いBT戦車を倒すのにも苦労しています。
89式に装備された57mm砲はL15、初速380m、最大射程5700m、
97式に装備された57mm砲はL18.5、初速420m、最大射程6000m
初期の南方戦線ではM3スチアート軽戦車の装甲が打ち抜けず
(スチアート軽戦車は正面32mm〜51mm、側面32mm〜26mm、後面32mm〜26mm)
後ろから至近距離で奇襲してもキャタピラを切るぐらいしか効果がありませんでした。
捕獲したM3スチアート戦車を57ミリ砲で試射実験をしたところ正面装甲は500m、300m
で撃っても塗料が剥がれただけで、側面装甲を至近距離300mからの射撃も砲弾の方が
砕け散っただけでした(-_-;)...
そこで、側面300mから小隊3台で榴弾を使って集中射撃したところやっと装甲に穴が空いた そうです。

ビルマ戦線スチアート戦車との戦闘例(待ち伏せして勝った?(-_-;)...)
唯一の撃破記録は熱帯のジャングルなので奇襲するとハッチが全部空いています。
そこを正確に榴弾で狙って仕留めたものだけだそうです(~_~メ)...
後はキャタピラを狙うかジャングルの中なら歩兵と共同で少しずつ(榴弾で脅しながら) 追いつめるしかなく
敵は慌てて逃げ出したので後ろから集中砲火を浴びせたのですがキャタピラが切れた だけで残りはみんな逃げてしまったそうです...
(注、フィリピンの情報を他の部隊に教えなかったため、初戦はフィリピンと同じような)
(悲劇が起こった...戦車マガ80/6P68)

日本の戦闘記事には活躍した物しか載っていないので判りにくいのですが 実際の戦場でM3軽戦車に遭遇した日本の中戦車は悲惨なめにあってます。

北アフリカではイギリス兵に(青銅)ブロンズ戦車と馬鹿にされたスチアートでしたが 東洋では無敵戦車になってしまいました(~_~メ)...ヒドイ

昔(10数年前ですが(~_~メ))日本軍の活躍とか書いてあってスチアート戦車3台が 無謀にも日本軍陣地に突撃してきて壕はまって動けないところを白兵戦で倒して大戦果 であるとか書いてあったのですがその当時はなんでこんなちゃちな軽戦車が壊れて大戦果 なんだろうとか思ってしまったのですが...
(当時のゲームでは戦車はキングタイガー、パンターが主力でシャーマンは殺られ役でした(-_-;)...)
東洋ではやっぱり大戦果なんですね(T_T)...

末期のビルマでは敵戦車(M3、M4中戦車)に出会うと殺られてしまうので 夜間だけ活動したそうです...

最後には...
フィリピンで97式戦車は特攻戦車に改造されてM4シャーマンに体当たり したりしています。

資料を調べながらの愚痴...(-_-;)...
しかし、日本の戦車の解説の書いてある本はこの三流戦車を持ち上げて この時代に開発された戦車を並べてそんなに遅れていないとか
(この対歩兵用の短砲を装備してるだけで絶対三流です。)
たいして良くも無い空冷ディーゼルエンジンをもちあげて世界にも先例のない 画期的だとか(騒音が大きくて邪魔なだけ)
戦闘例は僅かに活躍したものを持ってきて誇るなど
見ていて恥ずかしくなるようなものが多すぎる...
追加、
このエンジンは実際には不評で、ガソリンエンジンと比較することもできない くらい酷い騒音で排煙は発煙筒をつけて走っていると搭乗員に悪口を言われました。
それから、長時間の連続運転は冷却不足のためできなかったようです。

追加、
キャタピラの走行音がとくに酷く、マレーシア、フィリピンなどの舗装道路を 走行するとびっくりするような凄まじい合成音になったそうです。

騒音は...(空冷の欠点)
ジュラルミン製の冷却ファンのせいで作動音が大きくまるでサイレンを付けて
いるかのようで、数キロ先までもこの騒音が届いて、作戦に支障がでた...
戦車マガ80/10、P66、元戦車設計技師、大高繁雄
(注、日本軍の成功した夜襲を思い出して見るとノモンハンもマレー半島も
雷雨やスコールという騒音をかき消す自然現象の中行なわれてる...)

日本戦車の能力が低いのはこの空冷ディーゼルのせいで 容積当たりの出力がT34やM4の4分の1から5分の1しかなく 何をするにも貧弱すぎました。

近代戦車に必要な実用速度、時速40kmを維持したまま 至近距離からの対戦車砲射撃に耐えられる正面装甲板を 付けるには出力が常に足りなかった...

ディーゼルエンジンはかかりが悪く電熱線で余熱して始動させる方式だっだが
寒冷地では急場の役にたたず、始動時にたき火や炭火でエンジンを温めたが
トラックやバスのような生ぬるい方法では戦車は温まらず...
底板の鉄板が真っ赤になるまで一晩中加温していた。

ディーゼルは排気色が悪く遠方から敵に発見されやすい、色々な対策をたてたが
結局解決されなかった...

バッテリー式エンジン始動は(24V8個)前線では充電電源が無く充電器が貧弱だったため、
駐留すると始動困難な車両が続出した...

対空射撃
半身を乗り出して射撃するため、敵と刺し違えるつもりでなければ射撃できず...
1弾装20発は瞬時に空になるので、とても使えなかった...
戦車を遮蔽物の影に隠し、陣地を作って機銃だけ外して対空射撃に使用した...
終戦近くは自衛以外は恐ろしくて使えなかった...
(制空権を敵に取られていてワザワザ敵に居場所を教えて報復爆撃を招くのは愚作...)
例、
「大陸痛打作戦」では、制空権が無いので夜間だけ行軍して昼間は移動不可能だった
夜になると道路はあらゆる車両、荷駄、などで渋滞した..
敵も心得ていて、山道で照明弾を投下後、1キロ間隔でトラックを銃撃して火災を起こし
て動けなくし、その火を照明にして次々に攻撃するという手法を取った...
夜明けにはトラックと馬の死体が累々と転がって道路は墓場に変わった...
掛け声だけで全然勇ましく無かった...

リベット装甲について
日本の装甲接合方法はかなり脆弱なものだった。
15cmクラスの重砲の弾幕射撃を受けると...
爆風だけで破壊されてしまい動けなくなった。
(これでは、装甲の意味が無い?)


第二次世界大戦は戦車の技術革新が急速に進みました。ポ−ランド戦のドイツ軍の 主力は2センチ砲装備の2号戦車でした。それが、5年後のアルデンヌでは8.8センチ砲 装備装甲15センチ、70トンの巨大6号戦車が投入されている。
対戦車砲と装甲の絶間ないシ−ソ−ゲ−ム、フランスの37mm砲L21とドイツ戦車の 30mm装甲の関係、T34の出現とドイツ軍の長砲身化、ティ−ゲル、パンタ−に 対する米英のAPDS弾開発や砲強化。
各国は絶間ない技術開発競争をしていました(特にアメリカでは国中大学や研究所 の科学者や教授を総動員して原爆やその他の兵器の開発に当たりました。)しかし、 日本 では赤紙で大事な研究員を引き抜かれ開発はストップしてしまいました。
戦後のアメリカの調査では「日本 に科学技術は在ったが軍部はそれを使うことが できなかった」と報告書に書かれています。

「注、とりあえず掲載、実際は弾頭が脆いのでほとんど貫通力と呼べるものは無い。」
5.7cm砲L18.4(垂直装甲板に対する貫通力)
射程距離  25 100 250  500 750 1000 1250 1500
AP−HE 22  21  20  17   13  12   10
(AP-HEco  23  22  20  17   13  12   11)

九二式徹甲弾(AP-HE)、2.58kg、400~420m/s、
榴弾(HE)2.36kg 355m/s、250g、最大射程6000m

100m で25mm

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