一式砲戦車
機動力及び装甲厚
乗員 5名 自重 14.7t 全備重量 15.9t
全長 5.9m 車体長 5.55m 全幅 2.33m 全高 2.39m
最低地上高 0.4m
接地長 3.66m
キャタピラ幅 33cm
接地圧 0.658kg/cm2
機関 空冷V型12気筒ディーゼル
出力 170HP
回転数 2000rpm
変速器 前進、後進
出力重量比 10.69PS/t 馬力荷重 93.53kg/ps
燃料容量 241リットル
潤滑油
最大速度路上 38km/h 路外 km/h
最大航続距離路上 210km 未整地
登坂能力 長斜面60% 短斜面45%
超堤能力 m 超濠能力 m 渡渉水深 1.0m
回転半径 信地 及び8.6m
燃費 0.87km/リットル
運行時間 10時間
武装 90式75mm野砲×1 弾薬数 90発
90式75mm野砲の貫通力
射程距離 25 100 250 500 750 1000 1250 1500 2000
AP-HE 95 91 88 82 76 70 64 58 48 1976
、 90 65 1996
95式破甲榴弾AP-HE、6.6kg、668m/s 炸薬65g
90式榴弾HE 6.34kg、540g、522.6m/s
装甲(mm)可変javaScript
、 前面 側面 後面
車体 25/12+16mm 20/25mm 20mm
砲防盾 50mm/25mm 12mm --
(前方機銃を外して16mmの装甲板で塞いであるだけなので、)
(25+16mmの部分は少ない...)
(制作に使用した97式中戦車の車体は新型旧型両方有り
(圧倒的に新型が多い...)
製造会社 日立製作所 亀有工場
生産期間 1944年7月〜45年8月まで
生産台数 55両
(生産計画では、42年90両生産予定、43年60両生産予定でしたが...)
(航空機生産が優先させられたため42年43年とも生産数はゼロでした。)
海のものとも山のものともわからない自走砲という兵器は、敵に肉薄する戦車より冷遇され
生産は、戦車の後になった...
(一式砲戦車の生産は、航空機の優先生産の犠牲になった)
実戦に使われたのはフィリピンへ派遣された4両だけでした...
本土決戦用に各地の部隊に4〜6両づつ配備されました。
独立戦車旅団4、5、6と戦車第一師団は、各4両、戦車第四師団には、6両、
その他は、自走砲大隊に配備されました。(10cm自走砲と混用、終戦時10個大隊)
(機動砲兵一個大隊は、野砲12門装備、フィリピンへ派遣された部隊は第三中隊だけが)
(一式砲戦車四両で自走化されていた...)
(注、機動砲兵連隊の場合第二第三大隊は、91式榴弾砲装備...)
(注、フィリピンへ送られた特別編成の自走砲大隊は、4個中隊編成で、)
(一式7.5cm自走砲二個中隊、10cm自走砲二個中隊編成で一個中隊3両×4中隊=12両)
(でしたが、マニラ入港直前に猛爆撃を受けて海没(全滅)してしまいました。)
(中隊=編成表では、中隊本部1両、第一小隊2両、第二小隊2両、合計5両ですが、)
(規定数に届かないのは、やはり生産数が少なかったためのようです...)
「砲戦車」の名称は、自走砲だと砲兵の領分になるので騎兵隊が「戦車」を「装甲車」と呼んだように
新しい名称を作りました、そのため、戦車のような重装甲の砲防盾が付きました。
(砲戦車、戦車戦闘時の重火砲を装備した火力支援用車両)
自走砲...
1935年、陸軍自動車学校の研究員が機関紙「砲兵」に自走砲の必要性を書いた。
最初は、歩兵直協用突撃砲として開発され...
その後、戦車師団の随伴砲兵装備になり...
末期は、対戦車用として使われることになりました。
1941年1月〜6月にヨーロッパ軍事視察団がドイツ機甲師団などの調査を行なった結果
ドイツ兵器と同じような兵器体系を作ろうとして開発が始まった...
最初のコンセプト
「97式中戦車の車体に90式75mm野砲や91式10cm榴弾砲を載せて突撃砲として使用する」
砲は、若干改造されていて、砲口制退器を外し、砲口補強リング
水平閉鎖式尾栓の形がやや小型になった...
-----資料用-----
90式75mm野砲
口径:75mm
高低射界−8〜+43°
方向射界左右各25°
放列砲車重量1400kg(1600kg)
初速683m/s
最大射程13890m
生産数約200門
運動性向上
砲全体を載せる機動台車(1935年8月9日制定)
最大運行速度45km/h
全重量290kg
台車轍間距離1.190m
最低地上高0.270m
生産数、
90式75mm野砲、生産数、約200門
機動90式75mm野砲、生産数、約600門(パンクレスタイヤを履いている)
「90式75mm野砲」最近良く出てくるが、米軍には日本の秘密兵器と言われていた...
(実態は生産門数が非常に少なく捕獲できなかったためらしい)
生産数は、90式75m野砲200門、機動90式75mm野砲600門(終戦までの総合計...)
先進的な砲だったが、重かったため、人力で動かすのが難しく...
演習では、射程距離より砲を最前線へ機動させて見栄えを競うので、90式75mm野砲は、
将校に嫌われもっと軽い砲を作るはめになった。
91式10cm榴弾砲、同じクラスながらこちらの方が90式75mm野砲より生産数が多い
(実戦では砲弾が重いと苦情あり...)
90式75m野砲は、僅かしか作られなかった日陰者の大砲だった。
そのため両者の生産数は大半の資料で省略されている...
90式野砲使用部隊の軌跡...
独立野砲兵第一連隊
1934年4月、独立混成第一旅団内の砲兵一個大隊「独立野砲第一大隊」(二個中隊8門編成)
「輓馬牽引式、鉄輪90式野砲」+機動台車+六輪自動貨車で牽引
1935年6月、北支熱河省出動、40日警備任務
1936年2〜12月ボイル湖畔、国境紛争に参加(満州VS蒙古)
1937年7月、支那事変(日中戦争)応急派兵
機動距離3460km、作戦期間125日中戦闘行動39日、射撃弾数3835発(一日平均98発)
1938年、8月6日張鼓峯事件参加
1938年、8月15日、独立混成第一旅団解散
独立野砲兵第一連隊に改変
39年、機動90式野砲に交換
「機動90式野砲」+「94式牽引車」
1939年6月、ノモンハン事件に参加、第一戦車軍安岡支隊に編入
(戦車隊の支援では無く各地にバラバラに配置された)
ノモンハンの戦いではほとんどの砲兵部隊が後方まで進入してきた
ソ連戦車に蹂躙され壊滅している。
(歩兵の守りが無く砲兵単独の布陣だったため簡単にやられてしまった)
1942年9月20日、独立野砲兵第一連隊解散
戦車師団の機動砲兵連隊に基幹要員に当てられバラバラに...
欠点部分
旧軍では、欧米の内部交換式の砲身が作れなかったため、砲身の耐久性が著しく劣った。
欧米のように大量の砲弾を打ち込むような作戦を行なわなかったため、
(弾の生産数、備蓄数が初めから少なかった)
この欠陥は、あまり目立たなかった...
(説明文章にフランス式の新製造方法で作ったとまでは書かれているが、)
(この方式は、耐久性が無く。欧米の砲のように交換式の砲身にしなければ実用性が)
(著しく劣るのだが技術が無くて作れなかった。というところは書いて無いものが多い。)
(誤植、省略などで始めて読む者に意味が判らないように書いてある傾向が...)
一式砲戦車
M4の正面を貫通するのは、無理だった...
三式戦車
昔、
M4の正面を600m貫通し撃破できる
今、
M4は、傾斜装甲なので難しい
実際は、100mまで引き付けて撃つか側面を狙うように指導されていた。
一式砲弾は、欧米の砲弾と違い材質的にも構造的にも劣っていた。
材質は、ただの炭素鋼で(C:0.5%の弾丸第一種丙:Hs=84)粘りが無く...
弾頭の丸いAP‐HEで傾斜に弱く僅かの傾斜でも著しく貫通力が落ちてしまった...
一式砲弾は、高射砲用だったとか、製造数が足らず実際には使われていない
とかいう話が有力なようです...
Hs=84、ショアかたさ(Shore hardness)
先端にダイヤモンドの付いたハンマーを資料に落下させ
跳ね返る高さと落下させる高さの比を使った計測方法...
(約、HB684)
参照...
硬度測定、鋼のかたさ換算表
戦車戦...
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