T34/85VSM26パーシング



第二次世界大戦中の戦車がメインでしたがT34、M26、などの主砲
データーが最近の雑誌などと合わなくなっているので
原因究明のために朝鮮戦争の調査を始めました。
(WW2タイプの米軍戦車とソ連戦車が本気で撃ち合ってます。)
だいぶ文章が溜まってきて勿体無いので少しUPしときます。

双方の基本データーは...
M26パーシング重戦車
装甲数値計算2D

「T34/85」
装甲数値計算2D
装甲数値計算3D

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朝鮮戦争史より
1.一騎打ち
このとき起こった戦車戦は、戦車の機動が容易な戦場では起こり
にくいと思われるが、朝鮮のような山国では、そう珍しくもない戦闘で
あった。
この日、朝霧にまぎれて北朝鮮のT34戦車一両が、本道上で警戒
していたドルーリィ軍曹のM26パーシング戦車を襲った。軍曹は
50mで初弾を、20mで第2弾を発射し、いずれも砲塔付近に命中
させたが、T34はびくともせずに突進し、主砲を連射しながら猛然と
体当たりを加えてきた。さいわいパーシング戦車はバックしようとし
た時であったので大した衝撃ではなかったが、両者はお互いに主砲
では撃てないようにくっついてしまった。そこでパーシングがT34の
後ろに回ろうとし、T34がそうさせまいとバックしているうちに、主砲
が撃てるように両者の距離があいた。そこでパーシングが第3弾を
発射すると、弾丸はT34の85mm主砲の中に飛び込んで炸裂した。
砲身は裂け、続いて火災が起こったがT34は再び猛然と体当たりを
かけてきた。パーシングはひっくり返りそうになったが、少しさがって
第4弾を発射した。これでこの一騎打ちに勝負がついた。この間、
パーシングは砲塔付近に数弾を受けたが、その鋼板は85mm砲の
全弾をはね返していたのである。
このような接戦が何度か起こり、この一日だけで撃破された北朝鮮
側のT34は8両に達したが、パーシングの被害はほとんど無かった
という。戦車の性能の優劣が、戦闘の決定的な勝敗となって現れた
一例である。

ここで今まで使っていた貫通力表と決定的に違ってきました。
(-_-;)...

訂正
これは、砲塔の曲面を考えなかったため...
こんなに緊迫した状況下で冷静に砲塔面(丸い曲面装甲を多用した)に
垂直に砲弾を当てるのは至難の技(20%程度しか有効な面積が無い)

通常30度から45度程度は曲がった部分に着弾するため
2割〜6割増しの装甲値として計算されてしまう。

P152
2.対戦車戦
大鳳里稜線北端の102高地を奪取した海兵隊B中隊は、逆襲に
備えて陣地を構築していたが、夕方近く、夕映えに映える4両のT34
に先導された数百名の北鮮軍が、目の下の自動車道を北進して
来るのを見た。大隊長は直ちにM26パーシング中戦車3両と3.5
インチバズーカ2門、75mm無反動砲1門を推進して要撃態勢を
整えるとともに、空軍に通知した。
まず、P51ムスタング3機が攻撃をかけたが、効果はないようで
あった。T34は爆音を轟かせ、砂ぼこりを立てながら前進したので、
102高地上にいたB中隊の隊員はもちろん、峠の手前で待ち構えて
いた対戦車班もその土ぼこりを確認することができた。
先頭戦車が峠の曲がり角から姿を見せたので、バズーカ班が
まず90mで射撃した。弾丸はたしかにキャタピラに命中した
ようであったが、T34は機銃を掃射し、85mm主砲を盲撃ちに
撃ちながら前進を続けていた。2発目のバズーカ弾が命中したとき
、同時に75mm無反動砲の弾丸も車体に命中した。戦車の胴体
に穴があき、ガクンと停まったが、いぜんとして射撃を続けていた。
そこで一番手前にいたパーシングが射程100mで90mm主砲の
直撃弾を浴びせると、今度はバッと火を吹き、射撃をやめた。
つづいて2両目のT34が出てきたが、これは3.5インチバズーカ
が一発で仕止めた。そして3両目のT34が峠の曲がりはなを出た
とたん、そこを狙いすましていた2番目のパーシングが一発でこれを
破壊した。四両目はP51が峠の南側で破壊し、随伴歩兵も壊乱させ
た。...

3.隠蔽戦術(T34)

M26の100mmの前面装甲を撃ち貫くことが不可能と判明したため
(曲面や傾斜装甲が多用されていて150mmぐらいに相当するため)

北朝鮮軍はT34を陣地側面の隠蔽陣地に隠してM26の側面を狙った。
隠蔽陣地の場所が判明するまでに多数のM26が犠牲になった。

データー1
戦車損傷の原因
米軍は、朝鮮のような山ばかりの戦場でも、なお戦車が地上戦力の
中核であり、補給や後方警備にも欠くことのできないものであること
を認めてその役割を再確認したが、10月になって戦線が平城以北に
移ったとき、特別調査団を編成して、戦場に遺棄されていた彼我両軍の
戦車の損傷原因を調査した。その結果は次のとおりである。
戦争初期の3ヶ月間(1950,6月25日〜9月30日)
T34(破壊または遺棄総数、239両)
(1)
航空機で破壊したもの・・・・・・102両(43%)うち60両(25%)は
ナパームによる。ただし、バズーカで動けなくなったものを再攻撃
したと思われるものが多い。
110ガロン入りナパーム弾、燃焼時間20秒、燃焼面積
45平方メートル
(効果、ゴム製転輪溶解、搭載弾薬誘爆、燃料引火、機関火災)
(2)戦車砲によるもの・・・・・・・・・・39両(16%)
(3)ロケットランチャーによるもの・・・13両(5%)
(4)無傷で遺棄されたもの・・・・・・・57両(25%)
(油の欠乏と士気の喪失?)
(5)その他(肉薄攻撃・砲兵射撃などによる)・・・26両(11%)
(操縦の誤りによる転覆・故障などを含む)
(6)米軍の地雷によるもの・・・・・・・なし
米軍戦車の喪失は...
喪失総数136両のうち、70%は地雷による。
第二次世界大戦の全戦域での地雷による損傷は20%であったが、
朝鮮では、地形の関係で戦車の進路が道路に限定されたことや、
追撃にあたり今までのうっぷんを晴らすために、反発的に突進した
こと、歩兵・戦車・工兵の協同があまり良くなかったこと、および
北朝鮮が先天的に土工素質を持っており地雷の敷設が上手で
あったことなどによるものと思われる。

この調査表は航空機の対戦車能力を浮き彫りにしている
しかし、この結果は絶対的な制空権下で、戦車が道路だけしか
通れない戦場で起こった結果である...

(韓国の地形は切り立った60度以上の急勾配の山地で戦車は上れず)
(道路も少なかった)

データー2
朝鮮戦争
300万〜400万と推定される非難民がなだれをうって南下し、
北朝ゲリラが四周で跳梁する中で戦われていた。
北朝ゲリラは、国連軍の一挙手一投足を偵諜し、あるいはテロ、
放火、破壊、襲撃を行った...その結果つんぼでめくらの状態に
追い込まれて苦戦した...
戦場では、前方からはもちろん後ろからも横からも弾丸が飛んで
きた。第二次大戦では米軍はいたるところで歓迎されたが、朝鮮
戦争では助けに来た韓国民の中にゲリラやスパイが潜んでいて、
あらぬところから襲撃された...
ここに朝鮮戦争の特異点(作戦環境)があった。
ある米軍の高級将校は「朝鮮戦争は種類の違った戦争だ」と
評した...
開戦時の対戦車能力
北朝鮮の進撃をゆるした最大の原因は
韓国ならびに駐留米軍に対戦車能力が皆無だった
ことがあげられる...
戦車は山地の多い朝鮮の地形では役に立たないと言われて
配備されて無く(M24軽戦車が数両偵察用に配備されて)
(いましたがT34相手ではまったく無力でした。)
対戦車バズーカも第二次大戦中の物だったため
火薬が劣化していてT34には効かず
砲兵隊も対戦車用の砲弾を持っていませんでした。
(日本に駐留している米軍にも数発しか無く)
T34を止めることはできませんでした。
沖縄、日本、ハワイ、西海岸などから
運べる戦車をねこそぎ運んできて朝鮮戦線に投入しました
増援部隊(戦車装備)の到着状況
7月31日、ハワイ(7月23日)より
第8072戦車大隊A中隊、第5連隊戦闘団
M26パーシング戦車14両を持つ3個大隊の完全編成戦闘団
兵員には、日本人2世が多い。
8月3日、横浜
第8072戦車大隊主力
在日兵器しょうにあったM4A1シャーマン戦車(75mm砲)を
A3用(76.2mm砲)に改装したもの...
8月7日、サンフランシスコ
第6戦車大隊、(M46)
歩兵学校教導大隊(M4、M26)
第73戦車大隊(M26)
8月16日
第72戦車大隊(M26)

やっと戦車(T34に対抗できる戦車)が輸送されてきたのですが
この戦争はいままでの(WW2)物と全然ちがっていました。

データー3
補給路の維持
本作戦間、第24連隊は北鮮軍の集結地とみられた西北山を
掃討したが、連隊は西北山頂を奪取できなかったばかりか
一歩も山の内懐に入れなかった。北鮮軍は、西北山を根拠とし、
主山山塊を前進拠点として、キーン支隊の後方を反復攻撃した
のである。馬山−(金+真)東里−威安−馬山の環状路はその
攻撃の主目標となり、地雷が埋設され、橋梁が狙われ、この道路
を通る縦隊は必ずといってよいほど射撃を受けた。
そこで、補給車両は、前後を戦車隊で護り、歩兵の警乗をつけて
いないと危うくて動けなかった。また、(日+日)原−馬山地区に
配備した補給期間は絶えず戦車を付けて警護しなければならな
かった。また連絡車も戦車なければ危なくて使えなかった。そこで
、本作戦に参加した戦車数は、中戦車だけでも約100両に及んだ
が、その大部分は後方要務に使われて、第1線に立った戦車の数
は、その一部にすぎなかった。この戦場では、戦車は推力の核心
ではなく、後方警備の主体であった。ここでは、「ゲリラ戦法が、
近代陸上兵器の表象の一つである戦車を無力化した」という
見方も成り立つ特異な様相を呈した...

データー4
9月には北鮮軍の戦力は開戦当時の将兵は1/3に減り
韓国内で強制徴募した新兵ばかりになってしまいました。
(戦闘技術は白紙に近く、なんで自分が戦うのか分からなかった)
補給線が伸び空軍の阻止作戦で
補給量は減少し、現地物資は徴発し尽くし...
炎暑と夜間行動の強制で兵士のほとんどは栄養失調か極度の
心身疲労に...
士気は、そうとう低下していた。
(前進忌避、逃亡、投降をくわだてる者は発見次第射殺された。)

陸戦史集4(朝鮮戦争2)
陸戦史研究普及会
より

データー5(WW2との違い...)
北鮮軍の占領地行政
北鮮軍が占領地で行った行政には二つの特徴があった。
その一つは、占領地の人的物的動員=戦力化が非常に早かった
こと...
占領軍の軍政が過酷であったにもかかわらず、これに反発する
大衆行動もゲリラも発生しなかったということである。
行政組織、
戦力化が早かったということは行政組織の設置とその機能の
発揮が早かったということであるが、北鮮側のうった手は次の
ようなものでした。
1.あらかじめ南鮮出身の党員で占領地の軍政要員を育成し、かつ
組織していた。(ソウル特別市長李承(火+華)は南鮮出身の前
北鮮司法相でした。)これらの機関は軍にこんずいして現地に進出
し、すみやかに地方の行政機構を掌握した。7月10日上陸作戦的
に東海岸に上陸した”2000〜3000名の住民の大集団”は、これらの
組織やゲリラの一例である。
2.洞や里の委員の大部分には現地に潜伏していた共産党員や
容共分子利用することができたので、それだけ末端への施策の
浸透が早かった。
3.あらかじめ準備していた治安部隊を設置して、軍政の後ろだて
とした。
(治安部隊は約24000人で12個連隊48個大隊に編成されていた
基幹要員には北鮮人を充当し、他は現地の党員・ゲリラ・シンパ・
労組員を集めたものである。装備は、小銃のほかに竹槍、棍棒、
刀、槍などでした...第1線に近い部隊には軽機関銃なども
装備され戦闘にも刈り出された...)
4.通常の司法警察の上に、共産党独特の検察組織を設置した。
この検察網の端末は、各部落や職場単位に配置され、密告制度
や住民組織(隣組のようなもの)の確立に伴って、住民の監視と
反対分子の摘発にあたった...
この検察網も党員やシンパを利用したもので、地方行政の実権を
握るのに著しい効果があった。
検察組織の種類
監察部、警察署から送検されてくる者を監察し、重要犯人は予審部
に回す仕事をするいわば即決裁判所のようなもの。
予審部、重犯人を検察する...
政治保安部、政治と軍事犯を取り扱う...
党秘密警察、KGBやゲシュタポのような党直属の最高検察組織
(密告制度は、密告を奨励し、報奨する制度。北鮮軍は愛国少年
団を組織して有能な民主々義青年団員で教育させたが、この教育
はまず「家庭での父母の行動を密告する」ことから始められ、父母
を密告したものは、”少年英雄””義烈少女”として大々的に褒賞さ
れた。また友人を密告して褒賞されることは普通のことであった。)
5.以上のような組織で下ごしらえをした上で7月中旬〜8月に
洞、里委員会を初め、村・( )委員会→群・市委員会→道・ソウル
特別市委員会を選出させて行政の体裁を整えた。

こうして韓国の被占領地域には、アッという間に共産党体制が確立
され、韓国民の上に総動員の嵐が吹きまくった...

徴兵
7月中旬から
第1時募集、志願制、年齢16才から25才まで、少数精鋭主義
7月末、兵員の損害が累増...
第2時募集、独特の満場一致決議、年齢30才まで
群集決起大会名目で参集し、その場で請願書に署名
第3時募集、年齢35才まで
部落や職場・学校単位に義軍応募者送迎会などの名目で会合を
開き、強制的に志願させた。
第4時募集、年齢40才まで
「もう募集は終わった」と宣伝し...
不意に街頭に募集班を配置して、40才までの男子を
連行した...
第5時募集”青年狩り”
やがて昼間に出歩くものがいなくなると家宅捜索を主体にした
強制連行に...

徴募されたものは、兵士や労役人夫として使われた
総数は47万人、兵士として第1線送り込まれたものは
6万〜12万と推定される...

労役人夫...
兵士として前線に送り込まれなくても労役人夫は米軍の補給阻止
爆撃をもろに受ける危険な仕事でした。

米軍の銃弾を受けて死ぬのも爆撃を受けて死ぬのも
強制徴集された被占領地域韓国住民という酷い状況になりました。

物の動員
人が動員されたのと同様に物も動員し尽くされた。
北鮮の行なった最初の経済政策は食料の統制=供出・配給制の
確立で、食料はすべて政府の統制下におかれ、配給登録簿が作
供出された米殻は、党の管理下におかれ、第1線や党員・官吏な
ど にだけ配給され、末端までの配給はついに一度もなかった...
配給登録簿は動員や粛清のためにより多く利用された...


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