八九式中戦車甲(乙)


試作型=八九式試作一号軽戦車(9.8t)
甲=生産型(11.8t) 乙=昭和九年の設計変更(12.7t)

機動力及び装甲厚
乗員 4名
全長 5.75m
全幅 2.18m
全高 2.56m
最低地上高 0.5m
接地長 2.8m
キャタピラ幅 32cm
接地圧 0.709(0.725)kg/cm2
全備重量 12.7t (13t) 自重 11.8t(12.1t)
機関  甲、水冷直列 6気筒ガソリン
、   乙、空冷直列 6気筒ディーゼル
出力  120HP
回転数 1800rpm
変速器 前進、後進
出力重量比 9.31(9.10)PS/t
馬力荷重 104.33(106.80)kg/ps
燃料容量 甲220リットル 乙170リットル
潤滑油  

最大速度路上 25km
路外 km
最大航続距離
路上  甲140km 乙170km
未整地
登坂能力 34°短斜面(45°)
超濠能力 2.5m.尾橇無しの時(2.25m?)上海戦後尾橇を付けた。
(甲型は、2m 尾橇無し)(☆4)
渡渉水深 1.0m
回転半径 信地、6.5m
燃費   乙1km/リットル 甲0.64km/リットル
運行時間 h

武装 90式57mm戦車砲
。     初期型の一部に37mm狙撃砲装備あり  
軽機×2(九一式)
弾薬数 57 mm砲用 100(発)
機銃用、2745発
戦車砲の貫通力、初速380m/秒、最大射程6000m
射程距離 100m 250 500 1000
AP‐HE 10mm?
(ほとんど貫通力らしきものは無い。設計持のデーターは装甲が一時代古いものなので、数値をそのまま使えない。)

装甲(mm)初期生産?…文章中より(この引用多い)
、 前面 側面 後面
砲塔 15 15 15
車体 17 15/12+2 15
車体上面10/12mm 砲塔上面10mm 床面5mm

日本の戦車甲乙とも同じ
、 前面 側面 後面
砲塔 17 17 17
車体 17/12 15/12 15/12
車体上面10/12mm 砲塔上面10mm

製造会社
生産期間 甲(ガソリンエンジン)、1931〜1934
、乙(ディーゼルエンジン)1935〜
乙型の車体とディーゼルエンジンの認定時期がずれているため乙型の車体にガソリンエンジンを付けた生産車も混在した。
乙型の車体は昭和9年(1934)から確認される。エンジンの制式採用は昭和11年(1936)
1933年まで合計99台
1934年は一年で121台


1939年まで生産された。

生産台数 444両

解説
国産初の主力戦車
1928年設計開始、1929年4月大阪工廠で試作車完成
試作車の段階から工作技術や大型工作機械の不足に悩み正式採用されて生産開始しても年間の戦車生産台数が10両ていどにしかならず。機械化はなかなか進みませんでした。「初期は、戦車用の装甲を作る専用施設が日本に無く、室蘭から北九州に運んで伸ばして鋼鈑にして、室蘭に戻して熱処理など加工、大阪に納品して組み立て...というようなことをやっていた。」
(戦車の装甲サイズの高張力鋼の圧延は北九州の東海製鋼でしかできなかった)
(ニセコ鋼の生産は海軍の軍艦や砲を生産していた室蘭工場で作られることに決まった)

甲ガソリン車、乙ディーゼル差は車体形状もかなり違います。

甲型は、南方で使うことを想定して設計された。そのため耐熱と通風を良くするのを第一に作られた。実際には中国や満州で使われ極寒の気候にさらされてしまった。乗員は隙間風で地獄を見..。冷却機構は簡単に凍結した。(☆2)

つまり、乙ディーゼルが良かったわけではなくて..
熱帯仕様の甲型ガソリンエンジン型を使って地獄を見た後なので改善された乙ディーゼルの評価が相対的に良くなった。


日本の国産戦車がディーゼルエンジンになったわけは、1927年に輸入されたイギリスのビッカース戦車が試験中に火災事故を 起こして燃えました。(操縦していたビッカースの派遣社員は大火傷を負いました。)そのため戦車のエンジンは燃えにくいディーゼルエンジンに限るということになり研究が始まりました。
(一般的にはこうしか書いてないのですがこれでは説明不足です...)

利点、航続距離をガソリンエンジンより伸ばせる。
耐弾性?(燃えにくい?)
(注、これは、日本はエンジン技術そのものが無く...常に気化ガソリンがエンジンルームにこもり危険だったため。始動は、二人がかりで...ウチワであおいで気化ガソリンを散らしながら、もう一人は消火器を構えて警戒しながら始動させないとバックファイヤーで火災が発生する危険があった...)

(ドイツも似たようなものでタイガー1などは一時間も連続走行すると爆発する危険があった。米国のエンジンは完璧でそんな欠陥は無かった。気化温度が高いディーゼルはこういう危険が少なかったため歓迎された。)
(しかし、長時間走行などでエンジンルームの温度が上がってくると、この利点は消えてしまい、ガソリン車と同じように火が付いた)

注、ディーゼルの難燃性を過信しないこと..。
ディーゼルオイルは50度を越えれば気化ガスになり難燃性は失われてしまう。火災は火薬(砲弾や機関銃の薬莢)や可燃物の塊である戦車では簡単に発生する。パッキングがボロでガソリンの気化ガスが発生する当時のエンジン技術では明らかに差が出るが信頼性が高い国ではそのような差は無かった。


欠点、
始動が難しい(ガソリン車の様にすぐに走りだせない。)
極寒の満州では戦車のエンジンを徹夜で暖めるなければならなかった。オイルの消費。排煙、騒音、などが酷かった。

ガソリンエンジンに対して空冷ディーゼルエンジンは巨大で居住性、装甲、重量増加で走行性能の悪化などなどすべてにわたって圧迫した。実戦をくぐった後の改修が必要だと言う声も余裕の無い設計から僅かな改善しかできなかった。

追加...
「世界的に、空冷ガソリンエンジンの全盛期が1930年、絶頂期が45年ごろだった。

この流れで空冷ディーゼルエンジンが作られた...

当時は、水冷エンジンは冷却水の配管やつなぎ部分やパッキングから液漏れが起こりやすく簡単にオーバーヒ−トして止まってしまった...
つまり、技術が乏しかったため...空冷エンジンを作った。」

欠点。
シリンダーの温度が高いため体積効率が悪く出力が低くなる出力:体積比が小さくなる。
(エンジンが大きくなってしまい、体積が増えるということは余分な装甲が必要になり重くなる、車体が大きくなり、発見される率や被弾率が上がってしまう。)

空冷は不均一な冷却になりやすく、加熱すると各部が変形してしまう危険が高い。

名称について
旧軍兵器の数字はその当時使われだした。(大正時代に正式化された兵器は大正の年号を使用するためこの皇紀の年号が使われた期間は非常に短い間でしかない。)皇紀の下二桁を取って正式採用された時に付けた。呼び方は「はちきゅう式」と読み「じゅう」を使ってはいけない。
式ではなく年式と後ろに続く場合は「じゅういちねんしき」というように「じゅう」を入れる(☆1)

日本戦車に付けられるカタカナの略称は九七式戦車に初めて付けられさかのぼって昔の戦車にも付けたため八九式戦車は略称で「チロ」で呼ばれることは無かった。(☆3)

最初は軽量な10t戦車として設計されたため、「八九式軽戦車」と呼ばれた。車体の改良後は、11.5tになってしまったため「八九式中戦車」に変わった。 八九式軽戦車
重量 9.8t
全長 4.3m 全幅 2.15m 全高 2.2m
超壕   2m 地上高 0.35m
最大速度 26km/h 航続距離 120km
エンジン ダイムラー100馬力 水冷6気筒

1929年に台湾に運ばれ運行試験および戦車兵に及ぼす暑熱の影響を多くの計測器を用いて測定した。
1929年10月、東京〜青森間の長距離運航耐久試験、当時の国道は10tの重量に耐えられない軟弱な橋が多く鉄道輸送に切り替えなければ通貨不可能な事態に多数遭遇した...


外見だけ見て、甲=ガソリン、乙=ディーゼルと決められない。車体の変更のほうがディーゼルより数年早いため外見が乙型でもガソリンエンジン車が多数交じっている。そして、甲型の車体でもディーゼルに改修されたものも存在する..。
初期の乙型車体はガソリンディーゼル兼用の車体。甲型同様に車体上部右側にも換気用のスリットがある。
1937年から始まった日中戦争の写真はほとんど初期型乙車体で後期型は内地で数枚確認されただけ...
完全なディーゼル専用車体の写真は1939年のノモンハンで確認される。
(この時期八九式はもう旧式化していて後期型はほとんど出番が無かったと考えられる。)




車長展望塔(トルコ帽型)蝶番で止められているだけで対弾性がほとんど無かった。砲弾でも当たってしまうと頭ごと吹っ飛びそうなしろものだった。(甲型)

懸架装置は頻繁に給油が必要な場所だった...グリースを注入する口が110箇所もありそのほとんどがネジ止めになっていて整備が(地獄)大変だった。

キャタピラはやはり外れ易かった
外れかかった状態で発見できれば簡単に直せた
外れ易く直し易い?(ガイド不良なだけかも(^^)...)
不整地、凹地などで外れた時には復旧に半日かかったそうです...

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57mm砲の貫通力1,000mで21mmとか500mで17mmとか100mで10mmとかやたら変な数値が多い。

千葉下志津原、戦車兵操典普及教育
小林中佐
敵戦車はBTを我は97式を想定すると、敵は射程距離1500mで我を貫通 できるのに対し、我は彼の側面装甲を500mで貫通できるのみ。

初速の多少上がってる97式中戦車でもこれだから、「こんなもの戦車じゃない」と陰口を叩かれるような砲だったのは間違いない...
BT前面15mm〜20mm
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航空情報229号より(海軍情報、1939年末ごろ)

「陸軍工場整備は故障続きで駄目だと」戦車部隊の隊長が自分の配下の30台の戦車の整備を海軍航空隊に頼みにきたときの話...

クランクケースの中は潤滑油と砂でしるこ状態、シリンダーの中や噴射ポンプまで黄砂にやられエアクリーナー(自動車部品のまま)もオイルクリーナー(金網が張ってあるだけ)も常識外れで全然役に立っていない...

驚いて、エアクリーナーの直径を大きくして、金網は航空機用の金属板重ね方式に変更たものを作って交換したら...

数ヶ月後に無故障で作戦を終わることができたと感謝された...

しかし、この海軍方式が陸軍戦車全体に継承された様子は無く 他の部隊では、戦車の故障が多いという事態が続いた...
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十一年式軽機関銃、九一式車載機関銃

点射
3発〜5発撃っては止める
日本戦車兵の必修技能
日本の戦車は、戦争映画に出てくる、機関銃を乱射しながら進む カッコイイ、ドイツ戦車のようには撃てなかった。
第一...
弾も無く、常に故障が続発した...

1937年の戦車中隊長の日誌には、愚痴が延々と書かれていて、「やれ値段が高いだの(納得いかん、九一式は十一式の2倍) 弾倉になったが歪みやすくかえって故障が増えただの戦車に積んである弾が3000発では少なすぎる
(一銃で20分も撃ち続ければ無くなる(実用発射速度毎分150発))訓練に使える弾は120発しかない!(これは、年間120発、三日に一発ということ)これでどうやって訓練をするんだ...」
などなど延々と愚痴っている。

送弾不良
蹴出不良
突っ込み
クリップ投下不良

故障
不可思議な装弾機構と機械部品加工精度不足

機関銃の部品精度は熟練工員の技量に頼っていました。
戦争末期にはその熟練工員を二等兵として徴集してしまったため 重機関銃さえ精度が落ちて故障が頻発するようになってしまいました。

十一年式軽機関銃 九一式車載機関銃
「マシンガンとしては三流以下のボロ鉄砲」戦車マガジン78年9月号P89

半消耗品の弾倉は不経済だから使わずに済まそうというシミッタレた計画で...
三八式歩兵銃の弾丸をクリップ付きのまま、開放式固定弾倉に重ねて押し込み(5発のクリップ、6段重ね)クリップから一発ずつ外して装填しながらクリップを次の装填のためずらし5発撃ったら、クリップを排出する...
こんな複雑な怪奇な動作機構を手荒く使う戦場のことを考えずに採用したため(おまけに機関銃を作るのに必要な部品精度も無かった1/100ミリ)故障が続出してしまった。

「三八式歩兵銃の弾丸クリップ」は機関銃に使うことを想定していなかったから輸送や戦場で歪み易く、歪んだクリップは詰まってたちまち故障の原因になった。

九一式車載機関銃からほこり避けに弾倉を使うように改良されたが弾倉の工作不良や、やわな作りのために前より装弾不良が増えた...

(注、機関銃部隊では、中国軍のチェコ製機関銃を捕獲すると、日本製はしまいこんで)
(こちらをみんな使った...)

現代では戦場の手荒い使用に耐えるというのが
(銃口から砂を流しこんだり土に埋めたりしても分解清掃もせずに、簡単に埃をはらう程度で撃てる拳銃とか...)
武器の第一条件になっている。




満州事変、上海事変

ノモンハンより

損害率問題...
ディーゼルエンジンのおかげで損害率が下がったというのは間違い...
まず火炎瓶攻撃で燃えたソ連戦車と砲撃で穴だらけにされた日本戦車は同じ比べかたをしてはいけない...

同じような状態は、中東戦争のセンチュリオンとT55の戦いでも起っていてソ連の砲弾はAPFSDSで貫通力が有りすぎて砲塔の前面装甲板を貫通した後面装甲板も貫通して抜けていってしまってかえって損害が減った...
戦車の中で跳ね回って乗員や弾薬に当たって、損害を増やすエネルギー弾に威力が在りすぎて二枚の装甲を貫通して何処かへいってしまった(-_-;)...

もう少し威力の劣る2ポンド砲(AP弾)と装甲厚25mmの97式中戦車の場合は3発も当たると炎上して廃車になった...

つまり装甲が薄すぎてかえって損害が減ったためというのが正解...



ソ連の45mm砲に対抗するには最低50mm装甲(垂直換算)がなければ役にたたなかった...

この戦い参加した両軍とも装甲が薄く防御力が無かった...
ドイツ軍戦車は30mmの装甲厚でポーランド、フランス戦を始めたが失敗に気づき30m+30mの前面装甲板にすぐ強化している...

ソ連はT34系を製作したが日本は25mmのままだった...
(BT系列はドイツ軍のチェコ製37mm砲装備の軽戦車に簡単に葬られている)

97式、ノモンハン
徹甲弾...
このとき補給失敗から57mm徹甲弾は無かった?

(ソ連から見ると僅かな数の戦車ですが、日本にとっては、数十台あれば大軍で...)
(補給関係が混乱してしまい、57mm砲の徹甲弾の補給に失敗したようです...)

ソ連戦車の薄い前面装甲が全然貫けないのは変...
(九五式軽戦車の37mm砲も炸薬が減らしてあり貫通力がまるで無かった。)
(両者とも大して変わらない...)

訂正、司馬先生の防衛大学での講演にあるように...
「敵戦車の装甲を貫けずに炭団のようにはじけた。」で正解です、当時は貫通後の爆発力を重視して砲弾を作ったため弾頭は薄く規格ギリギリに作ってあり、ちょっとでも規格より厚い装甲になると強度不足で貫通せずに砕けてしまいました。
57mm(短)、94式37mm砲、57mm試作砲(長)、の砲弾がこのタイプで

ノモンハンの教訓後に作った47mm砲(長)と57mm試作砲(長)の競争試験が砲弾の違いからほとんど同じ貫通力になり
(重い57mm試作砲(長)はこの駄目な弾のおかげで制作中止になった)
(歩兵が徒歩で運べない重い規格の砲の製造を阻止しようとした??)

しかし、帝国の主力戦車がこの「ていたらく」ではまずいため、さまざまな珍説が出現した...
モンゴル平原での距離誤認説(広い平原で距離感覚が狂って遠い敵を近いと誤認した)
徹甲弾が無かった説、堂々と貫通力を増強した表を載せた記事など...
(そのため、戦車雑誌を創刊号からほとんど全部集めるぐらいやらないと)
(この結論にたどり着けないらしい...)

戦車資料の追加...
その1、「89式戦車」溜まったら本文を書き直す予定。

資料出典場所...

89式戦車の初出撃は昭和7年2月の上海事変にルノーNCに混じって3両出撃が初。 当時日本には戦車部隊が2部隊しかなく(久留米第一戦車隊、歩兵学校教導戦車隊)昭和六年の第一戦車隊の89式の車両数がたったの2台だったから3両は全力出撃...

(☆1)
戦車マガジン78年1月号「戦車アラカルト」P94
「八九とはそのころから日本で強引に使いはじめた神武天皇以来の架空のこよみで昭和4年(西暦1929年)、すなわち皇紀2589年制定の下二桁をとったもの・・・」

要約..。
(八九式戦車の呼び名、「はちきゅう式」が正しい。「はちじゅうきゅう式」は間違い。)
(十一年式軽機関銃のように「式」ではなく「年」が入っている場合は「じゅういちねん式」と呼ぶ。)


(☆2)戦車マガジン78年2月号「戦車アラカルト」
八九式戦車はそもそも南方で使う方針で設計された。そのため、防熱、通風に重点をおいて作られ寒地対策は全然考えられていなかった。
P92
・・・それがこともあろうに、中国や極寒の満州で使われたのだからたまらない。人はこごえるは、冷却水は凍るわ、乗員の苦労は言語に絶したそうである。

昭和九年(1934)にディーゼル型用の車体に変更、デーゼル自体の搭載はディーゼルエンジンの正式採用が昭和11年(1936)なのでガソリンエンジンのままだと思われる。

(☆3)
八九式戦車=>チロ車、略称は九七式戦車の設計時に生まれさかのぼって89式戦車にもつけられたが
P93・・誰も八九式戦車をその名で呼ぶ人はいない・・・


(☆4)八九式戦車の尾ソリ

・・・尾体を付ければその長さの半分の溝は渡れるはずと欲張ってとうとうつけてしまった。技術者は狂信、迷信、醜態、と今でも怒っているが私もそう思う。

(戦車は全長の45%の幅の壕なら超えられる。初期生産型の八九式は超壕2mで48%と優秀な成績だった。乙型は超壕2.5mで45%に低下した。尾体を取ると45%で計算して超壕2.25m僅か25cmの差、尾体がとれて軽い分もっと数値は良くなるはず。)
(甲型と同じ48%で計算すると2.40mになり、尾体付きの2.50mとの差は10cm!!!)
P95
・・・わずか25cmの長さをかぜぐためにあんなに重いものを年中つけているのだから全く無駄だったと思う・・・

有効利用された僅かな例?
当時の記事、「石橋に地雷を仕掛けられたが奇跡的に尾体のおかげで助かった。日本の戦車には神様が付いている。」 実際は重量で石橋が崩壊しただけ、一ヵ月後同じ隊の西住中尉が石橋を崩してひっくり返しに落ちた。尾体様は今度は助けてくれなかった。

P95
実戦部隊にあっては、25cmのためにあそばせてはおかなかった。彼らの目には格好の物置台として映った・・・
相当な重量物にもびくともしない頑丈ささので、生活用品からなにから一切合切山のように積み込んでいる。
 戦車第七連隊の整備班長などはあそこにはドラム缶3本乗せられると報告している。しかし、重量物を載せすぎるので後ろのサスペンションがすぐにパーになって困るとも書いている。

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